第12話 幻夜(3)

 早めの夕餉を終えて、朧は繕い物をきりの良いところで中断し、身支度を整える。土間で楸がそわそわと草鞋を結び、今か今かと出立の合図を待ち望んでいた。

 よもや忍び働きの変わり衣に用いるかもじを斯様に使うことになるとは。思いもよらず、朧は頭に居心地の悪さを感じながら櫛の位置を確認する。

 慣れない髪型のせいで、何度念入りに鏡を確認しても奇怪で滑稽にしか映らない。折角女の装いをするのだし、楸のためにも他人の目に少しでもまともに映るよう心がけたいのだが、長年短いままだった髪にいざ足し髪をすると、頭だけ子ども時代に戻ってしまったようで違和感があった。考えあぐねては次第にどれが最善か分からなくなり、やがて諦めに達した。

「よし、楸。行くぞ」

 総髪そうがみを装った朧は藤紫の鼻緒の塗下駄と銭を巾着に入れ、楸の真横で草鞋の紐を結ぶ。下山するには下駄よりも草鞋のほうが足に馴染んでいる。しかし、縁日で草鞋のままというのも不恰好なので、後で下駄に履き替える心積もりだ。

「うわぁ。おーちゃん綺麗」

「ん、ありがとな」

 楸は瞳に星のような輝きを浮かべて頬を紅潮させる。人よりも容姿が劣っている自覚を持つ朧だったが、彼の偽りが一切含まれぬ天真爛漫な褒め言葉は人に否定をさせぬ不思議な力がある。柄にもなく照れてしまった。

 二人は戸外に人の気配がないのを確かめると、そろっと戸口から抜け出で、家の裏手に回る。幸い彼らの家は村外れにあって、近隣と壁を接していない。

 尤も忍びの里という特質上、夜間の里の出入りに特別な取り決めもない。夜働きも何ら珍しくないからだ。どこぞで守り人が見張っているかもしれぬが、誰に咎められるわけでもない。ただ、誰に責められるわけでもないのに、朧は己が女の恰好をしていることが後ろめたくて仕方がなかった。

 下界に通ずる道は、里の中央に位置する獣道然とした山道――とはいえ一応整えられ、踏み均されてた道である――を除けば、その殆どに鬱蒼とした草木が繁っている。

 これは余所者に里の場所覚られぬため、村人が敢えて直前に踏んだ様子のある道を外れて里に出入りするからだった。二人が今歩く道ともなると、村外れのため余計に踏み均されて居らない。足を引っ掛けかねない草や木の根の蔓延った山肌も彼らにとっては大して難しい道ではない。しかし、今宵の楸はいつもとまるで逆で、自ら朧の前を歩き、よく手を差し伸べた。

「ほら、おーちゃん、足元気を付けて」

「心配せんでもこの程度の道、なんてことないわ」

 事実、朧は着物に関係なくひょいと木の根を飛んだし、危なっかしい足取りのひとつも見せなかった。ただ、楸が気を利かせて手を差し伸べた時は、大丈夫だと返事をしながらも、厚意に甘えて手を借りた。

 出会った頃はまだほんの小さい子どもで、抱きしめれば柔らかくしなやかでやせっぽっちだった楸が、いつの間にか筋肉を蓄え、骨ばりつつある手などは遂に朧の大きさを上回っていた。

 同時に、体つきだけでなく、女に気を遣うなど、少しは男らしいこともするように成長したのだと思うと、朧はしみじみと時の流れを感じた。いつかこうして己の手を引いているように、綺姫や他の女子の手を引くのだろうか。朧は楸の後姿を見ながら、それはそれは微笑ましかろうと想像した。


 雪深い冬に比べて近頃は随分と日の暮れが遅くなった。今年は年始の弓引神事で豊穣と出たため、村人は今から種まきに向けて張り切り勇んでいた。とはいえ、まだ完全に若葉の季節にまで至らぬためか、山の中腹まで下りた時には早々に空は星々の瞬きに包まれ、山きわに寸分の藍を残すのみだった。

 里を出てから暫くは警戒して言葉数こそ少なかったが、中腹まで下りて来て何言か話しながら歩くさ中、突然朧が足を止めた。

「どうしたの? おーちゃん」

 振り返ると、朧は人差し指を口元に当てていた。いつになく真剣な顔で、視線は彼を通り抜け、背後の木々に向かっている。眼光は暗闇の中でも光を捕えられそうなほどに鋭く、まるで獣が得物を探すようだった。

