ソーディリアンmale

藍上央理

ソーディリアンmale

 びょおびょおと風が吹き荒れている。立ち尽くす男の顔に長いうす茶の髪の毛が逆巻き、視界を遮る。吹き飛ばされそうな麻のマントをしっかりと腰に巻き付け、風と髪に遮られる眼前を見据えた。

 いつの間にか来てしまった、見知らぬ荒野。枯れ果てた丈高い草が果てしなく続く荒野に茂っている。物凄い風にか細い幹をしならせる背の低い木が、ところどころに生えている。空は暗く曇り、濃い紫色をしている。雷鳴が聞こえて来てもおかしくない様子だが、地上に突き刺さる閃光だけはまだ遠くにそびえる一つ目の巨人から発せられている。

男はその光から逃げるように腰を低めた。

 なぜ、こんなことになってしまったのか、男には見当もつかなかった。






 男は戦の後、配当金を軍から貰い受け、帰り道すらおぼつかない故郷へ戻る途中だった。軍から配られた洗いざらしの白い木綿のシャツも汚く黄ばみ、今はもうない剣を差していたサッシュは緩んで男の腰にこころもとなく巻きついている。

 もともと男は農夫の息子だった。戦が始まったとき、出世しようと思い立ち、軍に志願した。軍から貰った鉄の平たい棒に布を巻いただけの剣を握らされ、かなり有頂天になった覚えがあった。ひとり殺し、ふたり殺していくうちに、剣はより剣らしい代物に取り替えられていった。首級が胸を飾る星の数になり、ひとに威張って告げられるほどの地位を得た。

 しかし、戦が終わると男は用無しのお払い箱。

 なけなしの金と引き換えに今までのことはなかったことになってしまった。やけくそになった男はしばらく都の酒場を渡り歩き、酒と女に溺れた。夢うつつのような毎日が過ぎ去って、金が底を尽きると同時に男は冷たい路地に放り出されたのだった。






 一瞬の夢想から風に吹き飛ばされそうになった。男は自分の体を自分に巻き付けて歩き出した。荒れ地を照らすライトが、男のマントを掠めて本物の刃となって、地響きとともに大地に突き刺さるのを目前にして男は飛び上がった。

マントの切れ端が瞬く間にに風に揉まれ、闇に紛れていった。男は胃の腑がゾッと這い上がって来るのを覚えた。一体どうやってここをやりすごせばいいのだろうか。光が遠くを照らしていたときにこちらまできたのはいいが、光の槍は地鳴りを轟かせ地面に突き刺さってくる。どこまでも続く広大な荒野を男は体をちぢこませて巨人に近づいていった。

 ひょうびょうと吹き荒れる風は竜巻を描いて、ちぎれた草や木っぱを中央の巨大な怪物の所まで吹き上げて行く。男は目をしょぼつかせながらにがにがしげに巨人を見上げた。

 巨人の目はこうこうと輝き、間断なく辺りをを照らしている。大木のような腕を上下に振り、その鋭い光線を地上に注ぐのだ。大気が蹴散らされ、風すらも息を飲むほどに鋭く冷たい光の刃が闇を切り裂く度に、巨人の足元に潜む男は肩をすくめた。こんなところに来てしまうなんて、と男は後悔していた。






 男は最後の金でまずい酢のような酒を買い、酒場の隅でちびりちびりとなめていた。腐った酒にまで金を取りやがって、ごうつくじじいめ、と男はぶつぶつぼやいていた。

「まったく、そのとおりさね。おや、おたくも家を取り上げられた犬っころなのか

い?」

 声のぬしは、男とさほど年の離れてなさそうな中年男だった。この男も若いうちに志願したクチなのだろうか、と男は横目で中年男を見やった。戦が始まる十何年も前、男は紅顔の少年でまだ尻の青い餓鬼だったのだ。戦は男の体も心もくたびれさせてしまっていた。男は歯をむきだし、中年男にうなり声をあげた。

