第8話 花の姫君(1)

 暑さが盛りを迎えると、紫陽花は殆ど花を落としてしまった。蝉の鳴き声は次第に勢いを増し、里の皆は空いた時間があればこぞって近くの沢に涼みに出掛けていた。

 藤間屋敷の桜の間は月初めにはすっかり整えられ、いつでも客を迎え入れる準備が整っていたが、月の半ばを越えたこの日、ついに期間限定の部屋の主を迎えることとなった。

 この閉鎖的な忍びの里が下界から人を迎えることは、実に里長の嫡男・疾風の帰還より四年ぶりだった。村人たちは珍しい機会に、浮足立ちながら貴人の到着を待ち構えている。中には一張羅を引っ張り出して来る者や、普段はつけもしない紅をつけてめかしこむ者もあり、見物人同士が普段は見慣れぬ互いの容貌を相互に見物するという何やら不思議な光景になっていた。

 これより暫く桜の間の主となる蓮見はすみ まつりは蓮見の町の武家の娘で、今度海の側の綿見という町に出仕することになった次兄のため、沖津神社に参拝していた。

 海難を退ける女神を祀っていることで有名なこの神社は、風刻の里から歩き詰めで三日の場所にある。沖津との距離は地図で見ればそう遠くないのだが、山間の険路を多く挟むこの里に辿り着くのは、慣れぬ者には難があった。ましてや、女の身である。護衛を兼ねた下忍が先導役として迎えに行ったとしても、余程の健脚でない限り、余分に時間がかかるもの仕方ない。

 だが、数刻前に日頃は下界に滞在している伝達係の臨時の早馬が正午には到着する旨を伝えて来ている。彼も里への至急の伝達という口実で祀の一行を見物しに、久方ぶりの帰還を決めたに違いなかった。

「少しばかり遅くはありませんか」

 早馬の報を受け、長や八人衆たちとともに祀を待つ疾風が日の高さを見る。

「どうした疾風殿。心配なさっているのか?」

「そうではありません」

 東雲しののめは天を仰いだままの疾風の目線を追う。確かに日の高さは天頂からほんの少し傾き始めている。しかし、遅いと判断するか否かは個人の感覚に因るほんの些細な傾きだ。

「疾風殿は几帳面だからなぁ。女子を急かしては嫌われてしまうぞ」

 彼は手を真っ直ぐ立てて日の角度を測る真似をし、にやりと口端を上げた。

「まあまあ、姫をお迎えなさるのだ。緊張なすっても仕方あるまい。何せ若にとっては将来奥方様となり得るお方だからな」

「いえ。そういった意味ではございません。正午はとうに過ぎました。が、祀殿は一向に姿を見せぬ故」

 すぐ後ろに並ぶ東雲と泰光に立て続けに茶化されて、いつもは表情を面に出さぬ疾風に不満の色が浮かぶ。それに気づいた東雲が噴出すのを堪えて肩を震わせている。

「皆の者、女人の足だ。定刻に着くとは限らん。悠然と待ち構えるのだ」

 我々には何ともなくても、険しい山道だから先導の者が居ても女の足には辛いものがある。中央の紫雲がそう付け加えて言った。

「足をとられて居らなければ良いのですが」

「早速奥方様を思いやられるとはさすがは若! お優しいですな」

 泰光の勝手な解釈に、疾風は無視を決め込み、今度こそ他者に心情が漏れぬよう努める。だが、既に東雲は腹を抱えて笑いを抑えている。ちらと厳しい視線を送っても、笑いの線に点火された後となっては何もかもが可笑しいらしい。彼はひとしきり笑いが治まると、疾風の肩を叩いて深呼吸し、気持ちを整え始めた。

 此度の疾風の心情を泰光などは露も知らぬが、東雲には筒抜けだった。東雲は歳こそ疾風より七つ年長だが、幼い頃からの仲で互いに一番に親しい間柄だ。故に、疾風が普段決して他人には漏らさぬ些細な心境も彼は熟知している。そして、疾風がこの日を迎えるのがどれだけ億劫であるかも、言葉を交わさざるとも詳細に掬い取っていた。

