BENIZAKURA
神辺 茉莉花
第1話 運命の出会い
石川の和菓子屋の店頭に飾られていた、黒地に紅の桜の花弁を散らした螺鈿細工の菓子器。一度の出会いが、螺鈿細工師見習いの俺の運命を変えた。
独り立ちを祝う年季明けの宴が始まる。
「ささ、足立君、飲まっし」
主賓 足立 正人 様
仰々しい席札を脇にずらして親方や師匠筋、他の塗師の杯を受ける。今、目の前にいるのはこの道二十年の蒔絵師だ。手には天狗舞の大吟醸酒が握られている。深緑のガラスに守られた透明な液体がたぷんと揺れた。
「よう頑張ったな。はじめはなーんも知らんえんじょもんが入ってきた言うて、大原屋さんもまんげ大変やなぁ噂してたんや」
うむむと唸る。
「ほやけど、こうやって年季明け迎えて……よかったなぁ。ほんで、これからどうするがけ?」
「親方の……大原屋に続けてお世話になろうと思ってます」
「ほうか」
会話の隙間を縫って口を開く。
「あれから紅色の螺鈿の話、聞いてないですか」
「なんや、去年の忘年会の話やないがけ。まだ気にしとったんけ」
くしゃりと顔にしわを寄せ、相手はあきれ顔になった。
「赤系統の貝を使ったか染めたか、そんなところじゃないが?」
「うーん」
相手も顎に手をやって、うぅんと唸る。それから酒をあおり、思い出したような表情を見せた。赤ら顔でポンと膝を打つ。
「もしかしたら祥雲さんなら何か知っているかもしれんわいね」
「ショウウンさん……?」
屋号なのだろう。初めて耳にする名前を口の中で転がす。
そうそう、と赤ら顔が答えた。ごま塩頭を巡らせて誰かを探す。
「佐藤芳秀ゆう塗師や。普段は祥雲さんて呼んでる。数年前、がんこ綺麗な桜色の螺鈿細工を仕上げてなぁ。製法を訊いても教えてくれへん。今日は来てるかどうか……ああ、娘さんがおった。牧絵ちゃん、ちょっとこっちに来まっし」
相手と同じ方向を見ると、こちらを向いて返事をする女性の姿が映った。俺よりも五つ下、三十くらいだろうか。年齢の割には落ち着きすぎている気がした。何か習っているのか背筋がピンとしている。
灰桜の色をした着物の裾が乱れないように歩き、その女性は俺の対面に正座をした。気品の奥に、うっすらと陰のような違和感が存在している。
「こちら、祥雲さんの娘の牧絵さん」
「はじめまして。このたびはおめでとうございます」
山中にひっそりと咲く桜の古木。
そんな幻影が一瞬浮かぶ。
「牧絵ちゃん、足立さんが祥雲さんのこと、聞きたいんやと」
飾った態度が少し崩れた。
「へぇ?」
首をかしげて疑問をあらわにする。
ほいじゃ、まずおめでとう。目当ての人物を案内したことで気が済んだのか、そう声をかけて相手は軽く肩を叩いて席を移った。酒瓶を手にしたまま、野太い笑声の中に入っていく。
それを見やって再び牧絵と相対する。しばらく視線をさまよわせ……、そうするうちに俺は違和感の正体にようやく気が付いた。怪我でもしたのか左の薬指に包帯が巻かれているのだ。
「指……」
「ああ、これ?」
ちら、と目をやって、なぜかいとおしそうに指先を撫で包む。それからキスをするみたいに唇に寄せ、恥じらう表情をちらりと見せた。
赤く彩られたまぶたと上気した頬にどきりとする。
「あ、いや……」
酔いの回った耳の後ろがジンとしびれた。はじめから異性として彼女を見ていたのではない。そんな、見境なく誰でもいいみたいな……。それでも浮かんだ感情は、見ず知らずの相手への嫉妬だった。
一目ぼれというやつかもしれない。
「それで、話って?」
中身の減ったコップに日本酒を注ぎ、牧絵は話の鉾先を引き戻した。
一口含んで静かに御膳の一角へ置く。
「実は見習いの時……」
事のあらましを伝えると、牧絵はまじめな顔つきで俺を見つめていた。
「黒地に紅の桜……」
一つ一つの言葉を慎重に舌に乗せる。
「そう、綺麗な紅色。何かで着色したのかなぁ」
それにしては迫力が違っていたけれど。
「まるで、命そのものを見せつけられている気がしたんだ」
少し語りすぎただろうか。気になって俺は口をつぐんだ。
牧絵はしきりに指を撫でさすっている。
「それ、うちの家の作品だと思う。紅色、出せるのはうちくらいだし」
「本当!?」
ついに掴んだ。手に汗がにじんだ。
興奮でうまく吸えない息を吸って願う。