「うるせぇな、あっちへ行っちまいな!」

 男は機嫌が悪かった。懐も心の具合も悪くなっていたのだから無理もなかった。しかし、中年男は尻込みすらせず、ニヤニヤと男にこう切り出した。

「てっとり早く言うと、お友達になりたいんじゃないのさ。ただこの都に吹きだまってくる埃のみなさんに順繰りに声をかけてんのさ。やめろと言われてあんたを無視したら、あたしの道理にあわないんでね……ひいき目もズルも無しにお話しをしているのさ。お話しをするくらいいいじゃないか。酒はそれ以上すっぱくなりはしないし、あんたの気分だってそれ以上悪くなりようがないだろ?」

 男は気分を落ち着け、中年男をまじまじと見つめた。

 きれいな顎髭で、当世風に四角く刈られている。眉も目尻も鋭く切れ上がり、気安いわりには隙がなかった。唇は薄く引き締まり、かすかに下唇を犬歯が噛んでいた。頬骨の下までもみあげが生え、櫛で撫でつけて後ろにおくっていた。男前で、身なりもきちんとしている。まるで役人のような、それも地位があり、出生のいい雰囲気を醸し出している。

 途端に男は気おくれて、酢のような酒を覗き込んでうつむいてしまった。

 目のまえの中年男と比べ自分はわずかに若いだけで、酒と女にうつつを抜かして自堕落したおかげで肉も顔付きもすっかりたるんでしまっていた。ごましおの髭が荒れ地のヒースのように顔にまばらに生え、噛みタバコのヤニがこびりつきすえた悪臭を放っている。顔色は悪く、垂れた目元はさらにたるみ、茶色い瞳は充血して赤く、目尻には黄色い脂肪が浮かんでいる。近ごろは目もかすみ、痰がのどにからんでくる。体を鍛練していたころに比べると情けないほど細くなった腕の筋肉。ヤニで黄ばんだ指の爪の垢が黒く溜まっている。やけくそになって、取り上げられた勲章の代わりに縫いつけた女もののレースのハンカチが胸元とに薄汚くひらついている。

 男は中年男の陰に自分を映し出して、まごついた。突然恥ずかしさが込み上げてきて、うつむいたきり口がきけなくなってしまった。

「別にお友達になりたいわけじゃないのさ。そんなこと言ったってあんたは嫌だろうし、笑えない冗談でしかないじゃないか。なぁ、あたしの言いたいことは、あたしの言うことを信じるかどうかなのさ。この都には自分の行く末に不安をいだいているごろつきがたくさん吹き溜まってる。あたしはそのひとりひとりに丁寧に話しかけてるのさ。ねぇ、あたしの話を聞いてみないか?」

 男は穏やかな中年男の声に耳を傾け、グラスに口をつけてちびりとなめた。

「ただの雑音として、あたしとしては音楽のように聞いて欲しいんだがね……」

「話してみろよ……」

 男はたて膝をつき、中年男から顔をそむけて答えた。中年男は笑いもせず、うなずくと話し始めた。

「この話を聞き始めたらあんたにはもう引き返す道はないが、いいのかね?」

「おれにもっとましな生きかたがあるってんならな……なんだよ、そっちが話したがるから聞いてやるのに、今さらしぶるつもりなのかよ?」

「そういうつもりはないのさ、ただ念を押しただけさね。もうあんたが進む道は着実に出来上がりつつある。先にあるものはどっちにころんでもあんたに幸せを生むはずさ。今までがそうだったようにね。あたしもその恩恵をこうむっていたんだが、寿命が尽きてね……悲しいが他の幸運な人間にチャンスを与えることになったのさ。あんたのすることはごく簡単だよ。この店を出て、ずっとずっとまっすぐ歩いていくんだ。扉があれば扉を開け、穴があればもぐり、橋があれば渡り、敵がいれば倒す。ごく簡単なことだ……ずっとずっと行くとあんたは台座に刺してある剣に出会う。その剣はあんたのものだよ。この旅の報酬になるだろう。台座の前には鏡が置いてある。剣を取る前にその鏡を覗いて見るのもいい。覗けばそれからの人生が充実してくるからね。鏡には必ず女が映る。その女はあんたの生涯の女になるだろう。きっと幸せになれる。と言うか、幸せになってしまうのさ」 

