最強のA

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最強のA

 突然の話だが、俺にはこの世に生まれ落ちてから今まで一度も喧嘩で勝てた事の無い女がいる。彼女の名前はAとしておこう。はっきり言ってAは最強だ。今まで彼女が男女問わず喧嘩で負けた所など見たことがない。なぜAがそんなに強いかと言うと、父親がとある格闘技の道場を開いており、幼い頃から英才教育を受けているからだ。


 今、彼女の渾身の右ストレートが俺の顔面に届こうとしている。だが俺は恐れてはいない。なぜなら、その拳に必殺のクロスカウンターを合わせることに成功したからだ。ようやくAに勝てる。そう思うと、今までの敗北の歴史が脳裏に蘇ってきた。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと15センチ。


 俺がAに初めて敗北したのは、まだ二歳かそこらの頃だ。俺自身にその頃の記憶はないが、後々母親から聞かされた話だ。

 俺の母親が俺を連れて公園に行くと、そこにはAとAの母親がいたらしい。母親達は初対面でありながらも仲良くなり、俺とAも二人で仲良く砂場で遊んでいたそうだ。しかし、母親達がおしゃべりに夢中になり目を離した隙に、俺とAは喧嘩になっていたらしい。母親達がふと砂場の方を見ると、俺は砂場のリングで号泣していたそうだ。これが俺とAの全面戦争の始まりだった。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと14センチ。


 Aとの出会いから約一年。俺は三歳になり、保育園に入園していた。この頃から僅かに記憶がある。

 ある日俺が恐竜のおもちゃで遊んでいると、Aは俺に「そのおもちゃ貸して」と言ってきた。しかし俺は「やだね」と意地悪を言い、そのおもちゃを手放さない事で自分の優位を保とうとした。

 するとAは俺の手から恐竜をもぎ取ると、俺の脳天に背中のトゲトゲを振り下ろした。

 そしてあまりの痛みに転げ回る俺の尻に、Aはトドメとばかりに恐竜のトゲトゲをぶち込んだのだ。

 俺に明確な復讐心が芽生えたのはあの頃からだ。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと13センチ。


 あれは確か四歳の時、俺とAの両家族で海に行った時だ。あの時が俺とAにとって初めての海で、始めの方こそ砂場でお城を作ったりして楽しく遊んでいた。

 そのうち砂遊びに飽きた俺達は海で泳ごうということになったのだが、Aは泳ぐことができなかった。一方俺は泳ぎに自信があり、ここぞとばかりにAをからかった。カナヅチだのトンカチだの散々言って水をかけていると、突然Aがキレた。

 Aはまず俺の肩を掴み、波打ち際に投げ飛ばす。そして上に乗っかりマウントポジションをとり、逃げられないように俺の体を固定した。

 俺は波が来るたびに顔面に海水を浴び、波打ち際で溺れかけた。あの日を境に俺は海が大嫌いになったのだ。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと12センチ。


 俺は五歳になり、幼稚園の年長になっていた。そして神の悪戯か悪魔の罠か、Aも同じ幼稚園の年長であった。

 俺の通っていた幼稚園では毎年年長のクラスがお芝居をして親達に見せる行事があり、その年は金太郎をやる事となる。そして俺は当然のように、主役である金太郎役をやりたがった。しかし、俺の前に最強のライバルが立ちはだかる。Aだ。

 Aと俺は金太郎の座を奪い合う事になった。

 まず俺は金太郎が男であるのに、女であるAが金太郎をやりたがるのはおかしいと指摘した。一方Aは女が金太郎をやってもおかしくないと根拠の無い事を言い出した。

 そこで俺は金太郎は前掛け以外はほぼ裸である事に目をつける。

 俺はAに、金太郎をやりたいならみんなの前ですっぽんぽんになれるはずだと言い、服を脱いですっぽんぽんになって見せた。

 俺がAにもすっぽんぽんになれと言うと、園児達は面白がり、Aに対するすっぽんぽんコールが始まった。

 幼稚園児とはいえ、Aは女。当然Aは恥ずかしがって脱ごうとはしない。

 すると、Aはこう言い出した。

 金太郎は力持ちなのだから、二人のうちより強い方が金太郎をやるべきだと。

 そしてAは俺の股間を蹴り上げると、悶絶している俺の顔面に右ストレートを放ち、顎を打ち抜いた。Aの必殺技である殺人右ストレートが生まれた瞬間である。

 結局Aは見事に金太郎の座をもぎ取り、俺は熊をやらされる事になる。そして俺はAに股がられらながら、悔し涙をこらえて熊役を全うした。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと11センチ。


