緑陽館随想~卒業リボン~

双葉ちの

卒業リボン


 すすけた木の扉を開ける。

 陽の光で温められた無人の部屋の空気を、胸一杯吸い込んだ。すこし甘いような、古本屋さんに似た匂いにほっとする。

 本や雑誌や、30年分の部室ノートが一杯に詰まった天井までの書棚。昔、部員の誰かが持ち込んだブラウン管のテレビに、奇跡的に稼動する前時代のゲーム機。

 テーブルにかばんを置いてから気がついた。


 無人じゃなかった。


 窓際の椅子にもたれて、逆光を背負ってうたた寝しているあまね先輩がいた。

 気づいてから一瞬遅れて、心臓がとくんと高鳴った。

 光に縁どられた顔は透き通るようにきれいで、思わず息を殺して見つめてしまう。

 時間が止まったみたいな、でも多分30秒もたっていない、そののち。

 着崩した詰襟姿の天使が、身じろぎした。


「うーーーー……ん、」

「先輩……?」


 小さな欠伸ののち、ゆっくり伸びをしてこちらを向いた周先輩は、私をまっすぐ見つめて微笑んだ。


「ユキちゃん。おはよう」

「あの、ごめんなさい、起こしちゃいました?」

「いや、いいんだ。俺はユキちゃんを待ってたんだし」

「私を……?」


 にこにこしている先輩の胸には、ばらの造花のついたリボンが揺れている。

 テーブルの端には、クロコダイルの押し模様がついた黒い筒。


「卒業生の見送りアーチ、中庭でやってる頃ですよ。いいんですか、行かなくて」

「ユキちゃんだって、直接部室こつちに来たじゃない」

「うー……まあ、そうなんですけど……」


 陰になっているはずの先輩の目が、からかうような光をたたえている。

 いつもながら、この人の瞳はあまりにも澄み切っている。

 ごまかしても隠しようがない気がして、思ったことを正直に口に出していた。


「今日、最後だから……」

「最後?」

「先輩に会える最後じゃないですか、卒業しちゃう今日が。そう思ったら、見送りに参加していられなくて……部室でひとりで泣いちゃおうかなと思って来たんですよ! ああもう、言っちゃったなあ!」

「あらまー、言っちゃったなあ」

「うう、先輩のばか」


 ちょっと涙出てきた。

 私がポケットからハンカチを出して顔をごしごし拭いていると、頭にそっと何かが触れた。前髪をくしゃくしゃとかき回される感覚に、恨みがましく顔を上げると、先輩の笑顔がすぐそばにある。


「いまからさ、ちょっとそこらでデートしようか」


 だからその目には、逆らえないのだ。


 *


「屋上……って、出られるんですっけ?」


 文化部の部室が集まる「緑陽館」は昭和初期に建てられた旧校舎で、築90年ほどになる。普段の日なら、生徒たちの楽器の練習音や喧噪に満ちている時間帯だけれど、いまはまったくひとけがない。

 それにしても、緑陽館に屋上なんてあっただろうか。

 装飾的なファサードを持つモダン建築の屋根は、下から見ても天辺てつぺんがどうなっているのかわからなかったし、屋上に続く階段なども見たことがないのだ。

 もしかすると、館の奥に秘密の小部屋があって、隠し階段なんかがあったりして……。

 ちょっとロマンかも。

 などと期待した私の期待を真っ向から裏切って、先輩に連れられやってきたのは3階の軽音部前。何の変哲もない廊下だった。

 デートのお相手であるところの先輩は、外に面した窓から身を乗り出して、なにやらガタガタやっている。

 ……不穏だ。


「やっぱり、ユキちゃんも気づいてなかった? この外側の壁に、屋上から下りてくる据え付けの鉄梯子があってさ、途中で切られててここからしか登れないんだけど、無理すれば登れないこともなく」