 楸は、彼女が視線を投げかけている森にじっと目を凝らす。

「何もないっておーちゃん。行こ」

「何もない訳あるか。お前、どこで漏らしてきた」

「俺お漏らしなんてしてないよ!」

「お前は阿呆か! そうではない」

 朧は森の空虚を見つめながら、

「出て来ぬか!」

 とやけに苛立って声を張る。

すると、三間程先の闇から二つの影が現れた。

 人影定かでない内に、楸は背筋がひんやりと冷える思いがした。初めは幽霊かと考えたが、ふと思い当ってそれ以上に肝が冷えた。ここで待ち伏せている人物などほんの一部にしか心当たりがない。

「随分と待ったわよ」

 聞き覚えのある声に見覚えのある顔が二つ。綺姫が疾風に抱き上げられた格好で楸と朧の前に姿を現す。普段と違い、袴姿ではなく町人に扮した姿をしている。

「お前、喋ったな」

 不機嫌な顔の朧と、同じく何故だか不機嫌な綺姫に前後を挟まれて、楸は狼狽えた。

「だ、だって……。いや、言うつもりはなかったんだけど、うっかり口が滑ったというか……。楽しみでつい人に言いたくなっちゃって……。我慢できなかったというか……その……、ごめんなさい!」

 朧は許すとも許さぬとも返事をしなかった。楸から視線を外して突如現れた二人を睨む。

「お偉い方は下々の祭りには参加せんはずじゃったが」

「慣例ではそうですけど、あなたと楸を二人っきりになんてできるものですかっ! いい加減その手も離しなさい!」

 綺姫は疾風の腕から降りると、楸の腕を半ば奪うようにして彼らの間を裂く。撥ね退けられた朧は、よろける様子もなく、黒の着流し姿に袖手した疾風に視線を送る。

「お主は妹の願いとなるとすぐに聞き入れるのじゃな」

 疾風はばつの悪い顔のひとつも見せずにくるりと背を向けた。

「止めても敵わないこともある」

 朧と疾風の間を仄かに漂い始めた何となしに険悪な雰囲気に、腕を捕えられた楸は途端に不安になった。

「ね、おーちゃん。帰るって言わないよね? ここまで来たんだから一緒に行こうよ、ね、お願い!」

「誰が原因じゃこのたわけ。くそっ、お前を信用するのではなかったわ」

 朧は腹立たしそうに言い捨てたが、決して帰るとは言わなかった。暫くの沈黙を開けて、先頭に立って草の茂る山道を再び歩き出す。

 楸は彼女が縁日へ行くのを取りやめにしないことに安堵して、腕に巻き付いた綺姫とともに朧の後に続いた。疾風は三人が過ぎると殿に着いた。彼か朧のどちらかが殿を務めるのはいつものことであったが、どことなく彼女を避けているようにも感じられた。

 楸は、疾風が朧の女らしい姿を見れば喜ぶに違いないと思っていたが、むしろ反対に、関心がなく、全く見ようともせぬようすにあてが外れたようだった。


 山道を迂回して街道に出ると、村境の鳥居周辺にいくつかの屋台に灯が点っていた。簡素な作りの屋台では女の歌声と三味線を奏でる音、それに男の売り口上が聞こえ、横で棒手振が縁日に行くのであろう女と話している。

 夜に人が多いという非日常の世界は、子どもたちにとってはとりたてて気分を高揚させるもので、何ともない提灯の明かりですら涅槃の光のよう幻想的に楸と綺姫の瞳に浮かび上がっていた。

 風刻の里の近隣では四尾しび町を除けば、この山居やまのい村の縁日が一番規模が大きく、他の村からも山居の秘仏を見物しに人が押し寄せるほどだった。村自体はそう広くなかったが、平坦な土地にあるため、他の山間の部落と比較して開けているよう印象付けている。

「まずは仏様にご挨拶するぞ」

 浮足立ち、今にも飛び出していきそうな二人の襟首を摘まんで、いつの間にか黒塗りの下駄に履き替えてた朧が制止する。

 押し寄せる人波を掻き分けて本堂に辿り着くと、仏は縁日に際して色とりどりの装束を何重にもして身に纏っていた。大衆に囲まれてなお穏やかに佇んでいたが、装束のためであろうか、仏も賑やかな衆生を前にしてこの縁日楽しんでいるように見える。四人はこの木造の仏に手を合わせ、それぞれが真剣な面持ちで願掛けを済ませ、再び押し寄る人波に浚われながら堂を後にした。