 六歳。俺は小学校に上がり、悪ガキライフを満喫していた。

 当時俺の通っていた小学校ではスカート捲りが流行していて、悪ガキの俺はあらゆる女子のスカートを捲りまくっていた。

 しかし、一人だけ俺にスカート捲りを許さない女子がいた。Aだ。

 俺はAのスカートを何度も狙ったが、背後に近付くと気配で気づかれて、いつも手で鉄壁のガードをされてしまうのであった。

 そこで俺は頭を働かせる。

 昼休み、俺は雲梯をしているAの背後に焦らずこっそりと近付く。そしてAが雲梯の途中で止まった瞬間、スカートの裾を掴むとペロリと捲りあげた。

 しかし、Aはスカートの中に短パンを履いており、俺はショックに打ちひしがれた。

 Aは雲梯を持ち替えこちらを向くと、手を離し、落下しながら俺の脳天に肘を打ち下ろす。重力を味方にした脳天直下の肘打ちは、俺にそれまでの人生で最大の衝撃を与えた。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと10センチ。


 七歳になり、俺は小学二年生になった。

 当時俺の学年ではカンチョーがブームになっており、休み時間になるとカンチョー戦争などというくだらない遊びが蔓延していた。

 あらゆる相手にカンチョーをくらわせていた俺は思った。カンチョーでなら奴に勝てるのでは無いかと。奴とは当然、Aだ。

 奴に全力でカンチョーをぶちかまし、のたうち回る様が見てみたい。俺は強くそう思った。

 そんな俺に絶好のチャンスが訪れた。プール開きである。海の一件から数年、Aは未だに泳げないという事を俺は知っていた。


 水中でならAを殺れる。

 そう思った俺は、水泳の授業中の自由時間の時にAがトロトロと水中を歩いているのを確認し、俺は水面下に潜る。そして音を立てずにAの背後に近付くと、思いっきりカンチョーした。

 が、何かがおかしい。俺のカンチョーは確かにAの尻に突き刺さったが、その威力はイマイチだった。俺は水の抵抗というものを全く考えていなかったのだ。おかげで陸上ではマグナム砲に匹敵する威力の俺のカンチョーは、必殺とは程遠い威力となってしまった。

 Aがゆっくりと振り返る。まずいと思い俺は逃げ出そうとした。水中なら奴は俺を追ってこれまい。そう高をくくっていたが余りにも甘かった。Aは逃げようとしている俺の背中に飛び乗ると、上空高くに飛び上がる。振り返った俺が見た奴の目は、獲物を狙う鷹の目であった。

 そして俺は一年ぶりに脳天直下肘打ちを喰らい、その日を境にカンチョー界からの引退を決意した。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと9センチ。


 八歳。俺は小学三年生になった。

 小三にもなりAとの実力差がようやくわかり始めた俺は、中々Aに挑戦する事ができなくなってきていた。Aとの戦争が始まり数年、百を超える敗北を喫してきた俺は正直少し腐っていたのだ。

 そんなある日、翌月に身体能力テストが行われる事がわかった。

 俺はこのチャンスにかける事にした。

 Aは運動神経は抜群だが体がめちゃくちゃ固いという事を、去年の身体能力テストで俺は見逃していなかったのだ。

 その日から俺は毎日酢を飲み、時間があれば柔軟運動に時間を割くようになった。家で宿題をする時やテレビを見る時間でさえ、床で股割りをしながらという涙ぐましい努力を重ねたのだ。

 そしてとうとう身体能力テストの日がやってきた。

 五十メートル走やソフトボール投げが終わり、お待ちかねの柔軟の測定の時がやってくる。

 俺はAに実力を見せつけるために、列に並んでいたAの前に無理矢理割り込む。そして俺は修行の成果を遺憾なく発揮した。恐らくクラス、いや、学年、もしかしたら全学年合わせても一番だったかもしれない。俺のあまりの体の柔らかさにその場にいた全員が驚愕した。