 中年男が席を立つ音がした。男はもの憂げに振り向いたが、中年男の姿はなかった。それで男は酔っ払いが気休めに話して聞かせてくれたおとぎ話だったのだ、と思った。






 何がこうなってしまったかを思い起こしながら、男はこそこそと枯れ草の茂みをかき分けて行く。闇に紛れ、風が気配を消し去ってくれる。びょおびょおと吹き付けてくる風に体を丸め、男は巨人の足元を半回りした。

 稲光のような閃光が男の背後の地面に突き刺さった。男は息を飲み、振り返った。巨人の目がこうこうと男をしっかりと睨みつけていた。巨人の腕が左右ばらばらに振り動かされる。暗い巨人の顔に、小さな光の蛇がとぐろを巻き始めた。空気を切り裂く音が集まり始める。男は総毛立ち、巨人の踵の陰に駆け寄って行った。

 大地に一瞬にして消え去る光の矢が突き立った。そこは先ほどまで男が立っていた場所だった。男はそれを知り、めまいがした。後悔の念はさらに強くなっていた。






 中年男が去ってしまった後、男はうらぶれた気分がいくらかましになったような気がしたのだ。からかわれたとしても、さして気分が悪くなるような話ではなかったし、よく子供のころ好んで聞いていた英雄物語に似ていたので、そういう夢が見られたらいいなぁ、というほろ酔い気分になれたのだ。男はちびりちびりと酒をなめながら、子供のころ夢に見た英雄物語を思い返し、話の最後に剣を持って立つ自分の勇士を想像して、朝まで酒場で過ごした。

 給仕が丸台に椅子を上げていき、桶の水をざばざばと床に空けていく。給仕の雑巾とい水に追い立てられて、男はよたよたと酒場を出ることにした。扉を開き、朝やけの石畳みに足を踏み出したつもりでいた。

 しかし、男が自分の五感をじっとすませて周囲を伺ってみると、いつのまにか自分は枯れ草の茂る荒野に、ぽつねんと置き去りにされていたのだった。

 そう感じたのは、男が今までのことを夢だと思い、追剥かたちの悪いふざけたやつらが、自分にこんな仕打ちをしたのだと思おうとしたためだった。






 びょうびょうと吹き狂う風はあっと言う間に男のくたびれた帽子をつれ去ってしまった。帽子は闇の中でもみくちゃにされ、ひきちぎられ、あとかたもなくなった。

 男は巨人の足元をぐるりぐるりと巡り続けた。光の蛇はちろちろと舌をちらつかせ、次第に男に這い寄って来る。巨人には男の居場所がわかっているのだ。それが腹立たしい。

 男はやけくそになって巨人の足によじ登り始めた。巨人の足には毛一本なく、鉄のように冷たく滑らかだったが、サッシュをのばして巨人の足に回すと、体を揺らして足で蹴り上げながら登りだした。それはとてもうまくいった。膝上から巨人の腰みのが垂れていたのでそれにつかまり、サッシュを懐に押し込んだ。

 巨人は男が這い上がってくるのがわかっているようだが、なすすべがないらしくじれったそうに足元に光を撒き散らしている。

 巨人の胸元まで這い上がり、男は気付いた。光を吐き出した後、巨人の瞳が暗く陰りぽっかりと穴が開くのだ。それからまたしばらくすると、ちりちりと光の小虫が這い始め、寄り集まり、よった光の縄になって地上に放たれた。中年男が言っていたのはあの穴のことではないのか、と男は怪しんだ。中年男の言葉を一語一句間違えずに覚えていると

したら。

 男は巨人の肩によじ登った。左右の腕は気抜けしてしまうほど男を無視している。闇雲に上や下に振り回すのみ。巨人の瞳だけがらんらんと闇に浮き上がり、巨人の体すれすれに閃光を振り撒いている。男はあやうくすべり落ちそうになったが、巨人のうなじにしがみつき、ほっと息をついた。

