第11話 幻夜(2)

 家の外で男物の着物が大群を成してそよそよと風に靡いている。

 楸が稽古を終えて家に戻ると、座敷は雑多なもので溢れかえっていた。いつもは整頓された部屋がまるでたなのような有様になっている。

「おーちゃんこれ一体どうしたんだ……?」

 まれに見る屋内外の様子に目を丸くして楸が土間から座敷を覗き込むと、朧は我に返って読み耽っていた書物を風呂敷で包み、出しっぱなしの物を慌てて元の箪笥に仕舞う。

「あー、すまんすまん。十六夜様の七回忌も過ぎたことじゃし、そろそろ遺品を整理しようと思ってな。もう何年も箪笥を検めとらんからつい懐かしくなってしもうてのう」

 照れ笑いながら彼女は、ほれ、と片隅に集めた額金や刀を楸に見せる。楸に譲り渡そうとまとめておいた品だ。彼は手に乗せられた品を摘み、まじまじと意匠を見る。目貫や鍔をはじめとし、縁や柄頭に月に関係した装飾が施されている。決して奉納刀のように華やかではないが、戦に使うのが勿体ないほどの美しさだ。

「兎が居るから全て十五夜に見えるじゃろう。最も、本人は十六夜のつもりじゃったようじゃが」

 朧が笑う。

 楸にとって十六夜は軍記物の英雄然とした人物だった。本人に会ったこともなければ、朧や疾風をはじめとする人の噂でしか彼を知らない。朧にとっては少しだらしのない育ての親だったのかもしれぬが、卓越した武に関しては皆が口を揃えており、楸は強く憧れを抱いていた。

 兎と満月――もとい十六夜――にたなびく雲が意匠された黒い鍔を頭上に持ち上げて光に透かしてみる。殺伐とした忍びの刀に嵌めていたとは思えぬ愛らしさがある。

「楸、これらの武具は十六夜様よりわしが引き継いだのじゃが、お前に丁度良いものがあれば使っても構わんぞ」

「えっ、本当!?」

 英雄の遺品を使えることなど滅多にない。楸は早速大刀を取出し、今の無表情な鍔に月兎の鍔を重ねてそわそわとする。

「じゃが殆ど赤布じゃぞ。それでも良いなら使え」

「うん! 勿論いいに決まってるよ!」

 昔とは大違いだ。喜々として武具を漁る楸を横目に朧は可笑しく思った。

 十六夜の得物や甲冑の帯紐は決まって赤だ。忍び故、目立つところに赤は用いられぬが、長から特別に許され、賜ったものだ。

 楸が修業をはじめて一年経った日に、朧は十六夜から譲り受けた赤い結び布の額金を彼に手渡した。だが、その時の楸は赤い結び布が女のようだと嫌がった。赤は魔を退けるに加え、精鋭を意味するのだと何度も教えて、漸く納得してお下がりの額金を携えるようになった。

 そんなこともあったな、と思い出しながら、朧は外に出て干していた十六夜の着物を数枚籠に取り入れ、囲炉裏端の針箱の隣に降ろした。こうしておけば手の空いた時にいつでも裁縫に取り掛かれる。

「うわっ、おーちゃん一体どんだけ繕いものをするんだよ」

 籠の上で色とりどりの縞を作り出している着物に気付いた楸がぎょっとする。

「んー、お前の分が最低でも三四枚。それにわしの分が一枚かのぉ。お前、この間またどっかに引っ掻けて袖を破いてきたじゃろ。折角上等な布があるんじゃし、この際仕立てねば勿体ないと思うてなぁ」