 そして次はAの番だ。Aは相変わらず笑ってしまう程に体が固かった。俺はそれを見て大笑いしながら、調子に乗ってAの背中をグイグイと押した。俺はついにAに勝ったのだ。

 すると、Aの背中越しにぐすぐすと鼻をすする音が聞こえた。俺は慌てて手を離し、後ずさりをする。

 今まで数多の女子を泣かせてきた俺であったが、まさかAがこんな所で泣くとは思いもしなかったのだ。

 Aは体育座りをして、膝に顔を埋めて泣き始める。俺はそれに駆け寄り、何度も何度も謝った。

 が、やはり俺は激甘だった。

 Aがチラリとこちらを見た時、その目には涙ではなく鬼が宿っていたのだ。

 逃げ遅れた俺はAから電気あんまをくらい、笑いながら泣いた。

 こうして俺は女の恐ろしさを知り、代償に新たな敗北の歴史を刻んだのであった。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと8センチ。


 九歳になり、俺は小学四年生になった。

 俺はAに勝つ事を半分くらいは諦め掛けていたが、まだ完全に諦めたわけではなかった。

 その年の学芸会で、俺のクラスはピーターパンの劇をする事になった。そして同じクラスには当然のようにAがいた。

 劇の配役を決める段階となり、俺はふと考えた。ここでピーターパンを取りにいっても、あの金太郎と同じ事になるのではないかと。

 そこで俺は閃いた。俺はピーターパンではなく敵役のフック船長に立候補したのだ。人気のなかったフック船長はあっさりと俺に決まり、ピーターパン役には俺の算段通りにAが収まった。

 そこで俺は先生に提案した。ピーターパンが勝つストーリーだとありきたりなので、フック船長が勝つストーリーしようと。するとクラスメイト達は面白がり、俺に賛同した。そして先生もユニークな事が好きな先生だったので、俺の意見はすんなりと通ってしまった。

 俺は遂にやったと思った。公衆の面前で堂々と奴を倒す事ができると。

 そして劇の練習中、俺は何度もAに勝利した。何度も何度もフック船長のフックでAが演じるピーターパンを引き裂いたのだ。

 最初は嬉しかった。

 俺の一撃で悲鳴をあげて倒れるAを見るのは快感だった。

 しかし、何度も繰り返すうちになんだか虚しい気持ちが溢れてきて、それは何度ピーターパンの悲鳴を聞いても拭えなかった。

 そのうち、ピーターパンのやられっぷりが上手いとクラスメイトの中で評判になった。

 やがて本番の日がやってくる。

 本番中も、舞台上で拍手を送られるのは俺のフック船長ではなくAのピーターパンであった。むしろ観客はピーターパンを倒し狂喜乱舞する俺の演技にドン引きしていた。

 それが悔しかったので、劇が終わった後にAの背後から小道具のフックでペコッと小突くと、Aはそれまで随分フラストレーションを溜め込んでいたらしく、顔面に強烈な右ストレートを喰らわされた。

 またしても俺は敗北したのだ。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと7センチ。


 十歳。俺は小学五年生になっていた。

 高学年ともなると、俺は完全に落ち着いており、Aを倒す事をすっかり諦めていた。

 そんな中、女子の間で告白ごっこというものが流行っている事を知る。

 告白ごっことは意中の相手に告白し、その返答しだいで恋人ごっこへと移行するという、普通の告白以外なにものでもない遊びだ。

 俺はそれを知り、悪ガキ魂が疼いた。

 そして俺は女子に差出人不明のラブレターを出して呼び出し、すっぽかしてからかおうという最低のイタズラを思いついた。

 しかし、いざターゲットを決めようという段階で、俺は誰を罠にかけようか悩んだ。その時、脳裏に浮かんだ一人の女子がいた。Aだ。

 俺はAにラブレターを書く事にした。しかしラブレターはおろか年賀状すらろくに出さない俺は文面に悩んだ結果、とりあえず呼び出せばいいやと思い「放課後に体育館裏で待ってる」とだけノートの切れ端に書いてAの靴箱に放り込んだ。

 そして放課後、俺は体育館裏が見渡せる非常階段の上からAの様子を観察する事にした。

 しばらくすると、騙されたとも知らずAがのこのこやってきて、俺は馬鹿な奴めとほくそ笑む。

 それから俺はAがそわそわしている様子を十分に堪能し、さて帰ろうと思い、気付く。今ここから降りればほぼ真下にいるAに姿を見られてしまう。そして不自然にも生徒が滅多に利用する事が無い非常階段から俺が下りてきたら、Aは全てを理解し俺をボコボコにするだろう。

