僕は、エッセイを綴れない

根暗 稲愛

 徒爾

 風というものは気持ちがいい。

 少々伸びた前髪を揺らしている。

 風圧というものは僕が思っている以上に強いようだ。

 ああ、気持ちいい。 

 気持ちよくて……

 ……気持ちよくて、儚い。


 車の多い屋上で僕は一人、じーっと空を見ていた。あの空にはどのようにすれば届くのだろうか。それを単に暗中模索している毎日。疲れきっても自ら人生という道を踏み外すことは、自分では不可能になった。神と運命がそう言っている。


 いくら「風」だからといって、色々な種類がある。その台風とかに使われる○○低気圧とか○○高気圧とかを言っているわけじゃない。天候とかそういうものなんかには全く興味がない。気象予報士には悪いけれど。

 僕が言っているのは、「風向き」のことだ。今日は向かい風。僕の今現在突っ立っている位置と反対方向に吹いている。

 つまり僕に逆らっている。


 逆の方を向くことによって追い風にもなるなんていう、前向きなことで捉えることはできるけれど、僕がのはこっち向きと決めた。だから、どう解釈したって向かい風は向かい風だ。

 まさか風までが僕のことを見捨てるなんて。僕の着ている服が見捨てた風によって僕の腹にくっついて、くすぐったいし気持ちが悪い。


 僕がこういうことをするのにはしっかりとした訳がある。第一、僕は「肝試し」というものを好んでやるようなおちゃらけた人ではない。どちらかというと度胸はない。

 そんな貧弱な人間のため、もしものことがあった場合はどうしよう、という不安はある。ただ残念ながら結果は見えているから、特に恐れることはない。九十九パーセントの確率で、予想している結果になるのだろう。


 ただその現実が受け入れられなくて。信じたくもなくて。

 もしものことになったって、僕は土の姿で。もしくは別の人間になって。あるいは雲の上で、頭上に『輝く輪っか』を付けて。たとえ骨となったって。僕は死ぬほど死んだ姿で喜ぶのだろう。


 そんなことも考えて、舞台は僕の住んでいる家からは遠く離れた街にある、まあまあ高さのある商業施設。デパートの屋上にした。

 簡単に屋上に入れるということもある。何より親に気付かれたときには説明のしようがない。それが大きい。

 自分のせがれの仕出かしたことが恐ろしすぎるのだから。そしてその後の状態を見て、失神することだって考えられる。

 ただこれだけ家から離れていれば、用を済ませた後にどうにか施せば怪しまれることはない。


 この場所が僕の独擅場どくだんじょうとなるのだ。(活躍とはいわないのだろうが)

 欲を言えば平日がよかった。立派かどうかはさておき、小学五年生のため、一人で出掛けても親にこれといった注意はされない。ただ小学生の僕は平日中には行けないのだ。それに距離という問題がある、休日でしか不可能なプランで、実行が今日になった。


 平日ならこのデパートはもっと空いている。何をしても怪しまれることはないのだろう。ただ決行日である今日。日曜日ということもあって、屋上まで駐車場になっているこのデパートは、屋上駐車場もほぼ満車状態。少し厄介なことになった。


 家族連れが多い。ショッキングでトラウマになるものは、年下の餓鬼に見せたくないという僕の親切な心、そして自覚がないのにも関わらず出てくる潜在的敵意。中々実行までは至れない。


 もう一度遠くの街を見る。発展都市は違う。ビルの量。下を覗けば人口密度。あのビルの屋上と同じぐらいの高さであるということは、ここはかなり高い。足がすくんできているのも確かだ。


 いや、よく考えろ。


 決して僅か一パーセントの結果にならなければ、いつもの日常に支障が出ることはない。(支障が出て、立場逆転みたいになれば、万々歳だけれど)

 僕の生命に悪影響はない。(諦めの心で、精神的な病になる可能性はあるけれど)

