風刻
にっこ
第一部
第1話 風の者(1)
潮騒が聞こえた。
ごご、と唸っているのは空なのか海なのか、まだ物心もつかぬ幼い彼女には分からなかった。ただ、分かることと言えば、先刻までともに居たはずの父母がいないことと、人の群れが遠のいていくこと。
青い海原が喧騒を隔てていく。
幼子は猫のような丸い瞳に陽の光を映しながら、呆然と遠く土色の町並みを眺めた。色とりどりの着物が最初は指の長さのほどに、次に爪ほどに、そして最後には米粒のようになってしまった。
(どこへいくんだろう)
彼女は誰に問うことも出来ず、ぼんやりと考えた。時折、波飛沫が彼女の白い頬に打ちつけた。
土色の町並みが消え、広闊な青が一面に広がる頃、天地の唸り声ばかりが彼女の頭を、耳を、眼を支配した。
これが、彼女が覚えている限りの最初の記憶であった。
*
――朧、桔梗の咲く丘の椎の木の根元を掘れ。
墨を流しこんだ闇に太乙が鋭い銀の光を射していた。
天の黒よりも深い、枝葉を重ねた森の黒を、一陣の風が通り過ぎた。それはあまりにも早く、常人の目には映らぬ。ましてやそれが人の起こした風なとどは想像もつくまい。
かれは走った。ましらのような身軽さで木々の枝を伝い、空中を飛び、笊の目のように交差する枝葉を潜り抜けた。
かれが駆けるたびに真紅に染まりつつある広葉は、はっと息を吐くような音を立てて散った。かれの纏う臙脂は暗がりでは特に闇に馴染み、同化している。視界だけを切り抜いた頬被りの隙間からつややかな漆黒の髪が風に靡く。
(早く帰らねば。早く帰って彼の遺志を確かめねばならぬ)
かれは己の住まう里への帰途、しきりにその事ばかりを考えていた。
秋の薄ら寒い、ともすれば鳥肌が立つ程に身がしまる清冽な夜半の空気とは裏腹に、影の如く粘着質に纏わりつく湿気が、かれの黒曜の瞳を曇らせた。
(つけられている)
気づいたのは半刻前だった。普段のかれには有り得ぬ失態だった。目的のものを手に入れて気が弛んでいたのかもしれない。かれは右手で懐のその感触を幾度か確認すると、後方の某に気を払いながら足を速めた。
懐に黒い糸束と一本の鍵がある。糸束は柔らかすぎず、固すぎず。つやは既に鈍く、油を失い乾燥していた。ただ、指で力を加えると、しなやかなこしでかれの指先に返事をよこした。反対に、鍵は触れれば少しばかりの冷たさと硬質な手触りで返事をよこす。
これはどちらも過去の遺物であり、記憶の残滓だった。大衆への利益はなく、極個人に遺され、託されたものだ。持ち帰ったからとて何ら得をするわけではない。ただ靄掛かっていた過去の記憶の欠片を垣間見て自己満足するに過ぎない。それによって得られるものと言えば、己の後悔の念を治めるためのごく僅かな安堵でしかない。あとは里の人間たちの持つ、生贄として供した者に対する後ろめたい感情がほんの少しばかりは薄れるかもしれぬ。が、ただそれだけのこと。かの者の遺品を持ち帰ることはやはり単なる自己満足でしかなかった。
(ああ、何故もっと別の日に思い出さんかったのか)
かれの心は興奮と後悔の間を何度も往復していた。間が悪い。それは確かだ。だが、かの者の言葉を思い出してしまった今となっては、“これ”を求めずには居られなかった。何年も焦がれていた、死の果てにしか再会し得ないと思われたかの者の遺留品だ。
(――
かれは懐に眠る育て親の、今や唯一の残存となった一部に囁いた。
返事はなかった。
*
十六夜は突如消えた。
ある日、一言の書置きも残さずして忽然と闇の深淵に消えていった。死んだということは――信じたくはなかったが――薄々は分かっていた。
行年二十六。まだほんの青年で、かれの育ての親であり、忍術の師であった。明朗爽快だが随分面倒くさがりな性質だったので、十六夜がかれを育てているというよりも、かれが十六夜の世話をしてやっているといった方が正しかった。
彼は素晴らしい武者でもあった。動物的な本能に優れており、身体能力は野生に劣らず、機を見るのに長けていた。だが、残念ながら名家の出であるにも関わらず、学があまりなかった。
そんな彼は敵対する里との戦の末に討死した。刀で斬り合って死んだのであれば、死してもその体は――四肢が完全であるかは別としても――残るはずだった。しかし、多量の火薬で身を包み、己の体ごと敵陣に突撃して敵将諸共橋の上で爆死した彼は肉片のひときれも残してはいかなかった。その爆発の激しさは、何と骨も残らなかった。深い谷を渡すかずら橋に残ったのは火薬によって歪に形を変え、焦げ付いた桁だけで、彼の存在は人恋しい者が己がために生み出した夢想の如く跡形もなかった。
