第二章 「黄昏色(アメジスト)の瞳の巫女姫

 大地に降り立ったシャナクーダは地上に落ちた黍穂を拾い集め、黍の葉を編み併せて粗末な衣を作り、それを体に纏った。

 城の根だと思っていたものは花崗岩の粗い岩山の裾であった。ぐるりを見回しても、目に良い緑の色彩はどこにも見当たらず、ただ四方よもを黄土が覆い尽くすばかり。黍穂は瞬く間に熟し、その茎は枯れ、土へと帰っていく。普通よりも大きく、たわわに実った黍穂が大地を黄金色に染めていく。

 地の果てと思っていたが、小さな貧しい村落があり、彼女は村の門を潜って中へ入って行った。

 青々とした衣を身に纏い手に黍穂を溢れるばかりに携えた麗しい女に、村人達は目を見張り、ただ見守るばかり。

その中の一人の老人が進み出て、彼女に云った。

 「客人まれびとよ、何用で参ったのか?」

 「わたしは青の神の巫女姫です。この村に神殿はありますか」

 「小さな祠ならばありまする。案内致しましょう」

 シャナクーダは老人に導かれ青の神の祠の前に立った。彼女は老人に黍穂を手渡し、

 「ここに司祭がいなければ、このわたしがその役目を担いましょう。この穂はわたしがあなた方に最初にもたらす恩恵です。受け取って下さい。

 「ただ、あなた方は前の巫女姫の成したことをわたしに語って下さい」

 老人は不思議そうに彼女を見つめ、

 「確かに司祭は不在でありまする。あなた様が請け負って下さるのでしたなら、これ程有り難いことはございませぬ。

しかし、儀式を済まされておられる筈の巫女姫様が何故わしらのような者に頼ろうとなさるのでございまするのか?」

 「わたしは最後の伝授を受け損なったのです。“目あき"としての役割を知らないのです」

 老人はじっとシャナクーダを見つめ、その黄昏時の空のような赤紫とも青紫ともつかぬ瞳を覗いた。

 「なるほど……しかし、あなた様は知っておられまする。知っておらねば“目あき"に役割があるなど思いもつかぬ筈でございまする」

 「青の神は“目病みとじ"のわたしを……“目あき"でないわたしを望んでいました。何故なのでしょう……?」

 “目あき"となって、蓄えてきた知識が現実と合致していくにつれ、シャナクーダはおよそ十三とせの年月を盲目(めしい)として生きて来たとは思えぬほど、実と質のかなった巫女姫となっていた。しかし、最後の儀式を受け損なったために、自分の責務の真実を知らなかった。

 「わしではあなた様のその問いに答えることは出来ませぬ。ましてや未熟な巫女姫の秘事ひめごとは決して明かされぬもの。わしらに知る余地などございましょうか。

 「ましてや青の神の邪性を封じ込めて下さりまするのが巫女姫の役目ではございませぬか。この村はこの地で一番青の神の成す災いの大なる所。せんも役目の終えた巫女姫でありますればと思っての返事でございまする。そうでなければ何故、この通り寂れ、供物も捧げられぬ神が敬われておりまするのか。青の神は邪神にございまする。わしらにはそれを拝む気持ちはもう底つきておりまする。ただただ次なる巫女姫の参るを心待ちにしておりましたのに……

 「しかし、それでもあなた様が是非にと申しますならば、ここよりさらに東の最果てに盲目の老女がおりまする。その者を訪れて行きなされませ。必ず求める答えを授けてくれることでございましょう」

 老人の手の平を返したような言葉に戸惑い、シャナクーダは再び傾きかけた侘しい祠を眺めた。そして老人の手の内の黍穂を一房取り、「お礼です」と、呪歌を呟きつつ、ぷちぷちと一粒一粒摘まみ取り、地に撒きつつ、村の門を出て行った。

 彼女の通り過ぎた後に緑の道が萌え、地を耕す事なく黍が芽を出したのであった。

 埃立つ、風が乾いた藁草を吹き飛ばす。黄土の地をシャナクーダはさらに東へと足を向けた。昼も夜も視界が滞るほど砂煙が風と共に渦巻き、シャナクーダの前方を遮った。

 頭上を時折青い鳥が掠め飛ぶことがあった。しかし、彼女ははっきりと目でその鳥を追いはしなかった。

 青い鳥は飛び去りながら、風の音にも似た声で、

 「何故に行くか? 行ってそなたに何の利のあることか」

 それは三晩に及んだ。

 紺染こんぞめの夜のとばり白黄はくおうけぶり、彼女は風を避けるために小さな岩の影に体を隠し、眠気に身を委ねていた。

 風はいつの間にやら静まり、青い鳥がその八尋やひろに広がる翼を羽ばたかせ、彼女の身を寄せた岩の上に舞い降りた。

 彼女の頬を羽根の柔毛にこげのように優しげな手が包み込み、水底みなぞこを流れ行くような声で囁きかけてきた。

 「いもよ……たった一夜の愛しき妻よ……私の愛を覚えておるか?」

 いらえを望まぬかのように手はそっと彼女の口を塞いだ。

 「セイル、我が神よ。それは愛ではなかったのです。それなのにあなたは何故わたしを追うのですか?」

 シャナクーダが何げなく上を向き、セイルの瞳を覗き見ようとした時、彼の姿は荒い羽ばたきと共に消え去ってしまった。

 青々とした河が目前に悠々と広がる。足元は湿り、くるぶしまで泥に沈み、重重しげに歩を進めねばならなかった。青い衣が茶色に薄汚れ、肌に泥がこびりつき、それがかさかさに乾いていく。目前の河へは一向に近づけない。

