紫の鏡

藍上央理

第一章 「目病みとじの巫女姫」

 穏やかな暗闇。彼女を中心に闇の世界が動く。彼女の目に映るのは黒の黒。他に見たことのあるものはない。

 彼女が唯一触れるものは柔らかな手を持つ人間。冷たい金物。重たい鈍器。

 彼女の聞くものは詩歌。目覚めるとそれを口にし、彼女の取り巻くあらゆるものが生命を得る。細い音、低い音、伸び行く音、高なる音。すべての音を口にする。そして、それらの詩歌は導師という声から教わった。

 「うたえ」と導師が云い、彼女はとう三歳みとせの間に覚えた音を紡ぎ出してきた。

 落ち着いた暗闇には心に染み入る香りが漂っている。彼女は幼いころ一度だけ導師に問うた。

 「導師、暗闇に漂うものがおります」

 「それはお前を心地良くするかね」

 「とても」

 「それは香の匂い。馨しいというのだ」

 彼女は母の胎より生まれ出で、目に映るべき物をすべて遮断され、暗闇の中の常闇の塔にずっと閉じ込められ、育てられて来た。

 彼女はその責務に必要な知識は植え付けられはしたが、自分の姿も、導師という人間も、自分の近くに始終かしずいている筈の空気のような人間の姿も、何一つとして見たことがなかった。

 彼女は幼いころ一度だけ尋ねた。

 「導師、わたしを包んでいる物は何なのでしょう」

 「それは闇という物」

 それ以来彼女は自分が闇という物で出来た形なのだと思った。

 暗闇の中には自分と同じように闇で出来た物が幾つもあり、ぶつかる度に柔らかい手を呼び、尋ねた。高い音色を醸し出す鐘のこともそれで知り、香を薫染たきしめる神器の形も知った。闇の中であらゆる物が形を成して、彼女を取り巻いていた。

 部屋の中を暫く進むと、必ず大きくて堅い、とても不快な物にぶつかり、導師に尋ねた。

 「導師、何かがわたしの行く手を邪魔しております」

 「それは壁。お前という神聖なものと汚れた外界とを区別する大切な下僕しもべ

 導師は彼女の質問には答えるが、彼女に教え込む詩歌に綴られた教義のこと以外で、彼女に語りかけてきたことはなかった。

 ある日、彼女の脚の間から、望んだ訳でもないのに尿いばりが滴り落ちた。

 「導師、わたしの望まぬのに尿が流れ出て来ます」

 「……それはお前の最後の証しのしるし……お前が巫女姫としての資格をくるに相応ふさわしい器であることの象徴。そしてお前の“生まれの日"が近づいた証拠なのだ」

 導師の声は止み、柔らかな手によって衣服を剥ぎ取られ、身体中を冷たい水で拭われた。

 「巫女姫よ……」

 導師は彼女のことを「お前」と呼ばずに「巫女姫」と呼び掛けた。

 「わしは今まであなたに教義のみ教えて差し上げた。そのすべてを覚えておりましょうか」

 「覚えております」

 「あなたは今、ようやく我が神、青の神セイル様の巫女姫となられる時が参ったのでございます。

 「あなたはこの“生みの塔"で十三年もの年月を過ごされ、ようやっとご自身の使命を果たすこととなりました。

 「あなたは“目とじ"から“目あき"となり、あなたのつまとなるセイル様を迎え入れられ、あなたの死すまでセイル様のお側に従うことになられるのです」

 彼女はそのことを知っている。これらのことはすべて覚えた詩歌の中でも語られていたことだ。

 彼女は“生みの塔"から、十三年の儀式をついえる“生まれの日"に出で、“目とじ"の巫女姫から、青の神の妻となる資格を持つ“目あき"の巫女姫に生まれ変わるのだ。

 召喚した青の神と「共に一夜添い伏し、そしてその姿を夜明けに見留めなければならない」と教義は云う。“目とじ"ではその資格を持てず、十三年以上過ぎてしまうと巫女姫としての資格さえも無くなり、“生みの塔"から“堕胎"され

てしまうのだ。

 沈み込む漆黒の射干玉ぬばたまの暗闇の中で感触と匂いと音だけを感じて育った彼女は、明日“母"の胎道を通り、塔という繭から生まれ出る。

 “目とじ"は未完成で幼き者とされている為、彼女には名が無く、成人として認められておらず、“目あき"となって初めて完全なる者とされる。故に彼女が初潮を導師に告げた時、「シャナクーダ」という名を貰った。