 本堂から少し離れた手水鉢の前で、疾風が村の境界の方角を指す。

「もしはぐれたら一の鳥居で落ち合おう」

「くれぐれも持ち物には気をつけろよ。諍いを起こさんようにな。それと楸、お前は綺姫に大事無いように気を配ってやるんじゃぞ」

「任せとけって!」

 疾風と朧の言葉に、楸と綺姫は手を上げて答える。しかし、威勢の良い返事を返すも、二人はすぐさま――楸は半ば綺姫に引きずられる形で悲鳴を上げながら――人だかりの中へ駆け込んだ。

「あやつら、早速はぐれるつもりか」

 二人の陰が大衆の中に消え、声も聞こえぬようになると朧は溜息を吐いた。楸との最後の外出と記念するつもりだったが仕方ない。綺姫が現れた時点で予測し得たことだ。折角の縁日であるし、酒でも手に入れば上々。そう考えたが帰りの引率を考えると、控えめにしなければならない。

「では一の鳥居でな」

「君、一人で行くつもりか」

 ひらりと手を振って一旦の別れを告げると、疾風が意外そうにも責め立てるようにも聞こえる口調で尋ねた。

「そうじゃ。楸も行ってしもうたし、わしは酒でも飲んでくる」

「だからと言って分かれて行動しなくても良いだろう」

「集合場所を決めたじゃろう。それにこのような恰好でお主と歩けまい。そもそもお主が来るならこんな恰好は――」

「まだ根に持っているのか」

「別に」

 疾風の呆れ気味の語気に、朧はそれとは分からせぬように唇を尖らせた。嫌なことを聞いてくる。

「昔のことだろう」

 その因果を作った本人が全く気に留めておらぬのが余計に腹立たしい。そもそも彼女が女の姿を好まぬ由は子ども時代まで遡る。

 幼少の頃の朧は髪こそ長かったが、今と同様で負けん気が強く、転婆で淑やかさの欠片も見当たらなかった。左様に女子らしい立ち振る舞いとは縁遠かったが、女子特有の美しい衣装に興味がなかったわけではない。花鳥舞う染や刺繍は純粋に美しいとも思ったし、己がそれに見合う容姿をしていれば身に着けても恥ずかしくないだろうにと憧れたこともあった。しかし、男子が女の装いをしていると揶揄されるのが嫌で、十六夜にも春にも、口では女の恰好はしないと意地を張っていた。

 ある時に祭りの人手が足りず、彼女は増補のため特別に女子の役でかり出された。煌びやかな髪飾りをつけ、あでやかな着物を身に纏うことになり、漸く秘めた願いは叶えられた。大人たちに世辞を言われ、照れくさくもくすぐったい気持ちに満たされた矢先に、疾風は彼女の姿を一目見るなり「見るに及ばぬ男子の女装だ」と評したのだ。

 浮かれていた心が瞬く間に凍った。

 最も親しい友人に顔を顰められ、最も恐れていた言葉を投げられて、彼女は胸の内に残された女の欠片を粉々に砕かれてしまった。疾風にああいった顔をさせたのも、されるのも、どちらも嫌だったのだ。以来、忍び働きで女の装いをせねばならぬ時も、頑なに他の者に姿を見せぬよう守り通してきた。

 昔の出来事を今もまだ引き摺るとは我ながら稚拙で情けないと思わなくはなかったが、疾風が思っているよりも胸の傷が深かったのも事実だ。

 それなのに、当の疾風はお構いなしに、一歩距離を開けて、後ろを着いてくる。朧が早足になってもすぐに追いつく。元より、忍びである彼を撒くことなど出来ぬのは重々承知している。

「それより、その髪はどうしたんだい」

「かもじじゃ。見りゃわかるじゃろ」

「十六夜様が生きておられた頃のようだな」

 しかも、こちらの様子を窺っては目をそらす。疾風は山中で合流してからずっとひっきりなしにそれを繰り返えしていた。いっそ真っ直ぐに視線を向けられれば開き直りもするものを。視線が刺さるたび、朧の心は藪で引っ掻いた傷のようにちくちくと痛み、苛立った。