「ええっ! 作りすぎじゃない?」

「一度にやってしもうたほうがわしも楽じゃからな。余剰に仕立てられたらば売りに行ってもいいことじゃしの」

 言うなり、彼女は手際良く着物の糸を解き始める。

「ということで片付けが済むまで暫く稽古には出れぬ故、疾風の言い付けをよくよく聞くんじゃぞ」

「えー。おーちゃん稽古に来ないのー。こんだけあったらずっと来れないじゃん。ね、ね、俺最近東雲様にも稽古をつけてもらってるんだぜ」

「ああ、疾風から聞いておるぞ。何じゃ、寂しいのか」

「うん。まあちょっとね。でも一番は俺の勇士を見てほしいかな!」

 唇を尖らせた楸に、朧は心が温まるのを感じた。自然と笑みが零れ出る。

「ふふっ、やられてばっかりの癖に」

「そのうち俺が皆より強くなるの!」

 楸は草鞋を脱ぎ捨てると、暫く会っていなかった肉親に甘えるかのように、朧にぴったりと肩を寄せて座った。

 この弟分はいつまで経っても根っこが変わらず甘えん坊なのだ。

 齢十四を迎えたこの頃の少年少女というのは、親や目上の者の加護を甘んじて受けることを恥と捉え、むしろ既に独り立ちが完了したかの如く振る舞い、親や目上の者に反発しながらこの先の己の道を探っていくものだが、こと楸には斯様なな様子も見られず、幼少と同じく朧にぴったりと甘える。それがたまらず愛おしい。

「なら、たまには縁日でも連れて行ってやろうか? 明晩下界であるそうじゃ」

「本当!?」

「ただし、稽古の後じゃ。それに、下界じゃから帰りは山登りになる。それでも良いか?」

「うん! やったー!」

 頬を紅潮させた楸がぎゅっと朧を抱きしめる。子どもだった楸の手足はいつの間にか長く伸び、今や朧を包んで余りある程となっている。

 朧が十六夜と暮らした六年があっという間であったように、楸と暮らしたこの六年も、振り返ってみれば矢の如く一片の瞬きであった。

(このぬくもりを手放さねばならぬか)

 朧は子を慰めるような動作でぽんと背を摩る。

「ねえねえおーちゃん」

「何じゃ」

 楸は閃いたように瞳を爛々とさせ、顔を上げる。

「久しぶりに桔梗の柄の着物を着てよ」

「桔梗じゃと……」

 朧は渋い顔をした。

「ねーねー、たまになんだからさー、いいじゃん着ようよ、ねー」

「うーむ……」

 桔梗の柄の入った着物は、昔、十六夜が将来彼女に着せようと買い与えたものだった。だが、袖を通したことは片手で足るほどしかない。白地であるため、目立ってしまうことは着用しにくい理由のひとつであるが、いまひとつは女物として買い与えられたことにあった。

「いや、こんな髪で着てはおかしかろう」

「それならちょっと入れ毛でもすればいいじゃん」

「簡単に言うな。それに桔梗はもう三月は先の柄じゃ」

「だってたまには姉ちゃんと一緒に出掛けたいじゃん。弟ごころってやつだよ」

 何を言っているのだ、と思いつつも、上目遣いで懇願する楸が愛らしくて、彼女はついに頷いてしまった。ちょっとした願いだ。最後くらい聞き遂げても罰は当たらないだろう。

「分かったが、絶対に誰にも漏らすなよ? それが守れるのなら承知してやる」

「本当?! やったー!」

 再び楸がぎゅっと抱きつく。朧は頬を摺り寄せる彼をこそばゆく感じながら、双眸を細めて笑みを浮かべた。

 桔梗は神仏に吉凶を占う花だ。この花が咲く季節にはまだ早くとも一月近く要するが、今後の身の振り方を仏に尋ねるのなら、明日の縁日で着るのも全く的外れではないかもしれない。

 そう言い訳して己を納得させる。

そういえば、と彼女は思い出した。

(花が咲くのが一月先であれば、桔梗の丘で花を見ることはもう出来ぬか)

 ならば、尚更のこと、明日くらいは十六夜の贈ってくれた桔梗を愛でなければ勿体ないではないか。

(あの衣じゃって、三日の後にはここに置いていくのじゃ……)

思いがけなく訪れた機会に、朧は長い間箪笥の中にしまい込まれていた鮮やかな紫花の衣を衣桁いこうに掛けたのだった。



 翌日の楸の機嫌は頗る良かった。

 今宵の縁日のことを考えると、毎朝朧に言われてしぶしぶやっていた器を濯ぐことも、腰帯をきちんと結ぶことも、寝癖ではねた髪を梳くことも、全て頑張ることが出来たし、稽古にも力が入った。

