指輪の温もり

御手紙 葉

指輪の温もり

 俺はプラットフォームの片隅にあるベンチに座って、じっと前方を睨んでいた。そこに漂う闇を見つめながら、もうすぐだ、もうすぐあいつはやってくる、と待ち構えていた。待ち構えていた、と言えば物騒に聞こえるかもしれないが、別に喧嘩相手を探している訳じゃない。

 確かにあいつとは喧嘩ばかりしていたが、それは相手を思いやってのことだった。憎い相手じゃない。むしろ好きで仕方がなく、その言葉を素直に吐露することが躊躇われるほどだった。

 真奈美……。俺が本当に愛している女の名前だ。乱れのない、艶やかに光を跳ね返すあの髪。すらりとした細身の体に、ハイヒールがよく似合う足。彼女のお気に入りのスーツが体を引き立てる度、俺は一度口を閉ざし、数歩彼女から離れてその姿を眺めたものだ。それほどまでに彼女のスーツ姿は美しかった。

 何故あんな些細なことで喧嘩してしまったのだろう。彼女のことを愛してやまないのに、口から零れ出すのは本音とは裏腹の言葉ばかりだった。ついかっとなって怒鳴ってしまったり、彼女のことを非難してしまった。彼女がそれで傷ついたことを知っていた俺は、本当に自分が情けなく、殴ってやりたかった。

 俺は殴った。ベンチに腰を下ろした自分の膝を。すぐ傍らにはきちんと包まれた彼女の好きだった高級ワインと、それからこれもまた、彼女がかつてから欲しいと言っていたブランド物のバッグがあった。

 彼女はこれを見たら、最初にどう思うだろうか。やっぱりあの時言った言葉は、本当に気の迷いだったわ。あなたのことは愛しているし、別れようなんて言ってごめんなさい。彼女はそう囁いてほくろが微かに見える唇を柔らかく微笑ませるのだ。

 先日、彼女と最後の電話をした際に、指輪を返すと言ってきた。

「あなたからもらった指輪、今度きちんと返しに行くから。十三日の火曜日しか都合がつかないの。あなたのマンションに返しに行くわ。六時頃になる予定だけど、それより延びるかもしれないわね」

 俺はその言葉を聞いて、もしかしたら和解も成立するかもしれない、と勝手に思い込んだ。いや、むしろその確信があった。彼女と婚約していたのにあの晩にひどい喧嘩をしてしまった。俺達は婚約してから半同棲の形を取っていたが、もう彼女は出て行ったきり戻ってくることはなかった。

 彼女にきちんと謝りたかった。謝って、何が何でも俺の傍にいて欲しい、と頼むつもりだった。その為に彼女の好きなものを、考え付く限りのプレゼントを用意して待っていたのだ。

 彼女はいつも俺のアパートに来る時、必ずこのプラットフォームのベンチとぴったり重なり合う電車のドアから出てくるのだ。俺がそこで待っていることが多いからだった。いつもドアが開くのを待てずに顔一杯に笑みを浮かべ、思春期の少女のような無邪気さで駆けてくる。そして俺の前に立ち、顔をじっと見つめて、数秒押し黙って、ただいま、と深く言葉を囁くのだ。

 もう十一時を回っていた。六時を過ぎてもずっとマンションで待っていたが、十一時を回っても来なかったことに、内心では焦りを感じながらも、「大丈夫だ」と自分に言い聞かせてここまで来た。本当にここまで来てしまった……彼女と別れる瀬戸際まで。

 でも、俺は全く心配していない。何故なら、俺は彼女と本当に長い間、ずっと一緒にいたのだ。だから、彼女が俺を想っていることも、その気持ちに変わりはないことも知っている。きっと彼女は必ずここまで来るはずだ。

 夜勤明けで朦朧とする意識の中、俺はぐっと拳を握り、充血した目で線路の先を睨み続ける。俺は変わった。もう昔のままの自分とは違う。彼女に甘えていた頃は、女遊びにふらふらと誘われて行ってしまうような、どうしようもない男だったが、もう今は覚悟の上で違う。

 俺はもう彼女と共に歩んでいく決心は出来ているのだ。彼女の為に変わろうと決めたんだ。もう昔とは違う……大丈夫だ、俺は彼女にちゃんと言える。結婚して下さい、ともう一度。

 そこでホームにアナウンスが入った。俺は体に電気が巡ったようにベンチから跳ね上がって、線路の向こうを見つめた。一番線に電車が参ります、黄色い線までおさがり下さい……この電車だ、この電車に彼女は乗っているに違いない。