「案ずるな、その為の先導だ」

 紫雲の言葉に同意して、疾風は緑の茂る森を見つめた。

 暫く、泰光の好意的な解釈――疾風には迷惑千番であった――が続いたが、辟易してきた頃に玉秀斎が窘めた。

「それにしても暑うございますね。お父様」

 蝉の声を聞きながら、綺姫は顔を火照らせていた。うなじに薄らと汗を滲ませている。早く到着してもらわなければ可愛い妹が日に照られて目を回しそうだと疾風が思ったその時、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。

「あら、ご到着なさったのかしら?」

 綺姫が胸元に置いていた手を下ろす。しかし、

「いやに急いではおりませんか」

「うむ……」

 紫雲と疾風が訝しんでいると、緑の枝葉の間をすり抜けて、先導に向かっていた下忍と侍女が慌てた形相で馬を駆けて来た。

「おうおう! 紫雲様の前でいかな……」

「申しあげます! 祀姫が森の奥へ入って行かれ、行方が分からなくなりました!」

 泰光の怒号を遮って下忍が叫ぶ。ともに騎乗する侍女も髪や着物に草葉を散らしながら、護衛の言葉にこくこくと頷いた。

「何じゃとぉ!? 貴様何のための護衛じゃあ!」

 怒声を上げた泰光が憤怒の形相で飛んで来て、今にも斬り捨てんばかりに下忍を馬上から引き摺り下ろす。その間を侍女の一人が割って入る。

「おやめくださいまし! わたくしめがご説明申し上げます!」

 侍女は怯えながらも毅然とした態度で泰光の前に進み出で、次に紫雲に跪く。紫雲が頷いて許しを与えると、彼女は仔細を語り始めた。

 侍女に依ると、祀は先導の下忍が湧水を汲みに行った隙に山道の遠くに見える紅色の花を摘みたいと言い出した。お付の侍女二人は、道に不案内である故、下忍が戻ってからにと説得したが、祀は下忍は里への案内と護衛が此度の本分であり、花を摘ませるには申し訳ないと述べる。侍女がそのようなことも叶えてくれましょうともう一度説得するが、彼女は、ならば侍女にも迷惑をかけぬよう自身で取ってきますと脇の茂みに潜ってしまった。侍女たちが慌てて追いかけるが、暫くの後、事は起こった。祀は別の何かを見付けたようで、歓喜の声を上げて突然走り出した。危のうございますと声をかけたと同時に、彼女は忽然と姿を消した。あたりを探しても見当たらない。侍女の一人が慌てて下忍を呼びに戻ったのだが、不案内がたたって、侍女もすっかり先ほどの道を見失ってしまった。そうして、里に助けを求めに来たのだった。

「な、何という失態じゃ……!」

 泰光が顔を青ざめさせて頭を抱える。

「論じても仕方ありませぬ。私がその場に赴きましょう」

 紫雲が無言の許可を下すと、疾風は泰光と東雲を伴って、すぐに山へ分け入った。下忍と侍女が案内役を買って出る。乗じて着いて来た綺姫は兄に引き帰すよう諭されて渋々紫雲の元へ戻っていった。




 フキ、ミズナ、ヒラタケ。これだけあれば夕餉が潤う。楸は背負った籠の重さを確かめてにんまりとした。ついでにヤマモモを摘む。摘んでは赤く熟れた実を腰の小さな籠に入れつつ、口にも運ぶ。

 朧に課せられた楸の仕事は終わった。あとは合流するだけだった。今日は里に貴人が来るということで稽古は休みだ。朧はこの先の沢でヤマメを釣っているはずだから、成果さえあれば豪勢な夕餉になるに違いなかった。朧の釣りは釣りというよりも捕獲に近い。魚を手で捕まえられそうであれば掴みに行くし、距離や川の流れの関係で難しければ魚の口や身に無理やり釣り針を引っ掛ける。釣り糸を垂らして時間を待つものではない。故にボウズは滅多なことでもない限りあり得ない。

「フキの白味噌和え食べたいなー」

 背の籠に入った食材で朧は一体何を作ってくれるのだろう。想像するだけで腹は減り、心は浮かれる。楸は鼻歌交じりに茂みを掻き分ける。草の踏み均された獣道もあるが、道ならざる茂みを掻き分けて進んだ方が沢にはうんと近い。蛇の類が出ぬかだけが心配だ。

 足元を注視しながら進むと、ふと、この場には到底似合わぬ瀟洒なきれが目に入った。金糸をふんだんに使った絹の着物だ。暑い季節には涼しげに映る藤色に、鮮やかな芍薬が描かれている。

(まさか、女の幽霊!)

