第5話別れは突然に
外はまさしく豪雨だった。
視線を前へ向けると、まったくと言っていいほど先が見えない。それでも俺はただひたすらに走っていた。心臓が飛び出しそうなほどバクバクと鳴り響き、俺の意識から雨の音を遠ざける。
最後に彼らと会ったあの日から、俺は親達に山へ行くことを禁じられていた。
理由は単純、今この時期に台風が接近してたからだ。
山岳に囲まれたこの村には滅多に台風など来ない。それこそ祖父母が覚えてないくらいにだ。
それでも俺は家族の制止を振り切り、無理矢理外へと飛び出した。他でもない、彼らのことを心配して。
祖父の発した「地滑りが起きるかもしれない」と言う、漠然とした言葉が何故か本当のことになりそうな気がして。
とっくに身体は悲鳴をあげている。だがそれでも構わない。腕も足もパンパンに膨れている。知ったことか。喉が張り付き呼吸ができない。ならば雨を飲めばいい。汚ないなどと言ってられるか。
意識が朦朧としながらも、止まることを許さないように頭の中で火花を散らす。ブレーキの壊れた自動車のようにふらふらとあの場所へと向かう。
身体から体温が失われながらも、目的地へと着いた俺は、呼吸を整えもせず、ただ叫ぶ。
「カルルー!!ゲンさん!!いるか!?いるなら出てこい!!……ごほ!ごほ!!」
乱れた呼吸のせいで息が続かない。言葉が紡げない。俺はその場に跪くと、ゆっくりと呼吸する。
「……ダガシ?」
実際には数分も過ぎていないのかもしれない。だが俺にはその声を聞くまでの静寂が何時間にも長く感じた。
「カルル……!」
「ガウッ……!?」
俺はずぶ濡れの彼女を抱き寄せると、カルルは困惑した声をあげる。
「今すぐここから離れるぞ」
俺は彼女の手を握り、歩こうとすると━━。
「ヤッ!」
力強く腕を弾かれた。再び腕を伸ばすと、またも弾かれる。
「カルル、ここにいたら危ないんだ。今すぐ離れないとこの山は……」
「ヤッ!」
彼女は最初に会ったときのように、俺に威嚇してくる。彼女にとって、この山こそが故郷であり唯一の家なのだから離れたくないのだろう。だがそれでも……。
こうなったら無理矢理にでも引っ張っていくしかないのかとそう考えていると。
ガサガサ。
カルルの背後の茂みからのっそりと現れた物体。その姿を認識して俺もカルルもそちらを見る。
「グルルッ」
「ゲンさん……」
ゲンさんは俺達を交互に見やると、その場へと佇み事の成り行きを眺めている。
ゲンさんはカルルの保護者であり、カルルのことを大切に思っている。ならばゲンさんはカルルが離れることを良しとはしないかもしれない。ならば……。
俺はゲンさんに向き直ると拳を握り締め、ゲンさんと相対する。出来る限り睨みつけるようにしながら構えるも、ゲンさんは黙ったままこちらを見つめるのみだ。
しばらくすると、ゲンさんはそのままカルルへと向き直り、二人は言葉を交わし始める。
ゲンさんの言葉に、カルルは嫌々と小さな子供のように駄々を捏ねて抗議している。
そんな様子にゲンさんは。
「グラアアッ!!」
一喝するような雄叫びに、カルルがびくりと身体を震わせる。そしてゲンさんが優しげに鳴くと、カルルはゲンさんに抱き着いた。そんなカルルの頭をゲンさんは逞しい手でポンポンと撫でる。
やがてゲンさんはカルルを俺の方に向けると、そっと背中を押した。そしてゲンさんは俺へと視線を向ける。
「ゲンさん、あんた……」
「グルルッ」
俺は人間で、彼は熊。当然言葉なんて分からない。付き合いだって、会った回数で言えば一ヶ月にも満たない。でも……。
「グルルッ……」
その瞳が「後は任せた」と言っているのが伝わってくる。それは自身が在り方を知っているがゆえのものだ。そんな真摯な思いを向けられて応えずにはいられない。
「ゲンさん、ありがとう。そしてすまなかった……」
人のエゴを、関係のないお前に押し付けてしまって。
「カルル、行くぞ……」
俺はカルルの腕をとると、元来た道を走り出す。カルルは走りながらもずっと後ろを振り返っていた。
「ガウッ!ウウッ……!」
「っ!」
カルルが暴れる。カルルの爪が俺の手の甲へと刺さり、冷たい中に熱い感触が生まれる。
それでも俺は迷うことなく、振り返ることなく走り続けた。
知り合って間もない俺でさえ、こんな別れは辛い。啼きたくなるのも分かる。カルル、お前は一度、人間に捨てられた。「育児が嫌になったから」なんていう勝手な言い分で。捨てられたのにまったく関係のないやつが拾おうとするなんておこがましいのかもしれない。だけど、お前は人だ。人なんだ。いつまでも、動物としては生きられない!
だからここから、人としてやり直そう。お前を託してくれた
遠くから聞こえる獣の咆哮にカルルが悲痛な叫びをあげる。俺はそれでも突き進む。
二人の顔を濡らすのは、涙なのか、雨の滴なのか。それは俺達にすら分からない。
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