斯様の件はまだたった二年前のことで、かれの心の裡には深い傷が残っていた。だから育て親の身の一部が残存していることを知っていてもたってもいられなかった。それ故、此度の務めを終えると、かれはいつもと違ってまっすぐに郷里に帰ることはせず、迂回して件の桔梗の丘へと足を運んだ。
その丘は十六夜が幼いかれを連れて桔梗を愛でた思い出深い場所だった。彼は紫の桔梗が大層好きで、花の季節になると欠かさず足を運んだ。花が枯れるまで、暇を見つけては幼な子の手を引き、緩やかな勾配の丘を歩いた。
星型の紫に囲まれたこの丘の思い出は何よりも美しい。それは天上の金銀にも負けぬ。風に靡きさやさやと花弁を揺らす桔梗が永久にきらめくことがないように、かれの美しい日常もまた十六夜の死をきっかけに枯れてしまった。だが、地上に星が咲けど、今は思い出に浸りながら風流に愛でる暇はない。それよりも、ただ土にまみれて椎の根を掘るばかりだった。それこそが彼方に去った美しい思い出の破片を手に入れることに繋がるのだ。
かれは幼き日の記憶を辿って土くれをかき出した。肘の深さまで掘り進めた時、クナイの先が何かにこつんと当たった。石ほどの硬さも持たぬそれを持ち上げ、土を払い除けてみると金銅製の箱があった。かれには繊細な唐草と蓮をあしらった長方形の箱が、今や桔梗よりも星々よりもまばゆい光を放っているように思えた。かれは指先を小刻みに震わせながら慎重に、しかし、急いでその蓋を開ける。中で数枚の和紙が黒い束と鍵を守るようにして納まっていた。
(あった!)
かれは両手の土を裁付袴でごしごしと拭ってから、納められた黒い束を恭しく持ち上げると、須臾、恍惚に心を任せ、無言で語りかけた。育ての親との空白の数年を埋めるように、感情の波が己の爪先から胸にぐんと上りつめてきた。波はかれの目元鼻元にまで押寄せていまや全てを飲み込もうとしたが、かれは飲まれまいとぐっと歯を食いしばって堪えた。そして、箱はそのままに、束と鍵だけを決して落とさぬように細心の注意を払って懐にしまいこみ、その場を後にした。
そういうふうに、かれにしてみればちょっとした寄り道のつもりだったのだが、不幸なことに敵の残党に見つかってしまった。恐らく敵もまた己の里への帰路の半ばだったのだろう。だが、互いの存在に気付いてしまった以上見過ごすわけにいかなくなった。かれらの里同士の因縁は今決着をつけなければ、後に禍根を残しかねない。かれらの特殊な生業の事情は命を賭してでしか解決が出来なかった。互いに哀れな
先に動いたのはかれだった。この美しい思い出の地である桔梗の丘を血生臭い因縁から遠ざけたかった。かといって、里まで誘導するわけにもいかぬ。里の在り処を知られたとなれば、敵に心臓を剥き出して差し出したも同然だ。無益な争いと分かっていたとしても、己の、そして己が里の矜持をもって戦わねばならない。
「風の霞!」
正面から風を切って一筋の線が足元をめがけて飛んできた。
〈風の霞〉と呼ばれたかれは、咄嗟に意識を懐から
かれは先の務めのせいで思いのほか体力を消耗していた。此度は随分と遠くまで働きに出るよう命が下ったし、草鞋も布の靴も予備を全部使い果たしたため替えが無かった。今履いている靴も、もう靴と呼べる状態にない。暗がりでははっきりと見えぬが、爪先が出血しているようだった。向かい風が傷口につんと染みる。寒さと痛みは血で汚れた足先の動きを随分と鈍らせた。〈風の霞〉は苛立ち、白く並んだ小さな歯で下唇をきつく噛んだ。
しかし、そんなかれにはお構いなしに、尚も棒手裏剣は飛んできた。敵の技術は完成されつつあるものの、未だ一人前と呼ぶには至らぬようだった。敵は気配を隠しているようでいて、戦いに身を置いた若者の浮き足立った高揚感が所々で露見した。功名を焦り、逸る気持ちを抑え切れておらない。それは手裏剣を打つ力加減に微妙なむらがあることをもっても表れていた。
(くそ、懲りぬ奴じゃな)
敵は執拗だった。功を焦る若い心をいつもなら青臭いと鼻で笑うのだが、心身ともに充実していない状態で逃げ続けたところで有利な展開に運べるわけではない。このまま追われたのでは埒が明かぬ。そろそろこちらから打って出る番だった。
次に打たれた手裏剣で〈風の霞〉は相手の居場所を探ると、すっと闇に消えた。木の繁みに身を隠し、己の間合に敵を誘い込もうと息を殺してじっと様子を窺う。そこへ、頬被りもせず顔を晒した年若の男が現れた。
「どこへ逃げた!」
落ち着きなく辺りを見渡す敵はまだ少年だった。先まで背中を追っていたはずの獲物を見失い、困惑しているようだった。追い詰めた上に、余裕さえ持ち合わせていたのに、これはどうしたことか、と狼狽の色を若く健康的な肌色に映していた。