ただ重たく泥濘ぬかるむ泥地が延々と続くのみ。

 対岸の彼方で時折青い馬の姿を見かけた。何度もシャナクーダをいざなうようにいななき、

 「そなたの為すことに何の意味のあることか? それはそなたに何の意を為すことか」

 白いたてがみを振り乱しながら彼女の注意を引こうとするが、彼女は一瞥も呉れずにその声を聞いた。

 それが三日も続き、葦の生える繁みに彼女は腰を下ろし、膝を抱えて寝入った。

 うっすらと泥土でいどに張る水鏡に、おぼろに青い馬の姿が映る。張り詰めた筋肉がぶるぶると震えているのが遠目からでも伺える。青い馬は白い鬣を振りながら、彼女の寝入る葦の繁みに近づき、天鷺絨びろうどのような鼻を彼女の手に擦り付け、

 「吾が妻よ……私の言に従わぬ強情な妻よ……何をもってそなたを従順にさせようか?」

 青い馬はお仕置きを与えるかのように軽く彼女の手をんだ。

 「セイル、我が神よ。その責めは誠ではありません。まだわたしはあなたに従うべき妻ではないのですから」

 シャナクーダがその瞳を開いて青い馬の逞しい胸に触れようとした時、激しく水を蹴る音と共に身を翻して彼は駆け去ってしまった。

 水は青い馬が去ると同時に引き始め、一筋の小川と成り果てた。彼女は一跨ひとまたぎ、さらに東へと向かった。

 次第に大地に岩の露出が目立ち始め、冷たい空気が針のように薄い衣の下のシャナクーダの肌を刺す。彼女は両腕を抱え、前方を見据える。遥か彼方に険しく切り立つ岩肌が望める。黒っぽい岩山が聳え立ち、東の地はそこでついえていた。

 東の最果ては目の前であった。彼女の足元の岩を踏み越え、さらに近づこうと岩を乗り越えて行く。白い岩の斜面を延々と登り詰めて行く。彼女の素足の花びらのような愛らしい爪はひび割れ、岩を掴む彼女の桜貝のように繊細な指の爪は欠け、にじむ血が彼女の通り過ぎる岩肌を朱に染めた。

 一心不乱に登り行く彼女の背後を着かず離れずして青い鹿がつけて来る。まるで竹の横笛のの高みに上り詰めて行くような泣き声で、

 「そなたの求めるものにどれほどの価値があるというのか? それがそなたに安らぎを与えるというのか」

 それは三日に渡って繰り返され、彼女は疲労した体を岩肌に凭(もた)れ掛けさせ目を暝った。

 かつかつと蹄で岩を蹴る音が近づいて来て彼女の前で止まり、青い鹿はすっくと二本の足で立ち上がり、瞬時に人身の形を取り、彼女の目を塞ぐために滑らかな毛織りのガウンのような胸の中に彼女の頭を包み込み、

 「吾が妻よ……私の命にも等しい愛しき妻よ……思い直せ。私の元に戻って来るのだ」

 シャナクーダはセイルの香ばしい薫りを感じ、しばし体を委ねていたが、

 「セイル、我が神よ。何故そのようなことを云うのですか。あなたは何を恐れているのですか」

 彼女は彼の胸から離れ、改めて彼を眺めようとした時、岩山を凄まじい勢いで跳びはねながら青い鹿は逃げ去ってしまった。

 彼女は立ち上がり、青い鹿の遠ざかる姿を見つめつつ、胸に手を置いた。

 初め、その漏れる声は低く、徐々に高くなり、彼女はかなたを見つめて叫んでいた。教えられた詩歌に彼女の心を表すものが見つからなかった。

 彼女の中に何かが芽吹き、そして育っていったものがその目から真珠となって、次次に流れ落ちていく。これがやる瀬ないというものなのだということを、彼女は知り始めていた。

 黒い岩肌は彼女をいとも容易たやすく受け入れた。まるで磨き抜かれた黒曜石のように照り輝いている。人の手で作られたような段のある坂を登り詰めて行くと、闇の中のまた深遠に続く穴のようなほらがあり、彼女は躊躇ためらいもなくその中へ入って行った。