 俺は自然と薬指に嵌められたその指輪を撫でた。彼女はきっとこの指輪をしたまま俺の前に現れ、そっと近寄って来ると、少しだけ困ったように微笑んで、「行きましょう」と俺を促すに違いない。それとも、その場でお互いを見つめて笑い合い、俺からただ、ごめんなさい、と。

 もう頭の中が思考でごった返していて、冷や汗だけが流れていく。右手にワイン、左手にバッグのプレゼントを抱えたまま、俺は前傾姿勢で電車が滑り込んでくるのを待った。

 そして、来た。彼女の乗った電車が眩いほどのライトを煌めかせて、ホームに入ってくる。風の唸り声が俺の前髪を逆立たせ、顎を流れ落ちる汗を拭うこともせずに、唇を噛んだままその車両が近づくのを待つ。一両、二両――。

 真奈美……! 俺はぐっと拳を握ってそのドアを見つめた。そこに、人影が見えた。真奈美か? 女性であることはわかった。すらりとしたストレートの髪……電車が速度を緩めて、止まった。その人は俯いていて、顔はわからない。

 俺は一歩、足を進めた。そして、ドアが開く。俺は致命的なその瞬間を捉えた。彼女のスーツの腕裾から伸びる、左手の薬指……そこに指輪がきらりと閃いたのが見えた。真奈美だ!

 俺はもう駆け始めたが、どこかそこで頭の隅に違和感を覚えた。でも、もう止まれなかった。扉が開いてすぐに、「真奈美!」と声に出して叫んだ。そして、その女性が顔を上げた。

 やや垂れ下がった大きな目に、薄い唇、何よりも穏和な感じがするその表情。真奈美ではない、とすぐにわかった。彼女のピリッと空気を震わせるような雰囲気も、凛とした佇まいも、規則正しい歩き方も彼女にはなかった。その女性は怪訝な顔をしながら歩いてきて、俺の前を通り過ぎると、駆けるようにして階段へと向かっていった。

「すみません、人違いです……」

 俺は掠れかかった声でその背中へ向けて声を吐きつけ、佇んだ。俺の右を、後ろを、乗客が降りて掠めていく。何だろう、と振り向く人がほとんどだったが、すぐに気にした様子もなく階段へと歩いていった。

 後に残されたのは俺の意識の底に沈んだ、炎だった。俺は地面を見つめて思考を停止させ、俯き続けた。そして、背後へと向き直ると、もう一度ベンチに座り直す。

 もう、気力の限界だった。眠気が最高潮に達し、それでも俺は次の電車を待って、線路を睨み続けた。真奈美は、きっと来るはずだ。俺のことを愛していてくれるに違いない、と何度も何度も念じ、待ち続けた。

 やがて頭の上から宵闇が降りてきた。それは全てを包み込む沈黙のヴェールで、俺はそれに瞼を、口を、体中を覆われながら深い深い闇の底へと沈んでいく。

 彼女の笑顔をその先に見つけながら。


 *


 女はそっと電車に乗って、ドアの前に立ちながら、これまでのことを瞬時にめまぐるしく思い浮かべていた。それはどれもが楽しい思い出で、自分の人生からその瞬間を切り取ることはできないだろう、と思った。だが、これからの自分の進んでいく道を考えると、葛藤が胸を締め付けていく。

 私はあの人のことが好きだった。それは今でも変わらないのだろうか。

 何度も自問する。だが、もうその答えは決まっていた。それは簡単に自分の胸の内から引きずり出すことができた。その車両のドアの前に立った彼女は、外の景色を見つめた。もう乗客はあまりなく、点々と煌めく街明かりが、彼女の湿った瞼に眩しく映った。

 私はあの人のことが好きだった。そして、彼もまだ私のことをあきらめきれていないんだろうな。

 そう思うと、苦笑が漏れてしまう。左手の薬指の、その感触を何度も確かめながら、女はずっと前から着ていくと決めていたそのスーツを手で整えた。彼が何度も自分を褒めてくれたスーツだ。彼は女のスーツ姿を妙に気に入っていて、それは少し奇妙でもあった。でも、それがどこかくすぐったくて、嬉しかった。

 やがてそのホームが見えてくる。女はぐっと拳を握った。彼はいるだろうか、と思うと、窓へと身を乗り出して目で追ってしまう。そのホームへと入り、どんどんそのベンチが近づいてくる。

 時間が急加速し、女の鼓動も早鐘を鳴らしていった。遠くにベンチの上の影を見付けた。……突っ伏している……黒く、大柄の体だ。女はさらに顔を窓ガラスに近づけ、やがてゆっくりと電車がそこに停車する準備に入った。

 彼はベンチの上で眠っていた。半ば体を背もたれに投げ出すようにして、ひどく疲れたように眠っている。そうか、確か今日は夜勤明けだったかもしれない……きっとそうだ。

 ゆっくりと扉が開く。女はそっとそこから降りた。何故だか足音を鳴らさないようにひっそりと降りてしまった。鼓動だけが膨れ上がり、息を止めてしまう。私の決断は本当に間違っていなかったのだろうか? もう後戻りできなくなるのよ……本当にいいの?

