コリットス危機1
帝暦一七〇六年三月一四日、セイナ・アスレイはピヴィルス教会の正式な修道士の資格を得るため、ドーメニア領マジャル海域への短期留学に向かった。規則により親類の同伴は許されず、セイナを含めた九人の学徒たちの付き添いには三人のカーレと二人のエミナーレが選任されていた。獣師の船長ロンカー・バジルと操舵士のパルケット・シラプス、マルコーンの魔錦士バラドニー・イグジメル、そして雑用係のバーミッヒ・ポレーとクフ・トムコルである。
この一行をのせて大海原を疾駆するのが、巨大な海棲の軍獣ヴォーニターが引く洋上滑走船である。牽引船とも呼ばれる。古来の移動手段に最新技術を融合させたカーレンならではの伝統的な輸送船で、通常の船舶と同様の安定装置も搭載されており、さながら「海の馬車」と形容さるべき見た目の豪快さとは裏腹に、船内は快適な居住空間となっていた。
軍獣の操舵室、この船で船首の底部に当たる区画は、海中を泳ぐ軍獣たちの姿を間近に見られることもあり、出港して以来のセイナのお気にいりの場所であった。
* * * * * *
「いま、こいつらはなにを考えていると思う?」
操舵士のパルケット・シラプスは、数本の送受感導線を片手でのんびり操作しながら、左隣の副操縦席に座る少女にクイズを出した。
「わからないわ。だって、あなたと違って、わたしはこの子たちの言葉がわからないもの」賢いセイナは少々当てつけ気味に即答した。
「それはそうだな。おれにだってわからないんだ。でも、」シラプスは手前のメーターの一つを指さした。「これを見れば少しだけ、こいつらの思っていることがわかるんだ。この太い針と細い針が重なっていれば、こいつら全員が均等に力を出し合っている状態で、」彼は次に、右隣のメーターをさした。「このバーがあがっているほど、速さにムラがなく泳いでいるってことがわかる。ここ一時間の推移をグラフにして紙に出してみよう」
シラプスがメーター近くのボタンをいくつか押すと、制御盤からジャーナル紙がゆっくり印刷されて出てきた。
「このメーターの針は少し離れているわ。それに、このメーターも赤い目盛よりさがっているわよ」
「五分くらい前から集中力が乱れているな。こいつを見てごらん」シラプスがジャーナル紙の印刷面をセイナに向けた。「線が一本ここでぶれはじめてから、ほかの二本も共鳴するように乱れている。三頭のうちのどいつかがさぼりはじめて、ほかの二頭がわりを食っていら立っているみたいだ」
「喧嘩しているの?」
「おれの経験からすると、ほうっておけばそうなるね。軍獣はストレスに対して高い耐性があるけれど、秩序の乱れにはすごく敏感なんだよ」シラプスはそういうと、右隣の席に深く腰かけて眠りこけているバジルの軍帽をつまみあげ、軽く頭に落とした。
バジルは全身をびくっと震わせて、言葉にならない声を出した。「着いたか?」
「少し早いですが、昼食にしましょう」
海図によると、この付近にはいくつかの補給基地が点在していたが、すでに自由通商海域にはいっていたため、面倒な停泊手続きを嫌ったバジルとシラプスは、船を海上に停留することにした。軍獣たちの検査が終わるまで、子どもたちとイグジメルは甲板上で食事をとった。
純白の侍祭服を着た子どもたちは、具だくさんのパニーニや瑞々しいカウサーフルーツを頬張りながら船首側の手すりに集まり、潜水服に身を包んだシラプスと軍獣たちのコミュニケーションの様子を興味深げに眺めた。
「手すりにのってはいけません。マーサー、足をおろしなさい」
バラドニーはときおり子どもたちに注意をせねばならず、ゆっくり食事を楽しむこともできなかった。彼女といっしょにシートの上でおとなしく腰をおろしているのは、セイナとロスティーナ、ミスティン・ヘラーの少々ませた三人の少女だけで、ほかは牽引船にのるのもこの旅で初めてという子ばかりだったのだ。
「ヴォーニターたちは喧嘩をはじめそうなの。だからディクラがなだめにはいったのよ」
セイナがロスティーナに説明した。ディクラとは階級称で、シラプスのことだ。
「どうしてわかるの?」ロスティーナが尋ねた。
「メーターを見ればわかるのよ」
「メーター?」
「そうよ。左のメーターの二つの針が離れていると、仲が悪くなっているってことなの」
バラドニーは微笑んだ。「セイナはまるで獣師さんね」
「でも、言葉はわからないのよ」セイナは強調するように、両手を耳に見立ててひらひらはためかせた。
「どうして喧嘩しているのかしら?」ミスティンがきいた。
「ディクラがそれを調べているのよ」セイナの講義は続いた。「海に潜って直接きかないとわからないんだわ。だって、メーターではどうして喧嘩をしているのかってことはわからないから」
ヴォーニターの一頭の前ヒレに引っかかっている大きな海藻の塊を見つけたシラプスは、それを注意深くちぎり取った。
「ヒレに海藻が引っかかっていました。もうひとまわり全体を確認したら戻ります」
「《ああ、ご苦労。念のためにそいつは回収しておこう》」
「了解」
「《しかし、なるべく急いでくれ。こっちに接近してくる船影がある》」
「海賊ですか?」
「《たぶんな。だが、どうも嫌な予感がする。船の点検はあとでかまわん》」
軍獣たちの異常はこの海藻が原因で間違いないだろう。シラプスはいわれたとおり、すぐに戻ることにした。
「五分で戻ります」
軍獣の検査が終わり、出発することを甲板のバラドニーに伝えたバジルは、ついでに彼女に操舵室へ来てもらうようお願いした。
操舵席のうしろにテーブルが置かれ、こげ茶色の軍服に着替え終えたシラプスはその上に回収した海藻をのせていた。バラドニーは眉をひそめてその塊を見た。
「これはなんです?」
「軍獣の体にへばりついていたものです。ですが、妙なことに吸盤らしきものがある、見たことのない海藻です」
シラプスはそう答えると、粘液でぬめった海藻の一部をつまみ、それが指に吸着するさまを彼女に見せた。
「ポリオデトックスでしょうか?」
バラドニーは塊に顔を近づけ、黒ずんだ中心の繊毛のようなものを指でつまみあげた。「いいえ、こんな沖合に浮いているはずがありません」
「まあ、新種の昆布かなにかでしょう。それよりアコラーデ、いまこちらに一隻の外国船が向かってきているのです。ひとまず出発しますが、無線の呼び出しがあれば、もしものときはお力添え願えませんか?」バジルは急かすようにそういった。
「ええ、かまいませんわ、
「もちろんですとも」バジルはそう答えると、シラプスに操舵席へ向かうよう目配せした。
牽引船の発進時は、船本体のエンジンで軍獣が加速をつけるのを補助しなければならない。海竜を模した船体が唸りをあげ、ヴォーニターが巨体をばたつかせて飛び散る水飛沫を浴びながら、牽引船はゆっくりと前進しはじめた。
バラドニーはエミナーレのバーミッヒに子どもたちの面倒を見ているよう指示すると、キャビンからなめし革の鞄を持って操舵室へ戻った。彼女はその中からハサミやピンセットといった器具を取り出し、海藻の塊を調べはじめた。学者というわけではないが、彼女は海洋生物学に非常な興味を持っており、いつでも調査や実験ができるように自前の器材を準備していたのだ。自力で動物の体に付着する高度な機能を備えた海藻が見つかったとあっては、その好奇心を押さえこむことなど不可能だった。
「無国籍だな。やはり海賊ですな」バジルはリードアウトを目にして、うしろのバラドニーに報告した。
しばらくすると、通信装置の呼び出し音が鳴った。バジルは咳払いをひとつすると、マイクをとった。
「こちら、カーレン酋領国のドレンコ・バジルだ」
応答がないため、バジルはさらに続けた。
「いったいなにごとか。当船は公務のため、外交規定の航路をソッカイア海域へ向かっている」
「《ドレンコ・バジル》」通信先の声は動揺しているのか、少しばかりうわずっていた。「《すまない、他意はない。こちらはサロマン・ズールのタリカン号である。どうやら、貴船にわれわれの仕掛けた発信器が引っかかったようだ。回収のため、そちらへ一時乗船の許可を願いたい》」
「発信器だと?」
バジルは訝しげにうしろのテーブルを振り返り、シラプスもつられて海藻を見た。
右目に顕微鏡をかけたバラドニーが、彼らを見て眉をひそめた。「まさか」
バジルは半信半疑になりながらも、マイクに向かって答えた。「乗船を許可する前に、まずその発信器とやらの詳細をきかせてもらいたい。この船には
海賊はしばらくの間を置いて、答えた。「《それはできない》」
バジルは魔錦士を見た。バラドニーは首を横に振った。
「なら、乗船は許可できない」
「《回収しなければ貴船も困ることになる。そいつの匂いを嗅ぎつけたほかの船が、次々に群がってくることになるんだぞ》」
「だからそいつとはなんだ?!」バジルはいら立って声を荒げた。
「《それはおれの独断では答えられない。たのむから回収させてくれ》」
「しかたありませんね、
バジルは眉間に皺を寄せて喉の奥を鳴らし、マイクに向きなおった。
「乗船を許可する。ただし、一五分だけだ」
「《感謝する、ドレンコ・バジル。いまから座標を送る》」
牽引船は、トカゲのような猛獣サインプラー数頭が絡まる姿を模した赤錆色の装甲艦に隣接して停止した。彼らの連絡用ボートには三人の海賊がのっていた。二人は潜水服を着ており受信端末のようなものを首からさげ、黒い網を肩に担いでいる。バジルとバラドニーは甲板で、梯子をつたって乗船してくるおぞましい身なりの男を出迎えた。