〈風の霞〉はその虚を突き、音もなく相手の背後に舞い降りると、右手に構えたクナイを相手の喉元に突きつける。
「わっぱ、雷神の宮の者だな」
中性的な声は一聞すると愉快な口調に聞こえるが、その底には明白な殺気が潜んでいた。くつくつと喉を鳴らし〈風の霞〉が笑う。何が可笑しかったわけでもないが、困惑した敵に余裕を見せ、戦意を削ぐのは効果的だ。敵の焦燥を煽り、集中力の途切れたところで一気に決着をつけたかった。
かれはクナイの先を焦らすように、腕の中の少年の喉元で操る。平時、クナイは人を殺す用途にないが、今の少年には上等の脅しだった。動けば命が無いのは一目瞭然で、少年にはこれ以上不用意に身動きが取れない。両者の力には歴然の差があることを少年も気づいたらしく、「黙れ、お前だってわっぱじゃねェか!」と荒い息を〈風の霞〉の腕に吐きかけるのが精一杯であった。
最初、抵抗の意志を見せていた瞳は、次第に怯えの色に染まった。クナイの先が少年の細い首に押し当てがれ、ひっ、と小さな悲鳴が葉のざわめきとともに耳に入った。
「お主も忍びならば、次にどうすれば良いか分かるだろう」
〈風の霞〉はあくまでも余裕の声色を変えなかった。
「名誉を守り自刃するというのであれば、今宵を境にその顔を忘れてやらんでもない。それとも、命乞いをするか。若気の至りに免じて許してやらぬでもないぞ」
この決着はどちらかが死ぬまで終わらない。それが彼ら忍びの掟だ。
忍びの者たちは死して顔を見られることを厭う。顔を晒せばどの筋の者に仕えている忍びか素性が明るみに出てしまい不義理を働くことになる。それは一個人の不名誉だけではなく、集団の、ひいては主君筋の不名誉に通ずる。よって、戦場や侵入先で己の死に際を悟った忍びは顔を見せることなく死ぬ方法を選ぶ。名誉を守るための死だ。
「さあて、どうする?」
まだ血気盛んな若人を死に追いやるのは気が引けた。だが、かれらにとっては生命よりも主君の命令のほうがずっと重い。鎖で縛り付けられているといっても過言でないほどに、かれらは主命を重んじた。雁字搦めにされた制約を一種爽快に感じていた。
かれは更にクナイをぐいと少年の喉仏の下に押し付けた。哀れだと思ったからこそ、かれは少年に最期の在り様を選択させた。だが、それが返ってあだとなった。
少年は、突然、咆哮を上げて無理やり身を振り解いた。死に際の力を振り絞った山犬のように四肢を振るって飛び出し、後方の太い枝に着地すると、少年は懐に手を入れて不敵な笑みを浮かべた。凡そ子どもが見せる笑みではなく、混乱の果てに自我を失った面貌だった。
「望み通りにしてやるぞ、風の霞!」
(油断し過ぎたか)
かれは間合を開き、咄と舌打ちした。死に恐怖し、心の平常を保てぬ者は何をしでかすか分からぬ。一瞬の隙は己の命を危うくする。少年が次にどう出たとしても、今度こそ容赦なく斬り捨てねばならなかった。暫時、かれは懐に手を入れたまま微動だにせぬ少年をじっと見つめた。
少年が動いた。懐から手を引き出した手には焙烙が握られている。いつの間にか袖火で点火したらしく、火縄の先に橙の色が見て取れた。しかし、彼は火器を投げようとはせず、手に持ったまま、こちらに飛び込んで来た。己の体ごと道連れにする気のようだった。裏を返せば、彼には後が無く、この焙烙火矢が彼の最後の切り札ということだった。
「誰がっ!」
死ぬものか。〈風の霞〉は足場の枝を蹴り、宙に飛ぶ。敵に背を向けるのはかれの主義に反したが、細かい傷と疲労が蓄積する今、なりふりを構う余裕はない。今は敵の様子を窺いながら遁走するよりも、一間でも広く敵を引き離すべきだった。遠くに逃げねば爆発の餌食となってしまう。それだけは御免被りたかった。
かれは鈍った腿を一打し喝を入れると、向かいの木枝に飛ぶ。瞬間、かれの懐から逃れるようにして、黒い束がするりと真下に落下した。
「しまった!」
<風の霞>は即座に掴もうと手を伸ばすが、指先を掠ったのみ。かれは枝を下り、着地した。
「ははははは! 逃がさんぞ、風の霞!」
拾い際、少年の姿が至近にやってきた。火縄の火が焙烙本体に点火する。
(まずい)
かれは束を掴むと四つん這いのまま地を蹴って駆ける。
「これで俺の勝ちだ!」
上ずり声で少年が叫んだ。笑っているとも取れたし、泣いているとも取れる判断のつかぬ声だった。どおんと地崩れのような大きな音が森の静寂を突き破って鳴り響いた。少年が焙烙火矢とともに果てた。辺りには土煙が巻き上がり、木の枝葉や石礫が刃のように身体に打ち付ける。休息をとっていたであろう鳥の甲高い鳴き声が爆音の隙間を縫って微かに耳に入ってきた。
「……っう」
(あの、莫迦野郎めが!)
