第13話 幻夜(4)

 里に戻ると、まずは綺姫を藤間屋敷まで送る必要があった。

 綺姫いわく、縁日に忍びで参ることは東雲に言づけてあるそうなので、大した問題にはならぬようだった。

楸が彼女を屋敷まで送り届けると、待ち構えていたように東雲が玄関先で待ってた。紫雲と八人衆の主だった面子は昨夜より雷神の宮の首魁である常盤との会合に発っているため、屋敷の人手は薄い。幾つか言葉を交わし事情を説明すると、東雲はよしなにするので疾風を今晩そのまま朧の家で横にならせるよう命じて、心配そうな面持ちの綺姫を励ましながら部屋へ連れて行った。

 楸が家に帰った頃には、疾風はすっかり落ち着いた様子で囲炉裏端に静かな寝息を立てていた。朧は、幾ら旧知の友人とは言え里での身分は雲泥の差――将来的には里の主となる人間――なので、本来ならば客間に通すか、或いはせめて首座で眠らせたかったのだが、彼女一人の力で大人の男を奥まで運ぶには難があった。

 せめて酒気に当てられた気持ち悪さを払ってやることは出来ぬかと、肌が露出している箇所だけを手ぬぐいで拭ってやる。ひんやりとした水で目を覚ますかとも考えたが、疾風はこんこんと眠り続け、一向に起きそうになかったので、二人は着替えを済ませると彼と同じ囲炉裏端で就寝することにした。


 眠りは明け方まで何人にも妨げられぬはずだった。

 しかし、朧はさっきまでの出来事が脳裏を離れず、上手く寝付くことが出来なかった。

 下地窓から漏れ入る月明かりが彼女の花瞼に光を落とす。囲炉裏を挟んで対面では疾風が静かに背を向けて眠っていた。頭上では楸が時にむにゃむにゃと口元を動かし、しきりに寝返りを打っている。

(相変わらず寝相が悪いのう)

 楸のあどけない寝顔を見て彼女は微笑んだ。幸せだった。この何気ない日常がずっと続けば良いと願っていたが、それは端から叶わぬ願いだと知っている。子を宿すつもりのない彼女にしてみれば、楸が彼女の一人息子同然だ。

(可愛らしいものよ)

 彼女は身を起こし、足蹴にされた蒲団を楸の腹に掛けた。そのまま静かに戸を開くと月明かりに誘われるがまま外へ出る。花の季節は殆ど終わってしまっていたが、辺りを包むぼんやりとした暖かな気は春の名残のようだと感じられた。

 今宵は満月だった。白々とした月は煌々と地上を照らしている。穏やかな空に揺蕩う無粋な雲も、月の光が照らすと儚く光を放つように見え、今生とも涅槃とも、はたまたそのあわいとも断ずることが出来ぬ夢幻の如き光景を作り出していた。

 花鳥風月を愛でることが殊更好きな朧は、だが、この格別な風情を心から楽しむことが出来なかった。彼女の足は自然と家の裏手に鎮座する社に向かっていた。心が晴れぬ時、慰めたい時は決まってそこへ足を運んだ。

 新しく方向ナシの森に社を建て、遷座されてからは里の者からも忘れ去られた社だった。土は顕になり、草は社を取り囲むように生い茂っていた。朱色の鳥居は辰砂が剥げ落ち、所々に茶色の木地が露呈している。それでなくとも夜の鳥居は色が褪せて見え、捨て置かれたものの物悲しさが漂う。今や鳥居の上に里の者が願をかけて積んだ石だけが往時の賑わいを髣髴とさせていた。

 朧は元神域の入り口まで来ると足を止め、鳥居の柱を摩った。

 子どもの時分、この境内で十六夜と道順の二人に稽古をつけてもらっていた。疾風も時々は共に稽古した。その頃は鳥居が随分と高く見え、目に見えぬ神に見下ろされているような錯覚を感じたが、今となっては朽ちた注連縄の幣を避けてくぐるまでに成長した。目に見えぬ神々というものをどうして感じたのだろうかと今になって不思議に思うくらいに、鳥居はただの鳥居でしかない。社自体、遷座されてからは日陰に隠れたように侘しい。