  居ませ 長尋ながひろ

  浅瀬の 寄り来る

  水の 紡ぐ糸の 手繰り先

  居ます祠の 小さき穴の

  ちまりと住まう

  歩み寄る 吾夫あづま

  汝妻なづま知り、くくる目の

  染め色の 封じ込め

  永遠とわに 添い伏す

  一夜の妻よ



 ゴーン ゴーン


 シャナクーダは謳うのを止め、耳を澄ました。うずくまるその地の元が揺れ、震え、悲鳴を上げている。

 「巫女姫……」

 影のように寄り添う柔らかな手が彼女を抱き、シャナクーダは周囲に響く耳障りな音を不思議に思った。

 「生まれが……?」

 「違いまする。これは“生まれ"ではありませぬ。“生まれの儀式”が済まぬうちには、このようなことを致しませぬ。ましてや“生まれの塔"を打ち砕き、あなたを胎から取り出すことは教義に反すること……」

 「それでは名を受けた次の日に、塔が悲鳴を上げ始め、沈黙は破られ、彼女に最後の伝授をする筈だった導師の気配がくぐもった声と共に不意に消えた。

 突如暗闇を裂いた鋭い眩む針が痛みを伴って、シャナクーダが今まで意識したことすらなかった二つの玉を貫いた。

 そして、シャナクーダに降りかかる無数の針が、槍となり、大剣となり、雷 《いかずち》となり、シャナクーダは必死に目を閉じ、今度は体に触れる異質な外気を感じ取った。自分を守り、“母"の中で育ててくれた壁は打ち砕かれ、不快な声が、今まで聞いたこともない突き刺さるような悪意に満ちた声が響いた。激痛に目を閉じることで暗闇は戻って来たが、いつもの色と違い、顔の向きを変えるとそれはくるくると変化し、彼女は何とも云えず、ただ蹲っていた。

 異様な生臭い臭気が辺りを包み、シャナクーダは戸惑った。

金物が奏でるような高く鋭い音を伴うひとの気配が、シャナクーダを庇って抱える柔らかな手と彼女の周りを囲んだ。

 柔らかな手はひしと彼女を包み込み、

 「無礼者! “生まれの儀式"は終わってはおらぬ。貴様は誰の許しを得て、この胎を打ち砕いたのか!?」

 「守りか。知らんのか、この国は落ちた。我々が落とした。王族は皆殺し、さらし者にした。次はその盲目めしいの女の番だ。こちらに引き渡せ」

 粗野な野太い声が響く。

 「その声は……誰のものですか?」

 シャナクーダは声のする方に顔を向けた。

 「ほぅ……透かした紙のように白いな……」

 「触れてはならぬ。このお方は青の神の妻となられるお方だ。神の妻に触れれば崇りがあるぞ!」

 「邪神を祭るとは、気狂い女。そんな神など、我が王の前に立てば、かしこみ恐れてすくみ上がるわい」

 聞いたこともない音が立つ。金属の擦れ合う音。細くゆるゆると空気を震わす。聞き慣れた高い鐘の音とは微妙に違う。

 「恐れを知らぬ痴れ者が!」

 「フンッ」

 空を切る音がシャナクーダの顔すれすれで起こり、低く鈍い音が彼女の膝の上に落ちた。柔らかな手の長い髪の毛が彼女の手に触れ、あの尿のような生暖かい水が指の間を流れた。彼女はその手を口元に持っていき匂いを嗅いだ。

