第3話 カトカラ・イナズマ
「ケイ、お昼ができたわ。少し休憩しましょう」
「ありがとうスミレ」
今日は標本の整理の日。主に防虫剤の入れ替えだけれど、ついうっとりと眺めてしまって朝から一向に進んでいない。
「あら、懐かしいわね」
カミキリの箱の中に、あの赤いモンクロベニを見つけた。
「あの時のスミレの執念はすごかったねぇ。出航ギリギリまで粘ったけど採れなくて、帰りの船でずーっと『来年こそは採る』って泣いてたっけ」
「泣いてはいないわ」
「涙目にはなってた」
「……それにしても、あれももうずいぶん前の事なのね」
「あ、話逸らした。愛いやつめ」
「ご飯、冷めるわよ」
うりうり、と私の頭をなでるケイの手を振り払い立ち上がる。
大学院を卒業した私達は、就職と同時に同棲を始めた。大学にいた時ほど時間はとれないけれど、それでも週末は採集に行くし、休暇を合わせて遠征にも行く。
「いろいろなところへ行ったものよね。
「沖縄に行ったのは、キミがツマベニチョウを見たいと言ったからだったよね」
対馬の一件で火が付いたというかタガが外れたというか、私はどんどん採集にのめり込んでいった。それを見て、今まで遠慮して、私に合わせてくれていたケイの採集も、より本格的なものになっていった。例えば藪の中に突っ込んでいくとか。
「ナイターでガやクワガタのシャワーを浴びたりもしたわね」
「はじめはおそるおそるだったのに、すぐに慣れて虫を採るキミの成長っぷりには驚いたよ」
――甲虫のように硬い虫や、ハチの様に触らずに毒ビンへ入れるような虫は平気になっていたのだけれど、チョウやバッタのような網の中で暴れる、かつ体が軟らかい虫はまだ苦手だったころの事。
「……っ」
「いやあ、スミレがそんなこわばった顔をしているのは珍しいな」
私の初めてのナイターは、大成功だった。というのも、灯りをつけてから一時間もしないうちに大量の虫――主にガとガガンボ、あとコガネムシが、車に張った白布に飛んできていた。それはもうこれでもかというくらいで、布地が見えないほどだったわ。
「さすがに私も、これほどの量の虫を一度に見るのは初めてだもの。少しはしり込みするわよ」
一匹一匹を見るのはもう平気になっていたけれど、これほどたくさんの虫が蠢いているのを見ると、さすがにちょっと……。
一方ケイは白布の前に座り込んで、せっせと虫を採っている。足や肩、頭にも虫がとまっているけれど、まったく気にしていないようだ。
「うう……」
このままここで弱気になっているのはなんだか負けたような気がするので、じりじり……と少しずつ白布ににじり寄っていく。
その時、ゴツン、と何かかたいものがぶつかる音がした。
「お、クワガタも飛んで来始めたね。これはコクワか」
「え、本当――あいたっ!」
後頭部に何かが直撃した。振り向き、足元を見る。
「おお、ノコギリのオスだね。しかも結構いい形の
「とてもかっこいいわ」
あまりじっくりと見たことはなかったけれど、ノコギリクワガタって結構いい虫ね。大あごがぐっとカーブしているところとか、赤茶色で光沢のある体とか。ちょっと上品な感じがする。
「おおっ! カトカラだカトカラ! しかもベニ」
何やらケイが盛り上がっている。私はまたちょっと近づく。
「ほら見てごらん」
ケイが指さすのは、いたって普通の、灰色っぽい地味なガだった。
「よくいるガではないの?」
「ふふふ。カトカラというのはシタバガの仲間の属名なんだけど、そうやって愛称で呼ばれるくらい人気の種なんだ。一見地味に見えるけど……」
ケイがちょんちょん、とそのカトカラにちょっかいをかける。すると、
「まあ!」
「こんなふうに、
翅を閉じている時には隠れて見えなかった後翅が綺麗な紅色で、私はその美しさに息をのんだ。
「とても綺麗だわ。なんだか着物の裏地みたいね」
「そう、まさにそれなんだよ。ある種のチラリズムというか、隠れたお洒落というのが日本人は好きなんだろうね」
もうこうなってくると慣れてしまって、私も白布の横に座り込んで飛んでくる虫を採っていた。
*
「あの時はマユちゃんに灯火総研借りて発電機回したんだっけ。スミレを驚かせようと思って」
ケイは『初めのインパクトは肝心』だとか言って、マユから大きなライトのセットと発電機を借りてきたのだった。
「そうよ。あんなに集まったのは日本じゃあの時くらいよ」
「そうだねぇ。マレーシアの山奥でやったときは、ハンディライトだったのにかなり虫が来たもんね」