 ここには朧の想いの欠片が隠されていた。

 十六夜への想いもそうであったし、道順への想いも同じだった。それに疾風への想いもまたこの社に封じ込めたものだった。

 全ての想いを封じ込めたのは十六夜が死んだ直後の八年前。庇護を失った彼女は独り立ちの足枷となる想いを全てこの社に封印した。

 そういう意味で、ここは彼女にとっては決意の場所であり、決別の場所であり、新たな人生の起点とも言えた。

 社の戸を開け、線香を取り出す。戸の奥に祀られていた氏神と仏は既に移動されている。彼女は、だが、線香を燻らせると瞑目した。

(お別れじゃな、十六夜)

 今度の朧は、想いを封印するのではなく、綺麗さっぱりと断たなければならなかった。愛着は年を重ねるごとに深まっていく。断ち切るのは至難の業だが、金輪際打ち捨てなければならない。

 彼女は最後の奉仕とばかりに社をごく簡単に清掃するときざはしでふうと息を吐いた。

 空を見上げると夜半の月が傾いていた。明日になれば月は十六夜となる。既望とも呼ばれるその月は明け方近くまで夜空の闇を照らすことになる。まるで夜闇の道標のような十六夜月を思うと、ふと未だに十六夜の面影を追う己の未練がましさが滑稽で頬が緩んだ。

「朧」

 名を呼ばれて彼女ははっと振り返る。

 ――もう一つの未練が藍色の羽織を着て具現した。

「疾風。目が覚めたか?」

 朧は月の光を受け、眩しそうに眼をそばめて微笑んだ。

 十六夜月にしても、疾風にしても、断たねばならぬ想いを断とうとすればするほど、それらは彼女の意に反して近くに現れる。

 朧は疾風の近くに在り、彼を助けるためにこそ女であってはならなかった。彼のそばにいる女は、彼の許婚でしか許されない。彼女がそうでない以上、また、仮にそう願ったとしても叶わぬ以上、女の性を捨て、男のように徹するしかなかった。

 それは里に恩を返すには本望であり、決して悲しい選択ではなかった。性の別は彼女には意味のないものだった。仮に己が男であっても女であっても、長や上忍たちの命がなくとも、今と同様に振舞ったであろうし、反対に例え疾風が女であっても同様にしたに違いなかった。

 一個の人として、朧は疾風を好いているのだ。だからこそ紫雲に一振りの刀として――彼の命の代わりとして扱われても、喜んで盾となり命を投げる覚悟があった。だが、彼女は里を下りれば一人の女となり、男である必要はない。刀としての役割も終わり、東雲が代わりに役を担う。

「ああ。手を煩わせてすまないことをした」

 疾風は己の顛末を思い出して恥じ入った。

「目が覚めたら君が居なかったので、ここではないかと思った。眠れないのかい」

 彼は至極自然でいたが、縁日の時とはまた違う、どこか探るような鋭い目つきをしていた。

「ああ、急に目が覚めてしまってな。お主と同じじゃ」

「果たしてそうだろうか」

 朧は疾風の目を見つめた。

 視線を合わせても、逸らしても、恐らく彼は気づくのだろうと思った。彼が探りを入れるようすを勘付かれまいと装うのを己が察知するように、彼もまた朧のいかなる誤魔化しもお見通しに違いない。

 互いの違和感に薄々気付き合いながらも、二人は調子を変えずに続ける。

「何故そう思う」

「気掛かりがある」

「何じゃ、言うてみい」

「そうだな……」

 ここまできて、彼はやっと視線を外した。そして、少しの間をおいて再び口を開く。

「里を、出るのか」

 一体何時気づいたのだろうか。朧は驚きと悔しさを感じながらも、誰よりもまず疾風が気付いたことにささやかな喜びを得た。他の者は彼女の口から告げねば気付かなかったというのに。

「ばれたか」

「君は巧く隠しているつもりだろうが、少し思い詰めているようだった」

「そうかの」

 疾風は頷く。

「だが、その話はすっかり取りやめになったのだとばかり思っていた。君が里に来た時、長は十六の歳にと言っていたし……」

「なるほど」

 疾風は一旦そこで言葉を切って、尋ね辛そうに朧を見た。

「里を出て誰かに嫁ぐつもりか」

 朧は全く考えもしなかったことを聞かれてきょとんとする。

 恐らくは彼女が髪を伸ばすつもりだとか、腹立ち紛れに嫁の引き取り手くらい居ると発言したことに由来するのだろう。

 たわいもない戯言を、彼が一つ一つ真剣に捉えるのが心地良かった。元よりそうした性質ではあったが、己が彼にとっては全く気に止まらない存在ではないと分かるだけで十分だった。