 幽霊が苦手な楸は、行き倒れの仏よりも幽霊のほうがずっと恐ろしい。あまりに場違いな着物に、楸はすぐに幽霊話を思い出した。高級な品や絶世の美女の正体が幽霊や呪いに纏わるものだという手の話は古今東西に掃いて捨てるほどあるではないか。そう考えるだけで鼓動が早くなってきた。

 楸はできる限り布を視界に入れぬよう、脇を通り過ぎようと試みる。しかし、人間の心の不思議で、どうしても見たくないものであるのに、何故だか気になってしまうのだ。目を逸らしたい気持ちとは裏腹に、芍薬の刺繍から目が離せぬ。そうしているうちに、着物が音を立てて動いた。

「ひっ!」

 女幽霊がこちらに呪いに来ると思って、楸は身を硬く強張らせながら智拳印を結び、胸中でオン・バサラ・ダト・バンと邪念や妄想を祓うらしい真言を唱える。しかし、幽霊と思しき着物はがさごそと葉摺れの音を立て、その場で動くのみ。一向にこちらへやってくる気配はない。楸が恐る恐る近づくと、

「あの、どなたかいらっしゃいますか」

 少女の鈴の転がるような声がした。

(幽霊……じゃない?)

「わたくし、足を挫いてしまいまして、どうかお手をお貸しいただけませんか」

「えっ? 大丈夫かよ」

 足があるならば幽霊ではなかろう。それに、如何にも愛らしい声を聞いては、さすがの楸も逃げ去るわけにはいかなかった。脇の茂みを掻き分けて、背から籠をおろす。

「だ、いじょうぶ……?」

 桜の女神じょしんのような少女だった。

 楸は声の主の可憐な姿に一瞬で心を奪われた。顎まで垂らした真っ直ぐの横髪に、大粒の潤んだ瞳。木漏れ日のような蕩けてしまいそうな柔らかい雰囲気。おっとりしていて、勝気な朧や綺姫とはまるで違っているし、顔つきこそ春と似てはいるものの、春のような成熟した雰囲気とも違う。更に言うと、昨年幼馴染の虎彦の元に嫁いだ、最近一番の美人と呼び名の高い瑞江のような大人の色香がある訳でない。

 それは、春の山際の桜の花びらにほんのり乗った薄紅の侵しがたい無垢な神性に似ている。楸は束の間、彼女の姿を見てそう感じていた。

「少し痛みます」

「そっか……。じゃあ無理に立たない方が良いよな。えっと、姉ちゃん、悪いけどちょっとここで待っててくれる? おーちゃん呼んでくるからさ」

「おーちゃん?」

 少女は目をぱちくりさせた。

「そ。俺が下手に触って患ってる足を悪くしたら駄目だからさ。近くに居るから呼んでくる!」

 楸はその場に籠を下ろすと、水の入った竹筒とさっき摘んだばかりのヤマモモを少女に手渡した。本当は後で朧と食べようと思っていた分だった。

「これ、食べながら待っててくれよ」

 彼は身軽になると、手をひらりと振って走り出した。身一つで走れば沢まではすぐだ。

 楸は美しい少女を目にした心の火照りを冷ますように全力で駆ける。緩やかな坂を下ると次第に川べりが見えてきた。勢いのある水流の音がごうごうと耳を賑わしていた。彼は森の木々を縫って一気に飛び出すと、せり出したごく低い崖の下に転がった石に着地する。川の水で磨かれているせいで皆丸々としていた。

