第29話 吠えない犬と噛めない猫
いつまでも抱き合っていたかった。
ただ、時間に余裕はない。
少女が逃げたと分かれば、夜であろうともその血の跡を辿ってベアダの追っ手がやってくる。
今は少しでも早くこの場から去るべきだろう。
青年が少女の体から手を離し、立ち上がろうとする。
そこへ
「許さんぞぉ、お前らぁぁぁぁ!」
突然、固い拳骨で青年は顔面を殴られ、吹き飛ばされた。
「と、とーりょー……」
少女が震えた声で、闖入者の名を呼ぶ。
全身を刀傷による出血で染めるも、それ以上に顔面をマグマのように煮えたぎった怒りで真っ赤にした『アガルトの夜明け』の頭領ラモンが、そこにいた。
「これから……これからって時によぉぉぉぉ!」
怒り狂った頭領が腰の斧に手を伸ばす。
「小娘、てめぇのせいで全ておしまいだぁぁぁぁ!」
そして抜いた斧を、何の躊躇いもなく少女の頭めがけて振り下ろした。
少女は辛うじて身を翻して躱したものの、その一撃が紛うことなき本気の殺意を宿していることに驚きと恐怖を覚えた。
「と、頭領、待ってください!」
慌てて青年は這い寄って、その背に怯える少女を隠す。
「イヌゥゥ、貴様なんでここにいる!?」
なんで、と問いつつも、青年が答える前に頭領の怒気はさらに膨れ上がった。
「分かったぞ。貴様らグルだな。最初から今回の奇襲を失敗させて『アガルトの夜明け』を潰すつもりだったかぁぁぁぁ!」
頭領の暴力の象徴とも言える、斧の凶悪な刃がぎらりと光った。
「そ、そんな。そ、そんなつもりなんてまったく」
「口答えするつもりかぁぁぁぁ、イヌゥゥゥゥ!」
頭領が斧を握る手に力を入れる。
咄嗟に青年も馴れないながらも左手にナイフを握り締めた。
「ほぅ。イヌ、俺に歯向かうつもりか!? てめぇをそこまで育ててやった、この俺によおぉ!?」
頭領の怒声に、そして何よりも斧を持った手を振り上げた姿に、青年の体がびくりと反応した。
俄かに体が震え出し、青年の言うことを聞かなくなる。
青年は必死に「もう自分は盗賊団の一員じゃない、自分は自由なんだ」と自身に言い聞かせるものの、長い年月と壮絶さをもって植えつけられた呪縛は、そう簡単に解けるものではなかった。
「くっくっく、そうだ、てめぇは俺に歯向かえねぇ。口では立派なことを言っても、体の方はよく分かっているみたいじゃねぇか」
頭領が下卑た笑い声をあげる。
悔しさと、情けなさのあまり、青年は顔を歪ませながら目尻に光るものが溢れ出て来た。
それでもなお体の震えをどうしても止められなかった。
「よーし、ならばイヌ、てめぇにチャンスをやろう。そこの小娘をてめぇの手で殺せ。そうすれば今回のことは許してやる」
頭領の言葉に、青年の体がびくんとひときわ大きく震えた。
頭領の命令は絶対だ。
逆らうと酷い目に遭う。だからこれまでずっと従ってきた。
恐らくそれは盗賊団を抜けた今も変わらない。
もしここで拒否すれば、頭領はそれこそ容赦しないだろう。
青年の脳裏に、かつて頭領によって虫けらのように殺されたかつての仲間たちの姿が浮かぶ。
崖から突き落とされ、骨折した足を引き摺られて海へ投げ捨てられた者がいた。
生意気な口を利いて、喉を掻っ切られた者もいた。
ずっとあんなふうに死ぬのはイヤだと思っていた。
家畜みたいな人生でも、それでもやっぱり殺されるのは怖かった。
だからこれまで頭領の命令に従ってきた。
だけど!
だからといって少女を殺すと言うのか!?
自分が生きのびる為に。
自分のために一度は命を投げ出す覚悟をした少女を。
この手で!
今も背中にしゃがみついて怯えている少女に、ナイフを突き立てると言うのか!?
――イヤだっ!
――守るべき者を殺してまで、俺は生きたいとは思わないっ!