「無理はしたくないです。危険なのもパスです」

「大丈夫大丈夫、俺わりと何度も登ってたんだよ、授業サボって弁当食ったり」

「私、身軽さには自信ないんですよ、先輩と違って――」


 不意に先輩の上体が、外に向かってあおむけにぐらりと傾いた。


「ぎゃーーーーっ! あぶな――」


 とっさに先輩の片脚をつかんで、下半身を抱きかかえる形になる。

 わたわた腕を振り回して、なんとか先輩はバランスを取り戻した。


「ひゃー、ちょっと焦った! ユキちゃんありがと」

「もー……、ほんと、心臓に悪い……」


 それは比喩でなく、心臓が異常な速さで脈打っている。

 先輩はといえば、窓枠に腰掛けた体勢で、私のあたまをポンポン叩いてくる。


「それに私、先輩は知らないとは思いますけど、高いところ苦手なんです」

「大丈夫、俺がついてるから安全だよ」


 ほら、と差し出された左手の主は、すでに窓の脇の外壁に残された鉄梯子に取り付いて笑っていた。

 大変あてにならない笑顔。でも、眩しい。

 普段なら、命綱もなしで校舎の壁クライミングなんて絶対にやらない。本能も経験則も警告を発していたけれど、今日が最後なのだから。

 先輩に導かれて、梯子をぐっとつかんだ。


 *


 文芸部では、私はずっと製本担当だった。

 なぜかというと、文章を書くのがとても苦手だから。

 読むのはまあ人並みには好きという程度だけど、紙そのものが好きという傾向はあったから、製本担当は肌に合っていたような気もする。

 文才も何もない私が、なぜ文芸部に入ったのかといえば。


「今日だから言うんですけど、先輩にはひとめぼれだったんです、私」


 いま。私と先輩は緑陽館の屋上で二人きりでいる。

 屋上といっても3階建てだから、特別よい眺望ということはないのだけど、日差しと風が心地いい。

 むき出しの白いコンクリートに、すぐそばに立つヒマラヤスギの葉がところどころかたまって積もっている。築90年といっても、ひび割れたり崩れたりはしていない。

 屋根の装飾が腰の高さほどで屋上を囲っていて、心配したほど怖くはなかった。

 先輩と二人、並んで中庭を眺めながら、ぽつぽつと話す。

 視線を合わさないでいると、不思議と恥ずかしいことも言えてしまえた。


「初めて会った日のこと、おぼえてますか?」

「もちろん。ゆきちゃんは一番乗りの新入部員だった」

「私は、それより前に周先輩を知ってたんですよ」


 小学6年生の時のことだ。

 家で母と二人でいたときに、「お父さんには内緒ね」と見せられた、1枚の写真。

 古びた建物をバックに、セーラー服姿の母と、見たことのない少年が写っていた。

 遠慮がちに母の肩を抱き、はにかむように笑みを浮かべる、詰襟姿の男子生徒。

 それはほとんど王子様みたいな、きれいなきれいな笑顔。

 一瞬でひきつけられた様子の私に、母はミルクティーのお代わりを注ぎながら苦笑した。


「血は争えないなー。その子、お母さんの元カレなのよ」

「もとかれ?」

「高校の、文芸部で一緒だった周くん。名前もかっこいいでしょう」


 母は誇らしげに胸を張った。


「このひと、今はどこにいるの? お母さんはなんで、このひとと結婚しなかったの?」


 父のことはとても好きだけれど、この少年に比べたら、少女の心を動かす要素があまりにも少ない。まるで勝負にならないと思う。すごく、すごくもったいない……!