 校舎内から帰ろうにも非常階段側の扉は普段は外側から開けることができない仕様になっており、俺は必然的にAがその場を立ち去るまで待つ事になった。

 しかしAはなかなか帰ろうとしない。

 三十分が過ぎ、一時間が過ぎてもAが帰る事は無かった。夕暮れが迫るがAはまだ帰らない。

 やがて尿意が限界に達した俺は一つの決断を下した。


 非常階段から駆け下りた俺はAの前に立ちはだかる。Aはかつて無いほど驚いた顔をしていた。

 そして俺はAに向かって言った。「よくぞ果たし状に応じてくれた」と。

 Aの顔が般若の形相に変わった。

 俺は果敢に立ち向かったが、かつて無いほどボコボコにされ、久しぶりに泣きながら帰る事になった。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと6センチ。


 十一歳になり、俺はとうとう小学校最高学年である六年生になった。そしてAに勝つ事をもはや完璧に諦めていた。

 この六年、それ以前を合わせれば約十年。よくぞここまでAという壁に挑んできたと自分を褒めてやりたい。この年初めてAと違うクラスになったのも神様の思し召しだろう。俺はサッカーやカードゲームに熱中して、楽しく最後の小学校生活を楽しもうと決めていた。

 そして運動会シーズン。目立ちたがりの俺は例年通り応援団に入り、紅組の応援団長を務める事になった。

 しかし、本当に何という事だろう。

 例によって俺の前に、またしても奴が立ちはだかった。Aだ。

 Aは敵対組織である白組の応援団長になっていたのだ。

 神は何という意地悪をするのであろうか。いいだろう。ここまできたらやれるだけやってやる。

 そして俺とAの小学校ラストバトルが幕を開けた。


 運動会当日、紅組と白組の戦いは拮抗していた。

 残る競技はあと一つ、男女混合騎馬戦のみだ。

 俺は騎馬に乗って出陣し、気がつくとグラウンドには俺とAの騎馬しか残っていなかった。

 正面から激突した俺とAはお互いの手をがっぷりと握り合い、力任せに押し合う。その時俺は思った。「あれ? いけるんじゃないか」と。俺とAの腕力はいつの間にか互角になっていたのだ。

 しかし、単純な腕力では勝負がつかずに、俺達はハチマキの奪い合いに移行する。Aの手さばきは尋常ではなかった。まるでボクサーのパンチのように素早く鋭く手を出してくる。

 素早い攻防戦の中、俺の手に柔らかい感触が触れる。

 勢いあまった俺はAの胸に触れてしまったのだ。

 Aが小さな悲鳴をあげ、俺は慌てふためく。

 そしてその瞬間、Aは俺の隙をついてハチマキを奪取した。こうして紅組の敗北が確定し、俺とAの六年間の勝負は俺の全敗に終わったのだ。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと5センチ。


 俺は十二歳になり、ついに中学校へ入学した。

 Aは家が近所なので、当然学区も同じである。


 俺は部活には入らず、勉強もそっちのけで、近所のボクシングジムに入門する。もちろんAを倒すためだ。

 あの運動会で俺は気付いた。俺とAの腕力差が逆転する時が近付いてきたのだと。それに気付いてからは、俺の中で打倒Aへの熱が再燃した。

 やる気満々な俺は、メキメキとボクシングが上達した。半年もせずに先輩達とスパーリングをするようになり、一方的にボコボコにされない戦いは楽しいという事を学んだ。

 ある日、公園で自主トレをしていると、ランニングをしているAと出会った。Aも俺と同じように、部活には入らず父親の道場で格闘技を学んでいるようであった。

 ボクシングを始めてから自分に自信をつけていた俺は、Aにその場で立会いを求める。奇しくもそこは初めてAと喧嘩をした公園であった。

 結論から言うと、俺はボコボコにされた。しかし俺を倒した後、Aはしばらく自分の拳を見つめて、何も言わずに去って行った。俺にはその背中がなぜか少しだけ寂しげに見えた。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと4センチ。


 十三歳になり、俺は中学二年生になった。

 俺は相変わらずボクシングを続けており、会長には将来が楽しみだと言われる程に成長していた。

 あれから何度かAに立会いを申し込んだが、Aはなぜか俺との立会いに応じてはくれなかった。俺は焦った。勝ち逃げなどされたらたまったものではない。こちらは今まで何回負けたか数えきれないのだ。一度くらい勝たねば死んでも死に切れない。


