第2話 つながれた系譜

 虫の知らせなど、一切なかった。なくてもこれが現実だ。

 金沢にあるがん治療センターの個室。可動式のベッドに眠る祥雲を見ながら、俺はこの数か月間を思い出していた。

 楽しかった忘年会から二か月。塗師同士での新年会も終わった頃に異変は起きた。市主催の健康診断で要再検査とされたのだ。

 手術のしようもない、末期の膵臓のがんだとすぐに分かった。

 塗師の仕事は前かがみの姿勢で行うものが多い。背中が痛いと言っていたのも単に腰痛なのだと思っていた。酒がのどを通らないという訴えも年のせいだと返していた。

「俺がもう少しきちんと見ていれば……!」

 いくら悔やんでも悔やみきれない気持ちが湧いてくる。くたびれた感のある白い掛け布団の端をぎゅっと握りしめた。

 その時、うっすらと祥雲のまぶたが動いた。落ちくぼんだ目を開いて天井を眺めている。

「親方……!」

 思わず布団の中に手を突っ込み、朽木みたいに筋張った腕に触れた。そこからたどってぬるい手を握る。

 祥雲の瞳が動いた。顔を傾け、じっと俺を見つめている。

「正人、大きくなったなぁ」

 言葉に詰まって、首を振ることしかできなかった。

 祥雲がまた、もぞりと口を動かした。

「正人……あの紅の螺鈿なぁ、あれ、代々の『祥雲』が伝えてきたものだ。その秘密を伝えるということは……分かるな?」

 一子相伝。

 そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

「俺に『祥雲』の名を継いでほしい、と?」

 返事の代わりに手を握る力が強くなった。

「卑怯か。秘密を明かす代わりに名を継いでほしいなんて」

 言って、ふうと大きく息をつく。ひどく疲れているようだった。

 親方が死を前にして俺を必要としている。これ以上ないくらい切実に。それでも俺はすぐに返事ができなかった。

 何度も深い呼吸を繰り返して、口を開く。

「俺、まだ親方の技を身に付けていません。あと十年はほしい。尊敬しているからこそ……まだその名はいただけません」

 聞いた祥雲が打って変わってからからと笑った。豪胆な祥雲らしい笑い方だ。久々に聞いた気がする。

「確かにお前の技術はまだまだだ。だがな、筋は悪くない。それにわしだけの技法なんてありゃせんよ。いいか、よく聞け」

 しわぶきを一つ。

「漆器のみちは一つ。ごまかさず、まっすぐに作ること。これが基本であり、全てだ」

「ですが……」

「あとはそれを信じて愚直にやるか、ばれないからいいと手を抜くか、やめるか。それだけだ」

 分かるが不安だった。あの紅の螺鈿細工で何か作れれば、商人として成功しなくても自分としてはそれでいい。

 それではいつか祥雲の名を潰してしまう。

「わしはお前が愚直にこの道を続けていくと思っておる。……販路は全てお前に譲る。儲けようとせんでいい。必ず欲が出るからな。お前はただ、あの螺鈿の守り人であってくれ」

 全て見透かしているような祥雲の物言いだった。

「俺で、いいんですか」

「お前しかおらんよ」

 マナイタに向かっている時とは全く違う、穏やかな表情だった。

「請けてくれるな」

 まるで一生分の願いを煮溶かして混ぜ合わせたかのような、静かで迫力のある言葉を、祥雲は放った。

 もう、退けない。

 腹に力を込め、まっすぐに祥雲を見る。

「お請けします」

 よく言った。そう言った祥雲の言葉が掠れていた。


 がんの進行が遅くなった七月、祥雲は家に帰りたいと言い出した。

 外泊はすぐに許可が下りた。

 家が近づくにつれて表情に生気が戻ってくるのがはっきりと分かった。玄関をくぐった時など、病院に連れていった時よりも数倍元気に見えたくらいだ。

「工房へ」

 冷たい麦茶を飲む時間すら惜しんだ祥雲が言った。そのままゆっくりと、だが確かな足取りで工房に入る。

 しわがれた、ひそやかな歓声が漏れた。いとおしそうに貝付け棒や螺鈿を切る針を手にし、マナイタの上に戻す。

「生きて戻ってこれた。もう思い残すことはない」

「そんな……」

「正人、お前に工房の一切を任せる。あとはよろしく頼む」

 振り返った祥雲が、後に控えていた俺を見やって頭を下げた。

 長い五秒。

 正面を向いた祥雲がにやりと片方の唇を吊り上げる。

「それでは一日でここの全てを覚えてもらうぞ。夜はいよいよ螺鈿の秘密だ。それをもって『祥雲』襲名とする」



 『一日でここの一切を覚えてもらう』

 その言葉に偽りはなかった。祥雲は休むことなく工房の中を動き回り、全ての物のありか、扱い方を叩き込んでいった。どこにそんな気力と体力があったかと、ついて回る俺のほうが驚いたくらいだ。

