エピローグ 自由な風と踊るたんぽぽ

 ぺろぺろ。

 頬を何かに舐められるのを感じて、少女は目を覚ました。


「……あれ、ここは?」


 体を起こし、寝惚け眼で辺りを見回す。

 白色が一面に広がる、小高い丘だった。


 ぺろぺろ。

 

 と、今度は腕を何かが舐めた。


「あー、ウサちゃんだー」


 見ると一匹のウサギが少女に体をすり寄せて、腕をぺろぺろと舐めていた。

 かつて青年から特訓を受けた時に、身を挺して守ったウサギだ。

 

「そっかー、じゃあここは……」


 ほんの少し前までは赤色の絨毯に覆われていた丘は、今や真っ白に彩られていた。

 少女はその白の正体を一本摘み取ると、口元に寄せて、ふーと息を吹きかける。

 ふわっと浮き上がる綿毛の向こうに、青年が左腕に水桶を持って、丘を登って来るのが見えた。


「起きたかい、ネコ」


「うん。それより何これ、たんぽぽの綿毛って真っ赤じゃないの?」


 ああ、と青年は笑みを零して答える。


「違うんだ。こんな真っ白が本当のたんぽぽの綿毛の色なんだよ」


「へぇ」


「俺も朝日が昇って見た時には驚いた。あれだけ真っ赤だったたんぽぽ畑が真っ白に染まっていたんだから」


 一体何があったのか、それは誰にも分からない。

 ただかつて仲間たちが流した血で赤く染まったたんぽぽが、全ての呪縛から青年が解き放たれた今、こうして本来の色に戻ったのはきっと偶然ではないだろう。

 それはまるで死んでいった仲間たちの魂もまた本来あるべきところに還ったような気がして、夜明け直後の丘で青年はひとり涙した。


「でも、こっちの方が奇麗だろう? 起きたら真っ先にネコにも見せてやろうと思ったんだ」


 ダビドの馬で丘へと続く森の前まで連れてきてもらい、そこから降りて寝ているネコを運ぶのは大変だった。

 でも今、少女がたんぽぽの綿毛が織りなす風景を嬉しそうに眺める笑顔に、その苦労が全て報われたような気がする。


 青年もしばし少女の傍らで観賞に付き合った。


 長閑だった。

 少し離れたところでふたつの大国が睨みあいをしているのが信じられないくらい、穏やかで平和な場所だった。


「ねぇ、ネコ。ネコはエステバルに行ってみたい?」


「エステバルって、ダビドのおっちゃんの国?」


 青年が切り出した話に少女はうーんと頭を捻ると、突然、まだ傷むであろう足を引き摺って大樹へと歩み寄り、崖の向こうに広がる海を見下ろした。


「うーん。やっぱり見えないよー、イヌ」


「そうだね。エステバルは海のずっと向こうにあるんだ」


 青年がゆっくり歩き、少女の隣に立った。


「うー、行ってみたいけど、そんなに遠くにあったらネコ、絶対途中で溺れちゃうよ」


「それは大丈夫。船に乗るから」


「船!? え、船に乗っていくの!? 船に乗れるの!?」


「うん」


「すごい、すごーい! だったらネコ、行ってみたい、ダビドのおっちゃんの国!」


 ネコがぴょんぴょんと跳ねたいのを足が痛いから我慢しつつも、全身で喜びを表現する。

 話を切り出した時に少し強張っていた青年の表情は、既に柔らかいものへと変わっていた。


「あ、そうだ。ねぇ、イヌ。ダビドのおっちゃんの国にも、たんぽぽってあるのかなぁ?」


「たんぽぽ? さぁどうだろう? でも、たんぽぽの種は風にのってすごく遠くまで旅をするって言うし、もしかしたらここのたんぽぽも海を渡って向こうで花を咲かせているかもしれないな」


 青年の言葉に、すごいねー、すごいなーと少女はしきりと感心する。

 そして。


「イヌ、あたし、決めた!」


 突然少女がにっこりと青年に笑いかけて言った。


「あたしの新しい名前ね、たんぽぽにする!」


 唐突な宣言に、青年は不思議そうに頭を傾げた。

 さっきまでエステバルに行く話をしていたはずで、そのあと、むこうにもたんぽぽはあるかって話になった。が、それがどうして新しい名前の話につながるのだろう?


「だってダビドのおっちゃんも言ってたでしょ。ネコやイヌって名前じゃ、他の人に笑われるって」


「ああ……」


 言われて青年は思い出した。

 青年の名前であるイヌは、頭領が適当につけた名前だった。

 少女の名前であるネコは、周りが勝手につけた名前だった。

 長年その名前で呼ばれていたので何も感じていなかったが、ダビドによると獣と同じ名前は色々とおかしいらしい。


 確かに新たな地に行くのなら、それに相応しい新たな名前が必要だった。


「たんぽぽって一所懸命にどこでも咲いて頑張るでしょ。だからあたしもたんぽぽみたいになりたいなぁと思ったんだぁ」


 少女がえへーと満面の笑みを浮かべて力説する。


「たんぽぽ、か。いいね、ネコ、ううん、たんぽぽにぴったりな名前だよ」


 青年は素直に賛成した。

 確かにいい名前だと思った。


「でね、イヌ。わたし、イヌの新しい名前も思いついちゃった」


「俺の?」


「うん! 聞きたい?」


 少女がニマーと笑いながら、青年の顔を見上げてくる。

 青年は素直にお願いしますと頭をさげた。


「うん。あのね、カゼって言うの!」


「カゼ?」


「そう、カゼ! この丘に吹く、たんぽぽを遠くまで運んでくれる風!」


 少女は足が痛むにもかかわらず、くるりと回ってみせる。


 なんでも少女が言うには、たんぽぽはいつも心地よい風に揺られて気持ちよさそうで、綿毛になったら今度は風が遠くまで運んでくれる。たんぽぽの傍にはいつだって風がある。だからだそうだ。


「……ありがとう。カゼ、か……うん、いい名前だ」


 青年も心から嬉しそうに微笑んだ。

 きっと少女はそこまで考えていないだろうが、風は自由の象徴でもある。

 何にも縛られず、自由に大空に吹く。

 それはまさしく青年のこれからの人生そのもの。これほどまでに相応しい名前はないだろう。



 その時、不意に風が吹いた。

 

「わぁ!」


「……すごいね」


 風に吹かれて、白いたんぽぽの綿毛が一斉に空へと舞い上がる。

 どこに行くのか、それはきっとたんぽぽにも分からない。

 でも、どこに行っても元気に、奇麗な花を咲かすだろう。

 青年の右腕はやはり動かず、少女の両足もきっと完治する事はない。

 それでもふたりは自分たちの未来が明るいと信じていた。

 これまで暗く、狭い世界に閉じ込められていた。

 その世界をついに自らの力で突き破り、明るく、広い世界へと青年たちは旅立っていくのだ。

 この風に吹かれるたんぽぽのように。

 どこまでも。どこにでも。

 誰にも邪魔されず、自由に世界を駆け巡っていくのだ――。

 



 かくしてエステバルとベアダは百年にも及ぶ戦争を繰り広げ、様々な英雄譚や悲話が生まれることとなる。

 しかし、かの戦争の幕を切り落とした青年と少女がその後どうなったかについては誰も知らない。


 おわり。

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