「いやあ、お急ぎのところ悪いですな」
海賊は軽い身のこなしで手すりを飛び越え、甲板に降り立った。背中に蜘蛛の足のようになにかの細い腕の燻製を縫いつけたコートが翻り、潮に混ざった不快な甘ったるい香煙の匂いが二人のカーレの鼻をついた。
海賊の船長は目ざとく右腕のペネシャルを一瞥しつつ、サロマン・ズールの船長の目印である、三日月形のつばの赤茶けた帽子を掲げて会釈した。飾りつけられた小鳥の頭蓋骨が乾いた音を立て、触覚のような二本の複葉が揺れた。
「船長のアーリックです、レディ……」
「イグジメルですわ」
バラドニーは両手を腹の前で組み、目深にかぶった頭巾の奥から、注意深く海賊の全身を観察した。
「あっという間に済みますよ、レディ・イグジメル」アーリックはバジルに顔を向けた。「それに、
バジルは両腕を胸の前で組んだままいった。「またきさまらは、われわれの知らないところで悪巧みをしているようだな。今度またなにか厄介ごとを持ちこんでみろ。そのときはひとり残らず、軍獣の餌箱に放りこんでやるぞ」
アーリックは笑いながら両手を広げた。「旦那、ここはカーレン領じゃあありませんぜ。われわれがなにかを持ちこんだのではなく、あなたがたが運悪くわれわれの商売道具を踏んづけちまったんでさあ」
「さっきの男は、そいつの詳細を話すことはできないといっていたが、きさまはどうだね?」
アーリックは首のうしろを掻きむしりながら、船首の方向を見やった。「あれはヴォーニターですな。疲れ知らずの怪力で、一日に約八〇ウェッセルの航続能力があるとか」
「とぼけるな!」
海賊は笑みを湛えながらバジルに向きなおった。「いやなに、ちょっと気になったんでさ。あのヴォーニターがわれわれの発信器を食っちまったんじゃないかとね。まあ、それならそれで、回収する手間が省けるってもんですがね」
「あれは魚しか食わん」バジルはため息をついてそういうと、ひとつだけつけ加えた。「たまに藻は飲みこむがな」
「……そりゃあよかった」
アーリックがそういうと、海上のほうから潜水士が声をあげた。「船長、船底にはありません。おそらく海獣のほうかと」
甲板には不穏な沈黙が訪れた。アーリックはにやつきながら、睨みつけるバジルの目を強かに見返した。
「ついさきほど、ヴォーニターの身体検査をしたばかりですわ」バラドニーが沈黙を破った。「そこで不審なものは見つかっていません」
「おや、そうでしたか。なら、答えは二つに一つだ。やはりヴォーニターがそいつを食っちまったか、」アーリックはバジルに視線を戻した。「あなたがたがどういうわけか、そいつをわれわれから隠しているか」
バラドニーは心の中で舌打ちした。海賊がこれほど厄介な相手だとわかっていたら、バジルに彼らの乗船許可を薦めることをもう少しためらったかもしれない。
「アーリック船長。あなたの探しているものかどうかはわかりませんが、検査のさいに藻屑の塊を回収していますわ。ただの海藻のようでしたので、のちほど廃棄する手はずだったのですが」
「ふむ、海藻ね」アーリックはわざとらしく、考えこむように腕を組んだ。「海に漂っているうちに藻屑がこびりつくことはよくある。そいつを頂戴しましょう」
バラドニーがうなずくと、バジルは通信機を取って操舵室に繋げた。「シラプス、そこにある海藻を甲板まで持ってきてくれ」
サロマン・ズールの装甲艦が離れていくのをレーダーで睨みながら、バジルはまだいら立ちを抑えきれずにコンソールを指でこつこつ叩いていた。
「ゴロツキどもめが、いきがりおって」
「親ごさまからお預かりした大事な子どもたちをのせているのです。揉めごとは避けるに越したことはありませんわ」
バラドニーはそういうと、切りとっておいた海藻の一部を海水に浸した容器を目の高さに掲げ、じっくりと眺めた。
「アコラーデ、そいつをどうするんです?」シラプスはきいた。
「マジャルに知り合いの生物博士がいます。彼にこれを調べてもらうつもりです」
シラプスは怪訝そうに海藻を見た。「それにしても信じられない。これが本当に発信器だとしたら、いったいどうやって作ったっていうんだ?」
「まだ、それと決まったわけではありません」バラドニーは容器を持ってきびすを返し、肩越しにいった。「カリドナに報告しておきます。それ以外、この件については内密にお願いしますわ」
三日後の昼すぎ、一行は最初の停泊予定地に到着した。コンペティシアのアイティルバック軍港から出航し、自由通商海域を北北西へ抜けると、まずドーメニア領ソッカイアの経済水域に達する。そこの中心となる海都バレオシセリはかつてカーレンとも交易関係のあったソッカイア帝国の旧領土で、この地を母国とするエミナーレも多くいた。
出港以来の陸地で夜を明かすことになる停泊地は、バレオシセリから南西に離れたコリットス環礁の前哨基地にある。第二次協商軍の管轄下の島だが、大半の島民は現地出身のソッカイア人で、店舗や民間サービスの利用にはなにかと通訳が便利になる。エミナーレのクーフ・トムコルは、ラインガートとドーメニア語だけでなく、ソッカイア語にも精通していた。
交易や観光が盛んなこの南国の島には、ソッカイア人のほかにもペイルパターンやバンディのようなミューマンの人々もちらほらいた。バラドニーとトムコルは、九人の子どもたちをつれてこの島を観光することにした。さまざまな異文化に慣れ親しむのも、貴族階級の子どもたちにとっては大事な社会勉強である。
「見てみなさい、ほら、大きなイルパーよ。この辺りではあれくらいの大きさが当たり前なの。トムコル、わたしたちも餌やりができるか、あのかたにきいてきてくださる?」
バラドニーは夢中になって、桟橋に集まるイルパーの群れに小エビを撒いた。
「コーム貝の串焼きよ。肉づきがよくて、とてもおいしいの。せっかくだからいただきましょう」
あちこちに立ち並ぶ露店の特産品に目を輝かせながら、バラドニーは貝の串焼きを幸せそうに頬張った。
「まあ、なんて雄大な礁湖でしょう! トムコル、記念にみんなでお写真を撮りましょう」
バラドニーは全身で楽しさを表現しようと飛びはね、できあがった写真は、ロスティーナの顔が彼女の腕の陰に隠れてしまっていた。
その後も一行はさまざまな観光スポットに足を運び、日が暮れて停泊エリアに戻った頃には、トムコルと子どもたちは笑顔が消えるほどくたくたになっていた。
「子どもたちは、トムコルが先に宿舎へつれていっています。やはり遊び盛りですわね。わたしも早めに休ませていただきますわ」
「そうですか」シラプスは怪訝そうに、彼女の顎を見た。「あの、アコラーデ、顎になにか……」
バラドニーが顎を撫でると、指にクリームのようなものがついた。
「あら、いやですわ。トムコルときたら、おしえてくださればいいのに!」
バラドニーは苦笑しながら、足早に宿舎へ向かって去っていった。
牽引船の停留するドックからさほど遠くない敷地内の丘陵部に、第二次協商軍から提供された官用宿舎があり、そこから徒歩一五分ほど内陸へ向かった先には、展望台を備えた高層ビルや民間ホテルの立ち並ぶ、敷地外の歓楽街があった。バラドニーは夕食の前に土産でも調達しようと、ドックに背を向けて出入ゲートへ進んだ。
シラプスは軍獣の餌やりを終え、ついでに推進機を点検するために船尾へ向かって泳いだ。いつものようにヘッドライトの明かりを頼りに船体を撫でながら進んでいると、指にわずかな違和感が伝わり、シラプスはそれをよく見ようと顔を近づけた。航行中になにか硬いものにぶつかったか、三か所ほど、石で殴りつけたような凹みがある。わざわざ修繕するほど深刻な状態ではないが、カリドナへ提出する航海記録には一応のせておこうと、シラプスはその傷を写真に収めた。
シラプスは点検を終え、着替えを済ますと船橋に足を運んだ。そこには、第二次協商軍の軍服を着た将校が一人、バジルと言葉を交わしていた。
「失礼しました」
「いや、いいんだ。はいりたまえ」
将校はカウチから立ちあがってそういうと、手を差し伸べた。
「ソッカイア艦隊のフィン・デジェルド大佐だ」バジルが手を振って紹介した。
「パルケット・シラプスです。お会いできて光栄です」
フィン・デジェルドは細身だが体格のよい長身のドーメニア人で、艦隊所属をあらわす丈の長い暗灰色のコートが、決して広くはない船橋内がより狭く感じるほどの堂々たる存在感を放っていた。年の頃はバジルより下のように見えたが、口髭のよく似合う、礼儀正しく落ち着いた雰囲気の紳士だった。
彼は差し出されたシラプスの手を握って穏やかに微笑んだ。「尊敬すべきカーレの友人をお迎えできて、われわれもこれほど光栄なことはない。短いあいだだが、ゆっくりしていってくれたまえ」
「感謝します、大佐」
バジルが口をひらいた。「大佐は、必要なものを充分にご提供くださるそうだ。いまちょうど、軍獣の飼料について話していたところでな」
「あれだけの巨獣が三頭だ。餌の消費も相当なものだろう」
デジェルドが腰をおろすのを見届け、シラプスも壁ぎわのカウチを引き寄せて座った。「モナードまでの行程には足りるぶんだけの飼料を積んでいます。ヴォーニターは消化系が繊細で、新鮮な魚でないと喉を通さないのです」
「すると、モナードで餌の魚を補給する予定なのかね?」
「ええ、少し遠回りになりますが」シラプスは手を振って説明した。「従来は大型の汽走船を使っていたのですが、今年は子どもの人数も少なかったもので。牽引船でのマジャルまでの航海は、初めての試みなのです」