 えた金物じみた臭い。

 「柔らかな手に何をしたのですか」

 野卑な笑いが起こり、シャナクーダの肩に冷たく堅い手が置かれ、痛いほど掴まれ、引き倒された。

 身体に傷ひとつ作ったことも、誰かに乱暴な扱いを受けたこともない彼女は酷く驚き、地に這ったまま伏した。

 「声も上げんのか? 既に気も触れているのか?」

 無理矢理に堅い手が彼女の顎を掴み、ぐいと上を向かせる。

 「誰なのですか」

 シャナクーダは首のきしきしとなるのに耐え切れず、堅い手に問うた。

 「聞いてはいないのか? お前が何者かも?」

 「わたしはシャナクーダ。青の神の巫女姫です」

 まるで塔が打ち砕かれた時のような音の哂笑しんしょうが沸き起こり、シャナクーダは起き上がり、いつの間にか

自分を取り囲んだ哄笑に不思議な顔をし、

 「この声はなんでしょう……わたしは聞いたことがありません」

 「まさしくっ! 聞き及んだ通りの白痴ぶりだ。こんな女が傍らに居れば大層飽きが来んだろう。王への土産にするか、我らの慰みにするか?」

 別の声が、

 「闇を紡いだような黒髪。白く光る金剛石の輝きを持つ肌。アーモンドの花のように薄紅の唇……味見をしても具合は悪くなかろう」

 「つまは青の神です。あなた方ではありません」

 シャナクーダは教義に逆らう野太い声をたしなめた。

 「亡国の王の娘だった女よ、国の倒れた今は巫女姫はおろか、姫ですらないのだ。命すら我らに左右される蝶のような存在なのだ」

 今初めて、シャナクーダは教義とは違うものに晒され、戸惑い、恐れていた。不快なものが自分を満たし始めている。

 あらゆることに無縁で、さらにあらゆることをり、しかし理解していなかったシャナクーダの初めて味わう屈辱の感情。歯痒さというものを知らない彼女は、しかめたことすらなかった顔を少しだけ歪ませた。

 「さぁ、我らが順にお前に教え諭そう。それからすべてを学んだお前を王への貢ぎ物とする。さぁ、立ってこっちに来い」

 シャナクーダはただ「吾が夫は青の神のみ、それ以外のことは知りません」と云うのみ。

 あまりの頑なさ、あまりの無知さに、堅い手は乱暴に彼女の腕を取り、引っ張った。

 「無知なお前に良いことを教えてやろう。知らんことを教えてやろう。もうお前を娶ろうという青の神など、この世にはおらんのだ。お前の信心している青の神など、野良犬の喰い散らかした臓物のような忌避するものなのだ」

 「何故ですか」

 シャナクーダがそう云いかけた時、息の詰まる音がし、柔らかな手の時のような何かが落ちる音がした。周囲の声や息遣いが止み、激しく崩れ落ちる音とその寸前の軽い落下音。

 何が起こったのか分からぬシャナクーダは、堅い手から解放され、ほっとため息をいた。しかし、新たな音が彼女の研ぎ澄まされた耳に流れ込んで来た。絹の優しく擦れ合う音が静かに彼女の側に寄り、辺りに香ばしい匂いが漂う。まるで、塔の中に漂っていた馨しい香の香り。

 「誰ですか」

 人の気配はシャナクーダと同じように蹲り、

 「巫女姫よ、迎えに参った。私と共に我が屋敷に来るのだ」

 その人の吐く息が、嗅ぎ慣れた香のようにシャナクーダの鼻孔をくすぐる。その髪が彼女の頬に触れるほどに顔を寄せ、

 「そなたは十分に熟した。私を受け入れられるほどに。恐れを知らぬ者共には死の体罰を下した。巫女姫よ、そなたの目が閉じている間に私の屋敷に参ろう」

 その人はまるで毛織りのガウンのようにゆったりとシャナクーダを包み込み、彼女の小さな胸に触れた。膨らみかけた双丘を掻き抱かれ、鈍い痛みが走る。シャナクーダは身をよじらせ、その人から離れた。