「俺、お礼奉公が終わったら祥雲さんのところで修行したいです」
声が自分でも分かるくらいにうわずっていた。この機会をなくしたら二度とチャンスはこない、そんな気さえしていた。
「え、でもめったにお弟子さんとらないからどうなるか」
困惑したそぶり。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。あの紅色に近づく糸口が見つかったのだ。このままむざむざと手放してなるものか。
「何とか話だけでも」
酔った勢いだろうか、それとも十数年にもわたる執念がそうさせたのか。
気が付くと俺は牧絵に頭を下げていた。とまどった雰囲気が伝わる。
案の定、顔を上げると牧絵が立ち膝でおろおろとしていた。うなじから一筋の後れ毛が流れている。
「やだ、私ったら主役に頭下げさせちゃって、ごめんなさい」
「いや、俺のほうこそ急に言ってごめん」
しばらく互いに頭を下げる。そのうちにまた別な人が挨拶に来て、結局その弟子入りの話はうやむやになった。
話が大きく動いたのは、二か月後の六月半ばだった。牧絵から電話があったのだ。
額に浮いた汗を拭いて応対に出る。少し動いただけでも汗が噴き出る暑さだ。
「あ、足立さん? 先日はお疲れ様でした」
しとやかにお辞儀をする仕草が見えそうだ。
今、大丈夫? そういう問いに「大丈夫だよ」と返すと、声のトーンが上がった。話す言葉にぱっと花が咲く。
「例の話だけど、お礼奉公のあとならばいいって。ただ、やり方とか作風とか……その、人柄が合うかどうか、一度近いうちに会って話したいみたい。どう?」
願ってもない申し出だった。すぐに頷いて、約束の日時をメモ帳に書きつけていく。会うのは三日後の土曜日と決まった。
「……じゃあ三時に」
そう口早に言うと牧絵がくすりと笑うのが受話器越しに分かった。しなやかな笑い方だ。
「なんか足立さん、すごく嬉しそう」
そんなに弾んだ声だったか。少し恥ずかしかった。
「まあ、うん。ずっと追い続けてきたからね」
「……そっか」
ゆったりとした口調は、悠久の時を生きてようやく咲いた八重の桜によく似ている。
二言三言、言葉を交わし、俺は受話器を置いた。
当日、俺はいつになく緊張していた。他の塗師から聞いた話を合わせると、祥雲なる人物は次のようなものらしい。
人付き合いに疎く、職人気質。
作品は素晴らしいが、他の塗師とは協力しない。
他にも弟子を一週間で追い出したとか、怒りやすいだとか……。
そういう話がごろごろ転がっていた。
菓子折りと積み重なる不安を携え、田んぼに囲まれた村を歩く。
「ああ、あれかな」
ぽつぽつと建つ家々の奥に合掌造りの大きな日本家屋があった。
呼び鈴を鳴らして軽い引き戸を開けると、上がり框の近くに牧絵が立っていた。今日は黒の半袖ワンピースを着こなしている。あの日は結っていた髪がおろされ、背中で艶やかに波打っていた。身を飾るのは一粒の真珠のネックレス。その清楚さが彼女のたおやかな美しさを引き立てている。
「お邪魔します」
趣を感じさせる玄関と魅力的な姿に圧倒されて声が小さくなる。反対に牧絵の笑みが大きくなった。血色のいい唇から白い八重歯がちらちらと見え隠れする。
「古くてびっくりしたでしょう? バスの便も悪いし……来てくれて本当に嬉しい」
上がってと言われ、牧絵についていく。
通されたのはよく手入れのされた和風の客間だった。すでに座っている、痩身ではあるが堂々とした男性が祥雲だ。
彼がこちらを見てかすかに笑んだ。藍色の作務衣がとてつもなく似合っている。
「よくきたな。この前は顔を出せなくて悪かった。牧絵、足立さんにお茶」
軽快な返事。ぱたぱたとしたスリッパの音が小さくなる。
話と違う対応に面食らって、俺はしばらく佇んでいた。
「どうしたの? そんなとこに立っちゃって」
後ろから戻ってきた牧絵の声がする。
「ねぇ、まさかもう敷居をまたぐなとか言ったわけじゃないよね?」
「話も聞かんうちに追い出すことはせんって」
苦笑のこもった祥雲の言い方に少し安心し、俺はようやく足を進めた。
一通りの挨拶と雑談をしたところで、さて……と相手が居住まいを正した。
「大体は牧絵から聞いたんだが、弟子入りしたいそうだな」
「はい」