「なるほど」デジェルドはカウチの肘かけに右肘を預け、口髭を撫でた。「少なくとも、この牽引船に積めるだけの鮮魚は用意できると思うが、いかがかね?」
シラプスは微笑してわずかに頭をさげた。「お言葉だけ、ありがたく頂戴します。軍獣については、魔獣の指示どおりにという規則がございますから」
「そうか、それならいたしかたない。出すぎたことをいって申しわけなかった」デジェルドは両手を振った。
「とんでもありません。お心遣い感謝します、大佐」
シラプスはそういうと立ち上がり、敬礼してきびすを返した。
「ああ、シラプス」バジルが声をかけた。「今日はご苦労だったな。町へ行って一杯かけてくるといい」
シラプスは心の中で歓喜の雄叫びをあげながら、二人の口髭男に再度会釈した。「そうさせていただきます。では、いい夜を」
軽やかにステップを踏みながら、シラプスは波止場に降り立った。辺りはすっかり暗くなり、基地の敷地内を歩く人影はほとんど見当たらず、宿舎や管制塔の窓から漏れる暖かい明かりから、談笑する声がわずかに波音の中に混ざってきこえるくらいに静かだった。国境ぎわの前哨基地とはいえ、ここが世界にその名を轟かす第二次協商軍の管轄区域とは信じがたいほどのどかな風景を眺め、シラプスは心地よい開放感を味わいながら、賑やかな街あかりのほうへ向かった。
ゲートを抜けて最初に見つけた店は、歓楽街の外れにある小さなオープンテラスのある居酒屋だった。あまり深入りしすぎていざというとき後悔しないよう、シラプスはここで済ますことに決めた。中心街から離れているためか客入りも少なく、ゆっくり一人酒を楽しむには居心地もよさそうだった。
「アミーナグラッセ」
「こんばんは」
シラプスは空いているカウンター席に座り、小麦色に日焼けした若いソッカイア人のウェイターに会釈した。
「パマ? イラッタ? おさけ?」
「ああ、お酒。そうだ。なにがあるかな……」シラプスは言葉を引き出そうとするように、右手を動かした。「ええっと、メニュー?」
「メニュー? あれ」
ウェイターが指すほうを見ると、現地語で書かれたメニューのリストが壁に貼られていた。写真や見本のようなものは見当たらない。ほかの客は、カウンター席の奥に一人、テラスに二人組、入り口に近いテーブル席に三人組。そのうち三人が、カラメル色の濃い飲みものを手にしている。
とりあえず、一番上を選ぶのが無難だろう。気分がよくなったら順番に下のほうへ挑戦していくっていうのはどうだ? シラプスは心の中でそう決めると、ウェイターに身振りで一番目の酒がほしいことを伝えた。
「アーウィー、待ってって」
ソッカイア人は愛想よく、片言のラインガートでそう答えると、店の奥へ引っこんでいった。ほかに店員はいないのだろうか。
すぐに、グラスを片手にウェイターが戻ってきた。もう片方の手には、気が利くことに氷を満たした容器に酒瓶をいれて持っていた。
「カラロック」
「カラロック?」シラプスはグラスを受け取り、大振りの氷を二つ入れた。「ありがとう」
グラスに注がれたそれは、期待どおりのカラマンデーだった。海の男の酒が、この島国にないはずがない。シラプスは数日ぶりの酒を口全体で味わいながら、ようやく本物の休息が訪れた安堵感に、ほっとして気分を落ちつけた。
三杯目をグラスに注ぎ、ほどよくほろ酔い加減になったあたりで、シラプスは肴がほしくなった。いつの間にか狭い店内は客でいっぱいになっており、店の奥からは料理人のものと思われる威勢のいい声が漏れていた。
シラプスがウェイターの姿を探していると、左隣の席に客が座った。肌や髪の色からして現地人やドーメニア人でもなさそうだが、荒れた顔の皺は漁師か海兵独特の年季を物語っている。短く刈りあげた金髪のあちこちには白髪が混じり、引きしまった太い二の腕には、生々しい大きな切傷の痕が袖の下から伸びていた。
「おれの顔がそんなに珍しいかい?」
男は前を向いたままぶっきらぼうにいった。
シラプスは驚いて答えた。「いや、すまない。自分たちのほかに、外国人がいると思わなかったから……」
男はそれをきくとシラプスを横目に見た。「ここは観光地だ。街に行けばいくらでも見かける」
「確かにそうだ」
ほろ酔いのせいか、シラプスは愛想のないこの男を話し相手にしてみたい好奇心に駆られた。
「パルケットだ。輸送の仕事の途中で、カーレンから来たんだ」
シラプスの期待を裏切り、男はカーレンという言葉にすらなんの反応も示さず、手をあげてウェイターを呼び、流暢なソッカイア語で注文した。
「なにか、たのむかい?」
「それじゃあ、あんたと同じものと、あと軽いつまみがあればお願いしたいな」
男はウェイターに伝えると、両腕をカウンターの上で組み、獣のように険しく無愛想な顔を半分、シラプスに向けた。
「シーバックだ。生のエビは大丈夫かい?」
「ああ、大好物さ」
ウェイターが二人の前に、爽やかな金色の酒を満たしたグラスを置いた。
「ガントレットだ」シーバックは説明した。「マスカードミニア王シスポーが、処刑される直前に飲んだといわれている。おれの故郷では定番の酒だ」
「ふむ」
シラプスはシーバックにグラスを掲げ、一口含んだ。仰々しい名まえとは裏腹に、見ためどおりの透きとおるような風味の、喉越しのよい蒸留酒だった。
「ここは長いのかい?」シラプスはきいた。シーバックが睨むように顔を向けると、つけ加えた。「その、ずいぶんソッカイア語がじょうずだったから」
「貿易の仕事をしている」シーバックは答えた。「ここいらでは必要な言語だ」
「なるほど。するともしかして、カーレンに来たことも?」
「いや、ない」シーバックは酒をぐびぐびと飲みこみ、グラスをカウンターに叩きつけた。「あそこは海賊が多いんでな」
シラプスは話がまずい方向に進んでしまったことを感じ、急いで軌道変更を試みた。「ああ、カーレンは観光が盛んとはいえないからね。興味を持つのはたいてい神職者か、シュランみたいな侵略者くらいさ」
「シュランか。あそこの属国には何度か行ったことがある」
「ほんとかい?」
シーバックはグラスを手に、金色の液体を睨んだ。「ジムリアと、ヘルト=モスクって国だ。いけ好かねえ連中だが、金払いはいい。ずいぶん昔の話だがな」
「でも、あのあたりは西側より……」シラプスは海賊という言葉をすんでのところでしまいこんだ。
シーバックは顔を向けた。「カーレンが海賊とつるんでいることなんざ、どうとも思っちゃあいねえ。ほかの国は知らねえが、必要悪っていうのもある」
この男は見かけ以上に思慮深い人種のようだ。いやそれとも、冷酷なまでの合理主義者か。
「あそことの仕事は金になったんでな。だが、制約が多い。領内で見たものは決して口外するなと誓約書を書かされ、積荷や乗組員の私物まで隈なく検閲され、ケツの毛穴の中まで徹底的に調べ尽くされる。税関で少しでも疑惑がかかれば最後、年単位でそこから動けなくなる」
シラプスはうなずいた。「シュランは非情な独裁国家だ。それをきいてもちっとも驚かないさ」
「去年だけでも、重要機密を持ち出したという容疑で四〇人以上が行方知れずだ。金に目が眩んだ馬鹿は世話ねえが、そのほとんどが冤罪とあっちゃあ、そんな危ねえ仕事をいつまでも続ける気にはなれねえ」
シーバックは顔をぐっと近づけ、周りにきこえないよう小声でつぶやいた。「なにを知ったかしらねえが、おまえは馬鹿踏んじゃあいねえだろうな?」
シラプスは、彼の言葉の意味がわからず、しばらくその凄みに圧倒されて黙りこんだ。
「アミーナグラッセ」
出入り口のほうで店員の声があがった。
シーバックは横目でそれを一瞥して、さらに続けた。「店の奥に進むと調理場がある。向かって右奥の扉が勝手口だ。一気に走れ」
「い、いったい――」
「行け!」
シーバックが叫んでシラプスを押し飛ばした瞬間、ラビン銃の耳をつんざく連続射撃音が鳴り響いた。カウンター席が見る間に木屑となり、酒瓶やグラスが次々に砕け散る。店内は客の阿鼻叫喚と、火薬が炸裂する絶え間ない銃声に満たされ、数人が凶弾を浴びてテーブルや椅子に倒れこむ音さえかき消された。
シラプスは混乱しながらも、店員のソッカイア人がなにかを叫んでいるのを無視し、いわれたとおりに夢中で店の奥へ駆け抜け、右奥の木製の扉めがけて思いきり体当たりした。
扉を突き破って外へ飛び出すと、シラプスは額に激痛を感じ、呻き声をあげた。店の中からはまだ銃撃音が続いていた。シラプスは慌てて立ちあがり、とにかくここから離れようとまっしぐらに駆けた。
背後で車のエンジンが唸りをあげる音がしたかと思うと、シラプスは全身にライトの明かりを浴びた。冗談だろう?! 急回転する車輪が地面を削りあげる音がした。
目の前の路地に、窓のあいた建物があった。シラプスは夢中でそこに向かって地を蹴った。車は猛然と突っこんでくる。
足がもつれた。シラプスは体勢を立てなおすことができず、思いきり体を地面に投げ打った。
ああ、最後に旨い酒が飲めて幸せだった。だがせめて、肴の生エビを一口だけでも味わっておけばよかった。
シラプスは聖指を立てた。
突然巻き起こった突風で、シラプスの体は吹き飛んだ。死を感じたシラプスは、このまま激痛を味わわず、安らかに逝けることを願った。だが次の瞬間、彼は三度全身を強打し、あちこちに砂利が食いこむ痛みを感じて呻いた。
今度は爆発音。シラプスは両腕で頭を抱えながら、音のしたほうを覗き見た。ここはどこだ? 地獄か?