 「大きな方、何を云われるのですか。わたしは誰にもついては行きません。わたしは禊を済ませ、青の神の儀式をしなければならないのです」

 シャナクーダは立ち、危うい様子もなく、すたすたと歩き出した。大きな方と呼ばれたその人は彼女を追い、その腕を取り、

 「そなたは仕える神を見分けることも出来ぬのか? そなたは自分を何者と思うておるのか?」

 シャナクーダは先ほどの堅い手の嘲りを思い出し、身を堅くし、押し黙った。

 「答えぬのか? 良かろう。私は無理強いは好かぬ。しかし、またそなたを迎えに来るぞ」

 大きな人は気配を断ち、彼女は再びほっとため息を吐いた。

 辺りに異様な酸い臭気が漂い、自分からもそれが臭う。大きな人が現れてから風のざわめき以外何も聞こえない。

 彼女は歩を進め、塔の瓦礫を抜け、横たわる首無き死体を踏み越え、森の脇道を通り過ぎた。

 両側に木立が並び、シャナクーダはその中の一本に手を掛けた。嗅いだこともない青葉の薫り。土の香ばしい薫り。

暖かな空気が肌に当たる。絶えず音の聞こえる風の中に佇んでいると、先ほどまで居た冷えた香の薫る淀んだ不変の大気を忘れてしまう。

 しかし、未だ彼女の世界は暗闇のままで、新たにその身に起こる出来事を理解するだけの

知識が不足していた。今はただこれまでのように感知するものすべてを吸収することに精神を傾けていた。

 彼女はあの鈍く痛んだ部分に手を当て、不思議に思う。二つの膨らみが無意味にぶら下がっており、きゅっと掴むと激しく痛む。彼女は初めて自分の身体に興味を持ち、今度は顔に触る。小さな小鼻を摘まむ。顔の横からさらさらと流れる細い髪の束を掴み引っ張ると頭の地肌が痛み、彼女は手を放した。身の回りの世話はすべて柔らかな手がしてくれていた。自分で髪を梳いたこともなかった。手についた生臭い水が乾き、体中が痛い。ふいに訳が分からなくなって彼女は戸惑った。

 「ここは何処?」

 人の気配などない、しかし、彼女は耳を澄ませて待っていた。小さく心地良い笛の音にも似た気まぐれな音が遠くで響き、頭上を去っていく。

 「あなたは誰?」

 柔らかな手がいつも空気のように側に居てくれたように、また違う誰かが居るように感じ、彼女は問いかけた。

 「導師……」

 体の中心の部分が鈍く疼き、彼女は手を胸に当て、立ち竦んだ。初めて不安を味わい、しかし、彼女はこれを不安だと解らない。

 細身の木にもたれ掛かり、身を寄せる。雑多な音がするというのに彼女の問いかけに答える者は一人もいない。

 シャナクーダは身を持て余し、木に手を掛けたままゆっくりとぐるりと弧を描きつつ、幹を巡った。


 

  待ち月の 欠け月の

  反る弓月の 底下そこもと

  枝振り 清め

  そぞろに 歩み

  まどかを描き

  待ち月の 満ち月の

  溢る杯月はいづき 照るもと

  清水きよみず みそ

  漫ろに 歩み

  円を描き……



 彼女は気を紛らす為に教義の「待月」の篇、青の神の召喚歌を呟いた。

 シャナクーダは前方からカタコト音を立てて近づいて来る気配を感じ、謳うのを止めた。

 音はすぐ目の前で止まり、誰かがひざまずいた。

 「巫女姫様ですか?」

 「あなたは誰?」

 「わたしは巫女姫様のもとに仕える信者にございます。戦火を逃れ、“生まれの日"に塔から出られたあなたを迎えに参りました。ご無事に不埓な輩の手を逃れたのでございますね」

 シャナクーダは新たな手に導かれ、木の箱に座らされた。

 「これは何?」

 信者は荷車の柄を抱え、

 「巫女姫様を運ぶ為の車にございます。本当ならば御輿が来る筈でしたが、生憎ほとんどの信者が殺されましたの

で」

 「常世とこよへ渡ったのですか?」

 「その通りでございます。皆、首を切られ、市中に晒されておりまする。仲間の信者がそれらを掻き集め、渡世の儀式を密かに行っておりまする」

 シャナクーダは柔らかな手のことを思い出し、教義の詩歌の語る常世のことを考えた。こんなにも素早く死は訪れるものなのだろうか。魂を掠め取るものなのだろうか。彼女は何げなく喉を震わせた。



  渡り申せ 細筋の

  またぎ申せ 八尋やひろの川を

  笹の小船は水面みなもの下に

  帰路は草場に見えなくなった

  泣き女に申せ 依りたま

  が返りたま 招き寄せ

  見えぬ道なら草を払いて

  汝が身に続く標を辿れ



 「まさかっ……巫女姫様……わたし共は神ではありませんのに『返り魂』を謳われても……」

 「分かっています。でも死とは通り過ぎて行くものだと考えていました。このように突然襲い掛かって来るものなのでしょうか……それとも死そのものはいつでも魂を奪う機会を待っているのでしょうか」