「紅の螺鈿細工に惹かれたから、だったか。あれはめったに人の目に触れるものではないのだが。まあ、出会ったなら仕方がない。これも運命だろう。ついてきなさい」
何かを秘めているかのような、そんな口調だった。
着いた先は四畳半の茶室だ。
「足立さんが見たのはこういう色の螺鈿かね?」
天袋をあさった祥雲が木箱を取り出した。古びた紐の結び目を解き、ずい、と目の前に差し出す。
そこにあったのは輪島塗の飾り皿だった。黒漆に金の舞扇と鞠、上部には枝垂れ桜がはらはらとその花弁を散らせている。そして、その花弁の色は……。
「紅の、螺鈿」
これだ。ようやく会えた。
紅色をした花びらが真珠のごとく繊細で優美な輝きを放っている。
頬が熱い。
「……これです!」
がばっと顔を上げて祥雲を見た。
相手が大きく頷く。真剣な瞳だ。
「どうしてもその螺鈿を扱いたいか」
「はい」
にぃ、と祥雲の唇が吊り上がった。だが、まだ何かが足りない。
「足立さん……あんた、その螺鈿の秘密を守れるかね。守れるんなら……」
「絶対守ります」
勢い込んだ言葉が茶室に染み込んでいく。
たっぷりと時間をかけたのち、祥雲は長い息をついた。ひた、と俺と視線を合わせる。
空気が引き締まった。
「わしの指導は厳しいぞ。耐えろよ、若いの」
「はい! どうか、お願いいたします」
畳に額が触れる近さで礼をする。耳の奥で心臓の暴れる音が響いていた。
一年間の礼奉公後、俺は祥雲と共に漆器に携わるようになった。もちろんまだあの紅の色をした螺鈿の秘密は明かされていない。祥雲も俺が知る限り、夜光貝やアワビ等、普通の材料しか扱わなかった。
そうして十二月上旬になった。
段々と祥雲の人柄が見えてくる。
確かに仕事に関しては厳しい。地の粉と生漆の混ぜ具合、下絵の意匠案、螺鈿の細工法。どんな乱れも見逃さなかった。
毎日が反省と新たな発見の連続だった。
「正人、まだ磨きが甘い」
螺鈿で加飾された箸置きに漆を上塗りし、乾いたそれを磨いていた時だった。そろそろいいかとほっと息をつき、次の箸置きに手を伸ばした瞬間、隣にいる祥雲から声が飛んだ。
最近ではもっぱら名前を呼び捨てか『お前』だ。
「もうちっと丁寧に水研ぎしてみぃ。まだ螺鈿の色がきちんと出てない。あと、力の入れ方。同じ力で研げてない。狂ってる」
はっきりとした物言いにももう慣れた。言われてみればそうだ。同じ力で磨いているつもりであっても疲れると力が弱くなる。それにはっと気が付き、必要以上に力を込める。祥雲はおそらくそれを見ていたのだ。
「自分を磨くと思って丁寧に磨けよ」
「はい」
それからは衣擦れの音だけが満ちた。
「ああ、それはそうと、暮れと正月の予定は? 帰りたいんなら遠慮せんでいいぞ」
だいぶ作業も進み、今日はそろそろ終わりという頃合いになって祥雲が口を開いた。背中をさすって、んーと伸ばす。
販売まで手掛けている大きな工房であれば、問い合わせや客あしらい等で休みづらい。だが、ここは祥雲と牧絵、俺しかいない。販売もほとんど行ってはいない。気兼ねなく休めるのは大きなメリットだった。だが……。
「俺、地元が遠いんで、往復するだけになっちゃいますよ。だから、できればいさせてください」
「地元、どこだ?」
「埼玉です。と言ってもここと変わらないくらい、静かなところですよ。だから遠いとこ帰ってもやることなくて」
「ふむ、そうか。それなら今月中にみんなで一泊して忘年会でもやるか? ぷりぷりのカニ刺しと、この時期旬のブリの刺身。ノドグロの塩焼きもいいな。日本酒があれば完璧か」
清貧を貫いていそうな印象だったが、そうではなかった。目だけではなく舌も肥えている。
「特にノドクロの焼き物、あの旨さを知ってるか。あれはいいぞ」
祥雲は自身の言葉にうっとりとまぶたを閉じた。数か月前より少し痩せた喉が鳴る。
「じゃあ、俺、手配しましょうか? 牧絵さんの都合も聞いて」
目を開けた祥雲が薄く笑う。
「馬鹿か。上のもんが弟子に手数をかけてどうする。全部用立てるから心配するな。少し早いが、わしからの祝儀だ」
こういう時にごねられるのが嫌いな祥雲だ。申し訳ないと思いつつも、俺は頭を下げた。
楽しみにしていますね。そう言い足すと、皺だらけの祥雲の顔が輝いた。
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