かがり火のようになにかが燃えあがっている。その手前に、人影が二つあった。
長い髪、腰から足首にかけて広がる二重のミレット、そして腕から伸びた旗のようなものが風に靡いている。もう片方の腕からは、紙袋のようなものがいくつもさがっている。その影は足もとにあるもう一つの影を見おろしていた。
「
うつ伏せに這い
「事情はのちほど伺います。いまはそのまま寝ていなさい」
頭にターバンを巻いたそのイオルクは、震える顔をあげ、嘴のあいだで歯をむき出して彼女を睨みつけると、目にもとまらぬ速さで懐から弩銃を抜き出し、
「おやめ――」
鋼鉄の矢が、リンゴに突き刺さるように男の頭を貫通した。
アコラーデは両膝をついて紙袋を脇に置き、右手を男の背にのせ、左手で胸もとのスプレッド(ピヴィルス教会の紋章を象ったペンダント)に触れた。
「ヨハーダ。アンデュグレーニヴラスエルパスィ、パクプラストゥミスタ」右手をふわっと浮かせ、再び置く。「エンナーダ」
両手でスプレッドを包みながら深く一礼すると、彼女は立ちあがり、振り向いた。
「ディクラ、いったいなにがあったのです?」
その声をきいてシラプスはようやくわれに返り、自分が助かったことを感じた。そしてその一瞬後、店に入ってきた最初の暗殺者のことを思い出して立ちあがった。
「アコラーデ! あの店に――」
「おい! 平気か?!」
大声をあげてこちらへ駆けてくる影を見て、シラプスは今度こそ安堵を感じて脱力し、その場に座りこんだ。
「まあ、大変! 血が出ています。すぐに手当てしないと」
シラプスは肩を貸そうとするバラドニーの手を押さえた。「大丈夫、歩けますよ」
シーバックは駆け寄りながら倒れた男を見て舌打ちし、シラプスを見てほっと息を吐いた。
「よかった、無事か。とりあえず、あんたたちは基地へ戻れ」
「どちらさまです?」バラドニーが突然現れた男に食ってかかった。「これはいったいなにごとです? なにがあったのか説明なさい」
「いまは詳しく話している暇はない。殺し屋を逃がしちまった。あんたたちはとにかく身を隠すんだ。いいな?!」
「あ! お待ちなさい!」
シーバックの走り去っていくうしろ姿に怒鳴りつけると、バラドニーはシラプスに向きなおり、紙袋を押しつけた。
「おひとりで歩けますね?
「アコラーデ――」
彼女はそういうと腕を振ってペネシャルを巻きつけ、シーバックを追って中心街のほうへ走り去った。
シラプスは、いまようやくこの場の惨状をまじまじと観察することができた。燃えあがる車の残骸は、よく見ると前半分しか残っておらず、その奥の地面は巨大なシャベルで掬ったように抉れていた。
シーバックはバイクに跨って発進した瞬間、後部座席に突然重みを感じてバランスを崩しかけた。
「な、なんだ?!」
バラドニーは肩にしがみつき、髪を振り乱して睨みつけた。
シーバックは再びバイクをとめる時間を惜しみ、歓楽街へ向かってアクセルを全開にした。
「あなたは何者です?! ディクラとどういう関係なのです?!」
「いいからじっとしていろ!」
殺し屋の車が向かった方角には、第二次協商軍の基地から最も離れた、身を潜めやすい沿岸の倉庫地域がある。全速力で目指せばまだ間に合うはずだ。
「バイクをおとめなさい!」
「黙れ! 突き落とすぞ!」
この街で最も高いあのホテルビルの真横を抜ければ、見晴らしがよくなる。車が発進した時間から逆算すれば、そろそろ姿を現すはずだ。
首になにか妙な感触がしたかと思うと、突然もの凄い力で後方に締めつけられた。シーバックは目を見開き、顔をまっ赤にして首筋の筋肉に渾身の力をこめ、命を奪いにかかる怪力に抗った。
「こ……の……アマ……!」
頭に血が昇り、視界が曇りゆくなか、前方に緑がかった真鍮の車体が見えてきた。左の後輪がわずかにたわみ、あまり速度を出しきれていない。焦ってどこかにぶつかったか。シーバックは触感だけでホルスターから銃を手に取り、歯を食いしばって全身の力を首筋に集中した。ここでやられてはもとも子もない。シーバックは一心に念じて弾をこめ、前方の後輪に向かって引き金を引いた。
弾は手前の地面で火花を散らした。
「いい……加減に……しろ!」
シーバックは銃身を首のうしろに向かって数回振りぬいた。彼女が一瞬怯んだ隙を逃さず、シーバックは首の布を掴んで持ちあげた。
「あぐっ……!」
すぐに後方に布が締めつけられ、今度は猿ぐつわを嵌められる格好になった。
「おのれ!」
「ふ、ふはへうわ……!」
殺し屋が反撃してきた。ラビン銃の散弾がバイクに襲いかかり、シーバックは大きく後退した。その勢いで再び布が緩むと、シーバックは首をくるりと回して拘束から逃れた。
「いいか、よくきけ! あの車はおまえたちの命を狙っている! おれを殺したけりゃまずあれを片づけてからにしろ! いいな!」
「よくきこえません!」
「くそったれ!」
再び銃弾を浴び、シーバックは避けた反動で歩道にバイクを乗りあげた。
「くそ! どけどけ!」
歩行者が毒づきながら飛びあがって身を避けた。
「車道にお戻りなさい!」
バラドニーは拳を振りあげてシーバックの首もとを連打した。
殺し屋はさらに銃撃をしかけようと並走してきた。シーバックは急ブレーキをかけてそれをかわし、反転するとようやく車道に躍り出てエンジンを全開に急発進した。
追跡の舞台は海岸線と倉庫地帯を望む郊外のくだり坂に入った。さらに速度をあげた殺し屋は一気に坂をくだりきり、その勢いのまま倉庫群にいたる金網のフェンスを突き破った。シーバックは砂煙をあげて、歪んで倒れたフェンスの残骸を巧みに避け、岩礁を越えるカジキのように疾駆した。
「銃を使ったことは?!」
「ありませんわ!」
シーバックは歯で器用にリロードし、肩越しに銃を差し出した。「こいつであれを撃て!」
「きこえませんでしたの?! わたし、銃は撃ちません!」
「とやかくいわずにやれ! 撃ってりゃそのうちどこかに当たる!」
「ごめんですわ! わたしのやりかたでやらせていただきます!」
そう叫ぶと、バラドニーは腕を振り、ペネシャルを風にはためかせた。
「もっと近づきなさい!」
「どうするつもりだ?!」
バラドニーはシーバックの頭をパシッと叩いた。「魔獣の力を信じなさい!」
「なに?!」
バイクがさらに近づくと、殺し屋は窓からラビン銃を突き出し、肩越しに乱射した。
バラドニーは怯まず、バイクの後部ステップに足を引っかけ、立ちあがった。ペネシャルの端を左手で掴んで目の前にぴんと張り、それを水平に構える。
目をつむり、ペネシャルを額に当てて囁いた。
「わが父サングマールよ。いまこの手に、静かなる力を与えたまえ」
ペネシャルが振りきられ、その前方に突風が巻き起こり、前進する殺し屋の車を風圧でさらに押し飛ばした。宙に浮いた車体は横転して左側面で着地し、そのまま前方へ砂煙をあげながら滑り進んだ。車体は勢い余って逆さまに倒れてもなお突き進み、倉庫のひとつに激突するとようやくとまった。
バイクは砂にまみれて停止した。シーバックが目の前で起こったことが信じられないように唖然としていると、バラドニーは座席から飛び降り、風を切って疾走した。
「待て!」シーバックはバイクを走らせた。
イオルクの殺し屋はよろめきながら運転席から這い出てくると、向かってくるバラドニーに気づいて慌てて逃げ出した。すぐに彼女の脇を通過して躍り出たシーバックが、追い越しざまに右の拳を振りあげて、殺し屋の後頭部へ強烈なパンチをお見舞いした。殺し屋は突っ伏して倒れ、前方にシーバックが停車すると手足をばたつかせて脇へ駆け出した。
シーバックは銃を一発放った。
足元に着弾し、さすがの殺し屋もぴたりと立ちどまった。
「そこまでだ!」
シーバックは銃を構えて殺し屋に歩み寄った。バラドニーも立ちどまった。
「両手を頭のうしろに回せ!」