 彼女はふと足を止めて、短く息を吸った。そして目を閉じ、決心を固めた。

 彼へと近づいていった。疲れ切った様子で、情けない格好で眠っている。女はそっと手を差し伸べようとして、すぐに自分のその行動に気付いて手を引っ込めた。

 彼の傍らに置かれたそのワインと、ブランドのロゴの入った包みを見る。それらを交互に見つめていると、女は笑ってしまった。彼らしいな、と思う。本当に優しくて、不器用で、一途で。だから、私も好きになったのだろう。

 彼の手はプレゼントをぎゅっと握っており、眠っている間もそれだけは手放さないと決めているらしかった。その必死な様子が、女には本当に嬉しく感じた。

 これはたぶん、自分が以前から買いたいと言っていたブランド物のバッグだろう。仲直りしたいと言う為に、女のためにわざわざ買ってくれたのだ。その思いやりと優しさに涙が零れそうになる。

 だけど、もう決めたんだ。

 女はそっと左手の薬指に手をかけた。そして、その手を顔の前へと持ち上げ、その指輪を見つめた。

 彼が少ない給料で婚約の為に買ってくれた指輪だった。彼の手にもその指輪が嵌められている。本当にそれは大切なものだった。たった今、この瞬間まで――。

 女は小さく息を吸って、そして指輪をもう一度見つめた。そのまま引き抜く。彼の傍らにその指輪を置くと、彼女は微かに笑い、もう一度彼をじっと眺めた。その姿を心に焼き付けるように、そっと熱い眼差しで。

 そのまま、身を翻した。階段へと歩き出す。彼を起さないようにその夢の中で穏やかな時を過ごせるように、ヒールを地面にそっと一つ一つ置いていくように、上っていく。

 さようなら。女は薬指のすっと空気に触れて、冷えるようなその感触を味わいながら、もう一度つぶやいた。

 さようなら、とさらにもう一度……。


 *


 ふと肩を揺り起こされて、俺は眠りから意識を引き起こして、ゆっくりと顔を上げた。ここはどこだ? 少しひんやりとした空気が肌に染み付く。

「お客様、もう終電は行ってしまったので、列車の発着はありませんよ」

 駅員の言葉に、俺は何か声を上げながらベンチから跳ね上がった。プラットフォームに立った瞬間、必死の想いで視線を周囲へと向けて彼女の姿を探す。だが、当然そこには俺の黒いスーツを呑み込む闇が広がっているだけだった。彼女の温もりも、気配も、残り香さえも、その場にはなかった。

 膝が震え出して、ベンチに崩れ落ちてしまう。嘘だろ、彼女は来なかったのか? と冷たい感情が足元から首筋までを這い上がっては覆い尽くしていく。

 ちくしょう、と俺は啜り泣きながら何度も膝を打った。そこで左右のワインとバッグが残ったままであることに気付き、やっぱり来なかったのか、と唇を噛み締めた。ふと俺の傍ら、ベンチの上に何かが煌めいた気がした。

 俺ははっと目を見開いて、その小さな光を放つものをじっと見つめた。

 指輪だった。わずかな曇りさえもなく、それは周囲へと心の中を照らすように光を放っていた。俺は頭が真っ白になって、真由美、と掠れかかった声を上げながら、それをつかんだ。

 俺が変わったように、真由美の心も変わらないはずはなかったのだ。彼女が俺に対して心の中ではどんな気持ちを抱えていたのか、俺と一緒にいることで、どんな苦しみがあったのか、全く考えてこなかった。この結果は当然のものだろう。

 でも、それに気付いてしまう。その指輪を手にした瞬間に、彼女の温もりが指先に伝わってきたのだ。まだ、暖かい。その事実だけを知った俺は、ぐっと唇を引き結んで堪えようとしたが、もう抑えることができなかった。

 男の癖に涙をみっともなく流しながら、俺は指輪をつかんでその温もりに縋るようにして感じ続けた。彼女が俺の元に来るまで最後まで指輪をしていてくれたこと、そして最後に浮かべた顔などが、脳裏に浮かんでは焼き付いていく。

 俺はちくしょう、ちくしょう、と囁きながら、その指輪を手にして笑い、泣き続けた。


 了

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指輪の温もり 御手紙 葉 @otegamiyo

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