 荷車に揺られつつ、シャナクーダは落ち込んだ声で呟いた。自分の手の中に転がった柔らかな手の首。首がどのようなものなのか分からない。ただ死は寝静まるように訪れるものなのだと思っていた。奪い去られ、瞬時に魂を抜き取られるものだとは思ってもいなかった。柔らかな手が一瞬力を込めて彼女の肩を掻き抱いた時のことを忘れることが出来ない。

 「巫女姫様、わたしではその問いかけに答えることは出来ません。死を司るのは我が青の神ではないので……

 「神殿に着きましたら、禊の御用意を……わたし共信者は決して神殿に入ってはならぬ仕来りになっております。儀式に必要な物はすべて取り揃えておりますので、導師様から御聞きした通りに御自分で執り行って下さいませ……」

 だが、シャナクーダは導師から何も聞かされていなかった。“生まれの儀式"も済まさず、胎から取り出されてしまったシャナクーダは、巫女姫として未完成のものであった。

 やがて荷車は止まり、シャナクーダは信者に手を預けた。しかし、ハッとする。その手は信者の痩せた細い手でなく、塔の元で自分を抱き竦めた者の手に似ていた。骨張って、しかし、感触の良い滑らかな大きな手。シャナクーダは手を引っ込めた。

 「誰なのです」

 低く、水底を流れていく透き通るように美しい声が答えた。

 「そなたから私の名を聞くのははばかることだ。代わりに私が問おう。そなたの名は?」

 シャナクーダは胸の疼くのに気付いた。息を吐くことが難しいほどに波打っている。

 「わたしは……シャナクーダ。青の神の巫女姫です」

 大きな人は笑わなかった。代わりに彼女の手を取り、引き寄せた。

 「大きな方……胸が苦しいのです。離して下さい」

 しかし、大きな人はシャナクーダをいだき、彼女の頬を指でなぞる。見えずともその指の太いのに気付く。柔らかな手とは違う。しかし、堅い手とも違い、しなやかに優しい……自分の胸の圧し当たるその胸のなんと違うことか。

自分の小さな柔らかな二つの胸と違い、まるで塔の壁のように厚く、堅い。

 (誰なのだろう……これは……この形を持つ……この人は何なのだろうか……)

 シャナクーダはしばし思い、大きな人の胸に当てていた手を伸ばし、その顔に触れた。なんとおとがいの引き締まっていること。鍛え抜いた刃のような殺げた頬。しっかりとした太い首。何もかもが自分とは違う。

 「あなたは何なのですか」

 シャナクーダは尋ねた。手折れそうな細い彼女の手首を取り、その人は云う。

 「そなたが女ならば、私は男。しっくりと嵌まる対の飾り箱のように……私はそなたに収まり、そなたは私を包み込まねばならない」

 「あなたのように大きな方を包み込むことなど、わたしには出来ません」

 シャナクーダは大きな人の手を払い、すっと体を引き離した。体の中で無数の鐘が鳴り響いている。

 「ここは神殿の前なのでしょう? あなたがわたしをここまで連れて来て下さったのですか?」

 「そうだ」

 大きな人の近づいて来る気配に気付き、後ずさる。

 「わたしには禊の用意があります。行かなくては……」

 シャナクーダはそろりと足元の段違いに足を掛け、そのまま神殿の中に消えた。

 初めて知る「男」というものに、シャナクーダは驚いた。胸の鐘はまだ鳴り響いている。顔が熱く、火を吹いているよう。

 (これは一体何なのだろう……)

 シャナクーダは頬を押さえ、神儀の間を抜け、奥殿を通り、そしてそのもっと奥まった禊の間に入った。曲がりもせず、扉を開けることもなく、ただ真っすぐ歩いただけ。水の湿った匂いがし、足に浸たる水の動きを感じた。うずくまり、顔を清め、手をすすぎ、足をきよめた。そして立ち、手探りに衣を脱ぐ。返り血をべっとりと浴びた衣を足元に積み上げ、そろりと足を浸す。ゆっくりと沈み込み、腰までの清水に浸かった。