「おーちゃーん!」

 すると、丁度いい塩梅に、正面には裁付袴を太腿まで捲り上げた格好の朧が居た。彼女は呆れながら、

「どうしたんだ楸。お前、籠は?」

 と、岸に上がってきて釣竿と魚籠を背負う。

「姉ちゃんところに置いて来た。おーちゃん、急いで来て欲しいんだ!」

「順を追って話さんか」

「えーと、見たことない可愛い姉ちゃんが足を挫いたって言ってて、それで俺は姉ちゃんに水とヤマモモをあげて、籠は……」

「もう良い」

 朧はため息を吐く。

「さすがおーちゃん! 分かってくれた?」

「良いから早よう案内せい」

 うん! と楸は物分りの良い姉分を喜んだ。無論、彼は朧が説明を聞くよりも実物を見たほうが早いと思っていることには気づいては居ない。

 楸は元来た道を通って少女の居る茂みまで案内する。茂みからは変わらず芍薬の柄が場違いに咲いていた。

「この姉ちゃんだよ。足を痛めてるんだけど、おーちゃん診てやってくれよ」

「祀殿……」

 朧は少女を見るなり静かに驚いた。

「まあ。朧様ではありませんか!」

「えっ。おーちゃんの知り合い?」

 少女は木陰の陰影を落とし込んだ瞳を懐かしさで潤ませる。

「どうしてこのような場所に……。まあ良いか。まずはおみ足を拝見いたしますぞ」

 朧の驚きが大きかったことも、両者が顔見知りであったことも気になったが、それよりも手当が急がれた。少女の様子からして、骨を折る大けがではないだろう。

 朧が着物の裾を捲ろうとしていたのを見て、楸はくるりと背を向けた。女の足など、毎日朧のものを見ているので慣れているつもりではいたが、何故か祀の足を見るのは気恥ずかしかったし、そも、見てはいけないもののように感じられた。朧や綺姫をはじめ、里の女衆に斯様な気持ちを抱いたことは今まで一度もなかったのに、である。

 楸は朧が手当てをしている最中、朧の籠や釣竿を己が持てるようにと荷を整理することに専念した。手を止めると少女の華奢な足首を想像してしまいそうで恥ずかしかった。

「左足首を捻っておりますな。とりあえずは冷やしておきましょう」

 朧は首に巻いた手ぬぐいを取ると、竹筒から先ほど沢で汲んできた水で濡らした。祀の足首をすっぽりと包んでやると、木の枝で足首を固定する。

「里に着けば薬草もあります。暫しのご無礼をご容赦くだされ。それと、もし足が痛めばきっと言うてくだされよ」

 朧はゆっくりと祀を起こし、彼女を背負う。

「朧様、本当にごめんなさい。わたくしが狸さんを追ったばかりに。護衛の方や雛菊たちもきっと心配しているわ」

「狸……? 姉ちゃん狸汁にでもするの?」

 荷を背負った楸が振り返った。もう足首は着物の裾に隠れている。

「食べるだなんて可哀想です。狸さんを見たくてつい追ってしまいましたの」

「うまいけどなー」

「こら、楸。お前は口を慎め」

 気さくに喋ることの何がいけなかったのか、楸は分からぬまま叱られ、口を噤んだ。

「祀殿。きっと皆大慌てでしょう。狸は里に毎日現れます故、今後は里まで来てからにしてくだされ」

「分かりました。でも、絵巻と違って愛らしい顔立ちをしているのですね」

 狸の姿を思い出してか、祀は嬉しそうに微笑む。その姿が楸には、やはり日の下に輝く桜の女神のように映った。


 道なき道を抜け、里の者がよく使う獣道まで出ると、遠くに祀を呼ぶ声が聞こえた。楸が捜索の衆を呼ぶと、疾風と東雲が駆け下りて来た。

「祀、無事か」

 朧の背からちょこんと顔を出す祀に、疾風が問う。相変わらずの無表情に、しかし祀は朗らかな笑顔ではい、と答え、足首の痛みなど露も感じさせなかった。東雲も無事を確認すると、他の者たちに撤収の声を高らかに叫んだ。