 しかし、それもつかの間のこと。巨人は光を放つのをやめ、男の出方を伺い出したのだ。男が少しでも光に触れられる場所に出たら、すぐさま焼き殺そうと身構えている。それを悟った男の背筋はちぢみあがった。どうすればあの瞳の穴に無事に潜り込めるだろうか。無防備に巨人の目の前に飛び出すことはできない。そんなことをしてしまえば、男はあっというまにローストか、消し炭にされてしまうだろう。地上にいるときは離れている分だけ光の命中率も劣っただろうが、今度ははしゃいで喜べるほど命中率も高いだろう。男は懐からサッシュを取り出した。それが風にたなびき、ばたばた暴れまくる。男は巨人のみみたぶの下を這い、下顎の陰に潜り込んだ。

 巨人はいらただしげに光を投げ付けるが、次の光を集めるまでにしばらくかかり、その間に男は巨人の小鼻のところに立った。ここからだと巨人が悔しげにぐるぐるとうなっているのが聞こえてくる。男は得意げにニヤリと笑った。若いころに初めて剣を握ったのと同じような気分が沸き起こった。よしやるぞ、と男はサッシュを巨人の目の前でひらつかせた。ひらひら舞い踊るサッシュを巨人は目で追い、ちりちりと火花を集め始めた。螺旋状の光の帯が瞳の前で束ねられ閃光を放った。

 風に乗ったサッシュに光の刃が叩きつけられ、瞬く間にちりぢりに焦げついた。男は巨人の小鼻を蹴り上げ、睫につかまり、火花がもう一度集まる前に穴へと躍り込んだ。すとんと音がして、男は暗い穴の底へ滑り落ちて行った。






 気が付けば前と同じような闇の中に立っていた。見上げると星がきらめいている。しかし、すぐに星は消え、また違う場所で瞬く光の粒。男は気を引き締めて様子を伺っていた。今更驚くことなどないだろうとたかをくくっていた。空の星は少しずつ増え始めていた。気がつけば足元のずっと下のほうでも同じような星が瞬いているではないか。男は驚

いて足を引っ込めた。

 星はちかちかと産声を上げ、瞬きながら育っていった。いつのまにかあちらにもこちらにも星の軍勢が群れをこしらえ、ぐにぐにと蠢いている。男はあとずさった。

 星の斑紋は次第にひとつの形をなしていく。男は下に頭を向けた。くるりと上下が引っ繰り返り、男は頭を下にして立っていた。突然の感覚に吐き気が込み上げてくる。

 気がつくと星の白い瞬きに色が芽生え始めた。赤や青や黄や、あらゆる色に弾けては消えていく。ぷちぷちと色が弾け、一瞬それは形を造り、さぁっと崩れていく。

 男の知っている動物、風景など。そして、男の知らない国、人間、様々な形が現れては一瞬にして消えていくのだ。

 目の前に、滑稽なほどスカートを膨らませて白い髪の毛を高く結い上げた女が現れた。恐怖もなく、好奇心だけにかられて、男は色鮮やかな服を着た女に触れた。手の触れた部分だけがざぁっと崩れ、女は男を見て顔を歪めると瞬く間に光の粒に戻った。

 男はあっけにとられ、光の粒を見て、自分の手を見つめた。背後には馬がいた。男はふざけてすかさずその尻を叩いた。馬の尻は男の手の形にえぐられ、馬はひと鳴きしてから霧散した。

 男はそれとばかりに、目に映るあらゆるものを蹴ったり叩いたりしながら光の粒の中を進んで行った。

 次第に男は自分の触れるものに手ごたえを感じるようになってきた。思ったとおりの肌ざわりが男の手に返ってくるのようになったのだ。男に突然蹴られた狼は怒り狂って男を噛み付こうとした。

 男にはたかれた魚の鱗のような鎧を着た武人は憤慨した様子で剣を抜いて向かって来た。幻だったものがふいに現実のものになり、男に一斉に襲いかかって来たのだ。

 男は慌てて逃げ出した。マントをひっつかまれ、男は悲鳴を上げた。はずみでよろけたこけた。こけてもなお男は立ってり、縦横無尽に逃げ惑った。四方八方を取り囲まれ、もう駄目だと思ったとき、男の鼻先に星が生まれた。

 星はちかちかと銀色に輝き、ふたつの小さな鈴になった。男は藁にもすがる思いで鈴を握り締めた。チリーンと鈴は涼やかな音をたてた。男は手の中にかすかな振動を感じていた。