 深奥でゆらゆらと金色こんじきに輝くほむらの微かな光があり、彼女は、

 「もうし……お尋ね致します。わたしは青の神の巫女姫、シャナクーダと申します。老婆様はおられるでしょうか?」

 まるで黒い闇のように地に押し臥せっていた影がゆらりと起き上がり、顔をシャナクーダの方へ向けた。

 その顔は細かく細かく傷つけられており、白い傷痕が幾筋も額から頬に掛けて走っていた。瞳は瞼にて臥せられ、しかし傍目はためからでもその瞳に傷が切り刻み込まれていることが伺える。

 盲目の老女は何もかも見えているかのように顔をシャナクーダに向けている。

 「老婆様……お聞きしたいことがあるのです……どうかわたしに答えを授けて下さいませ」

 「何をかえ?」

 「わたしの為すべきことを」

 「巫女姫と申しておったの……」

 「わたしは導師から最後の伝授を受け損ないました。その為にわたしは儀式を成さずにセイルと一夜を共にしてしまったのです」

 老女の目元がわずかにぴくりと引き攣る。しかし、すぐに穏やかに微笑み、

 「こんな老妾わらわよろしいのかえ? たれに尋ねよと聞かされたかは知らぬことじゃが、老妾がお前様の力になれることは確かなことじゃ……誠にお前様が聞きたいことは最後の伝授だけで宜しいのかえ?」

 シャナクーダは思いめぐらすように押し黙り、怖ず怖ずと心につかえた思いを口に出した。

 「セイルはわたしが“目病みとじ"であることを望みました……それがなぜなのか知りたいのです……」

 老女の顔がひくりと歪む。しかし、俯き、顔色を隠してしまい、

 「承知致した。老妾の知るところのすべてを授けて差し上げましょうぞ……

 「我が神は蛇性の神。その性は邪。それを押さえ封ずるのが巫女姫の本来の役割なのじゃ。その邪性の蛇身を封ずるのは我らの目。歴々の巫女姫の持つ、アメジストの瞳ゆえに成し神技しんぎ。お前様にもその瞳はある……我らの目の中に龍を封ずれば、青の神は水神となり、民草に無意味な水害、風神として嵐を、雷神として破壊を引き起こさずに済むようになるのじゃ。

 「もしも未完成なお前様を我が神が求められたとあらば、我が神は邪性を失いたくないがためなのじゃろう……人の魂を喰らうをしとされたのかも……半身に等しい彼の邪身を殺がれ、巫女姫の息絶えるまで不自由せねばならぬを惜しまれたか……それとも……」

 老女は口をつぐみ、顔を上げ、

 「封印はまだ成し得るじゃろう。一夜の朝に本来ならば封じ込めねばならぬのじゃが、しかし、“目病みとじ"で我が神と添い伏したのならば儀式の終えぬは無理なかろう……お前様はその朝にしっかと対眼に御顔を見ぐねていなければならなかったのじゃから……

「しかし、方法はある。お前様がその瞳に転じ、その身で我が神の御姿を拒まず受けることが出来れば……もしも抗えば……この老妾のような姿となるじゃろう」

 「瞳に転じるとは?」

 「その身を紫の鏡に変えるのじゃよ」

 シャナクーダは跪(ひざまず)き、老女の手を取り、

 「わたしは巫女姫として十三とせ生きながらえて参りました。わたしに役割があるというならば、それを遂げることがわたしの命の証明となります。わたしが巫女姫となった証しでもあるのですから……」

 老女は彼女の手を握り返し、

 「後悔なさるな……」と呟いた。



  蓮華 映し 揺れる

  紫にけぶる 反映の

  光り 冴え渡り

  えいに封じ込める

  底に 紫水晶光り、横たわる

  汝身ながみを委ね 覗き見る

  反影の現身うつしみ

  返身かえりみの反転

  の身を飲み込み 伏し隠す

  小さく つぶらに 満月に 

  我が身の変化へんげ



 ころりと老女の手の内に平たく透き通る、まるで紫水晶の薄板のような鏡が転がる。まるい鏡面は紫色に霞み、その鏡奥きょうおうに小さく小さくシャナクーダの自我が潜み、息を殺していた。

 老女は立ち上がると鏡を手の内で弄び、

 「老妾は逃げた……“目あき"であった故に罰として醜くされた。お前は“目病みとじ"であったが故に我が神に愛される。老妾とて生まれて最初に見た我が神の青い御姿をお美しいと思うた……じゃが、目の開いたばかりの娘に何とむごいことを強いるか……魂のこごえる醜身しゅうしんを見ればたれであれ、恐れおののく筈じゃ。お前は逃げたのじゃからここにおる……鏡となったお前にたれが気付くというのじゃ……老妾と我が神以外は気付かぬのじゃ……」

 老女は洞を出ると腕を振り上げ、紫鏡しきょうとなったシャナクーダを宙に放り、鏡が下へ転がり落ちて行く響音を小気味良さそうに耳を澄ませて聞いた。

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