 ここでやっと、楸は里に来訪する貴人とは、この少女のことだったのかと思い当たった。

「少し足を捻っておられてな。屋敷で手当てしたほうが良いじゃろ」

「そうか。左だな」

「ああ。そうじゃ。見立てでは大事無いとは思うんじゃが、くれぐれもよろしく頼むぞ。それではわしらは御役御免しようとするか」

 朧は背を向けて祀を疾風に受け渡そうとする。しかし、彼は一歩退いて拒む。

「待て。婚前の女人に触れるのは……」

「なーに言っとんのじゃ。数年のうちにはお主の嫁御になるんじゃろ。祀殿さえ拒まなければ問題あるまい」

「わたくしは問題ございませんわ」

「そうではなくて」

「まーまー、疾風。祀殿が驚いてしまうぞ」

 珍しく眉間に皺を寄せて声を荒げる疾風を宥め、東雲が朧の肩を叩く。

「朧。悪いが祀殿を藤間屋敷まで運ぶのをこのままで頼まれてくれるかな? 俺もさすがに姫君を抱いて運ぶのは躊躇われるからね。それに、こんな足場の悪い場所で祀殿を揺れ動かすのはあまり良くないからね」

 朧は暫時逡巡したが、八人衆の頼みを断れるはずもなかった。

「分かりました。但し、泰光様の懲罰の口実にならぬよう宜しくお取り計らいの程頼みましたぞ。東雲様」

 と念を押して、祀を背負ったまま再び山道を歩き出す。隣で皆の会話を聞いていた楸は衝撃の事実を知って唖然としていた。

(誰が、誰の嫁だって……?!)

 暫くの間、緑の中を進む四人の後姿を呆然と見送ることしか出来なかった。




 祀の逗留は当初三日の予定だったが、足の治療のために延ばされ、七日の逗留と変更された。その間中疾風は祀のためにだけ時間を割き、楸の稽古は長らく休止となった。ために、空いた時間は朧によってすっかり野良仕事に割り当てられてしまった。

 祀は元々筋金入りの箱入り娘らしく、初日の狸事件のような騒ぎを起こすことはしなかった。が、足の怪我をおしてまでして、天真爛漫な笑顔を振りまきながら、物珍しげに里山の至るところを見て回るのは、なるほど町の者らしい好奇心を持ち合わせている。

 あれ以来、楸にはどうしても疾風に確認しておきたいことがあった。

 だが、昼間は彼と話すことすらままならないので、夜を待つことにした。夜にはきっと祀から解放され、多少なりとも時間も作れるだろう。楸は朧が用事で出掛けた夜を狙った。夜、勝手に藤間屋敷に忍び込めば、朧に叱られるだけでは済まないからだ。勿論、念のため事前に疾風への文を綺姫に託しておくのを忘れはしなかった。綺姫は大好きな楸のためならば、約束を反故にするはずはない。

 夜とはいっても日が高い季節であるため、夕餉が済んでも暫くは草鞋を編んだりしながら時間を潰した。いよいよ夕闇が空を藍染めにすると、楸はすばやく屋敷へ移動する。

 藤間屋敷の南東の土壁は疾風の私室に面している。土壁の向こうの竹の生えた庭を挟み、その奥が彼の部屋だ。楸は鉤縄を壁の瓦屋根に引っ掛けて、ひょいと身軽に飛び越える。修行中の身である楸のとりえといえばこの身軽さだけであったが、忍び込む時や逃走する時には大層役に立つ。庭を抜けると疾風は障子を開け放ったまま、肘掛にもたれながら書物を読み耽っていた。

「入りなさい」

 疾風は楸の気配を察すると、書物を整頓された文机に下ろし、部屋の中に招き入れて障子を閉めた。幾度も彼の部屋には――無断も含め――入っているが、相変わらず整頓されており、かつ物が少ない。質素や清貧ではなく、もっと彼の本質的なものを映し出しているかのように思われた。対して、彼の妹の綺姫の部屋なぞは、着物や帯、それに人形などが絵巻のようにずらっと並べられているもので、兄妹間の差異を楸は感じざるを得なかった。

「綺から文を預かったよ。それで、どうしたんだい」

 疾風は胡座し、腕を組むと楸を見た。内々に文を寄越すからには朧にも言えぬ余程の事情があるのかと思っているらしい。楸は深呼吸をひとつ。

「単刀直入に聞くよ?」

「何だ」

「疾風はおーちゃんと一緒になるんじゃないの?」

 疾風の顔に露骨な狼狽の色が浮き上がった。普段はどう思っているか容易には汲み取らせぬよう繕っているにも関わらず、楸にも手に取るように分かるほど、彼は唐突な問いに動揺を隠せないで居る。