「また髪を伸ばそうとは思わないのか」

「その内に気が向けばな」

「伸ばすのかい」

 疾風は珍しくあからさまに驚いて声を上げる。人垣を避けて朧の正面に回り込み、肩を掴んでじっと顔を覗き込み――背ける。

「能面形無しじゃぞ」

「すまない」

 彼ははっとして手を放した。

 二人は横並びに歩いても互いに顔を合わせようとはしなかった。屋台を滑るような心地でただひたすら前へ進む。

「君が髪を伸ばしていたのは十六夜様のためだったはずだ。今更何故」

 訝しげに疾風が問う。

「わし自身のためじゃ」

 彼は朧の言葉の真偽を見定めかねていた。

 朧は嘘を言ってはいない。里を出ればじきに女として生計たつきを立てなければならない。ただでさえ身寄りが居らないのに加え、女は“女らしさ”というこの世が予め用意した堅牢な檻に入らずして生きるのは難しいのだから、身なりくらいは整えねばならぬ。少年のようななりの彼女にとってはそれが第一の関門だ。

「まさかどこぞへ嫁入りでもするのではないだろうね」

「告げる必要はない」

「そのような男があるのかと聞いているだけだ」

 露骨に詮索する疾風に腹が立って、朧は彼を睨みつける。

「しつこいぞ! お主はわしが誰からも引き取り手がないと決めつけとるじゃろ」

「……そんなことはない」

「ふん、どうじゃか」

 疾風がかち合った視線を外したのを機に、朧も独りでに熱くなった心を落ち着かせる。

「物好きの一人や二人くらいどっかにおるわ」

 ぽつりと呟いてそっぽを向くと、彼女はそれっきり疾風との言い争いをやめた。彼は彼女の傍らを離れ、いずこへと姿を消した。

 朧は甘酒屋で湯気の立つ甘酒を一つもらった。彼女は活気に満ちた屋台の合間を縫って植えられた若い楠にもたれかかると甘酒をちびちびと舐める。雪色のどろりとした湯は熱いくらいに喉の奥で絡む。大人げない言い合いをしてしまった己を恥じながら、今までのやり取りの全てを飲み干すように、ゆっくりと喉越しを確かめる。

 朧は、縁日の賑わいとは反して、否、人が賑わいを増すほどに、うっすらと背を通り過ぎる冷ややかな風を感じた。まるで己の存在が人の目に映っておらぬよう思われたのだ。それも次からは楸も疾風も綺姫も居らぬことを考えればよりいっそう真実であるかのように思われた。今日の四人は、本当は三人なのではないだろうか。彼女は、下界に降りた後も、見知らぬ人垣の中に、居るはずのない彼らを探してしまう己が思い浮かんだ。彼らは己を探してはくれるだろうか。浮かび上がる問いがひどく滑稽だった。

 にも関わらず、這い縋ってでも里に留まりたく願う強い欲求はなかった。決して彼女が冷淡であるわけでも、達観しているわけでもない。ただ、あまりの青天の霹靂に心が着いていかないのだ。全てが最後である、故に惜しまねば棘のように奥深くに入り込んで後々深く後悔してしまうぞ、と己に言い聞かせている今でさえ、実感は伴わない。

 実感が伴うのはいつになろうか。甘酸っぱさを口に含んで朧は思考する。里を離れてすぐだろうか。それとも新たな居を求める頃か。或いは己が脱走者として上忍たちに追われる頃だろうか。全てが是とも言えたし、否とも取れた。時期が来るまでは輪郭が瞭然とせず分からぬとしか言いようがなかった。

 暫くすると疾風が再び姿を現した。一の鳥居で待てば良いのに、律儀な彼のことであるから、わざわざ朧の居場所を探したのであろう。

「楸たちを見かけたか」

「いや」

 朧の問いかけに、案の定彼は小さく首を振って答える。期待して問うたわけではなかった。単に先ほどの言い争いを清算したという証しだった。楸たちは縦横無尽に縁日の場を堪能し尽くしているのだろう。

「もう暫くは戻ってこないのではないか」

「そうじゃな」

 甘酒を仰ぎ、空の器を甘酒屋の元へ戻そうとして、

「美月」

 背後から疾風に呼び止められた。彼は二人きりの際に時折、朧の真の名を呼ぶのだった。彼はしかめっ面が振り向く前にそっと髪に触れる。

「髪を伸ばすのなら必要になるだろう」

 耳元で囁くとかもじを梳いて、“それ”を総髪の結び目に挿す。

「簡素なものしか見つけられなかったが、次はもっと良いものを……」

 それが彼の精一杯の謝罪であることを察すると、朧は様々な意固地や拒絶の言葉を一切胸の奥に呑みこんだ。他の女にその心を割いてやれとは言わなかった。“次”という言葉の甘美な囁きも、現実には泡雪の如く儚いものであることは互いに良く理解しているはずだ。