 正直にその意見を述べたら、母は爆笑した。


「それお父さんに言っちゃだめよ、きっと泣いちゃうよ」


 母が持っている「周くん」の写真は1枚きりで、ほかのものは処分してしまったそうだ。

「高校の部室になら、残ってるかもしれないわね」という母の言葉が胸に引っかかったまま、数年間をすごしたのち。

 高校へ入学したその日に、私は緑陽館の文芸部室のドアを叩いたのだ。

 毎年の部員集めに苦労していた先輩たちは、いきなり入部希望してきた私に驚いて、狂喜乱舞の勢いでもてなしてくれたのだけど、彼らの話はほとんど頭に入ってこなかった。


 まんまるに見開いた私の目がとらえていたのは、母の写真そのままの男子生徒が、窓際にたたずみ微笑む姿。

 ――その日から、私の高校生活は周先輩一色になった。


 *


「風がちょっと、暖かいですね」

「春だねー」


 私たちの眼下にある中庭では、卒業生のあらかたがアーチをくぐり終えて、その先で待ち受ける後輩や教師たちと別れを惜しんでいる。

 花飾りを施した模造の槍を下級生が掲げてアーチを作り、3年生がその下をくぐるというこの学校の卒業セレモニー。それを眺めるのが、先輩は好きなのだそうだ。

 背の低い植栽で仕切られた中庭は、金色の陽を浴びて眩しくきらめいている。

 気持ちよさそうに目を薄く細めて、周先輩は歌うようにつぶやいた。


「は、る、は、おわかれの、季節です」

「……はあ」

「み、ん、な、たびだあって、ゆくんです」

「なんですか? それ」

「あー、知らないか。AKBの元祖っていうかねえ」

「?」

「まあいいや。ユキちゃんは旅立っていくよね。未来に向かって」

「先輩……?」

「言いそびれてたけど」


 こちらを向いた先輩の笑顔は陽光を半分透過して、なんとも薄くて儚い感じになっていた。


「……先輩、かなり透けてますけど」

「わ、ごめん。最近ちょっと気を抜くとこうなるんだよね……」


 あわてて自分の様子を確認した先輩は、次の瞬間にはしっかりしたマット感を取り戻す。

 西日が長い影を作る。風に吹かれて髪がなびいたりするのも……本当なら不思議なのだ。

 そう、この人は――


「あらためて」


 先輩は体ごと私のほうに向きなおり、かしこまった様子で私に言った。


「卒業おめでとう、ユキちゃん」


 彼の胸で揺れるばらのリボンと同じものが、私のセーラー服にもついている。

 私は今日、この学校を卒業する。

 そして私が3年間恋していた周先輩は、この学校を永遠に卒業できない。

 周先輩は幽霊で、永遠の高校3年生なのだから。


 *


 近頃の先輩が不安定な理由は、なんとなくわからなくもなかった。

 先輩自身もよくわかっているみたいだったから、話題にはしない。

 私たちが今踏みしめているコンクリートの建物が、来月の今頃にはなくなってしまうことは。

「老朽化に伴う解体・建て直し」、というのが表向き。実際のところ、解体後の新校舎建設のお金とか、業者とのしがらみとか、ごちゃごちゃしたものがあるようだけれど、取り壊しの決定権は県だか教育委員会だかにあって、OBである議員も暗躍しているとかで。

 現役学生が何を言ったところで、決定は変えられようがなかった。


「はじめてで、最後なんですよね……先輩とのデート」

「そう…なるのかな、よくわかんないけど。でも俺はこの校舎から離れられないようにできてるみたいだから、校舎と一緒に消えても不思議はないね」

「やだ」

「ん?」

「先輩が消えちゃうの、やですよ……」

「俺も正直、消えたらつまんないなーと思うけど、そもそもいまユキちゃんと喋れたりしてるほうが異常……――って、あれ、泣いてる?」


 そりゃ、涙も出る。

 だって初デートの相手が人間じゃなくて、しかももう、その人には会えなくて。

 さらにそれが、本当に大好きな先輩で――

 涙はひと粒こぼれてしまうと、勢いがついたようにあふれてきた。

 制服の袖で拭うのが追い付かないくらいぽろぽろ泣けて、私の顔はぐしゃぐしゃになってしまう。


「ユキちゃん」


 声をかけられた次の瞬間、私を包むぬくもりがあった。

 手に手が重なって、頬と頬が触れる。

 後ろから抱きすくめられたふうになり、先輩を、いままででいちばん近くに感じる。


「この3年間は、すごく楽しかったな」

「本当ですか?」

「うん。長いことこの旧校舎にいたけど、死んでからいちばん楽しかった。俺のこと見える人ってたまにいたけど、ゆきちゃんみたいに話せる相手って一人もいなかったし。やっぱり、お母さんの――ユリさんの影響もあるのかな。とにかく俺にはね。思い残すことはたぶん、ないんだよもう」