「君は突然何を……」

「だって、今日祀姉ちゃんが疾風のお嫁さんになるって言ってたじゃん。俺、疾風はずっとおーちゃんと一緒になるんだってそう思ってたのに!」

 静かに、と疾風は指で示すと、落ち着きを取り戻して楸を見据える。

「祀との話は長と蓮見殿で決められたことだ」

「じゃあやっぱり……」

「だが、まだ正式な決定ではない」

「でもさ、このままだったら疾風は祀姉ちゃんと祝言をあげるんだろ? おーちゃんは?」

 疾風は否定こそしないが、肯定もしない。それどころか楸の問いかけに答えない。楸はもしかすると随分と見当違いなことで詰め寄っているのではないかと思い始めた。

「君は、どうして私にそのようなことを言いにきた」

「俺、疾風がおーちゃんのこと好きだって思ってたから」

「何故」

「何でって……。そんなの何となくだよ」

 常に感情を読み取られぬように努めている疾風。だが、楸の目には彼の鳥の鳴き声さえ許さぬ森の泉のような静かな瞳に、朧を見つめる時にだけほんの一瞬、熱が宿り、炎が揺らめくような気がしてならなかった。感情が波紋を描くように静かに波打つ。そう見えた。そこには、単純に幼馴染であるからという理由だけでは済まない暖かさがあるのだ。

「それを誰かに話したか」

「ううん」

 楸はかぶりを振る。どうせ誰かに言ったとしても戯言だとして聞き入れられぬだろう。楸の贔屓目だと鼻で笑われるに違いない。何故なら、朧は里の男衆にとって女の範疇に入らぬ。容姿だけでなく、性格からも女としてよりも男に勘定されている。

 疾風はあからさまに安堵の様を呈した。

「誰にも漏らさぬように。いいな、必ずだぞ」

 疾風がやけに念を押すので、楸は気に入らなかった。

「分かったけど、もしかして恥ずかしいってこと?」

「当たり前だ」

 疾風が語気を強めたので、楸も負けじと強める。

「それっておーちゃんが女らしくないからって意味じゃないよね?」

「そうではない。だが、君、そういうことは普通人に漏らさぬものだ。本人に知れたらどうする」

「どうって、別に問題ないじゃん。疾風なら東雲様くらいにしか冷やかされないだろ?」

「そういった誤解が広まれば朧が私と距離を置くだろう」

「……距離を置く? なんで?」

 楸は純粋に不思議だった。疾風と朧の気持ちは恐らく同じだと考えていたからだ。互いにこれ以上ないほどに親しいし、信頼しあっている。認め合っている。二人が互いの心を打ち明けてしまえば、万事丸く収まるではないか。疾風は何を警戒することがあると言うのか。

「彼女は理で動く人だから、里に不利益だと感じれば今までの関係を洗い流しかねない。私から離れていくだろう」

「おーちゃんが疾風より里の利益を優先するってのかよ」

「そうだ。彼女が感情で動くのは君だけだ」

 君は特別だ、と言われても、楸にはぴんと来なかった。朧にとって疾風は里の利益や掟よりも価値のないものだろうか。楸は全くそうは感じなかった。ただ、仮に里の滅亡に瀕した時に、朧がとる行動はなんだろうと考えると、全てを顧みることなく里を助けようと必死になる姿が思い浮かんだ。しかし、決して楸や疾風をないがしろにした姿ではなく、むしろ自分たちのために奮起する。そういった気持ちが働いて、里を優先するよう思われた。それは理だけで動いているのではないのではないか。楸が納得のいかぬ顔をしていると、疾風は楸から目を逸らした。

「……だからといって諦めるつもりもない」

 楸ははっとして疾風を見上げた。静謐に満ちた彼の面構えに似合わず、耳の端がほんのり朱に染まっていた――ように見えた。心の底から嬉しかった。楸の自慢の姉分。誰からも女らしからぬと指さされ、その本性を見抜かれぬが、楸の一番だ。箱に隠した石の輝きを共有した気分だった。

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