 朧は笑った。

「予定もないわ」

 見当が違って疾風に落胆とも安堵とも取れぬ表情が宿る。ただ、いつもの厳しく鋭いものが削がれ、角が取れたような気がした。

「里に未練はないのか」

「面白いことを聞くな」

 彼女は自身の一番の未練に斯様に問われたのが滑稽で仕方がなかった。

「なしといえば嘘になろう」

「それなのに素直に取り決めに従う気か」

「ああ、それが長の命だからな」

「長の命がそんなにも大事か」

 疾風の口調はいつもよりも少しばかり強い。

「つっかかってくるなよ。長の命は第一、お主も分かっておろう? 本来の期限よりもより多くの年月を与えて頂いたし、わしは長に忠誠を誓っておる。どうして逆らおうか」

 それは確かであった。

 朧は紫雲に深く忠誠を誓っていた。

 但し、それは朧が一番に忠誠を誓っているこの男を、後の人生の災厄から守りたいがためだった。だからこそ彼女は、ずるずると里に居座り続け、自身が悪因とならぬよう、彼の元から離れねばならなかった。

「仮に君が里を出奔したとして、二度とこの地を踏めなくなるのだぞ。それどころか、楸にも会えなくなる。最悪の場合――」

「そうじゃな」

 疾風が言い淀んだのに重ねて、朧が強い口調で肯定する。

「最悪の場合も考えておるよ。長は下界で平穏に暮らせと仰せじゃが、他の上忍たちが黙って見過ごしてくれると楽観はしておらん」

「それなのに、本当に里を離れると?」

「そうじゃ。それが良い」

 朧は断じた。

 例え里を出て、抜け忍として郷里の者に追われようが、その果てに命を絶たれようが、今ここで決意を見せなければならなかった。強い意思を持って、当に腹を決めていることを誇示しなければ、うっかり里を離れたくないと零してしまいそうだった。

「里を出てどうするつもりだ」

「そりゃ町の女のように丁稚奉公するか、或いは生き別れの弟を探すのも良いかもしれんな。お主には言うたかの。いずこかに弟が居るらしいとな。まあ、そのせいでわしは寺に永劫預けられる羽目になったんじゃがの」

 冗談めかしく笑う朧の頬に、疾風は真剣な眼差しでそっと手を伸ばす。

「君を守りたい」

 そっと伸びてきた彼の骨ばった手を、しかし、彼女は払った。

「わしは人に守られねばならぬほど弱くはない」

「嫌というほど知っている。それでも君を守りたい」

「莫迦なことを申すな」

「莫迦ではない」

 疾風は少しの間逡巡して、決意の色を瞳に宿す。

「朧、私と一緒になる気はないか」

「は……?」

 朧は目をまんまるとさせた。

「な、何を言うておる。こんな時にからかうものではなかろう」

「からかってなどいない」

「……ならば憐れみか。確かにお主と夫婦になれば里を出んで済む。じゃが、身分が違いすぎる。夫婦になど到底なれぬわ。その上わしが女子らしからぬことはお主が一番知っておろうが」

「ああ、そうだ」

 疾風は払われた手を再び伸ばし、朧の腕を掴んだ。彼の掌は大きく、容易に細い手首を包むことがかなう。朧はそれを見まいとした。己と違い骨の浮き出た手の甲やその大きさを見てしまえば、性の別を捨てた一人の人間として振舞うことに挫けそうだった。男のようにと振る舞っても、背の高さや身体つきの違いは誤魔化しようがない。ただでさえ、皮膚を通して伝わる熱が、彼の見目の静けさとは違って熱いことに眩暈を感じていた。

 毒だ、と思った。

「君が十六夜様が身罷られてから、敢えて女子らしからぬよう振舞っていたことも、本当は里を離れがたいことも知っている」

「それはお主の了見違いじゃ」

「決して違わぬはずはない。君が正直に話さぬだけで真実だ」

「憐憫で……、憐憫の情で囲われるなど死んでも御免じゃ」

 ただこの里で息をするためだけにある薄氷のような繋がりなど無意味だ。ならばいっそ夜鷹となって長い人生の一瞬の思い出を糧に身を沈めた方がどんなに楽なものか。

「憐憫ではない!」

 疾風がぐいと腕を引っぱった。朧は強い語気に虚を突かれて、図らずも彼に抱きしめられる。

「放せ!」

 朧はどんと拳で疾風の胸板を一打したが、彼は容易には放そうとしなかった。力の差は歴然であり、彼女の腕で敵うはずもなかった。

「今宵の君はとても綺麗だった。君はいつも他の男のためにばかりめかし込む。これからは私のためにしてほしい」

 朧は一刻も早く彼から離れたかった。月夜の幻にしてはいささか度が過ぎた出来事だった。

 十年以上ともに過ごしながら二人の距離がこれほどまでに密接したのは殆ど初めてといって良かった。相手の性分や思考を深く知りながらも、恋慕の面では知ることのないように努めてきたというのに、今や積み重ねてきた努力も水の泡だ。