 鈴は確かな形のまま、男に握り締められていた。男は鈴を手に、チリチリチリと鳴らした。すると、今しも襲いかかろうとしていたもの達が鈴の音の振動に共鳴し、さらさらと銀色の光の粒に還っていった。

 色鮮やかな恐ろしいものが全て、音も無く砂の山を崩していくように銀色の粒に変わっていく。男は声もなく、恐ろしさを忘れてその美しい星のきらめきに、ただ見とれていた。

 そして、全てがもとの星の形に戻ってしまった後、川もないのに長い橋が渡し掛けてあった。銀色の星の粒で出来ている。どこへ続くかもわからない橋だった。暗い闇の向こうへと続いている。男は不安になって鈴をチリチリと振ってみた。しかし、橋はそのままの形であり続けた。男はすっかり安心して、橋を渡って行った。







 暗がりにじょじょに光が差し込み、男はいつのまにか白い世界に立っていた。とても明るい世界だが、眩しくはなかった。コッチン…コッチン…コッチン…とメトロノームの音が間断なく聞こえてくる。男は用心しいしい辺りの気配を伺った。

 なにかいるようないないような、疑わしげだがはっきりとしない気配が辺りに漂っている。男はメトロノームの音のする源を探した。ふと顔をあちらにやると何やら背後で揺らめいているような気がして、男は勢いよく振り向いた。しかし、何もない。目の端で確かに何かが蠢くのが見えるのだが、はっきりとつかむことができなかった。まるで幽霊のようだと男は思った。

  コッチン…コッチン…コッチン…コッチン…コッチン

 メトロノームの音がゆるやかに響く。ふわりと視界の端を何かがよぎった。男はびくとして振り返った。そこに袖の長い服を着たすらりした人形のような人間が立っていた。目も髪も服も黒く、鼻と口は目立たないくらい小さく、それでもかすかに微笑んでいるように見える。人形がゆっくりと……

  コッチン…コッチン…コッチン…コッチン…コッチン…

 メトロノームのテンポに合わせて袖を振った。シュルシュルと裾が空を切る。静かにゆっくりとアダージョは裾を振った。ちょこちょことつま先を立てて裾を振りながら、人形は踊るように男に近づいて来た。

  コッチン…コッチン…コッチン…コッチン…コッチン

 奇麗に念入りな化粧を施した人形の顔はうら若い娘のようで、男は人形の踊りについ見惚れてしまった。さわさわと裾が翻り、ゆるやかな動きに似合わず、ひゅんひゅんと空を切る。

 男がじっと見つめていると、人形は大きく裾を振り、その裾のはしっこが男のマントに当たった。すっぱりとマントがまっぷたつに切れた。この時になって初めて男はあっと引き下がり息を飲んだ。

  コッチンコッチンコッチンコッチンコッチンコッチン

 メトロノームはアダージョからアンダンテに移り変わって行く。息を潜めて足を忍ばせていた人形がだんだんと速度を増し、軽やかに歩きながらくるくると回ってみせた。刃の裾がそれに合わせてシュルシュルと男目がけて回り出す。

男は慌ててそれらを避け、人形から離れた。

 アダージョ人形がアンダンテ人形になると、新たなアダージョ人形が現れて、男に向かってくる。それは軽やかに花のように舞いながら、つま先立ってちょこちょこと愛らしくダンスを踊る。

  コッチコッチコッチコッチコッチコッチコッチコッチ

 メトロノームは速度を増して、アレグレットへ。人形は二体から四体に増えた。くるくると風車のように旋回しながら近づいて来るアレグレット人形。男はよけきれず、マントはずたずたに引き裂かれていく。裾の刃が肉に達するのも時間の問題だった。

  コチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチ

 メトロノームはさらに早く、軽快にテンポを刻む。愉快に楽しく早く、アレグロ人形に変化していく人形の速度に男はなかば半狂乱になっていった。

 チリチリチリチリと男の胸の中の鈴が鳴り響いた。男はただ震えているだけだった。ずたずたになったシャツの下から鈴が転げ落ち、チリチリチリと転がって行く。男は慌ててその後を追って行った。