殺し屋はゆっくりと両腕をあげた。右手に拳大の鉄の球を握りながら。
「いけない!」
バラドニーが叫んだ瞬間、爆音を立てて殺し屋の体が炎に飲みこまれ、爆風が周囲に広がった。シーバックとバラドニーは後方に飛びこんで地面に伏せた。
その約二〇分後には、第二次協商軍の警察部の車両や騎馬隊が、爆発現場に到着した。
倉庫地帯は明かりがほとんどないため、遠方からでも複数の光点が集まる現場の様子を目視できた。ビルの屋上からそれを見つめながら、バラドニーは背後の男に声をかけた。
「彼らが、わたしたちの命を狙った殺し屋だということはわかりました」彼女は肩越しに振り返った。「最初の質問です。なぜ、あなたはわたしたちを助けたのですか?」
「おれは覇教諸国やその周辺組織の情報を扱う捜査員だ。といっても、どこかに所属しているわけではねえ。いわゆる、雇われスパイってやつさ。顧客はおもにカーレンの外務官や酋領会議員で、彼らに提供する商材は、ほとんどが覇教国関連の情報だ」
バラドニーは黙っていた。
「二日前、サロマン・ズールの海賊がおまえたちを始末するために殺し屋を雇ったことを知った。なぜ海賊が同盟相手であるカーレンの公人に手を出すなんて大胆なことを考えたのか、そこまではわからねえ。だが、その動機にはなにか裏があるに違いねえと思った。あんたならご存知だろうが、やつらが四年前、覇教国を相手に商売を始めたという情報は当時、酋領会も掴んでいた。それ以来おれは、この海賊団が覇教国の、しかもかなり中枢にパイプを作りあげたと踏んで、ずっと調査し続けていたのさ」
「四年前の情報も、あなたがもたらしたことなのですね?」
「それはいえん。とにかく、サロマン・ズールを追えば、覇教国に辿り着く。今回もそのつもりで来てみたんだが、結果はこのざまだ」
「興味深いお話ですが、質問の答えにはなっていませんわ。なぜわたしたちの命を、身の危険を呈してまで助ける必要があったのです? へたをすれば、彼らにあなたの存在を知られることになる」
シーバックは腕を組んだ。「現場に立ち会ったほうが尻尾を掴みやすいからさ。やつらをとっ捕まえて、情報をきき出してから隠密に始末する。それがおれのやりかただ」
バラドニーは夜空を見あげた。「いいでしょう、それで納得いたします。では二つめの質問です。あなたは第二次協商軍と、なにかご関係がおありですか?」
「いいや」
「三つめの質問です。あなたはわたしたち一行のことを、どこまでご存知ですか?」
シーバックは両手を振った。「安心してくれ。あんたたちのことは、カーレンの公人だってことくらいしか知らねえ。あんたがその、おっかねえ尼さんだってことも知らなかったくらいだ」
バラドニーはうなずいた。「いいでしょう、信じます。質問は以上です。貴殿の勇気ある行動に、敬意を表しますわ」
「それじゃあ、次はおれからの質問だ」シーバックは再度腕を組んだ。「サロマン・ズールに命を狙われていることに、なにか心当たりはないか?」
バラドニーはしばらく沈黙し、夜空を見つめていた。
「いいえ、ございません」
「そうか」
バラドニーはシーバックに顔を向けた。「わたしの目は魔獣の目であり、わたしの耳は魔獣の耳。もしなにか知ることがあれば、わたしはまっさきにカリドナへ報告する義務がある」
「だろうな」シーバックは肩をすくめた。「これからどうするんだ?」
「あなたとは会わなかったこととし、予定どおりこの島を去ります」
「いい答えだ」
シーバックは満足げにそういうと、彼女を背にして階段へ向かった。
バラドニーはそのうしろ姿が闇に消えていくまで、じっと見届けた。
ソッカイア艦隊の管理する医療施設で手厚い看護を受けたシラプスは、体中に救急絆を貼りつけ、頭に包帯を巻いた状態で船橋に戻った。そこにはバジルとデジェルド大佐のほかに、もう一人の第二次協商軍士官の姿もあった。
「シラプス、よかった。大丈夫そうだな」
バジルはほっと胸を撫でおろし、彼の肩に手を置いた。
「ええ、かすり傷ですよ」
「しかし、とんだ災難だったな。いまここの警察部が調査をしているが、いったいなにがあったというのだね? 詳しくきかせてくれないか」
デジェルドはそういうと、シラプスにうしろのカウチを薦めた。
シラプスは目を曇らせ、腰をおろしながらいった。「じつはわたし自身、状況がよく整理できていないのです。突然のことだったもので。ただ、明らかにわたしは命を狙われました。最初は居酒屋で酒を飲んでいたとき。次は、そこから外へ逃げだした直後。店内では銃撃され、そこで知り合った男性客に助けられました。外では車で轢き殺される寸前でしたが、たまたま通りがかったアコラーデに助けられました。車の男はアコラーデに身柄を確保される寸前、持っていた弩銃で自殺しました。アコラーデは男性客とともに、逃げた銃撃犯を追って中心街のほうへ向かっていきました。情けないことですが、わたしはそのまま、ここへ逃げ戻ってきました」
バジルが口をひらいた。「すると、いまもまだアコラーデは、その男性客とともに犯人を追跡中ということか?」
シラプスは肩をすくめた。「すでに戻られていることを、わたしも期待していましたが……」
デジェルドは眉間に皺を寄せた。「その男性客とは、何者なのかね? なにか話をしたのだろう?」
シラプスはうなずいた。「ええ、よく覚えています。シーバックと名のりました。貿易関係の仕事をしているとか。彼は、わたしが命を狙われていることを知っていたようでした。最初の銃撃が始まる寸前に、店の裏へ逃げるよう彼から指示を受けたのです。そのおかげで助かりました」
一同は目を見合わせた。
デジェルドが口をひらく。「その、シーバックという男の風貌など、覚えていることをすべておしえてくれ」
シラプスは身長や体格、髪型、服装、右腕に大きな切傷の痕があることなどを供述した。
デジェルドはそれをきくと、もう一人の士官にいった。「すぐに手配してくれ」
士官はきびすを返して船橋をあとにした。
バジルはシラプスの肩に再び手を置き、穏やかに揺すった。「気を落とすな、シラプス。おまえは子どもたちを無事にマジャルへ送るための、われわれの大事な操舵士だ。そして、アコラーデ・イグジメルは魔錦士だ。自分を責めるのは筋違いだぞ」
「ええ、わかっています」シラプスは目をつむり、言葉を押し出した。「ですが、わたしも軍人です。あのとき、わたしはなにもできなかった。自分だけの力で逃げのびることさえ……」
バジルはため息をつくと、階段を駆けあがる足音に気がついて振り向いた。
「ただいま戻りました」
バラドニーはデジェルドをひと目見て、あがった息を押し殺し、優雅に腰を落として会釈した。「ごきげんよう、大佐殿」
「ごきげんよう、アコラーデ」デジェルドは微笑して軍帽をつまんだ。
シラプスは立ちあがろうとしたが、すぐに彼女に制された。「動いてはお怪我にさわります、ディクラ」
「いえ、かすり傷ですよ……」シラプスは狼狽した。たのむからみんなして過剰に心配しないでくれ!
バジルが口をひらく。「アコラーデ、話はシラプスからききました。して、犯人は?」
「ええ、残念ながら、すっかり見失ってしまいましたのよ」
デジェルドがいった。「今後のことはわれわれにお任せください、アコラーデ。狭い島です。すぐに犯人も捕まることでしょう。それまで、出港は一時延期し、ここでゆっくりされるといい。子どもたちにとっても、ほとぼりが冷めるまではここにいたほうが安全だ」
「感謝しますわ、大佐殿」バラドニーは困ったように眉をひそめた。「ですが、出港は予定どおりにさせていただきますわ」
「なんですと?」バジルが声をあげた。「お待ちください。いまの状況では、とても出港など……」
シラプスも驚いた表情で彼女を見た。アコラーデなら、子どもたちを危険に晒す選択は絶対にしないはずだと思ったからだ。
つまり、もう危機は去ったということか?
