病院編 :人形

 次に瞼を開いた時、最初に認識したのは、白い天井だった。僕は自分がいる場所がわからなかった。確か、さっきまで山中で迷い犬の幽霊を追いかけていたはずだ。僕はあたりを見回してみた。視界の右端の方には点滴のようなものが見えた。頭の下には柔らかいクッションのようなものが置かれているのがわかる。体は白いシーツの上に乗っているようだ。どうやら僕はベッドの上に寝ているようだった。おそらく、僕は病院のベッドの上にいるのだろう。


 体を動かそうとすると筋肉が痛んだ。迷い犬の幽霊を追いかけたのは、どうやら夢ではなかったようだ。これは、相当な気合いを入れないと上半身を起こすのは難しそうだと思った。


 僕は次に来る痛みに備えて瞼を思い切り閉じる。上半身に力を入れると、すぐに、筋肉が悲鳴をあげる。痛みで活性化した脳内が、現在の行動が危険であるを痛覚を通して認識させてきた。それに耐えて体を起こすと、脳が痛みに慣れる。こうして、どうにか体を起こすことだけはできた。


「やっと、起きたようだね」


 僕が脳内にこびりついた痛みの残滓を感じていると、右隣から声をかけられた。どこかで聞いたことのある声だった。ゆっくりと瞼を開く。朝日が網膜を刺激して一瞬だけ世界を白く染め上げる。僕の意思とは関係なく、網膜が受光する量を上手に調整する。はじめに白いベッドとクリーム色のカーテンが見えて、その隣でパイプ椅子に座っている先輩が見えた。


「先輩、おはようございます」


 僕は、まず、挨拶をした。先輩も律儀に、おはようと、返事をしてくれた。はじめに、何を聞くかは考えるまでもなかった。それは、目を閉じる前と目を開けた後の間に何が起こったのかということだ。つまりは、どうして僕がここにいるのかということだ。


「えーっと、それで、一体、僕は、どういう経緯でここにいるんでしょうか?」


「確かに、当然の疑問だろう。簡潔にまとめるなら君は、迷い犬の幽霊を追いかけると言って、走り出して、その後、石段で倒れたらしい」


 先輩の返答は意外なものだった。石段の上で倒れたというのは、どういうことなのだろうか。僕は、確かに、迷い犬の幽霊を追って山に入った。全身の筋肉痛が山での追走劇を示している。もし、石段で倒れていたなら、こんなに筋肉痛にはなっていないはずだ。


 とはいえ、先輩にその話をしたとしてもあまり意味があるとは思えなかった。現実的には僕は石段で倒れていたことになっている。で、あるならば、僕の記憶とそれが正しいと示す証拠があったとしても、現実的には別の理由がくっつくだけだ。例えば、体に痛みがあるのは石段にぶつかったからだ、とか。

「なるほど」


 僕は手短に返答をした。


「それで、君は、結局、迷い犬の幽霊を捕まえられたのかい?」


 先輩の質問はもっともだった。僕は迷い犬の幽霊を捕まえられたのだろうか。僕と迷い犬の幽霊の追走劇の証拠は、体に残る克明な痛みを除いて僕は持ち合わせていなかった。


「ある意味では、捕まえられたのかなと」


「なるほど、ある意味では、捕まえられた、と」


 不思議そうな表情で先輩は僕の発言を復唱した。僕は黙って頷いた。


「ところで、君はこの人形に見覚えはあるかい?」


 先輩がパイプ椅子の脇に置いてあった紙袋の中から、薄汚れた白い熊の人形を取り出した。僕は一目見て、その人形が何かを思い出した。その人形は僕が小学2年生の時になくした人形と同じ型だった。でも、なぜ、先輩はその人形を持っているのだろうか。脳の隅の方で嫌なイメージが一瞬だけちらついた。


「僕が子供の頃になくした人形と同じ型の人形です」


 僕は正直に先輩に答えた。先輩は人形を膝の上に乗せて、しばらくの間、見つめていた。


「実は、この人形は君が倒れていた側に落ちていた物なんだ」


 僕はなんと返事をするべきなのかわからなかった。先輩の方を見ると、先輩は膝の上の置いた人形を見つめていた。先輩も次に話すべきことを考えているように見えた。病室には外を走る車の低いエンジン音だけが響いていた。この病室には、この先、延々とエンジン音だけが鳴り響き続けるのではないかと感じられた。


「迷い犬の幽霊に出会うと大切な物を奪われるといわれている」


 エンジン音をかき消すように先輩が話し始めた。


「迷い犬の幽霊に2度あった人の話は実は聞いたことがない。だが、きっと、2回あったら、迷い犬の幽霊から大切な物を取り返せるのかもしれないな」


 先輩がいつもの自然な笑顔で僕の方を見た。再び、僕と先輩の間には低いエンジン音だけになった。先輩が熊の頭をゆっくりと撫でる。僕は黙ってその行為を見つめていた。


「どうも、この熊は、汚れているようだから、私が綺麗にしておこう」


 数分間、熊の頭を撫でてから先輩はそう言った。僕が、ありがとうございます、と言うと、先輩は丁寧に熊の人形を袋に入れて、パイプ椅子から立ち上がった。先輩が病室の入り口に向かって歩く。コツコツと靴が床を叩く音が病室に響いた。僕は先輩の背中を見つめながら何か話しかなければいけないと感じた。ここで、何か話しかけなければ何か悪いことが起こるような気がした。だが、何を話しかけるべきなのか僕にはわからなかった。


 先輩は入り口のところで立ち止まる。こちらを振り返り、また様子を見にくるよ、と先輩が言った。僕はそれに頷くことしかできなかった。先輩がドアを開けた瞬間に、通路から風が入ってきた。その風に乗って仄かなオレンジピールの匂いが僕の元まで届く。


 僕が先輩と話したのはそれが最後だった。僕は、その後、先輩と話す機会を永遠に失うことになる。だが、病室のベッドの上にいた僕はそのことにまだ気づかないでいた。

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迷い犬の幽霊 @tkmx

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