 詰まる所、恐れるものは残念ながら何もないのだ。

 そう考えると、頼りにもならない思考なのに奇しくも足の震えが止まった。屋上から落下防止のためのフェンスを掴んだだけになった。


 綺麗な空。青写真。完全に日和だ。


「君」

「え?」

 遠い空に目眩めくらんでいた僕は、はっとして声の主の方を見た。男声。後ろにはいかめめしい顔の男性がいた。


「君、一人?」

「え、いや、ひと……」

 いけない。

 小学五年生が一人でいると、詳細を訊かれるに違いない。


「一人じゃないです。母と一緒に来ています。母が今駐車料金の精算をしているので」なんとか適当な嘘を吐く。

「……ああ、そうか。気を付けろよ」

 そういうと、どこかへ男性は消えていった。

 おそらく男性は、フェンスを一人掴んでいた僕に、何か嫌な気配を感じ話したのだろう。面倒だ。

 勿論親なんて連れていない。親のいる前で堂々となんか実行できない。


「平日ならすんなり実行できるのに」

 そう思い通りにさせてくれない人間がこの世にいるのだから、困ってしまう。だから人間が苦手なのだ。


 同じ生物だ。個人の意見も尊重しなくてはいけないのに。嫌いにさせたのは周りの憎い人間だ。そいつらがいなければよかったのに。

 そいつらがいなければ、『自分のしたいことができないことへのストレス』

がなくなっていたのに。


 そうだ。事の発展はそいつらなのだ。

 くそ、憎い。


 ただしどう足掻いたって、一生心に残る傷を付けることはできない。重い気持ちで人生を遅らせることもできない。

 なんてあの頃は幼稚だったのだろう。だからオトナな考えをしろと言われても、厳しい現実を知った僕は、あまりにもオトナ過ぎる悲観的思考の方へ走るようになってしまった。コドモのような夢さえ持てない。うぅん……


 さらに、なぜだか暇さえあれば成人向け国語辞書を引いて、小学生にはそぐわない言葉を覚えるようになった。俺がどこがで捨てた『矜持きょうじ』の意味も知っているし、あいつらの僕に対しての態度を表すのに最適な『莞爾かんじ』の意味も。そこまでポンポンと言葉がでてくる訳でもない。印象深い言葉の一部しか使わない。


 とにかく、用を早く済ませないと。またオトナに声を掛けられてしまう。また周りを見渡した。まだ車は多い。でも、車内で待機している人はそう多くない。誰もいないときになんて贅沢は言っていられない。


 まず、僕は何一つ悪いことをしている訳じゃない。別にもしものことになったとき責められるのは、調査の結果あいつらになるのだ。

 しかしもしものことなんて、「もしも」のさらに「もしも」と言ってもオーバーじゃないだろう。そう高い確率で起きるはずがない。結末は何度も自分に言うが、「分かっている」。犯人を知ったうえでサスペンスを見ているのと同じだ。


 今から、入ってくる車も少なくない。

 もう一度周りを見た。

 人は少ない。

 今しかない。


 僕は咄嗟にフェンスのさらに高い位置に手を掛ける。そして、下の網に足を掛ける。そして体を上げ、フェンスをじ登った。これぐらい無邪気な性格じゃなくても、小学五年生にでもなれば簡単に超えることができる。甘い防止対策だ。


 ずっと僕は何をしているのか?

 それは。

 何を隠そう、


 僕は今から、このデパートの屋上からのだ。


 誰も怪しんでいないことを祈りながら、とにかく早く、とにかく早く、そう考えて登った。有刺鉄線がある。当然刺さると痛い。今から受ける衝撃でも十分痛いのに、プラスでしょうもない怪我を負いたくはない。

 男らしくとは言えないが、その有刺鉄線をまたいだ。

 フェンスを越えた。


 後は自分の意図で落ちたいため、うっかり足を踏み外さないようにする。

 ゆっくりと降りて、向こう側の狭い足場に足を付けた。ホント数センチしかない。


 ふう、と一回深呼吸。

 この後、僕は身動きの取れない状態で思うより長い時間浮いていることになる。それはそれはおぞましい状態だ。

 一番の恐怖の時間だ。僕はそれを恐れている。


 一瞬のことだ。大丈夫。


 もし飛び下りるのなら、靴を脱ぐのが道理なのだろうけれど、僕にそんなもしものことはやってこない。靴は履いたままにした。


 ついにそのときだ。


 僕は音を立てずに手を真横に伸ばして上げる。こうすると、さらに風がどれだけ冷たいのかが分かる。これだけ見ると、それっぽい。ただ内心で思っていることは、世間の思っていることは違う。

 実行するならこのぐらい仕上げよう。そう思って両腕を広げるポーズを取ったのだ。目は瞑らないでおこう。折角なら僕の姿を見て恐れ身震いする人の姿も見よう。


 僕は「やめろ」といわんばかりに強く吹く、その風の反抗を肌で実感してから。



 身体からだを前に倒した。

 


 なんて美しい落ち方なのだろう。


 まず床から右足が離れた。そこから重心をもとに戻すなんて、不可能。間もなく左足も、地から離れた。予想していた以上に綺麗に落ちた。


 地球の中心に向かって重力が働いている。不変の真理。そのため、僕は身体の自由を失われ急激な速度で下に落ちて行く。加速。

 交通費を入れた財布も含め、身に付けているもの全てが僕にへばり付く。くすぐったいが、それでさえ感じさせない現状。


 人がちりのように見える。自動車も、電信柱も。横断歩道も縞模様に見えず、ただの白いアスファルトに見える。ビルの十数階もすぐ近くに。

 この真上から見た街並みは、また見ようと思えば見ることができる。ただそこまでも価値のある景観でもない。ハイリスクローリターン。そんな残酷な街が視界に入った。


 段々と下の様子が見えてきた。僕はこの瞬間。この時間が一番怖い時間なのだろうと考える。身体が動いてしまいそうだけれど、じっと我慢しておいた。

 無暗むやみに動くと、体が反対になり背面から垂直落下することになる。目線は下を向いたままでよかった。自分で何を意識したのかは知らないけれど、あえて清々しそうな顔でいた。