 不思議なことに鈴の音が響いている間、メトロノームの音はやみ、人形達は陽気な姿勢のまま佇んでいた。チリチリチリチリチリと、その間を鈴は転がり抜けて行く。男はその後についていくだけ。






 いつのまにやら白い世界を通り過ぎ、青い光が辺りを照らす狭い空間に男は立っていた。鈴は男の足元におとなしく転がっていた。男はそれを拾い上げ、手首にその紐を結わえ付けた。この鈴は二度も命を救ってくれたのだ。男は親しみを覚えて、鈴に見入った。銀色の鈴がかすかにチリチリと鳴ったように感じた。まるで、この鈴は、故郷の祭りの日に娘達が足首につけて踊り鳴らすものによく似ていた。

 戦が起こる前、まだ若かった自分はひとりで町まで行って銀色の鈴をふたつ買い求めたのだ。秋祭りの前の日に、ある娘に結婚を申し込むために買ったのだ。もう随分経つけれど、いまだに娘の顔を覚えている。

 もしも男が戦に志願しなければ、今でもきっとその娘の顔を見ることが出来ただろう。しかし、男が鈴を娘にあげることはなかった。娘は手作りの可愛らしい鈴をプレゼントした男を、すでに選んでいたのだ。祭りの日、娘はその男のために鈴をつけて踊り、男は自分の鈴を村の池に捨てた。

 もしかするとこの鈴はその時の鈴かも知れない。持ち主の所に戻って持ち主の命を助けるという筋書きは、どこのおとぎ話にでも書かれていることだ。

 男はそうひとり合点して狭い通路を歩いていった。もう障害はなかった。試練はすんだのだと、男は確信していた。

 目前に台座が現れた。青いみかげ石の台座だ。黒と白と青の石の混じった台座に水晶柱のような刃が突き立っていた。刀身に刻々と紋様が象られ、玉石がはめ込まれている。

 男が今まで生きてきて見たこともないような、きらびやかな玉石が刀身の中央できらめいている。刃の先はみかげ石に深々と差し込まれていたが、中振りとも大振りとも判断しかねるこの剣が十分に美しいのは、美しいものに慣れていない男の目でもわかった。

 柄は若い鹿のなめし革で丁寧に巻いてあり、それをさらに金糸銀糸で縫い止めてあるのだ。きっと触れれば絹に触っているようにつややかな感触がするのだろう。刃を覆うように口を開く鍔の形は鳥か蝶のようで、メノウを貼り付けて造った鍔の縁に惜し気もなく黒真珠が取り巻いてある。飾るだけでも一国を手に入れられそうな剣だった。

 しかし、その持ち具合はどうだろう。その使い具合は。重いだろうか、軽いだろうか。男は好奇心を押さえ難くなり、そろそろと剣に近づいた。しかし、男を阻もうとするものは誰もいなかった。男は息を止め、そして、剣の柄を握り締めた。

 じんと手の内側から響くものを感じた。不思議と柄のほうから男の手の平に吸いついてくるような感触を受けた。

 男は顔を上げた。それまで全く気がつかなかった。目の前に大きな鏡があるではないか。そうだ、あの中年男が言っていたではないか。

「剣を取る前に鏡を覗いて見るのもいい。覗けばそれからの人生が充実してくるからね。鏡には必ず女が映る。その女はあんたの生涯の女になるだろう。きっと幸せになる。というか、幸せになってしまうのさ」

 脳裏をその言葉が駆け巡り、何かがわかりかけたとき、鏡にうら若い娘の顔が映った。意志の強そうな美しい娘だった。昔、男が密かに思いを寄せた娘と瓜二つだった。娘はじっと男の顔を見つめ、そして、晴れ晴れしく微笑んだ。

 その途端、ああ、そうなのか、と中年男の言葉も、不思議な世界のことも、手にした剣のことも男には全てがわかってしまった。何とも言えない幸せが、男の内側に溢れんばかりに満たされていく。娘に見つめられながら、自分の体が煙に変じ、剣の中に吸い込まれて行くのを感じた。

 チリチリと男の銀色の鈴が、鏡の中の娘の手に握られた剣の柄頭で鳴り響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ソーディリアンmale 藍上央理 @aiueourioxo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