 あらかた聞き終えた頃には長かった日もすでに暮れ、背の高い夏草がしゃわしゃわと夜風とたわむれていた。

 牧絵の手料理を食べ、再び工房に戻る。見送る彼女の目がどこか達観した愁いを帯びていた。もう祥雲が長くないと知っているのだ。知っていて、それでも最後まで漆の世界に生きる祥雲を肯定している。そんな深い愛情と覚悟があるかに見えた。

「残るは紅の螺鈿の秘密だけだが……」

 自身のマナイタを背にし、祥雲が座した。近くへ座れ、との合図を受けて相対したままにじり寄る。

 いつの間にか傍らに例の飾り皿の箱があった。黙って紐を解き、蓋を開ける。薄煙のように漆の香りが立ちのぼった。ただし、まだ梱包の和紙は取らない。

 切なく、いとおしく、それでいて厭わしい、狂うくらいの想念があふれかえった。

 思わず触れたくなるのを我慢する。

 声に出さず笑った祥雲が無言で部屋の明かりを消した。

「親方?」

 月明かりが、濃い。

 薄墨を流したような暗さと静けさの中で祥雲が動いた。さりさりと和紙がこすれる音。

「見てみぃ」

 何が起こったのかすぐに分かった。

「ああ……」

 深い嘆息が漏れる。

 螺鈿がほんのりと赤く発光していた。

「これがこの螺鈿の本当の姿だ」

 かすかにたなびいていた雲が払われ、満月が姿を見せた。一層強い月明かりに合わせて赤光もその輝きを増す。光の強弱によって明るく、暗くなるさまは、それ自体が今もなお生きていることを知らせていた。

「満月になるとこれが光りおる。月に帰りたいとな。わしはそれがわびしくて……でも手放すことはできなんだ」

 闇に、かすかな喘鳴。節くれだった指でつつ、と紅の螺鈿をなぞった。

「罰が当たったのかもなぁ」

 ため息。そこに後悔の色はなかった。あるのは一切を受け入れる姿勢だけだ。

 祥雲の言葉だけが工房に染み渡った。

「その螺鈿は薄々気が付いておるだろうが、貝ではない。人の……牧絵の爪を使っておる」

 驚きはなかった。

 無言のままでいると、祥雲が不意に月に視線を投げた。自嘲が浮かぶ。

「正人はかぐや姫の話を知っておるな」

「はい」

 確か竹の中に入っていた姫が求婚を断り、月に帰る話だった。

「牧絵は、そのかぐや姫なのだよ。月の女だ。この赤い光は自分がここにいるという合図。数百年前から代々の『祥雲』は牧絵の生爪を剥いで、月へ帰りたいという訴えを封じ続けているのだよ」

「数百年?」

 それはおかしい。牧絵は来月で三十二になるはずだ。そもそも数百年生きるなどと、非常識な……。

「生きるさ。牧絵は天女だからな。ここに来た時……平安末期は正体がばれそうになって、懇意にしている者に塚を作らせたくらいだ」

 小松市の牧姫塚がその証拠だ。

 そう祥雲は言い継いだ。

「それから術士を呼び、変わらぬ姿でも問題にならない術をかけた。紅の螺鈿細工を分散させているのは、欲しがる者がいるのもあるが、一番は目くらましだ。月の使者が来た場合に備えてな」