「いや、十分じゃ。有難うな」

 朧は片手でそっと髪に挿された櫛を撫でた。自然と笑みが零れる。手触りの滑らかな木の表面に細かい何かの絵柄が彫られている。櫛とは即ち“苦死”。その内に秘められた意味を、まさか疾風が知らぬわけではあるまいが、思い至らずして贈るところが彼らしい。一見して万事完璧に見えるようで、ある面で時に抜けているところが愛らしかった。

 疾風は面を食らった様子だった。勿論、彼を知る者が見ればの話である。何かしらの反発があるのを覚悟していただけに、素直に礼を言われたのが意外だったのだ。彼は顔を突き合わせると柄にもなく照れた様子で、遂には押し黙ってしまった。仮に東雲がこの場に居たのならば、彼を揶揄するに違いなかった。

 二人は、今度は前後に連なることはなく、互いに肩を並べて一の鳥居を目指した。途中で朧が団子や飴を買うも、疾風は一切の飲食をしなかった。ただ、朧が差し出して勧めれば食したが、怪我人のように酷くぎこちない動作だった。漸く二人は平常通りの関係に戻れたような気がした。

 楸と綺姫を待つ間の二人はたわいもない話に花を咲かせていた。子どもの頃の不平不満を打ち明けたり、噂話の顛末や真相を議したり、こういったくだらぬ話をゆっくりとしたのは実に久方ぶりのことだった。殊に楸が忍びの修業を始めてからは、稽古の内容や楸の技の修練度について議するばかりで、互いの話しは終始楸の修業のことに明け暮れていた。

 手持ちの食べ物がなくなってから、更に二、三の話題を終えた頃、楸たちはやっとのことで鳥居の前に姿を現した。

 楸は到着するなり、先ほどとは違う二人の雰囲気を読み取って、意味あり気に口元をにんまりと緩めた。綺姫はすっかり恋女房気取りでぴったりと楸に寄り添っている。妹には過保護な疾風も、うっとりと幸せに浸る綺姫の表情を見て今宵ばかりはと目を瞑った。

「おーちゃんその櫛似合うね! 梅の花だね! 買ったの?」

「ああ、有難うな」

 手触りだけでは判別出来なかったが、花が彫られていたのか。朧は確かめるように再び櫛に触れた。

(梅か……)

 彼女は心の内で呟いた。

(梅なら、男はあまり身に着けんかの)

 疾風の横顔を覗くと、何食わぬ顔を顔をしているようで、耳を朱に染めている。照れているようだった。

「さて、楸、そろそろ帰るぞ」

「うん!」

「十分楽しんだかい」

「はい、兄様」

「あ、そうだ。おーちゃんたちにこれ貰ってきたんだよ!」

 楸は竹筒と水菓子を差し出した。朧が水菓子を受け取り、疾風は竹筒を手に取るとそのまま栓を抜いてぐいと飲む。

「あっ、疾風! それいっぺんに飲んじゃだめだからな!」

 竹筒をあおる疾風に、楸が唐突に慌てて竹筒を奪う。

「なぜ……」

 疑問に思うも束の間、口元を拭う疾風の体が緩慢に傾き、それに気付いた朧がすぐに彼の体を両手で支える。

「あーっ!もうこんなに少なくなってるー!」

「楸、それはまさか……」

 楸が竹筒の小さな穴から中身を覗き見ている間にも、掌で額を押さえる疾風の表情は刻々と厳しくなり、顔色は他の三人の目にも明らかなように、見る見るうちに青白く変わる。

「これ……、お神酒が振る舞われてたからおーちゃんにって思って……」

「早う言わんか! おい、疾風、大事無い……わけあるまいか」

「に、兄様っ!」

 大事無いはずはなかった。上戸の朧に対して疾風は下戸だ。一口で頭の中がぼんやりとして前後不覚になる程度には呑めないのである。

「楸、お前も手を貸せ。早いところ帰るぞ!」

「う、うん!」

 楸は竹筒を腰に結ぶと、疾風に肩を貸す。おろおろと心配する綺姫を脇に置いて、疾風は半ば引きずられる形で暗闇にとっぷり浸った山道を駆けあがることになった。

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