八月三日 藤正雅弘 供述調書

神楽坂

八月三日 藤正雅弘 供述調書

 本当はこの話はしたくないんです。どう考えても刑事さんに信じてもらえるとは思えないし、この供述をしたことによって精神鑑定をさせられる羽目にはなりたくないんですよ。僕はいたって正常なんです。今回のことだって確固たる理由があるんです。行為には理由が必然的に付与されますよね? 異常っていうのは行為に理由が伴っていない状態を指すと僕は思っています。でも、その理由はまったく僕個人のものであって、誰かに信じてもらおうとも思わない。それでもいいのなら、お話します。ただ、僕が異常であるという根拠にこの話を使用しないでください。くれぐれも。

 確か、この時期でしたね。高校三年生の夏です。確かな日付は覚えていません。もう二十年以上も前のことですからね。その年は猛暑だと言われていましたが、その中でもとびっきり暑い日でした。日光でアスファルトがどろどろに溶け出してスニーカーの裏にべったりとこびりつきそうになるくらいの暑さでした。 

僕は歩いてバス停に向かっていました。受験生を控えていた僕は塾に向かおうとしてたんです。東北の田舎だったので家の近くには塾はなく、バスで三十分かけて大きな駅の近くにある塾に通っていました。そのときは夏休みの真ん中だったから夏期講習に行ってたんです。当時は僕のように大学受験をする人間は周りには少なかったですね。同級生のほとんどが高校卒業と同時に地元の企業に就職するか、女は結婚して家庭に入ってましたね。だから、話が合う友人もいなかったです。どうでもいいことですが。

 僕が使っていたバス停には滅多に人がいなかったんですが、その日は違っていました。若い女性がベンチに腰掛けてバスを待っていたんです。真っ白なワンピースを着て、日傘はおろか、帽子もかぶらずに直射日光が降り注ぐ中、バスを待っていたんです。

 年齢は二十代後半というところでしょうか。肌もワンピースと同じようにまっしろで、太陽の光をはじいていました。顔もとにかく端正で、僕がこの人生で観てきた女性の中で群を抜いた美しさを持っていました。今でも彼女より美しい人と出会ったことはありません。すこし目じりが垂れている印象的な瞳は今でもはっきりと覚えています。脳裏に焼き付いていますよ。

 僕もその女性を見たときは妙だなと思いました。田舎町なのでそこに住んでいる人の顔はほとんど知っていますし、あんな若い女性が引っ越してきたらすぐにわかります。でも見たことがある顔でもなかった。ただ、酔狂な旅行客が田舎町まで足を伸ばしたのかな、と解釈をして僕も女性の横に腰掛けました。

 あと、その日はバスがなかなか来なかったんです。バスが来る時間に合わせて家を出たはずが、五分待っても十分待っても来ない。夏期講習に遅れてしまいそうだったので焦っていたのですが、歩き始めてからすぐにバスが来てしまったら結局バスに乗った方が早く着きます。だから、仕方なくバス停で待っていたんです。

 そうしたら、隣にいた女性が僕に話しかけてきたんです。バス、来ませんね、とか暑いですね、とかそんな他愛もないことです。とても甘い声でした。僕もまだ初心でしたからね、照れながら、そうですね、そうですね、と答えていました。ここに住んでいる方ですか、と聞かれたので、そうです、と答えました。良い町ですね、と言われたので、そうですかね、なんにもないですよ、と答えると、だからいいんですよ、と彼女は言いました。そのあと、しばらく沈黙が横たわりました。さっきまで耳に入ってこなかった蝉の声がはっきりと聴こえるようになりました。

 しばらく沈黙したあと、少し話をしてもいいかしら、と彼女は言いました。僕はなんのことかもわからなかったので、とりあえず、いいですよと答えました。そうしたら、彼女は話を始めたんです。

 私にはね、夫がいるの。仕事は産婦人科医。結構腕が良くて近所では評判の医者なの。顔もそれなりに整ってるし、稼ぎもある。旦那としては良い条件が揃ってる。でもね、夫には大きな秘密があるの。私の夫は、人を食べるの。

 僕はそれを聞いて思わず、え、と声をあげてしまいました。それまでは恥ずかしさで彼女の顔を見れなかったのですが、彼女の方に視線を向けました。彼女は淡々とした表情で続けます。

 それも、ただ人を食べるんじゃないの。誰かを殺してその肉を食べるとか、病院から死体を奪って食べるとか、そういうことじゃない。夫が食べるのは赤ちゃんなの。生きた赤ちゃんの肉を食べるのよ。