 凄絶な笑み。

「なぜそこまでして牧絵さんをつなぎとめる」

 開け放した窓からぬるい風が吹く。額には汗の感覚。

 鈍器みたいな笑声が返った。

「愛しているからに決まっておろう。独身で身寄りのないわしにとって牧絵は祖母で、母で、妻で、子で、孫だ。なんとしてでも傍にいたいと思うのは当然じゃろう」

 な? と、同意を求める声。

「それにな、わしら人間の男はこの光からは離れられんのだよ。一度目にしたら最後、吸い寄せられる。どうしても好きになる。かぐや姫の物語もそうだったろう?」

 確かに、輝く姫に何人もの男が群がっていた。求婚を拒否され、難題を言い渡されてもなお彼女を求めていた。

 あるいはそこに意志はなかったのかもしれない。誘蛾灯に惹かれる羽虫と同じだ。

 光に焼かれた虫は、幸せだったのだろうか。

「親方は今、幸せですか?」

 夜のとばりが下りた中、俺は問いかけた。いや、答えなど、訊く前から分かっていた。

「愛した者と共に過ごし、愛した者の一部を手に入れる。これ以上の幸せはない」

 歪な正円。業の深さが祥雲の言葉にこもっていた。

 疲労の色が濃い。

 それでも俺はもう一つだけ訊いておきたかった。

「もし、俺が牧絵さんの爪を剥がなかったらどうなるんですか」

 フクロウみたいな笑いと、喘鳴。

 低い声に俺は耳を傾けた。

「どうもせん。いずれ牧絵は月へ帰る。あるべき存在が、あるべき場所へ。人が必ず死ぬのと同じようにな」

 赤光に目を向けて、それから俺を見る。

 透徹したまなざし。

「天女は人間のエゴで留めておける存在ではない。もしもの時は放してやればいい。それこそ、狂うくらいの喪失を味わうだろうがな」

 頷きかけた。

 その時だ。

「祥雲」

 しとやかに牧絵が工房に入ってきた。


 牧絵の体から、甘い桜の香りが漂っていた。音もなく祥雲の傍らに座り、白い指で背をなぜる。

 ひゅう、と細い息が漏れた。

 枯れた呼吸音の間を縫って、牧絵が艶やかな唇を動かす。

「祥雲、あなた、間違って伝えているわ」

 柔らかな声音のそれは、愛する者への言葉だった。

「この爪ね、愛する者がいないと光らないの。あなたを想っているからこんなに輝いたのよ。帰りたくて光っているんじゃない」

 あなたを想う、その気持ちの結晶なのよ。

 そう言って、牧絵はしゅるりと左手の薬指に巻かれた包帯を解き始めた。

「見て」

 現れたのは、焔を思わせる鮮やかな紅。周囲が赤く染まる。

「大好きなあなたに捧げるわ。正人さん……二十五代目の祥雲さん、手伝ってくれますか」

 否、とは言えなかった。

 夏の夜。月明かりの下で三人だけの秘め事が始まった。



 緊張と痛みに体を硬くする牧絵の身体を、俺は後ろからかき抱くように支え続けた。

「つっうぅ……!」

 肘かけに細腕を乗せ、手の甲を祥雲へ向けた牧絵が押し殺した悲鳴を上げる。

 眉根を寄せて荒い息をつく牧絵に、鎮痛剤を勧め、断られたのが三十分前。薬を服用すると輝きが落ちるのだとか。

「もう少しだ。耐えてくれ、牧絵」

 泣いている。そう錯覚させるほど必死な口調で、ペンチを握る祥雲が牧絵に声をかけた。

 脂汗を流す牧絵がこくりと頷く。目じりに真珠が浮かんでいた。

「正人ぉ、よぉ見とけ」

 左手薬指の二枚爪の上層。そこにペンチを入れて剥ぐ。代々の祥雲はそうして紅の螺鈿を得てきたという。壊死している部分ではあるが、ペンチを左右に揺り動かすたびに牧絵は唇をかみしめた。

「すまんなぁ。本当にすまん」

 そう言いつつもミチミチと剥がしていく。

 牧絵が熱っぽい吐息をついて首を振った。

「あなただから……!」

 潤んだ瞳と桃色の頬が壮絶な色香を醸し出していた。



 気の早いカラスが鳴く頃になり、一ミリでも動かせば爪が剥がれるところまできた。

 すでに祥雲の息は細く静かなものとなっている。牧絵も同じだった。

「正人、最後はお前がやれ」

 いつ倒れてもおかしくはない状態でありながら、祥雲は毅然とした声を発した。

「しかし!」

 非道ともいえる行為に加担したくないのではない。二人の官能的とも呼べる行為の中に入り、その最後を担っていいのか。そういう恐れがあったのだ。

「わしの時も親方からこうして受け継いだのだ。『祥雲』を継ぐと言ったのは嘘か」

「いえ」

「ならば……!」

 急かされて、俺は祥雲が握っていたペンチを受け取った。温かな汗で湿っている。思わず手が震えた。

 牧絵が右手を伸ばしてペンチを持つ俺の手を撫でる。柔らかでキメの細かい手だった。

 震えが、止まる。

 祥雲が一歩下がった。

 さぁぁ……。

 太陽がオレンジの光を放ちのぼり始める。新しい朝が、始まる。

「牧絵さん、これからよろしくお願いします」

「はい」

 返事に重なって、パチンという音が響いた。


 数日後の早朝、祥雲は病室で静かに亡くなった。

 参列者は漆器に携わる人が多かった。しめやかに……だけど、どこかおざなりに葬儀が進んでいく。

 喪服の群れを見、俺は小さな遺骨入れを作ろうと考えていた。

 火葬の際に骨片を手に入れ、紅の螺鈿をはめ込んだ遺骨入れに移し、仏壇に供える。

 自らの心の拠り所として。

 牧絵がいとおしい人と共にいられる方法として。

 身寄りがないと言っていた祥雲へのせめてもの供養として。

 一度決めると心が軽くなった。

「牧絵。俺、考えたんだ」

 襲名以来、俺は自然と『牧絵』と呼ぶようになっていた。祥雲が呼んでいた呼び方と同じだ。

「俺、小さな遺骨入れを作ろうと思う。あの時の爪を桜の花びらの形にしてはめ込んで。そうすれば親方もずっと牧絵といられるんじゃないかって。嫌かな?」

 牧絵が首を横に振った。真珠のネックレスが鎖骨で揺れる。

「嬉しい」

 悠久の時を生きる天女と、長くても百数年しか生きられない人間。

 死ねない苦しみはないのか。没した者は皆、幸せだったのだろうか。

「あ、祥雲さん、見て!」

 空に綺麗な虹が出ていた。

「何代か前の祥雲が言っていたの。『虹を見ると幸せになれる』って」

「ああ」

 悲しみを抱き、それでも前を向く牧絵の姿。

 それを視界に収めて俺は深呼吸をした。

 これから牧絵と共に生きていく。

 どんなにその道が歪んでいても。

 いつか、この長い系譜に俺自身が加わる日まで。



 了

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BENIZAKURA 神辺 茉莉花 @marika

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