「ほんとに……?」

「最後に、ユキちゃんに告白してもらえるっていう豪華ボーナストラックつきで、大満足」


 先輩の唇が、私の左のこめかみに触れた。

 胸がしめつけられるみたいに、くるしい。

 もう一度私をぎゅーっと抱きしめたあと、先輩はうつむく私の顔を覗き込んだ。


「ありがとね、ユキちゃん」

「先輩!」


 意を決して、私は言った。

 最後のお願いをしよう。

 両手で涙をぐいっと拭いて、私は先輩に向きなおる。

 自分の左胸に手を当てて、用意していた言葉を口にする。


「リボンの交換、しませんか?」


 卒業式のあとに中庭で行われるセレモニーには、続きがある。

 3年生が卒業式で胸につけるばらのリボンを、大事な人に渡すというささやかな儀式。

「第2ボタン」のローカルルールみたいなものだ。

 彼氏や彼女にあげるだけでなく、後輩や先生にあげたり、仲良しの友人同士で交換したり。男女問わず「好きな人」に渡す記念品。

「たのしかったね」「なかよしだったね」「ありがとう」――

 直接伝えるにはこそばゆいような気持ちを、リボンに託すのだ。


「私は先輩のリボン、ほしいです」

「え……これ交換とかできるのかな?」


 俺幽霊でしょ、こう見えて実体ないからねえ、とか、こんなときに茶化さないでほしかった。


「きっとできますよ。ほら」


 屋上で。

 まっすぐ向き合って。

 私は胸からリボンを外して、先輩の胸につけるしぐさをする。

 先輩も自分のリボンを外して、おそるおそる、私のセーラー服の布地にピンを刺すしぐさ。

 その瞬間、夕陽がひときわ眩しく私たちの眼を射た――


 目を開けると、白くてまばゆい光に包まれた先輩の胸に、私がつけてあげたリボンが揺れている。先輩はそれに触れて、驚いたようにつぶやいた。


「このリボンって……」

「そう、私の母のリボンです」


 母がずっとずっと大切に持っていた、ばらのリボン。

 卒業式の朝に、事故に巻きこまれてしまった恋人と交換するはずだった、約束の。


「先輩はやっぱり、うちのお母さんのこと忘れられなかったんだな……」


 やっぱりこれは、分類するなら、失恋だ。

 身内がライバルというのはけっこうやりきれない状況だけれど、しかたない。

 母の言うとおり、血は争えないのだなぁ。

 私はできるだけ元気な笑顔で先輩に宣言した。


「大好きでした、周先輩! 私このリボン、一生大切にする」

「ユキちゃん。俺は……えっと、きみたち親子をこれからずっと、見守っていていいかな? ストーカーまがいの執着で」

「そんなことできるんですか……もうほとんど、消えちゃってますけど」


 成仏しかかってる。


「えっ……、わあマジだ、あの、ユキちゃん、えっとほんとに感謝っていうかサンキュ――」


 焦った様子の笑顔を残して、周先輩はするりと空に溶けた。



「……先輩っぽいお別れだなぁ……」

 しんみりする暇もなく私の耳に届いたのは、中庭に残っている生徒の声だった。

「ねえねえ、緑陽館の屋上に人影が――!?」

「うそ、あれ、ほんとだ人がいるー!」

「……やばっ」


 背中をかがめて、小走りで屋上の端に向かった私は、はたと足を止める。

 これからひとりで、途中で切れたボロボロの鉄梯子から下りなきゃいけないの!?

 私の顔はいま、初めて幽霊を見たときよりも数段青ざめていると思う。

「先輩……う……うらめしや!!」

 夕空に悪態をついた。



 (了)

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