 藤間屋敷の薄暗い板張りの稽古場も、今日だけは窓格子から差し込む光が輝かしく照らしつけているように感じられる。

「楸ったら、私が稽古場に来たことをそんなに喜んでくれて嬉しいわ」

 平常より明らかに張り切っている楸を見て、綺姫は淡く染めた頬に両手を添える。

「綺姫、今日は何でいるんだ?」

 女心を理解せぬ楸は、いつもは居らぬはずの幼馴染を見つけてきょとんとする。綺姫は見当が違って、つまらなさそうな顔をしつつ、

「将来の旦那様がどれだけ強くなったのか見に来たのよ」

 と、片手に持った鍛錬用のたんぽ槍の石突を地面に叩き付けた。どうやらついでに稽古をするらしい。

「ふーん。じゃ、お互い頑張ろうな!」

 己のことを言われているのだとは考えも至らず、楸は早速携えた木刀で素振りをする。頭の中は今宵のことでいっぱいだった。楽しみのためには気が奮った。綺姫も、彼に励まされて気を良くしたらしく、二人は気合を充実させて自ずから体の支度を整え始める。

「二人とも、そろそろ始めようか」

 木刀を持った疾風が稽古場に入って来た。楸を一瞥するなり、

「今日は調子が良さそうだな、楸」

「うん! まあね!」

 三人は稽古場の正面を向いて座ると、神棚に祀られた武の神々に柏手を打つ。次に、疾風が二人に向き直り、互いに礼をする。

「よろしくお願いいたします!」

「よろしく。綺は隅で見ていなさい。東雲が後で来てくれる」

「はい。兄様」

 綺姫が下がる。

 槍は疾風よりも東雲のほうが得手である。元々綺姫は熊谷親子から槍を学んでおり、特に息子の東雲に師事していた。

「所で楸、今日は何か良いことでもあったのかい?」

 木刀を腰の位置まであげて疾風が問う。楸はよくぞ聞いてくれたとばかりにぱっと笑顔を咲かせて、

「そうなんだよ! 今晩おーちゃんと縁日に行くの!」

 言い終えて、はっとする。

 このことは内緒だと約束したはずだったのに、うっかり打ち明けてしまった。楽しみで誰かに触れ回りたい衝動が抑えきれなかったのだ。

だんっ、と床板が鳴る。

「二人っきりだなんて許さないわよ! 楸!」

「いや、その、内緒って約束で……」

「内緒だなんて、そんなに後ろめたいことをするの?!」

 綺姫は顔を真っ赤にして憤る。稽古場の隅に離れているというのに、直に気迫が伝わってくる。

「ちょっと綺麗な着物着てもら……だから内緒なんだって……!」

 今にも稽古場の中央に踏み入って来そうな綺姫に、楸は刀を構えることも出来ず、ただただ慄くばかりだった。

「二人とも! 稽古は始まっているぞ!」

 いつ終わるのか分からぬ二人の言い争いに疾風が声を張り上げる。

「私も一緒に行く!」

「綺! 邪魔をするなら出ていきなさい」

 尚も引き下がらぬ妹に、疾風は戸口を指さす。

「男女に見える姿で行くなんて許せないものっ!」

「綺!」

 再び名を呼ばれて、綺姫は遂に引き下がった。だが、退出することはなく、その場で稽古を見取ることに決めたらしい。

 水を打ったように静まり返った稽古場で、しかし、楸はどうしても胸の高鳴りをかき消すことが出来なかった。秘密を漏らしてしまった焦りの鼓動でもあったが、結局、それにも勝って嬉しさが湧き踊った。張り切って木刀を正眼に構えると、疾風もまた、呼応して静かに刀を構えたのだった。



 少し時を遡る。

 楸が藤間屋敷の稽古場へ出立してすぐの頃。朧は幾つかの包みを持ち、早良家――即ち、道順と春の屋敷を訪ねていた。包みの中には十六夜の位牌と望月家にとって重要と思われる遺品が揃えてあった。いわゆる伝家の宝刀の類である。

 包みを検めた道順は鋭い眼つきで朧を射る。二人は十六夜の遺品を仮託するこの機会に、今までの仲を取り戻した。互いを思い遣るが故に頑なに干渉を避けていたが、朧が下山することとなった今ではもう意味を成さなかった。むしろ最後に胸のつかえを取り除いていかなければ後悔しただろう。

