第30話 海の向こう
ゆらゆら。
体が揺れるのを感じる。
ゆらゆら。
それはまるでゆりかご……と言うには、やや衝撃がありすぎて。
ゆらゆら。
水の中に漂う感覚とも違って、自分の体の重さを感じた。
ゆらゆら。
だから青年は気付く。
自分はまだ死んでないんだな、と。
体はまるで石のように重く、右肩の傷がズキズキと痛む。
血が足りないのか、頭もどこかフラフラしていた。
ゆらゆら……ゆらゆら。
それでも何故か心は雲ひとつない青空のように澄み切っていた。
「うん? 気付いたようだな」
青年が起きた気配を感じたのだろう。
青年の体を自分の背中へと縛りつけ、馬を操るダビドが声をかけた。
「エステバルの騎士様……?」
「ああ」
「どうしてあなたが……?」
「すまない。『アガルトの夜明け』をけしかけてベアダの前線基地を襲わせたのは、私たちだったのだ。まさか彼らが少女を奇襲に使うとは思ってもいなかった」
「少女……そうだ、ネコ! ネコは今どこに!?」
「安心するがいい。彼女ならここでスヤスヤ眠っているよ」
言われて彼の背から覗き込めば、確かに少女はダビドの
さらに見れば足首に負った傷も、青年が施した以上にしっかりと包帯が巻かれて処置されている。
「包帯が……」
「ああ。君の巻いた包帯はもう汚れていたから、新しいものへと交換させてもらった。しかし、ベアダめ、いくら逃亡を防ぐ為とはいえ、このようないたいけな少女になんて
いきり立つダビドに、しかし青年の困惑は続く。
さきほどダビドはエステバルが『アガルトの夜明け』をベアダの前線基地へとけしかけたと言った。それは別にいい。だが青年が聞きたいのは、何故しがない奴隷でしかない自分たちをエステバルの騎士であるダビドが助けに来てくれたのか、ということだ。
「君もその傷だ、今は眠っておくがいい」
しかもそんな優しい言葉までかけてくれる。
確かにかつて『アガルトの夜明け』のアジトで過ごした騎士との関係は友好的なものだった。
でも、戦争が始まろうとしている今、軍の指揮を放り出して助けに来てもらえるほどとは到底思えなかった。
「……何故、ですか?」
「ん? 何の話だ?」
「何故、あなたがここまでしてくれるのです?」
「だからさっき言っただろう。私たちの不用意な発言で、少女を巻き込んでしまった。それに君はあの砦を落とした功労者だ。そんな君たちを見捨てるわけにはいかない」
「でも、あなたはエステバルの騎士だ。俺たちに構っているヒマなんか」
「エステバルの騎士だからこそ、だ」
ダビドが前を向きながら、強い口調で言った。
「私達はただ領土を広げる為に戦っているわけではない。ひとりでも多くの、悪政に虐げられている人々を救う為に戦っているのだ。その人々にはもちろん君や、この少女も含まれるのだよ」
そしてダビドは『アガルトの夜明け』で過ごした日々の中で、鬱積していた思いを口にし始めた。
青年と少女にまともな名前が与えられていないこと。
年齢にそぐわない青年の瞳の色に、それまでの人生がいかに苛烈であったかを瞬時に伺い知ったこと。
『アガルトの夜明け』の団員たちが、青年や少女をその名前通り家畜のような存在として扱っていたこと。
そのどれもがダビドは気になって仕方なかった。
お前たちは間違っていると、団員たちを並べて説教してやろうかと思った。
そしてなにより。
いつか必ず青年たちをこの最悪な環境から救い出してやろうと心に深く誓った。
「それでも私の考えの甘さで、この少女にはこんなにも辛い想いをさせてしまった。謝っても許されることではない。だからせめてこうして君たちを助けに来たんだ」
「…………」
青年には俄かに信じられない話だった。
騎士が言っていることは本当のことなのか?
頭領のように実は騙しているのではないか?
これまでの人生を考えれば、人の好意を素直に受け止められず、その裏に蠢く思惑を疑いたくなるのも当然だろう。
「……ありがとう」
だけど、素直に感謝の言葉が零れた。
騎士のような人間がいることがいまだ信じられなかったものの、こうしてふたりを救いに来てくれたのは間違いもない事実。
それは自分の為に命を晒した少女の行動にも似ていて、ただひたすら感謝しかなかった。
「礼を言われるほどのことではない。それよりも眠らないのなら教えて欲しい。君たちはこれからどうするつもりなのだ?」
「どうする、ですか?」
「行くあてはあるのか、と訊いている」
青年の返答に質問の意味を上手く理解出来ていないようだと感じ取ったダビドは、より具体的に問い直した。
「……南に、行こうかと思います」
「南? ベアダの帝都か?」
こくんと青年はダビドの背中で頷いてみせた。
「悪いがそれはオススメできないな。これからこの地は戦場になる。中でも帝都陥落は私たちが目的とするところ。安心して暮らせるにはほど遠いだろう」
それは青年も理解していた。
しかし、ならばどこへ行けばいいというのか。青年にはさっぱり分からない。
そもそも帝都に行こうと思ったのも、かつての親友と話した中で出てきたからだ。
確か彼の話ではさらに南へ下ると、果物が沢山生い茂っているこの世の楽園みたいなところがあるらしいけれど、具体的な町の名前や、どうやって行くのか等は聞いていなかった。
「…………」
いきなりのダメ出しに青年は押し黙って途方に暮れてしまう。
「君たちさえよければの話だが、エステバルに来ないか?」
その青年にダビドが助け舟を出した。
「エステバルに?」
「ああ。無理強いはしないが、エステバルに渡るというのであれば私でも手助けしてやることが出来る。そして君にその気があれば……いや、さすがにそこまではおせっかいがすぎるか」
ダビドは軽く首を振って、言おうとしたことを否定した。
青年が『アガルトの夜明け』のアジトで見せた暗殺術は完璧だった。右肩に致命的な傷を負った今ではもはや暗殺者として生きるのは無理だが、その技術を他人に教えることは出来よう。
青年にその気があるのならば、エステバル軍で教官の職を用意できる――。
だがそれはようやく彼が勝ち取った自由を妨げるのではないかと思い、ダビドは自重した。
「もちろんエステバルに着いてからは君たちの自由だ。好きなように自分たちの人生を生きるがいい」
ダビドの言葉に、青年は果てしなく広く青い海を頭の中に思い描いた。
その海を渡る。
考えてもいないことだった。
だけどこれからベアダとエステバルの戦争が始まる以上、おそらくこの地ではどこに行っても安心して生活は送れないだろう。
「それに君の右腕だがな。おそらくはもう二度と動くまい。だが、エステバルの隣国パーラなら、そんな君のような人間も働いているところを見たことがある。どのような過去や障害を持っていても働き者であれば歓迎するあの国なら、君の働き口もきっと見つかるだろう」
決まりだった。
青年はありがとうございますと呟いて、ダビドの提案を受け入れることにした。
「よし。だが、すぐには渡れない。それまでどこかに身を潜める必要がある。砦や前線基地には『アガルトの夜明け』の残党がまだいるだろうし、以前過ごした君たちのアジトも同様だろう。どこかいいところはないか?」
「それなら……」
青年は後ろからダビドに馬の方向を変えるように指示を出す。
目指すはあの思い出の地。
血染めのたんぽぽが咲き乱れる、全ての始まりの丘――。
「分かった。ならば到着したら起こすから、今度こそそれまで眠っておけ。それから」
ふっとダビドは笑みを零した。
「どもらずに話せるようになったのだな。実に喜ばしいことだ」
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