青年はまだ震えながらも、歯を食いしばって頭領を睨みつけた。
「ああっ、なんだ、その目は!? 『アガルトの夜明け』の鉄の掟、頭領である俺の命令は絶対――まさか忘れてはいねぇだろうなぁ?」
青年の反応に怒りを顕わにした頭領は、斧を持った手をさらに高く突き上げた。
「……もう……じゃない」
辛うじて青年が言葉を口に出来たのは、そのすぐのことだった。
「は? イヌ、てめぇ、今、なんて言った?」
頭領の言葉に込められた怒気に青年はたじろぎそうになる。
それでも。
「俺はもう『アガルトの夜明け』の一員じゃない。あんたの命令はもう受けないっ!」
体の震えを無理矢理封じ込め、青年はもう一度言葉を繰り返した。
それはいつものようなどもり声ではない、恐怖を克服し、自分の意志を貫いた男の声だった。
「はぁ? なに言ってやがる? てめぇは一生オレの奴隷に決まってるだろうがっ!」
頭領が吠える。
「なっ!? そんな、だって……」
逆ギレした頭領の言葉に、青年は反論しようとするも上手く言葉出てこない。
そこへ。
「とーりょー、約束は守らなきゃダメだよっ!」
背に隠された少女が、必死になって青年の代わりに訴える。
「約束だぁ? なんだそりゃ?」
「イヌと約束したんでしょ? 砦を落としたら、イヌを解放してくれるって」
「はん! 知らねぇなぁ。そんな約束、した覚えはねぇや」
青年が驚きの表情を浮かべて、頭領を見つめる。
その眼を大きく開き、まるで信じられないと言わんばかりの様子に、頭領はますます苛立ちを覚えた。
「ふん! そんな約束はしてねぇが、もうどうでもいい! イヌ、やっぱりてめぇはもはや役立たずだ。そんな体ではもう暗殺業なんて出来やしねぇ。死にやがれ!」
頭領は青年の脳天をかち割らんばかりに、斧をさらに大きく振りかぶった。
茫然自失状態の青年は慌てて躱そうとするも、その切っ先が右肩に当たり、塞がっていた傷口が再び開いて瞬く間に包帯を赤く染め上げた。
「ぐはっ! ううっ……」
痛みに悶え苦しむ青年に対し、頭領は再度斧を振り上げ
「逃げるんじゃねぇ! ったく、一発で頭をぶっ潰して終わらせてやろうと思ったのに、手間かけさせるんじゃ……うおっ、いたたたたたたたっ!」
突然悲鳴をあげた。
その足元には、必死にしがみつく少女の姿。
そう、青年の背からまるで猫のように素早く飛び出した少女が、頭領の足に文字通り噛みついたのだ。
「小娘ぇ、なにしやがるっ!」
頭領が怒声を撒き散らし、噛みついている少女に斧を持つのとは反対の手でその頭を殴りつけて払いのける。
「イヌ!」
脳天にきつい一撃を喰らい、少女はあっけなく吹き飛ばされた。
頭がくらくらする。吐き気がした。
それでも耐えながら、再度頭領の足に噛み付こうと体勢を整えて少女は叫ぶ。
「ネコ、怖いけど勇気を振り絞って頭領に噛み付いた! だからイヌ!」
青年の魂に届けとばかりに叫ぶ。
「イヌも勇気を出して!」
勇気……。
その言葉に、青年は右肩の痛みを一瞬忘れた。
勇気――それは青年が持っていなかったもの。
勇気――それは少女が持ち続けていたもの。
少女はこの瞬間に勇気を振り絞ったのではない。
思えば出会った時から、彼女はただただ勇気を持って、自分の生き方を貫き通していた。
これから自分の身に降り注ぐ災厄を、悲しい目をした青年のせめてもの慰みになればと受け入れた少女。
動物すらも殺すことを拒んだ少女。
人殺しの術を身につけながらも、その闇に飲まれるのを彼女は最後まで拒否し続けて、厳しく困難な道を選んだ。
それは頭領の暴力にあえなく屈し、仲間を、見知らぬ用心棒たちを殺して生きてきた青年とはまるで逆。
生きることに絶望し、何もかも諦めて、心を閉ざしていた青年とはまるで逆だ。
青年は少女が自分と同じ境遇で、彼女となら人間らしい温もりを分かち合えると思っていた。
でも、実際はなにもかも違っていた。
青年が闇としたら、少女は光。松明の明かりに群る蛾の如く、青年もまた眩しい少女に吸い寄せられただけなのかもしれない……。
「ネコを助けてくれた時のように、勇気を出してよ、イヌ!」
だが、そんな青年の考えを少女の叫びが否定した。
青年は自分には勇気がないと思っていた。
しかし、少女もまた青年の中に勇気を見ていたと言う。
「イヌなら出来る! ネコには出来なくても、イヌには絶対出来るよ!」
そして青年は先ほどの自分の考えが間違っていたことに気付いた。
――ああ、そうか。やっぱり俺たちは似た者同士。お互いにない強さに惹かれあっていたんだな――
青年だけが少女の勇気に惹かれたのではない。
少女もまた青年の勇気に惹かれていた。
青年に出来ないことを少女が出来るように、少女が出来ないことを青年は出来る。
だったら青年は、少女が青年のために勇気を振り絞ってくれたように、自分もまた勇気を出して今こそ運命の鎖を解き放つ時だ。
青年は左手にナイフを握り締める。
もう体の震えは感じなかった。
「うるせぇぞ! この家畜共がっ!」
少女の叫びに焦れた頭領が叫び、斧を構えた。
噛み付きなんてふざけた真似に頭の中はぐつぐつと怒りで煮えくり返り、今度は拳骨なんて甘いものじゃなく、斧で少女を仕留めるつもりだった。
が。
「がっ! ぐはっ!」
少女に襲い掛かろうと地面を蹴った瞬間、その手からするりと斧が滑り落ちた。
先ほどは頭領の言葉に青年が目を見開いたが、今度はその青年の行動に頭領が同じ反応をする番だ。
信じられないとばかりに大きく見開く瞳孔に、青年の姿が映った。
これまでどんな命令にも、ただ拳を振り上げるだけで震え上がって従っていた青年が。
子供の頃から自分に従順な犬として躾けてきた青年が。
今、その鎖を解き放って、思いも寄らぬ反旗を翻してきた。
「イ……ヌ……てめぇ……ぐほぅ!」
青年を怒鳴りつける声ではなく、代わりに血がまるで噴水のように噴き出した。
青年の突き刺したナイフが一気に横へと振り抜かれ、喉を切り裂いたのだ。
頭領の見開いた目から力が、命の灯火が急激に失われていく。
死がすぐ間近に迫ってきても、頭領はいまだ信じることができなかった。
頭領の喉から噴き出す血潮が青年の右肩の包帯を、さらなる赤色で染め上げていく。
見慣れたはずの光景――にもかかわらず、青年は「ああ、頭領の血も俺たちと同じように赤かったんだな……」と何やら不思議に感じた。
そして再び襲ってきた右肩の痛みに耐え切れなくなった青年は、力なく崩れ落ちる頭領に覆いかぶさるようにして倒れこみ、意識を失うのだった。
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