 悩んでいた俺は、そこで一つのアイディアを思いつく。道場破りである。

 Aの通っている道場に直接乗り込んでAに直々に立会いを申し込もうと思ったのだ。


 そして俺はAの父親が開いている道場へと出向いた。

 中に入ると、Aの父親が声をかけてくる。俺がAと立ち会うために来た事を告げると、Aの父親は一瞬厳しい顔をしたが、一日入門の書類にサインをする事を条件に立ち会いを認めてくれた。

 Aは父親に言われ、渋々俺と立ち会ってくれる事になった。


 ルールは相手の流派に乗っ取り三本勝負だ。

 一本目、俺はAの連打に押されあっさり倒された。やはりAは強い。だけど俺も今まで何もしていなかったわけじゃない。Aを倒すために日々トレーニングを積んで来たのだ。

 二本目、Aは再び素早い連打を叩き込んでくる。蹴り、突き、手刀、様々な攻撃が俺を襲った。俺は倒れそうになるが、このままただやられるわけにはいかない。俺は苦し紛れにワンツーを放った。するとそれはタイミング良く回し蹴りを繰り出して来たAの肩に当たり、バランスを崩したAは後ろに倒れた。そして、俺の耳に一本という声が聞こえた。

 俺は信じられなかった。Aも信じられないという顔をしていた。そしてAは悲しげな表情でぎゅっと唇を噛み締めた。

 三本目、浮き足立った俺はAの右ストレートをもろにくらい撃沈した。しかし、まぐれとはいえAから一本を取れた事が、俺には死ぬほど嬉しかった。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと3センチ。


 十四歳、俺は中学三年になった。

 受験勉強があるのでジムに通う頻度は減ったが、俺は毎日の基礎トレーニングはちゃんと続けていた。

 あの立ち会いの日から、トレーニング中にAと会う頻度は減り、ここ数ヶ月は全く会わなくなっていた。

 ある日、俺がいつも通りランニングをしていると、商店街のゲームセンターの中にAの姿を見かける。

 俺がAに声をかけると、Aは俺を無視した。それでも声をかけ続けると、ガラの悪い連中五人に囲まれた。そいつらはどうやらAの友人のようだった。

 俺は裏路地に連れていかれて襲われたが、全員を返り討ちにする。そしてAに近寄ると、Aは俺にビンタをして、どこかに去って行った。Aの放ったビンタはとても弱々しいものであったが、なぜか俺の胸にはズキズキとした強い痛みが残った。


 その数日後、俺の携帯にAからメールが届いた。

 メールで待ち合わせた公園に行くと、Aがベンチに座っていた。俺が隣に座ると、Aは少しずつ喋り始めた。

 格闘技を始めた時の事、強くなって嬉しかった事、俺との争いの事、そして、自分が女であるという事。

 Aはなぜ自分が女に生まれてきたのかを悔やんでいた。どれだけ鍛えても男のように最強を目指す事ができないと。俺との長年の勝負の中で徐々に強くなる俺の腕力を感じ、より強くそう思ったそうだ。それを認めるのが嫌で、ここ数ヶ月は稽古を休んでいたと。俯いて独り言のように語るAの姿がとても小さく見えた。

 それからAはもうすぐ俺に勝てなくなると言った。

 今まで意識していなかったが、いつの間にか俺の体はAよりもだいぶ大きくなってしまっていた。

 弱音を吐くAを見て、俺も悔しかった。

 そして気付いた。

 俺が勝ちたいのは最強であるAなのだと。

 だから俺は言った。

 一年後、最後の勝負をしようと。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと2センチ。


 十五歳。俺とAはあれから受験勉強に没頭し、お互い希望した別々の高校に入学した。高校に入学してからは、来るべき決戦に向けて互いにトレーニングをした。

 トレーニング中にはよくAと顔を合わせたが、どうやら俺との最終決戦に向けて本気でトレーニングに打ち込んでいるらしく、Aの体は細身ながら以前より全体的に筋肉量が増えているように見えた。

 俺は打倒Aに向けて、蹴り技や投げ技も学ぼうかと思ったが、やはりボクシング一本でいく事に決めた。

 しかし、ただ戦ったのでは勝ち目が薄い。以前Aから一本を取ったとはいえ、あれは偶然であり狙って取れたものではない。腕力は今の俺の方が上ではあるものの、テクニックや経験では相手の方が圧倒的に上だ。