「わたしもドレンコと同感ですぞ、アコラーデ」デジェルドがいった。「ディクラ・シラプスの話では、彼は命を狙われている。つまり、この船が狙われているのです。犯人が見つかっていない、しかも複数での犯行、こんな状況で出港しては、子どもたちの命まで危険に晒すことになる」
バラドニーはシラプスを見た。「ディクラ、早くお休みなさい。その体は自分ひとりのものではないのですよ」
「アコラーデ!」バジルは声を荒げた。「ご自分のおっしゃっていることがおわかりか?!」
バラドニーはバジルを見すえた。「もちろんですわ、
バジルはさすがにいい返すことができず、面食らったように押し黙った。
バラドニーはデジェルドに向きなおり、微笑んだ。「遅くともあさってには、ここを発ちます。それまではどうか、ご助力をお願いいたします。旅に危険はつきもの。だからこうして、わたしが同行しているのです。この船の安全は、わたしが保障いたしますわ」
彼女はバジルに再度目を向けた。「子どもたちを送り届ける任務は、必ず予定どおりに遂行します。いかなる遅滞も許しません。よろしいですね?」
バジルは肩をいからせたものの言葉にはいえず、息を吐き出した。「おおせのとおりに……」
彼らはそのまま、捜査状況の確認や日程の段取りについて協議をおこなうため、第二次協商軍の警察部オフィスへと移動した。シラプスは宿舎に行き、食事をとって休むよう命じられた。
アコラーデのあの決意の表情。シラプスは彼女のあれほど真剣で気迫に満ち、いら立ちをおくびにも出さない様子を見たことがなかった。きっと、あの追跡の先でなにかあったに違いない。おそらく犯人か、もしくはあのシーバックという男とのあいだでなにかが。
シラプスは夜の海を眺めながら、軍獣たちが潜っている辺りに腰をおろし、うなだれた。心の中で、自分のアコラーデに対する信頼がより大きくなっていることを、そしてそれに反比例するように、自信が収縮していくのを、無力感がむき出しになっていくのを感じた。殺し屋の車から助けられたときのあの勇壮なうしろ姿、あんなものをあんな状況でまのあたりにすれば、誰だって平伏してしまう。神にすがるように、ぶざまに泣きついてしまう。
頭の中で、いままで魔獣とカーレンに対して貫いてきた信念の周りに、ぐるぐると疑念が巡りはじめた。あのとき、自分は本当になにもできなかったのか? 獣師だから、軍獣を操ってさえいればいいのか? 同じ軍服を着た士官が敢然と敵に立ち向かっているとき、自分の命だけを守るために必死に逃げていればいいのか?
あのとき素直に殺されていれば、子どもたちを危険に巻きこむこともなかったのではないか?
「ディクラ、いい夜ね」
突然声をかけられ、シラプスは驚いて振り向いた。なんてざまだ。気落ちしすぎて、近づいてくる足音さえきこえなかったのだ!
「セイナ、どうしたんだい?」
「あなたこそ、どうしたの?」セイナは、振り向いたシラプスの額に巻かれた包帯や救急絆に気づいて、目をまん丸にした。
「階段を踏みはずしてね」シラプスは苦笑して包帯を撫でた。「それより、もう寝る時間だろう? 夕食は済んだのかい?」
「ええ、いただいたわ。みんなが揃うまで待っていたかったけれど、バーミッヒが急かすから。でも、ディクラもドレンコも、アコラーデも、誰も宿舎に来ないから、ここへ探しに来たのよ」
シラプスはため息をついた。「心配をかけてごめんよ。いろいろとあってね」
「なにをしているの?」
「海を見ていたんだ」
セイナは微笑んだ。「すてきね。わたしも海を見るのは好きよ」
シラプスも微笑み返した。「いっしょにどうだい、お嬢さん?」
セイナは彼の傍らに腰をおろし、同じように縁から足を投げ出した。
しばらく、二人で穏やかな波の揺らめきを見つめた。
やがてセイナが切り出した。
「ロードヴァニエルの海より、ほんの少し、きれいだわ」
シラプスはそれをきくと、心配そうに彼女を見た。
「ママやパパと離ればなれで、さびしいかい?」
セイナは海を見ながらいった。「あたりまえでしょう。でも、さびしがっていてもしかたがないわ」
シラプスは微笑した。「さすがだな。立派な答えだ」
「それに、それと同じくらい、とても楽しいし」
気遣い上手なセイナはそういうと、空を仰いだ。
「アコラーデも、ディクラも、ドレンコも、バーミッヒも、トムコルもいるもの。それに、ロージーも、ハンシーも、……」
セイナは全員の名を列挙した。
「いわれてみれば、そんなに賑やかだったな」シラプスは笑った。
「そうよ。それに、ヴォーニターもいるわ」
「ああ」
シラプスは足もとの海面を見つめながらいった。
「こいつらにも、名まえはあるんだぜ」
「ほんと?」セイナは興味津々に身を乗り出した。
「右のやつがシンディス、中央がローザン、左のやつがイラーディだ」
「シンディスに、ローザンに、イラーディね。わかった、おぼえたわ」
「名まえで呼んであげれば、こいつらも喜ぶよ」
セイナは暗い海の底へむけて声をかけた。「シンディス、シンディス」
軍獣が動いている気配はなかった。
「きこえていないのかしら」
「こいつらはこうして港にいるあいだは、へたに動くと人の迷惑になるってことを知っているのさ。だから、じっと体を休めて時間を潰しているんだ」
「眠っているのね」
「まあ、そういうことだけれど、人のように深い眠りにはつかない。だからいまのセイナの声も、きっとシンディスにはきこえているよ」
「ほんと? よかったわ。シンディス、ローザン、イラーディ、いつもお疲れさま。ゆっくりお休みなさい」
セイナは満足そうに笑った。
「ディクラはやっぱり、この子たちとお話ができるのね」
「ああ、それは、このあいだ説明したけれど……」
「いいのよ。いつもきいているわ。魚をあげているときとか」
きかれていたのか。
「そのほうが気持ちも伝わるだろう?」
「そうね」
「いくら感応器を使っても、思うようにいかないことがあるのは、軍獣もほかの動物も同じさ。結局、気持ちがつながっていないと心を通わせ合えない。だからまず、友だちになるんだ。毎日仲よく遊んだりごはんを食べたりしているうちに、いままで気がつかなかったこと、こういうときこいつらはこんな反応をする、みたいな、こいつらなりの小さなメッセージのようなものに気がつくんだ」
「うちのビーグも、たまに鳴き声が違うわ。甲高かったり、ちょっとおとなしかったりするもの」
「そうだ。そういう細かい鳴き声の違いや態度の取りかたの意味に気がついてくると、だんだん彼らの気持ちがわかるようになってくる。言葉で話すのではなく、気持ちで話すというのかな。相手が『餌がもっと欲しい』って態度でくると、『もうあげただろ』ってことを態度で示してやる。そうやって気持ちと気持ちをぶつけ合って会話するのさ」
セイナは流し目をした。「やっと、ちゃんと説明してくれたわね」
シラプスは彼女のあまりにおとなびた表情に、思わずごくりと息を呑んだ。
「アコラーデはいつも、ディクラは最高の獣師だっていっているわ」セイナは夜の水平線を見つめながらいった。
シラプスはその横顔をしばらく見つめ、やがて心の中で彼女の気持ちに感謝した。
気がつけば、おれは彼女に完ぺきに励まされていたらしい。
「そろそろ、宿舎に戻ろう」
第二次協商軍警察部の施設内に設置された対策室に入る直前、バジルはバラドニーの肩を叩き、腕を引いて通路の隅に急きたてた。
「少々お待ちくださって」バラドニーはドーメニアの将校たちに笑顔を振りまいてそう声をかけると、バジルに顔を向けた。
バジルは険しい表情で囁いた。「アコラーデ、あの件はどうなっているのです?」
「あの件?」
バジルは呆れたようにかぶりを振った。「海藻のことです。このまま彼らにもしらを切るおつもりですか?」
バラドニーは両手を合わせ、上品に口もとを隠した。「当然です。確証もないのにこのようなところで話を大きくしては、混乱を生むだけですわ」
「しかし、ことの発端はあの件にあるとしか考えられませんぞ!」バジルは声を潜めながらも、感情をあらわにまくし立てた。
バラドニーは両の手のひらを顔の横で広げた。「
「ここはドーメニアですぞ。もはや四の五のいうとる場合じゃあ――」
デジェルドが訝しげに声をかけた。「なにか、問題がおありでしたかな?」
バジルが咳払いし、バラドニーは外交的な笑顔で向きなおった。「お夕飯の打ち合わせでございますわ。船長ったら、なにもこんなときに」
「そうですか」デジェルドは懐疑的にそう答えるも、笑みを浮かべた。「この騒ぎですっかりあと回しにしておりましたが、わたしの艦に晩餐の席をご用意しておったのですよ。ここには本国から一流のシェフを呼び寄せておりましてな。よろしければのちほど、ああ、もちろん、お二人とも、いかがですかな?」
「まあ! ぜひごちそうになりますわ。よかったですね、
脇腹を肘で小突かれ、バジルは笑みを押し出した。「痛っ……だきます」
対策室では、五人の下士官が端末と通信機で外部とやり取りをしながら円卓を囲んでおり、二人の軍服を着た士官が壁一面に地図が表示された映写盤の前で、手もとの書類を睨みながら話しこんでいた。デジェルドたちが現れたのに気づいた士官の一人がこちらへ向かってくると、一行に敬礼をした。
「警察部のフレクスス少尉です」
バラドニーは腰を落として会釈した。「アコラーデ・イグジメルです。こちらはドレンコ・バジル」