 凛と冷たさの満ちる水の中で十分に身体を清め、立ち上がろうとした時、不意に後ろから何者かに抱き竦められた。

背中から伝わって来る鼓動は、あの男のもの。

 「ここには……この水の中にはわたしと青の神以外は浸かれぬ筈です……」

 シャナクーダは呟いた。男の手は咲きかけた蕾のような彼女の胸を両手で包み込み、ひしと抱き締める。

 「私がいつ、青の神ではないと云ったのだろうか? もしも、そなたが“目病みとじ"の巫女姫でなかったならば、私は来なかったのだ。あの時、そなたが獣共に踏みにじられていたとしても……」

 シャナクーダが問い返す前に、彼女を抱いたまま青の神は水を蹴った。彼は天井を突き抜け、彼女を包み込み、そのまま飛翔して連れ去ってしまった。

 シャナクーダは風を切る凄まじい突風の音を聞いていた。そしていつの間にかまた地に降ろされ、やっと青の神セイルはその力強い腕をほどいた。シャナクーダは無防備に立ち竦み、前を隠す恥じらいさえも知らず、後ろを振り

返り、

 「青の神だったのですね……わたしはまだ召喚の呪舞もしていないというのに……」

 セイルは両手で彼女の頬を包み、

 「そなたが呪舞を舞えば、私はそなたのもとには来れまい。そなたの目がまだ開かぬということが、私には重要なのだ」

 「何故ですか?」

 すると初めてセイルは笑い、

 「聞かぬが良い。無垢で無知で博識で聖女の痴れ者よ……その目の開かぬことで私はそなたをでるのだ。

故にそなたの言に従ったのだ」

 とても柔らかな暖かいものが、彼女の唇を塞いだ。よろりと蹌踉よろめき柔らかな敷布の上に横倒れると、セイルはゆっくりとその中に彼女を押し入れ、そして彼女を包み込んだ。

 つまとは何か、いもとは何か、シャナクーダは理解した。




 臥所ふしどの中で目を無意識に開いた時、彼女の目は上手にものの形を捕らえることができなかった。平たく奥行きのない、無数の線の連なり。すべてが二重に映り、焦点がずれている。さまざまな色すらも不安に陥れるものとしか感じ取れなかった。自分を脅かす線と色の群れに戦き、目を暝り、安堵を求めて自分の隣に臥しているセイルを探った。そして目を開き、彼を見た。

 彼の形だけがはっきりと目に飛び込み、彼女はその凶々しさに心を震わせた。真っ青な肌に、黒く縁取られた青い鱗がびっしりと広い背を覆う。青黒い鱗の薄く浮き出た頬。唇の間から覗く双の牙。不毛の地の色褪せた草のような白い髪。

 あの時、自分を抱き締めた背に、このようなざらついたものなどなかった。自分の体に触れた唇に、何もかも引き裂いてしまうような牙など覗いていなかった。自分の顔に擦り寄せた頬は、とても滑らかで心地良かった。

 朝日の中で捕らえた彼の姿は、青の神の蛇性を示す姿に外ならなかった。セイルは安心仕切ったように寝入り、彼女の心の動揺に気付いていなかった。

 シャナクーダは褥の中で身を捩り、飛び出そうとした。枕元に枕の詰め物の黍の種が一粒だけ零れ落ちており、彼女はそれを手に取ると、セイルの腕の中から抜け出した。外気の吹き込んで来る窓の前に立ち、黍を放り投げる。眼下に雲が漂い、城の根元が糸のように細く延びている。

  

 

  我が子よ   

  お前は誰の子?

  伸びて 母の顔を見よ

  我が子よ お前を撒いたのは誰?

  伸びて その顔を見よ

  地に根を張り 背伸びして、

  その首を伸ばし 手を伸ばして、

  お前を撒いた母の顔を見よ



 彼女が『豊饒の歌』を謳うと、スルスルと間もなく緑の黍の若穂が伸びて来て、その太くしっかりとした茎を窓辺にもたげた。彼女はそれに手を掛け、縋り付き、ゆっくりと伝い降りて行った。