「君のことがずっと好きだった」

「聞きとうない……」

 疾風の言葉は容赦なく朧の心の縄張りに侵入した。彼女は必死に守勢に立とうとしたが、出来ることといえば顔を背けるばかりであった。元より、疾風は朧の心の全てを縛り付けているのに、改めてその事実をまざまざと見せつけられたかのようだった。恐らく己は柄にもなく赤面しているのだろうと朧は恥じた。美月、と己の真の名を呼ぶ疾風の声が耳を掠めたが、まるで知らない人間の声のように思えた。誘惑に負けて彼を一瞥すると、すぐ眼前に涼しい眼差しがある。下手に動けば唇が触れそうな近さで、指を数本隔てた距離が遠く、また、ぎこちなく感じられ、たまらなく愛しかった。

 僅かな距離が徐々に詰まってくるのを察して朧は瞑目した。

「ええい! 何をする!」

 唇同士が触れ合う前に、額同士が音を立てて触れた。

「痛いな」

「ば、莫迦野郎! 痛いのは当然じゃ! 清らな乙女に何をしてくれる!」

 漸く疾風の腕から解放された朧はまだ熱に侵されながらも、いつもの調子で虚勢を張る。

「清らな乙女……、でもないだろう君は」

「五月蝿いわ!」

 疾風は自身の額に手を触れて、弱々しく微笑む。少なくとも朧にはそのように感じられた。それは単なる優しげな笑みだったのかもしれぬが、朧には時折こぼれるこの種の笑顔が、彼の内に抱えた繊細な部分に見えていた。この表情を見せられると弱い。どうにも優しく包んでやりたくなる。

「君とともに居られないのは苦痛だよ」

「そんなもの――」

 時が解決する、と朧は言いたかった。

 だが、果たして時は真にこの想いを昇華してくれるだろうか。

 己の場合は如何かと投げかけた疑問に、彼女は答えに窮した。忘却しようとして素直な気持ちから目を逸らし、いつしか直視せぬことに慣れて想いは昇華されたのだと嘯く姿が瞼に浮かんだ。

 少なくとも今のままでは、そうなる未来が簡単に予見出来る。

「お主はこの風刻の里の長となる身だ。それは藤間の血筋の当主となることだろう」

「そうだ。だからこそ君の支えが欲しい」

「いいや、だからこそわしのような雑兵にいちいち気を留めてはならぬ」

 それに、と朧は続けた。

 淡い薄紅の桜の花がよく似合う愛らしい姫を思い浮かべた。己のように掌が血に汚れておらぬ純粋無垢な姫。

「お主には、それはとても相応しい相手が約束されているではないか」

 二人の婚礼はとても美しく、輝かしく、里にとっても誇らしいものになるだろうと朧は感じていた。きっと悔しい想いなど微塵もしないだろう。むしろそれはとても喜ばしいことなのだ。しかし、婚礼の光景を脳裏に思い描くと何故だか温かい感情にちくりと冷たい棘が刺すこともまた事実だった。

「実はまだ楸に里を出ることを告げておらぬ」

「そのようだな」

 もうこれ以上の会話をしたくなかった。自分がこの期に及んで未練がましいのが心底惨めで仕方がなかった。

「明晩、二人で話そうと思うておる」

「そうか、そのほうが良いだろう。楸にも心積もりが必要だ」

「戻ろう。夜風に当たりすぎると体が冷えてしまうぞ。お主はまだ酔いが醒めておらぬ」

 朧は疾風の傍を通り過ぎて、一度だけ鳥居を見上げた。たくさんの者が願をかけて石を積んだ鳥居。己の願いも神は聞き届けるだろうか。

「なあ、疾風」

「何だ」

 後ろに続く疾風に、彼女は振り返ることなく呟いた。

「お主が幸せになってくれぬとわしは困るのだからな」

 注連縄が穏やかな夜の風を浴びて力なく揺れている。

 月が沈み始めていた。

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