 僕は聞いている話の意味がまったく掴めませんでした。いえ、言葉の意味はわかります。でもその言葉が意味している世界が、僕の理解の範疇をゆうに超えていたんです。

 産婦人科だからって、他人が産んだ赤ちゃんを食べるわけではないの。そんなことしたらすぐにバレちゃうから。私が産んだ赤ちゃんを食べるのよ。夫が私に産ませた赤ちゃんを、夫の精子と私の卵子によってつくられたこどもを、取り上げたと同時に料理して食べる。貪るように食べるの。産んだ直後の私の目の前で食べるの。肉はもちろんのこと、骨まで食べる。赤ちゃんの骨は軟骨だから歯ごたえがあっておいしいんだって喜んで食べる。夫の顔は羊水と血液でべとべとになっている。私はそれをただただ見つめてる。夫の顔はいたって普通なの。まるでおいしいステーキでも食べるように、恍惚の表情を浮かべながら一心に食べる。

 女性はそこまで話すと一息つきました。僕の頭の中では顔のわからない男が両手で掴んだ胎児を貪っている姿が映し出されていました。暑さのせいもあってだんだん吐き気がこみ上げてきました。蝉の声がどんどん大きくなるのに、女性の甘い声ははっきりと聴こえてくるんです。聴きたくないのに、耳に入ってくる。頭がぐらぐらとしてきて、平衡感覚が失われていきました。

 そうやって、今まで九人食べたの。産まれて、生理が始まったらすぐに子どもをつくって、また食べる。それを繰り返してきた。そして、もうすぐ、十人になるわ。

 女性は細い右手で腹部をゆっくりとさすりました。手とワンピースの白が太陽の光を反射して僕の視界を奪いました。

 また、食べちゃうの。夫が。彼女はぽつりとそう言いました。ぽつりと、無表情のまま。

 僕は何を言うこともできませんでした。どうして止めないんですか、とか、警察に相談するべきです、とか、いろいろと言えることはあったと思います。でも、そのときの僕にはどうすることもできなかった。女性がした話を受容することもできずに、ただ夏のど真ん中で座ることしかできなかったんです。

 すると右の方から一台の車が走ってきました。見るからに高級そうな車です。車種まではわかりません。ただ、高級かそうでないかくらいはわかります。

 女性はその車の方に視線を向けました。そして、夫が迎えにきたわ、と言いました。そのときも彼女を止めることもできずにただ座っていました。

 車はバス停の前に止まりました。だいぶ車とは距離が近かったのですが、窓ガラスは真っ黒で運転席の人物がどんな人物かは確認できませんでした。

 彼女を見ると、彼女も僕の方を見ていました。そして、小さな声で、今の話は誰にも言っちゃだめだから、と言いました。僕は頷くことしかできませんでした。

 彼女は立ち上がって助手席のドアを開けました。そのときの彼女の表情は今でも鮮明に覚えています。

 満面の笑みだったんです。ドアを開けて、運転席に乗り込もうとする彼女は確かに笑っていたんです。彼女の表情が見えたのは確かにほんの一瞬でした。でも、その笑顔ははっきりと見えました。それまで話をしていたときの無表情とはまったく違って、頬は紅潮し、口角はしっかりと上がり、垂れていた目尻はさらに下へと下がっていました。恋する少女、とでも言えばいいでしょうか。誰かを挑発するような妖艶な顔ではなく、好きな男に一途に恋をする少女のような笑顔。ほんの少しの恥じらいと、うっすらとした色気を含んだ笑顔だったんです。

 僕には信じられなかった。自分が産んだ子どもを貪るように食う人間に対して、あんな笑顔を振りまくなんて。

 彼女が扉を閉めると同時に、車は発進してあっという間に立ち去ってしまいました。僕はただただ車が消えて行った方向を眺めることしかできませんでした。

 車は消えましたが、彼女の最後の笑顔だけは記憶から消すことはできませんでした。彼女のしたおぞましい話と、彼女の可憐な笑顔がぐるぐると頭の中で回り続けて脳をかき乱します。

 その笑顔をもう一度見たいと僕は思うようになりました。そして、その笑顔を僕にも向けて欲しい。そう強く願うようになりました。他のどの女性でもなく、彼女に、その笑顔を向けて欲しかったんです。

 だから、僕も赤ちゃんを食べたんです。彼女の夫ように誰かが産んだこどもを食べるわけにはいかなかったから、公園などで攫って食べるようにしていました。あと一人だったんですよ。そうすれば、彼女の夫と同じように、十人の赤ちゃんを食べることができたのに。あなた方が台無しにしたんです。僕の願いを。

 確かに、あなた方からしてみれば他人の赤ちゃんを攫って食べることはおかしいことかもしれません。でも、僕には明確な理由があるんです。

 これが僕の動機のすべてです。別に信じてもらおうとは思いません。でも、僕のしたことが正常であるかどうかはわかってもらえたはずです。理由を伴わない行為は狂気であるなら、僕の行為は正常なはずです。刑事さんも、彼女の笑顔を見たら、他人の子どもを食べたくなるはずですよ、必ずね…。

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