「紫雲様が本当にそうおっしゃったの?」

 道順の傍らに座る春は、朧の先行きを聞いてから四半刻足らずで同様の質問を何度も繰り返した。

「春。長にもお考えあってのことだ。その質問はもうよせ。朧も困っている」

 彼女は始終表情を翳らせてどうにか決定が覆らないか、どこかに希望はないか、と呟くが、その度に道順に窘められた。道順とて同じ気持ちなのだ。しかし、折角の里に留まるために用意された選択を、朧は自身でふいにした。

「ごめん春ちゃん。わしが決めたんじゃ」

 謝罪の言葉を返すたび、春の表情は薄暗い落胆の色に染まり、ほうと悲しみの溜息を吐かせるのだった。まるで彼女にだけ落葉の季節が訪れたかのように悲しみは層になって積もっていく。

「それで、十六夜の位牌と望月家の家宝はこのままずっと置いておくわけにはいかんと思って、道順たちに預けたい。確か十六夜の兄上が現在のご当主と聞いた。遺品はお返ししたほうが良いかもしれん」

 道順は、うむ、と相槌を打った。

「して、お前の一番の懸念ごとはこれらではないだろう? 楸をどうするつもりだ」

「置いていく」

 どうして、と言い淀んだ春を道順が制止する。

「連れては行けぬ」

「ああ」

 道順が同意した。彼にはこの先朧がどういった立場に立たされ、どういった人生を送るのか、凡その予想がついていた。その予想は朧も同様に考えており、十中八九外れはしないと踏んでいる。

「楸が下忍となるのであれば風刻の民と見做みなされよう。疾風が師についているのだから、もはや勝手にとやかくされる心配はないだろう」

「そうじゃ。じゃが、道順、この先雷神の宮といかなることが起きるかも分からん。里にもしものことがあれば――あやつを斬り捨てて欲しい」

「承知した。あれで楸は雷神の宮の忍びを母親に持つからな」

 朧が物悲しい顔で頷いた。

「あなたたち、まさか楸が里を裏切るかもしれないだなんて考えているの!? あの子に限ってそんなことあるはずないわ!」

 春は母親のように厳しい剣幕で二人を非難する。

「わしもあるはずないと思うておるよ。じゃが……」

「心配するな」

 表情を陰らせた朧を道順が気遣う。

「よしなにする」

「二人とも、そんな!」

 畳に広げられた風呂敷を手元まで引きずり、道順は再びそれを包む。彼は春の訴えかける視線を無視したまま、黙々と布の端同士を結ぶ。

「春ちゃん……。わしかて本当は斯様なことを頼みとうないんじゃ。じゃが、いざという時に頼めるのも道順しかおらぬ。他の誰かに残虐に殺されたり、あやつの往生際が悪ければ苦しみが長引く一方じゃ。ましてや――」

「そうならんよう心がける」

 道順が朧の言葉を遮る。二人の言葉を聞いて、春はすとんと肩を落とした。

「朧……、いえ、美月ちゃん。私たち、それでも諦めないわ。気が変わったなら文を頂戴。私たちずっと諦めないのよ。あなたは私たちの娘だもの。十六夜が置いて逝ったたったひとりの娘よ」

「ああ、いつでも構わん」

 春の瞳は揺らいでいたが、奥に潜んだ光は朧を正確に捉えて逃さなかった。朧は笑みを繕う。

「はは。ずるいな二人とも。折角の決意が揺らぐではないか」

 最後に復縁したというだけで過去の決意を都合良く覆しているのに、更に畳み掛けてくるとは。

 道順は分かっているのだろうが、春は知らない。朧が下界に無事逐電すれば、或いは将来決意を捻じ曲げて文を出すことも可能だ。

 しかし、居住まいを見つけ出す前に、同郷の追手が彼女の存在を消すだろう。下界で安穏と暮らすには、里の秘密を知りすぎている。抜け忍と同様に処分される。だからこそ、彼女は信頼できる人間に、念入りに事後を頼まなくてはならなかった。