 意外とすーっと落ちていく。自分の身が軽くなったような感覚だけで風も感じない。

 邪魔な髪が異様に靡く。切っていないからだろうか。髪を切ってから決行すればよかっただろうか。

 くだらないことが考えられる程余裕でいられる自分も奇妙だ。


 下の景観が鮮明に目に映る。

 あの少し光を反射している物体達は、自転車だろうか。生憎あいにく下は自転車の駐輪場らしい。軽い舌打ち。これはただの地面に叩きつけられる以上の痛撃を食らうか、衝撃が和らぐか。いずれにしても結果は変わらないのだろうが。


 さあ、快適でもない空の旅が間もなく終わろうとしている。今はデパートの二階位にまで来ているのだろうか。すると、下の誰かが空を指差して口を開けているのが見えた。それは恐らく……いや、確実に僕が落ちて来る姿を見て、恐怖に戦いているのだろう。それに気付いた人達がまた一人、また一人と僕を見ている。頭の中で想像していた通りの反応だ。


 僕は後もう少しで自転車駐輪場に頭から突っ込むことになる。恐怖などはない。


 ――ここで僕は祈った。軽く願いが叶いますように、と。今の叶うはずのない願いは叶うのだろうか。できればでいい。それ位の程度だと思っている。

 この立場のまま無意味で生きていくことは辛い。神様がどうにか僕を連れ去ってはくれないのだろうか。


 目を両手で覆い隠す女性の姿も見えた。僕は自分の胴体が急加速しているように感じた。視界の移り変わりのスピードが速くなっている。地面が近づいている。

 ああ、叩きつけられるな。どうせそれだけの軽薄なオチなのだろうけれど。もう一度祈った。



 どうか僕が死ねますように――



 鈍い音が聞こえた……ような気がした


 ……辺りがざわついている。しばらくは寝ていた。僕の命は、削れただろうか。

 細く目を開ける。

 狼狽うろたえるオトナたちも見える。

 静かに目を開けるオトナもいる。

 僕を見て、何を感じている?


 僕の身体が動かず、今天国にいることを望みながら、僕は立つことを試みた。

「……」


 僕の願いは叶わず。

 予想通り、僕はすっと立ち上がることができた。

 少しいびつな形に曲がってしまった自転車達。次にそれが視界に入った。完璧なフォームで、頭から駐輪場へ突っ込んだことを察知する。


 聴覚が戻ってきた。耳に入るのは、騒々しくなった周りのオトナ達の声。状況を把握するスピードの遅いこと。

 そりゃ、そうだろう。絶対に死んだな、と思っただろう。

 そんなコドモが今このように平然とたたずんでいるのなら、理解できるはずがない。そのコドモを恐れ、オトナ誰ひとりとして近づこうとしない。幻覚症状が出ているのかと、自分の脳を疑っているはず。


 僕の服はばったもんのような安いもののくせして、傷一つついていない。自分の身体を見た。汚れは付いているものの、目立った怪我は摩訶不思議。一つもない。


 まさかここまでとは思っていなかった。

 ただその意外性を悲愴感が超える。

 やっぱり、死なないか……


 はあ、と一息溜め息を吐いた後に、一応服の汚れをはたき落しておいた。その時間は、オトナが心配そうに声を掛けてくれることをほんのちょっぴり期待していた時間でもあった。ただ恐がって、それでも寄ってこない。


 彼らはオトナではなく、そういう「大人」という上辺を飾っただけの、精神年齢は未成年の人間達だ。どう育ってきたのか……


 居た堪れない雰囲気の中で、もう少しオトナを待つなんて酷い拷問を好んで受けることはしない。僕は「自転車は自分で直せ」とほのめかすように、駐車場の出口からデパートを去った。


 デパートを出た後、

「イタッ!」

 急に遅れて激痛が僕を襲った。いくら死ななかったとしても、落下したときの衝撃は無論受ける。あまりに痛撃が過ぎたのか、立ち上がっていたときに痛みは感じなかった。


 その場でうずくまりたかったけれど、あのオトナ達が駆け寄ったら、追及され、況して厄介なことになる。僕は痩せ我慢をした。自殺行為の痛みはとても耐えられるようなではなかったけれど、ここでオトナに捕まるのを考えたとき。

 耐えろと、本能がささやいた。



 結果は九十九パーセントの方になった。

 知っていたけれど、少し位夢を見たっていいと思う。

 ただ人一人の願望でこの世が回っている訳じゃない。

 ちっぽけな惨めな人が何をしたって、変わりはない。



 

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