フレクススはデジェルドに向きなおり、対策室の奥の机に手を振った。「大佐、少しよろしいですか?」
「ああ」
フレクススはデジェルドに書類を見せながら、中身の内容を伝えているようだった。デジェルドは二回、三回とうなずくと、一言なにかを少尉に話しただけですぐに彼とともにこちらへ戻ってきた。
「失礼しました。じつは、例の自殺した犯人の身元が判明しました。ある犯罪組織のメンバーです」
「犯罪組織?」バジルは思わず声をあげた。
「ええ、それが、ゴルマニアの武装集団のひとつでして、」デジェルドは書類を見ながらいった。「なにか、お心当たりはございますかな?」
バラドニーは海賊の名まえが出てこなかったことに胸を撫でおろしつつも、意外なワードが出てきたことに少々面食らった。「犯人は、わたしにチャブ語でなにかをまくし立てました。それは、ナグル=ファの関連組織ですの?」
ナグル=ファとは、イオ原理主義を掲げる、ゴルマニア屈指の過激派勢力である。
「いえ、小規模ですが敵対勢力と考えられております」デジェルドは少尉に書類を返した。「それに、ナグル=ファはこういった示威行動を起こす場合、まず声明を出しますからな」
バラドニーはかぶりを振った。「いずれにしましても、ゴルマニアとカーレンは国交を絶って久しいですわ。特別これといって、恨みを買うようなことは思いつきません」
「まあ、高貴な身分を狙った金銭目的の犯行という線もありますが、」デジェルドはしかとバラドニーを見た。「かなり周到で計画的な犯行であることは間違いありません。第二次協商軍としては今回の件を、国際的なテロ事件として全面的に対策を講じることになるでしょう。われわれの領内においては、護衛による多少の息苦しさはご容赦いただきますぞ」
バラドニーはこうべを垂れた。「カーレンを代表して、感謝申しあげますわ。マジャルは貴人と学問の聖地。そこへ子どもたちを無事に送り届けるのがわれわれの使命です」
「それと、ですが」フレクスス少尉がいった。「郊外の倉庫エリアで、逃走していたもう一人の犯人が見つかりました。ですが、この者もなんらかの爆発によって絶命しております。現場には犯人のものと思われる車両のほか、二輪車の通った形跡も見つかっておりまして、現状では他殺か自殺かの確定には及んでおりません」
デジェルドは鼻の奥を鳴らし、つかの間考えこむように目を閉じた。
「アコラーデ」デジェルドは目をあけると、バラドニーを見た。「ある男が銃撃犯の追跡に同行していたと、ディクラ・シラプスからきいております。その男は居酒屋でディクラと知り合った貿易商とのことですが」
「ええ、勇敢な市民ですわ」
「なにか、話はされましたか?」少尉が促すように尋ねた。
バラドニーは無念もあらわにかぶりを振った。「ディクラの怪我の具合を確認していたときに少し言葉を交わした程度ですわ。わたしったら気が動転していて、お名まえも伺っておりませんの。追跡中にはぐれてしまい、それっきり」
デジェルドは口を引き結んで納得するようにうなずき、捜査の指揮に戻るよう少尉に手を振った。
「今後、」大佐はいった。「このドーメニア領内において、あなたがたに危害が及ぶことはなんとしても避けたい。しかしそのためには、両国の足並みが揃わなければなりません」
バラドニーはバジルにうなずき、デジェルドに答えた。「一度船に戻り、現状報告を含めて本国の指示を仰いでまいります。協議はまたそのあとに」
執務室でバラドニーからの報告を受けたオルダ・ジンキンスは、事件の顛末をきいてはじめこそ驚いたものの、すぐにいつもの平静を取り戻した。背後のサングマールはすべての説明を主任補佐官に委ね、亡き三頭のシカンセクの遺影をあしらった壁のレリーフと同化し、映写盤に映るバラドニーの顔に光を失った瞳を向けていた。
「クラヴァックス提督が、カーリッシオへの召喚に応じたのよ」オルダは凶報に目を曇らせながらも、吉報を伝えることができた安堵でわずかに苦笑した。「あの男は大軍を引きつれて来るから、念のため、コンペティシアとシリカとテロケニアがファルコドスの召集をはじめているわ。久しぶりにサングマールが酋領会を説得してね」
「《その召集は、パンダクス艦隊のお墨つきなのですね?》」
「ええ、そのとおりよ。サロマン・ズールはいまや、第二次協商軍にも目をつけられている。だから、襲撃事件を外交問題として気にすることはないわ。あなたには辛い思いをさせたわね」
「《おやめくださいな。それより、海藻の調査の件はいかがでしょう?》」
オルダはため息をついて肩をすくめた。「やっぱり、実物がないとなんともいえないわね。どう見てもただの海藻としか……。ガルディルーラにも海域調査をお願いしているけれど、まずは喚問結果を待つしかないわ。最悪の場合は、あなたのマジャルのご友人に任せる」
「《わかりましたわ》」
「とにかく、スパイのことは伏せつつ、サロマン・ズールを事件の容疑者としてデジェルド大佐に提言することは許可するわ。よろしく頼むわね。もし護衛をくださるというのならお甘えなさい。彼らの領内では、彼らの法に従うのが道理よ」
「《ええ、そうしますわ》」
「喚問内容は逐一連絡するわ。ああ、それと、」オルダは思い出したように、机に伏せるような姿勢でこめかみに手を当てた。「今回の襲撃事件については、パンダクス艦隊との協議で是非を決定しだい、公表するわ。こっちがこんな状況だから、子どもたちはより安全なドーメニア領内にいるということで、いまご家族はむしろ安心してくださっているの。バラドニー、なにか妙案はある?」
バラドニーは微笑んだ。「《主任、うしろ》」
オルダは頭を抱えたまま体を凍らせた。
「サロマン・ズールの名を親族にまで隠し立てする必要はない。彼らが主犯であれば、自由通商海域から遠ざかるほど安全だと説明されれば、おおかたは納得する」サングマールは唸った。「どうだ?」
「それでいきましょう」オルダは親指を立てた。
魔獣は闇の中で目をぎらつかせた。「イグジメルよ、暗殺者は己の生命と使命、どちらを優先した?」
「《使命ですわ》」
魔獣は続けた。「ではイグジメルよ、おまえは目の前で放たれた矢を避けられるのか?」
映写盤上のバラドニーはつかの間言葉に迷ったが、かぶりを振った。
「《いいえ、不可能ですわ》」
魔獣は喉の奥でくぐもった唸り声をあげた。「そうであろう。少なくとも、おまえは彼らの標的ではなかった」
オルダは顔をあげ、魔錦士の固まった表情と目が合った。
サングマールはさらに続けた。
「あらゆる可能性に目を向けることだ、イグジメル。一度捨てて埋もれたものは、時が経つだけ掘り返すのが困難になろう。思いこみとは、そういうものだ」
「《深く心得ます、サングマール》」
「スパイについてはコレステラに確認する。アーリックはクラヴァックスの船団とは独立した、掴みどころのない男だ。再び暗殺者が送りこまれれば、そのスパイが今後も鍵となろう」
オルダはうなずいた。「彼が海藻について知っていたのなら、酋領会にも必ずその情報を売っているはず。海藻のことを尋ねなかったのは冷静な判断だったわよ。それに、みずから口封じに命を絶ったゴルマニア人。断定はできないけれど、やはり覇教国が関与している可能性は高い。今後も、できる限りの秩序維持をお願いね」
「《ええ、主任》」バラドニーは毅然といった。「《航海は順調ですわ》」
牽引船から降りると、バラドニーとバジルは警察部から提供された軍馬に乗り、駆け出した。
「獣師を狙った犯行ですと?!」
「その可能性があるってことですわ」
バジルは周囲をきょろきょろ見渡し、軍帽を思わず脱いで懐に抱えた。
「彼らの目的が足止めなら、その真意はこの旅そのものにあるのかもしれない。アーリック船長との接触も、ただの偶然ではなかったのです」
バジルは天を仰ぎ、頭を目まぐるしく回転させたものの、納得のいく結論は導き出せなかったようだ。「か、考えすぎではございませんか?」
バラドニーはうわごとのようにつぶやいた。「そうかもしれません」
* * * * * *
一七〇六年三月二一日、九名の学徒を乗せたカーレンの牽引船との自由通商海域における接触について、サロマン・ズールのクラヴァックス提督は、
一か月前より、商業航路上に自動追尾式発信器の試作品を数基放流していた。航路近辺をカーレンの船が通ることは予期していなかった。海藻に見えたのは、自然に付着したものでカモフラージュのたぐいではない。この発信器はゴルマニアの民間企業と共同開発したもので、カーレンとの通商協定にはなんら抵触しない。
ソッカイア海域のコリットス島で起きた暗殺未遂事件について問われると、クラヴァックス提督は関与を全面的に否定した。アーリック船長による発信器の回収作業は滞りなく完了しており、サロマン・ズールが牽引船とその乗組員に干渉する理由はどこにもない。すべてのカーレン国民と同様、われわれも航海の無事を祈る身である、と。
パルトゥーラ・ドゥファルカンは、後日改めて、技術者とともに実物の発信器を持って出頭するよう海賊の提督に命じた。
コンペティシアのアイティルバック軍港には、この喚問が終わるまで一八隻のサロマン・ズールの船が停泊することになり、彼らの動向に対してはカーレン海軍の三つの主力艦隊が監視をおこなった。ファルコドスと呼ばれる艦隊は、地方領主マセーレが権限を握る海上戦力の最大戦術単位のことで、通常、二〇~四〇隻の軍艦で構成される。それぞれの艦を直接指揮するのがケンティオーラで、彼らの配下となる部隊がケンティオスである。三つのファルコドスが集結しているということは、少なくとも六〇名を超えるケンティオーラが各地から参加していることになる。これほど大規模な軍事行動は、一六三五年のフリーデン紛争介入以来のことであり、カーレン全土は騒然となった。