 セイルは目覚め、彼の新妻を片手で探った。しかし、すぐにその顔を起こし、ぐるりと見巡らし、

 「いもよ、何処に行ったのか?」

 だが、いらえはなく、窓辺の黍の若穂が目に留まった。セイルは雄々しい裸体のまま窓辺に寄り、下を覗き見た。彼方真下にするすると下り行く彼の妻の姿を認めた。

 「シャナクーダ、そなたは私から離れ、何処へ行こうというのだ」

 セイルは眼下の妻に呼びかけた。シャナクーダはつと真上を見上げ、

 「わたしは“目あき"となりました。するとあなたが邪々しい蛇神に映りました故、こうして逃げているのです」

 その言葉がセイルの胸に突き刺さり、彼の緑にたぎる血がそこから滴り落ちた。言葉ことのはが矢となり、彼の心に突き立ったのだ。セイルの首の内の鱗がざわざわと逆立った。

 「吾が妻よ、一夜の誓いはそなたの目と心を狂わせた。しきであったそなたはけんを知り、愚かにも見をすべてと頼ってしまった。私はそなたを過去の誰よりも気に入ったというのに、そなたは一見で私を切り捨て、あまつさえ見極めたとさえ云い、吾が妻である筈だのに、こうして逃げようとしている。私はそなたのその薄情に報いねばならぬ。覚悟致せ」

 「我が神セイルよ、わたしは悟りました。わたしはあなたの永遠の巫女姫としてあなたと契ったのではなく、単なる識の人形として、盲目めしいの赤子として、そしてあなたが願っていた“目病みとじ"の未熟な女として、あなたと添い伏したことを悟ったのです。わたしはたった今、真の巫女姫として目覚め、不思議なことにこの“契りの儀式"が続いていることに気付きました。処女であることがわたしに求められていたことではなく、わたしが“目あき"であることが、あなたとの儀式に大変大切であったのに気付いたのです。セイルよ……まだあなたはわたしのつまではない。

 そして再びあなたに会見まみえるのは、わたしの真の役割をわたしが捜し当てた時です。だからわたしはここから……あなたから去るのです」

 二人の間を雲が途切れなく掠め去り、セイルも、そしてシャナクーダもお互いの顔を良く見ることが出来なかった。シャナクーダはその両目を良く凝らして真上を見上げたが、何ひとつ見えなかった。しかし、セイルは雲間に輝く二つの宝珠の存在に気付き、慌てて頭を引っ込めた。

 しかし、胸のまだ乾かぬ血とせんの屈辱とで、青い肌をどす黒くなるまで滾らせ、追おうと穂を握った。黄金色のたわわに垂れ下がる黍穂がその衝撃で弾け、地上へと種を振り落とす。そして、あっと云う間に役目を果たした穂は枯れ、その太くしっかりとした茎も黄土色に腐り果てた。しかし、下のシャナクーダの縋る茎はまだしっかりと青々としており、明らかに黍はセイルを拒んで散ったのだった。

 彼は身体中の鱗を逆立て、白い髪をたてがみのように荒ぶらせ、天に向かって叫んだ。

 「下僕しもべよ、押し流せ! 私に逆らう者すべてを」

 天は曇り、どんよりと暗雲が垂れ込め、大粒の雨を降らせた。岩をも砕く勢いで雨は降り続け、地を叩きつけ、撒き散らされた黍はその水を含み、急激に育ち、降る雨をことごとくその太い茎に取り込んでいき、瞬く間にセイルの居る窓に届くほどに伸びた。それはシャナクーダの縋る茎を守るように取り囲み、さらに彼女の黍を強く太い茎へと仕上げた。

 セイルは腕を振り、

 「下僕よ、吹き落とせ! 私に従わぬ者すべてを」

 暗雲が裂け、ちりぢりに飛び散った。疾風はやてが轟と茎にぶつかり、若黍に実る穂を揺さぶった。振られた種はまた弾け散り、地に根を張り、伸びていき、聳え立ち、シャナクーダの黍を覆うように、さらに強固に蔓延はびこってしまった。

 セイルは牙の覗く真っ赤な口を吼と開け、

 「下僕よ、貫き燃やせ! 私を裏切る者すべてを」

 暗雲が渦を巻き、練り凝らされ、一筋の針を作り、一光の槍を研磨し、一閃の雷を叩き鍛えて、眩む光と共にそれを黍の室に投げ付けた。黍に火が付き、その茎がひび割れ、じくれ、びしびしと音を立てて飛び散った。そして激しく弾けて白い粘つくような煙を上げ、セイルの視界を遮った。

 セイルは白い壁のように視界を覆った煙を茫然と見下ろし、成す術もなく、シャナクーダの逃走に追い縋ることも出来ず、忌ま忌ましげに舌を鳴らすのみであった。

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