 早良屋敷を辞して朧が次に向かったのは東雲の元だった。

 熊谷屋敷は丁度藤間屋敷の疾風の私室の向かいに位置する。通りと土壁を隔てるのみで、両者の行き来はごく容易。故に、東雲は屋敷が近いにも関わらず、よく藤間屋敷で寝泊まりし、まま出仕することが多い。ために、予め文を送り約束を取り付けておかねば熊谷屋敷で出会う縁は滅多になかった。

「楸の昇格にお力添え頂いたと聞きました。有難きこと心より感謝申し上げます」

 朧が深々と頭を下げる前で、東雲は珍しく秀眉を曇らせ、袖手を落ち着きなく組み返していた。

「私が見に行かねども、楸もそろそろ下忍拝命に丁度の頃合だった。それに、風刻の里はくノ一制がなくなってからというもの、常に人手が足りん。――それよりも、本当に立ち去るつもりか」

「はい」

 彼は八人衆内で噂を漏れ聞いて大凡を察知していたのだった。

「疾風は?」

「まだ知りませぬ」

「そうか」

 東雲は彼女の面を見るなり、それ以上追及しなかった。彼には最早朧の離脱を止める意思はない。決断を覆されることを当人が望んでおらぬのは一目瞭然だった。

「それで、文を寄越した用向きは昇進の礼だけではないだろう?」

「はい。東雲様にお預けしたい物がございまして」

 風呂敷を東雲の前に差し出して包みを開く。

「これは?」

「十六夜様の日記にございます」

 彼は訝しそうに日記を手元にたぐりよせ、題箋をしげしげと見る。次に紙をぱらぱらと捲り、中に書かれた文字を流し読みする。

「東雲様は以前方向ナシの森で捕らえた雷神者を覚えていらしてですか」

「ああ。拷問したがなかなか口を割らなくて皆うんざりしていたな」

「では、あの者が口にした『弥勒の書』を覚えておいでですか」

「覚えているとも」

 片手間で返事を繰り出していた東雲は紙をめくる手をぴたと止める。

「――まさかこの日記に書いてあるわけではあるまいね。私は件のことを玉秀斎様や泰光様に話した途端、すっかり方向ナシの件からは手を引かされてしまったのだが」

 東雲は自嘲的に口角を吊り上らせた。彼の驚きぶりからして、『弥勒の書』は方向ナシの森の一件以降も変わらず、依然全員に打ち明けられていないようだった。

 朧は多く語らなかった。

「気がかりがございますなら、その日記をお読みください」

「おいおい、貴殿は私の首を飛ばすつもりか? 明らかにされぬ秘密を上の了解もなしに知っては罪に問われかねんではないか」

「そうかもしれません。ですが、争いが起きても秘められておりましたら、もっと多くの首が飛ぶしれません」

 八年前、雷神の宮が風刻の里に攻め入った戦。里では多くの人間が長らく続く領地争いだったと信じている。裏に『弥勒の書』の影が存在するとは露とも知らぬだろう。実際に多くの忍びが書の争奪を知らぬまま命を落としていったはずだ。

「……嫌な汗をかきそうだ。何故私に持ってきた?」

 東雲は乾いた笑いを浮かべて日記から目をそらし、朧を見据える。

「東雲様が本来の疾風の“影”でございましょう。長を守る刀のお役目。紫雲様には玉秀斎様が。疾風には東雲様が選ばれとるはずです。わしは一時のみ傍に置かれた代わりの刀に過ぎません」

「ご明察だが、貴殿の想像通りに必ず疾風を守るとは限らんぞ」

 朧はにこりと笑って、

「それはございまいませぬ。貴方様なら里を見捨てても、あやつを見捨てることはせんでしょう」

「……小娘が」

 里への不服従を揶揄されて、東雲は観念したかのように口元を引きつらせた。二人の忠義は同じ方角を向いている。里という忠義の拠り所を失っても、決して変わらぬ方角だ。

「貴殿がくだらぬしがらみの前に膝を屈さねばならぬとは、真に口惜しいな」

 次代の主の左右に二人で立てはしまいか。そういった夢想をしたことも一度ではない。

 睫毛を伏せて、東雲は日記を閉じ、引き受けたと言わんばかりにそれを膝の上に置いた。もはやこの膝上が本来の納まりどころであるという居鎮まりで、かくして『㐂豊記』は朧の手を離れたのだった。

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