年五回の総合演習を除き、ファルコドスが艦隊の戦略的召集をおこなうには、第二次協商軍のパンダクス艦隊司令官に許可を得なければならない。今回の件がカーレンとサロマン・ズールの関係に大きな軋轢を生むことをひそかに期待していたクラウデック・バレジネス提督は、ガルディルーラ・ドゥマーゴの要請を快諾し、ソッカイア艦隊にもすみやかに適切な護衛体制を構築するよう進言することを約束した。だが、第二次協商軍内でそのような連絡はおこなわれなかった。バレジネス提督にとっては、サロマン・ズールに鉄槌をくだす絶好のきっかけであるこの暗殺事件を、簡単に終幕させたくなかったのである。
彼はクラヴァックス提督の一回目の喚問が終わると、議場正面の庭園でガルディルーラ・ドゥマーゴと立ち話の場を設けた。そこには、吉か凶か、魔獣サングマールの姿もあった。
* * * * * *
「非常に興味深い問答でしたな」
バレジネスは彼らに歩み寄ると、まずサングマールの巨体を前にスキンヘッドを深々とさげた。
「おや、提督殿、わざわざ議場にまでおいでなさっていたとは」
「ガルディルーラ」バレジネスはドゥマーゴに顔を向けて微笑んだ。「いやなに、あのサロマン・ズールの長がどのような人物か、一度この目で見てみたいと思っていましてな。想像より、ずいぶんとお歳を召しているようで驚きました」
「九〇も間近だったと思いますわ」魔獣の腹心オルダ・ジンキンスが、肩に乗せたヤールの子どもを撫でながら答えた。「ですが、彼に従うどの船長より野心的で、抜け目のない人間です」
「ほう」バレジネスは庭園を眺めながらいった。「
「ご興味がおありですか?」ドゥマーゴが尋ねた。「じつは、そのことでも酋領会で議論になりましてね」
「どのような?」
「クラヴァックス提督は、傭兵嫌いでも有名なんですよ」ドゥマーゴは、わが子の好き嫌いに頭を抱える親のような口ぶりでいった。「あの歳にもなれば、頭の固さはキマジン石のようでしてね。わたしにいわせれば、彼が殺し屋を雇うなどとは到底考えられない。サロマン・ズールは独自に隠密部隊を保有していますしね」
「カリドナは、」オルダが少々焦りながら口を挟んだ。「襲撃事件については、アーリック船長の独断によるものと考えています。もちろん、殺し屋を雇ったという情報が事実であれば、ですが」
バレジネスは右眉を持ちあげてオルダを見た。「仮にそうだとしても、クラヴァックスの責任が問われないことにはならない。それに、彼らのいう発信器とやらについても、ものによっては製造と使用の禁止措置を講じなければならないでしょう。これを認めてしまえば、わが国の民間船も危険に晒されることになる」
「ええ、おっしゃるとおりですわ」オルダは真顔でそうとだけ答えた。
「わたしにいわせれば、ガルディルーラ、」バレジネスは人差し指を立て、ドゥマーゴに笑みを向けた。「サロマン・ズールが謀叛を起こしたという事実だけが重要なのですよ。船長一人を吊るしあげれば済む問題ではない。四年前、あなたがたはヴァリモアの海賊に対して然るべき行動を起こし、結果的に、彼らを壊滅に導いた。平穏を害する輩は、このエデュプリア海では廃れるべき運命なのです」
「提督殿がこの件を非常に気にかけておられるのは、われわれにとっても心強い」ドゥマーゴは肩をすくめた。「ですが、事は慎重を要するでしょう。暗殺の確たる動機は不明で、その襲撃者についても謎めいた点が多く、また単なる謀叛にしては初動が強引すぎる。サロマン・ズールはたしかに野心的ですが、愚かではない。われわれに正面から歯向かえばどうなるか、彼ら自身が一番よくわかっているはずですよ」
バレジネスはすべてをきかぬうちにかぶりを振った。「ガルディルーラ、あなたがたがなにを恐れているのかはわかりかねるが、これはゴイリアだけの問題ではないのですぞ。コリットスでは民間人に死傷者が出ている。喚問の結果しだいで、第二次協商軍はすぐにでも、彼らの身柄引き渡しを要請することになるでしょう」
彼はそういうとオルダに、そして魔獣に神妙な顔を向けた。「あなたがたの月書や軍獣使い、そして将来のカーレンを担う若い学生たちの無事を願う思いは、われわれドーメニアも同じです。だからこそ、平穏を脅かす反逆の芽は根絶やしにせねばならない」
オルダはこうべを垂れた。
「暗殺は失敗している。つまり、まだ次なる脅威が潜んでいると考えるべきだ。死んだのはただの殺し屋なのですからな」
バレジネスが去っていくのを見守りながら、オルダはガルディルーラの顔色を睨むように窺った。さすがというべきか、彼の表情は仲のよい親子を見送る育児施設の職員のように澄みきっていた。
「いかにも外縁艦隊の将校らしい。そう思わないか?」ドゥマーゴが尋ねた。
「ええ、まるで巣穴を飛び出した血気盛んなリジッドのよう。滅多に訪れない武功をあげる機会を逃すまいと、無垢な非望に駆られている」オルダはため息をついた。「軍の立場は明確ですよ、
ドゥマーゴは歯を見せて笑った。「まあ、そう怒るな。今回はクラヴァックス提督自身の喚問だったんだ。彼についての所見を、ありのままに述べたまでだよ。それに、ラミデップラやケンティオーラの諸兄姉はいつだって準備万端だ。わたしが泣きべそをかいて部屋に閉じこもっていてもね」
オルダは魔獣のごとく、ぴくりとも表情を変えなかった。
「それより、調査のことだが、」ドゥマーゴは真剣な表情でいった。「やはり召喚を受けてすぐに、目ぼしいものはきれいさっぱり掃除したのだろうな。それらしいものはなにも見つかっていない。あすの喚問のあと、クラヴァックス提督に発信器のサンプルを提出するようかけ合ってみるが、やつらのことだ、なにかしらの小細工はしているだろう」
オルダが答える前に、サングマールが唸った。
「無理にとはいわぬ。議場で実物を見れば、なにかがわかる」
ドゥマーゴは眉をひそめた。
「サングマール、ひとつおききしたいのですが」
「うん」
「もしバラドニーの報告どおり、彼らの発信器というものが得体の知れない植物でできているとしたら、それは人智を超えた代物であるに違いない。あなたは、それが彼らの手で作られたものであると信じることができますか?」
オルダも、振り向いて魔獣に視線をやった。
「いいや、難しかろう」
ドゥマーゴはうなずき、さらに尋ねた。「では、なにかがわかるとはどういう意味です? あなたにしては、少々漠然とした表現のようですが」
サングマールはうなずくように頭部を振り、答えた。
「それが、人間によって作られたものか、魔獣によって作られたものか、という意味だ」
ドゥマーゴは口を一文字に引き結び、しばらくきょとんと魔獣を見つめた。
サングマールは続けた。「古い記憶だ。かつてわれわれシュテー=シーの中に、花を愛で、ときに森を枯らす不羈の者がいた。ラムシャルの治世にカムソーリアで消息を絶って以後、われわれの前に姿を現すことはなかった。この者が死んでいるか、生きているかはわからぬ。しかし、生きているなら、シュテー=シーの本能は決して失せることはない」
冷静沈着なドゥマーゴは、いよいよ驚愕して目を見開いた。魔獣の口から放たれる重い言葉によって、彼の全身から血の気が引いていくのをオルダは見てとった。
「あなたのほかに、魔獣が?」
サングマールは肯定するように唸り、オルダがあとを引き受けた。
「こうしてサングマールが生きているように、別の魔獣がどこかに身を潜めていても不思議ではありません。確実に絶命が記録されている個体は、帝王の遺産のほんの一部にすぎないのですから」
「それはそうだが、」ドゥマーゴは狼狽を押し殺すように咳払いをした。「まったく、恐ろしい仮説だ」
シカンセク以外に、超常的な魔力を有する古代の神獣が実在している。しかもそれは、われわれの敵かもしれない。恐ろしいという以外に言葉が見つからないのも無理はない。
「もし、」ドゥマーゴは言った。「それが事実となれば、サングマール、いったいこれから、なにが起こるとお考えですか?」
「わからぬよ、ガルディルーラ。これ以上は、憶説の域を出ぬ」
魔獣が滑らかにそういいきると、ドゥマーゴは再び絶望感に顔をこわばらせた。その表情からありありと言葉が浮かぶ。
いつも的確に答えを導いてくれるサングマールが、お手あげだと?!
オルダは再度、魔獣を代弁した。「すべての可能性を検討すべきです。いま、われわれは見えないなにかの力によって翻弄され続けている。最もよからぬ兆候です。疑念、躊躇い、焦り、恐怖。そのすべてを整然と乗り越えなければなりません。
われわれは思っているほど、敵のことを知ってはいないのです。逆に、敵は十分な下準備を済ませたうえで、行動をはじめているのかもしれない。混乱に対する警戒は、今後よりいっそう強めるべきでしょう」
ドゥマーゴは険しい表情でオルダを見つめた。
オルダは、自分に言い聞かせるようにうなずいた。
「
大帝国記 ケンセイアとホルヴィアの物語 杏元介(あんずもとすけ) @an-anzugensuke
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