北海道や沖縄と、徐々に遠くへ足をのばしていったころ。なんとなく『次は外国にでも行ってしまうのかしら』と考えていた。
「メリークリスマス、ケイ」
「メリークリスマス、スミレ」
ある年のクリスマス。私とケイは、自宅でささやかなクリスマスパーティーをしていた。
「はい。プレゼントよ」
「わあ、ありがとう」
ケイがさっそく包装をほどく。
「あなたの靴、もうずいぶん長い間使っていてボロボロでしょう。そろそろ変え時かと思って」
「さすがスミレだ。僕よりも僕の事を知っているね。――じゃあこれは僕からのプレゼントだよ」
「……帽子とアウター?」
ケイが差し出したのは、ピンク色でそろいの帽子とアウターだった。
「どっちもゴアテックスだから、通気性と防風・防水性に優れてる。お世辞にも可愛い服とは言えないけど、フィールドでは役に立つと思うよ」
「着てみてもいいかしら」
「もちろん」
もぞもぞ、と新品の服に袖を通す。
「どうかしら」
「似合う似合う。山ガールみたい」
「やっていることはもっと変なことだけれどね。ありがとう。しっかり使わせてもらうわ」
「うん。しかしお互い実用的なものを選ぶあたり、さすが僕たち、って感じだね」
装飾品をもらっても、フィールドでは役に立たないもの。
料理を食べ終わり、おなかを休ませつつケーキを食べ始めようとしたとき、ケイがふと思い出したように言った。
「あ、そうだそうだ。もう一つ言うことがあったんだ」
「何かしら」
「ねえスミレ。マレーシア行かない?」
とんだクリスマスプレゼントだった。
*
それから二か月後、私は初めての異国で昆虫採集をしていた。
「暑いわね……」
沖縄の熱さとは格が違う。沖縄はむわっとした湿度の高い暑さだったが、マレーシアは太陽が直接肌を貫通してくるような感じがする。正直日焼け止めを塗っていてもあまり効果がない。
「貴重な黒こげのスミレが見られるかもしれない!」
それは喜ぶところなのかしら。
これほど暑いのに――これほど暑いからこそ、多様な虫が生息している。私の素人目で見ても日本のものとは全然違う虫がたくさんいて、採集していてとても楽しい。
「昨日の夜は衝撃だったわ」
「ああ。僕もあそこまで虫がくるとは思わなかった」
昨晩は久々に白布が虫で埋まる光景を見た。まず大量のセミが嵐のように押し寄せた。中にはあの世界で一番大きいセミ、テイオウゼミなんかも飛んできて暴れるので大変だったわ。
ガも本当に種類が多くて、変わった模様のものや綺麗な青色をしたものなど、なるほどガ屋が多いのも納得できる。それにいつかケイに教えてもらったヨナグニサンも飛んできて暴れるので大変だったわ。
それにコーカサスオオカブトも飛んできて暴れるので……熱帯は本当に大きな虫が多いわね。
「昼間は昼間で、たくさん虫がいるけどね」
私達は先ほどから、刺すような日差しのもと網を構えてじっとしている。というのも、先ほどここをあるチョウが通ったからだ。
イナズマチョウ。タテハチョウの仲間の比較的大きなチョウだ。その名の通り、稲妻のごとく速く飛ぶ。後ろから追いかけていったところで到底採ることはできないだろう。だからこうしてチョウの飛行ルートで待ち伏せをしているのだ。
「――来たよ!」
ケイの見つめる方向から、青と黒の稲妻が迫ってくる。
「頑張れ」
「ええ」
この数年で私の網使いもずいぶんマシになった。私があと15センチ届かなかったのは、長い補虫網に自分が振られていたからだ。網に振られてはいけない。軸足に重心を置き、てこの原理で網を振るのだ。
「くぅ――!」
すんでのところで軌道を変え、逃げられそうになる。それでも、昔の私とは違うのだ。さらに一歩踏み込み、逃げる軌道の先へ囲うように網を振る!
「――よし!」
熱帯の稲妻を見事しとめることができた。
「おめでとう! いやあ、いい網さばきだったよ。スミレももうすっかり虫屋だね」
「まったく。私をそうしたのはあなたなのだけれど」
マレーシアでの採集は、私にとって今までの集大成のようなものとなった。一方で、まだまだ昆虫の世界は奥深く、私の一生ごときではまったく飽きの来ないものだと思い知った。
飽きないということは、これからも私とケイは一緒にいるのだろう。そう思うと、なんだか胸の奥があたたかくなった。
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