 そこで俺は今までの数百の敗北を思い出した。

 彼女が必殺とするのは右ストレート。ここぞという時には必ず打ってくる。そして俺の得意なパンチは左フックだった。俺は閃いた。そうだ、クロスカウンターでいこうと。

 俺は会長に頼み込み、ジムにいる先輩達と何度もスパーリングをし、クロスカウンターのタイミングを練習した。そして決戦が間近に迫った頃、俺のクロスカウンターは完成した。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと1センチ。


 深夜0時、俺はあの日の公園にやってきた。

 全てはこの公園での一戦から始まったのだ。

 少ししてからAがやってきた。こっそり家を抜け出すのに苦労したそうだ。

 この場所と時間を選んだ理由は特にない。ただ、この勝負は誰にも邪魔されない神聖な勝負にしたかったのだ。

 深夜の公園は静まり返っており、俺とA以外は誰もいない。街灯の灯りが俺とAをチカチカと照らす。

 勝負はルール無し。場所もルールも初めて戦ったあの時と同じだ。違うのは俺達が成長している事。ここまでくるまで本当に長かった。何度負けただろう。何度泣いただろう。

 今、俺とAは長年の因縁にケリをつけるために戦う。

 互いに構えると、試合開始の合図などなく勝負は始まった。

 俺達は互いに距離を詰め、連打を打ち合う。手数はAの方が多いが、一撃は俺の方が重いはずだ。

 Aが回し蹴りを放ち、俺は側頭部をガードする。想像していた以上にAの回し蹴りは重く、ガードしたにも関わらず思わずよろめいた。

 その隙にAは俺を掴み投げようとする。俺は必死に体を振り回してAの手を振り解いた。

 しかし、Aは離れ側に俺のボディに右フックを打ち込んだ。俺は肝臓を打たれた痛みで膝をついた。体格差はあれど女のパンチとは思えない。そして追い打ちに放たれた膝蹴りが俺の顔面を捉える。膝は俺の鼻に直撃し、鼻血が溢れた。

 その時、視界からAが消えた。

 Aは俺の上空にいた。

 俺の脳天にあの悪夢のような肘打ちが炸裂する。必殺とも言える三連撃を喰らい、俺は意識を失いかけた。だけどまだ終わるわけにはいかない。俺は絶対にAを倒してみせる。これが最後の勝負なのだから。

 俺はふらつきながらも立ち上がる。Aは一歩下がり構えを取る。俺も負けじとファイティングポーズを取った。

 あれがくる。

 俺は確信していた。

 Aは三連撃のダメージが残っているうちにとどめを刺したいはずだ。なら絶対にあれを打ってくる。必殺の右ストレートを。

 Aが動いた。

 左足を踏み込み、右足首、右膝、腰が回転する。左拳を引き、肩が回り、右拳が捻られる。その様子が俺にはスローモーションのように見えていた。右拳が吸い込まれるように俺の顔面めがけて飛んでくる。そう、俺が初めて右ストレートを喰らったあの時のように。

 俺は前に出た。そして伸びてくる右腕に被せるように左フックを放つ。

 Aは最強だ。

 だから俺はAに勝ちたい。

 頭はこれまでに無い程冷静だ。しかし、心の中で俺は咆哮していた。


 俺の拳が彼女に届くまで、あと0センチ。


 ガツン


 鈍い音と共に、俺の拳がAの顎を打ち抜いた。

 顎の先端を捉えた拳から伝わる衝撃がAの脳を揺らし、Aは膝からゆっくりと崩れ落ちる。俺はとっさにAを抱きとめた。その体は思っていた以上に細く、軽く、そして熱かった。


 Aが目を覚ましてから、俺とAは沢山話をした。これまでの事と、これからの事を。

 今まで多くを語る仲ではなかったが、今日はなぜか堰を切ったように二人の間には次々と言葉が溢れた。そしてAは何やら俺には最強を目指す義務があるなんてめちゃくちゃな事を言っていた。

 長い間話をして、やがて朝になる。


 そして俺は思い知らされる。やはり俺は甘かったと。Aがただ負けるはずがないのだ。


 別れ際に、Aの唇が俺の唇に触れる。

 その衝撃に、俺は半分意識を失ったままAの後ろ姿を見送った。


 やはりAは最強である。

 完璧なKO。俺はまたAに勝てなかった。勝てなかったのなら、俺は奴にまた挑むしかない。何度でも何度でも立ち向かってやる。Aを倒すその日まで。


 こうして俺とAの新たな戦いが始まった。


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