爆発の衝撃でかれはいとも簡単に遠くまで飛ばされた。抗う術が見つからず、木の幹や地面に幾度と無く叩きつけられる。疲弊した身体に痛みが重く滲む。起き上がるという至極簡単な行為すらまともに行えず、糞、という悪態も無論声にはならなかった。ただ息だけが鋭く唇から漏れ出した。それでも、黒色の束だけはしかと手に掴み、二度と放さなかった。
少年が死した今、己を追尾する敵は消えた。だが、今の爆音を聞きつけた他の残党に出喰わす可能性も否定は出来ぬ。万が一にでも雷神の宮の忍びを己の里――風刻の里に侵入させるわけにはいかなかった。かといって、今の己に何人いるかも分からぬ残党を相手にする術はない。多勢に無勢では返り討ちに遭いかねぬ。
(どこか、一晩越せる場所を探すか)
かれは今にも途切れそうな朦朧とする意識の中、必死で森を抜ける。
ふと、森を抜けた場所に、谷を背にしたに小さな家があったことを思い出した。里の下手にある白蛇ノ大滝の滝つぼから対面の崖を見上げるとある、ぽつんと佇む物悲しい質素な小屋だ。かれにはその小屋が己から山に入った独り身の、死を待つ老人の背のように見えたことがあり、強く印象に残っていた。
小屋に人が住んでいるのか、少なくとも己の里の者で知る者はなかった。否、知っていて黙認しているだけかも知れぬ。害とならねば取り除く必要もないし、下手に手出しして一農村を装った忍びの里の正体が明るみに出る方が返って不都合だ。
かれは住人の有り無しはさておき、その小屋で一晩越すことを決めた。体力は当に限界を超えている。爆音による耳鳴りもあったし、足元もおぼつかないのでは、どう踏ん張って移動しても、もうその小屋までしか行かれる場所は無かった。
一心不乱に小屋だけを目指して、精一杯に足を動かした。場所を弁えず即座に地面に身を投げ出せば、幾らかの侘しさとともに安息という名の漆黒が身を包んでくれるやもしれない。だのにこの足は、やはり貪欲に生を渇望し、一心に駆けた。真っ直ぐに走れずよたよたと足を絡め、目を凝らしても薄闇と疲労で視界が青味がかって暗転している。息苦しさをまやかしだと念じながら唇と口腔を噛み締めても、低木の枝で腕を掠めて傷つけても、感覚が鈍って痛みを感じなかった。どうやって小屋に辿り着いたのか、後に振り返っても詳しいことは覚えていなかった。ただ生き延びたい一心で、体が持てるの力の全てを無意識の下で振り絞ったのであろうか。
いつの間にか小屋の前に辿り着いていた。小屋の小窓から薄っすらと灯りが漏れ、ゆらゆらと細い湯気が立ち上っていた。
(着いた)
〈風の霞〉は最早焦点の合っていない瞳で小屋の姿を捉える。中から漏れ出す橙の灯りが、来光のように眩く心地いいものに見えた。過去にこの小屋が姥捨てすらしてもらえず自ずから山に入った老人の背に見えた己の印象とはまるで正反対に思え、不思議だった。不可思議な思いを内に携えたまま、かれは玄関の戸を力任せに叩いた。幾らも叩かぬ内に戸が開いたが、かれは寄りかかっていた戸の支えを無くして、家の主を見ることなく、遂にばったりと地面に倒れこんだ。限界だった。
(忍びとして失格だな……)
先の少年を思い出してかれは自嘲した。少年の姿が黒い霧状に変わり、眼前を覆う闇になるとそっと意識を手放した。
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