第4話 新しい名前
「マユといえば、この間あの子ネットニュースに載っていたわね」
「ああ、西表の大型新種を記載した件だったよね。まああれだけ大きくて特徴的だったから話題性もあるし」
「私達の子とは大違いだわ」
「まあ、地味で小さな虫だったからね」
新種の発見は、実はそう難しいことではない。ありていに言えば、誰も研究していないような、見向きもされないような虫を探せばいい。
はじめは採った虫の処理――殺した後形を整える
そのうち自分で採る虫の量が多くなるにつれ、標本化作業も自分で行うようになったころ。私はピンセットと柄付き針でせっせと展足を行っていた。どうやら私は、こういう細かい作業をするのは向いているようだ。
「いやー精がでるねぇ。はい、コーヒー」
「ありがとう」
虫屋歴の長いケイに比べて、一匹の虫にかかる時間が何倍も長い。というかケイの展足はものすごく速くてかつ丁寧だ。他の虫屋からも驚かれるくらいに。
「あなたどうしてそんなに速いの?」
と聞いても、
「まあ、慣れかな」
としか返してくれない。とにかく練習あるのみということらしい。
「どれどれ、ちょっと見せてもらうよ」
ふむふむ、と私が並べていた虫を見分しだすケイ。
「んん? これは……わからないぞ……」
ある虫で目をとめ首を傾げた後、ひとしきり図鑑と見比べたり検索表をなぞったりしたあと、
「これ、ちょっと借りていっていいかな」
「いいけれど、どうするの?」
「この虫の仲間にもっと詳しいやつがいるんだ。そいつにちょっと聞いてみるよ」
後日、それはどうやら新種であることが分かった。
「なんとまあ!」
あまり虫に詳しくない私でも、新種という響きには心惹かれるものがある。
「これは早速記載論文を書かないとね」
そうしてケイは(自分の仕事もたくさん抱えているというのに)すさまじい速さで論文を書き上げた。
その虫の種小名はsumireaeと名付けられた。つまり私の名前だ。虫屋の世界ではお世話になった先生や師匠の名前を付けることが多いのだそうだが、ケイは『これは世界で初めてスミレが見つけた虫なんだから』と言った。
「それにほら、見て」
ケイは標本の下につけられたラベル――タイプ標本であることを示す赤いラベルを指さす。
学名というのは『属名 種小名 記載者 記載年』という順で書かれる。種小名は私の名前、記載者はケイの苗字が入る。
「なんだか、私がケイの奥さんみたいね」
「そう。そうしたかったんだ」
するとケイは一つ咳払いをして、
「スミレ。僕の奥さんになってくれないか」
「わかったわ」
「……即答とは、さすがスミレだね」
「というか、最近はいつになったら言い出すのかと少しイライラしていたわ」
だってもう私はずっとその気だったのだから。
「いや、それはなんというか申し訳ない……。本当はきっちりお金を貯めて、指輪も買ってからプロポーズしようと思っていたんだよ……」
「研究者が安月給なのは私もわかっているわよ。それに指輪なんていくらでも作れるわ。そんなものより、この世界で一つしかない、世界で一匹だけのこの虫に、あなたが名前を付けてくれたことが、私は何よりうれしいの」
それが見向きもされない虫だったとしても、私とあなたは知っている。それがなんだか、とてもうれしい。
「それにしても、ケイがすさまじい速さで論文を書いたのは私にプロポーズするためだったのね」
「うっ……そうだよ。いてもたってもいられなかったんだ」
「そう」
短い返事をした私の顔を見て、
「やれやれ、キミにはかなわないよ」
いつもの苦笑いを返すのだった。
*
「またそれを見ていたのかい」
「ええ。だってあなたが私にプロポーズしてくれたときのものだもの」
私が見つけ、ケイが名付けた虫の標本は、15センチ四方の小さな標本箱に入れて今も我が家で大切に保管してある。いつかどこかの機関に預けることになるとしても、私達が一緒でいる間は手元に置いておきたかったのだ。
「僕はかなり恥ずかしいんだけどね……」
「他の人にはできない素敵なプロポーズだったじゃない。それに新婚旅行で採集に行った人がいまさら何を言うのかしら」
「ごもっともです……」
新婚旅行に南米はどうか、と言われたとき、さすがの私も一瞬『こいつは何を言っているんだ』と思ったけれど、すぐに採集と結びついた。楽しそうだったのでもちろん承諾した。
「ああ、新婚旅行のことを思い出したら採集に行きたくなってきたわ」
「しばらくご無沙汰だもんね」
「あなたはいいわよね。気軽に身軽に行けるのだもの」
「そういわないでくれよ……。これでもかなり気を使っているんだから」
「冗談よ。おなかも大きくなってきたし、もう少しの辛抱だわ」
今私の体内には、新たな命が芽生えていた。体に負担がかかってはいけないからと、採集は自主規制中なのだ。
「どんな子に育つかなあ」
「私が全霊をかけて虫屋にするわ」
「謎のやる気だねえ」
たとえ大人になった時、まったく別の方向に進んだとしても、せめて子供の時くらいは虫が、生き物が好きでいてほしい。
「二人で名前を付けるのは、これで二度目だね」
「まさか自分の子供より先に虫に名前を付けるとは思わなかったわ」
「ははは、まったくだね」
それもこれも、あなたと出会えたからよ。
「ところで、もう名前は決めたのかな」
「決めたわよ。二人で出した候補の中から、一番素敵だと思う名前にしたわ」
「ほほう。聞かせてくれるかい?」
「ええ。この子の名前は――」
おしまい。
私の彼は虫屋です Hymeno @Nakahezi
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