第2話 モンクロベニ
「そういえば、一番大きな虫ってどのくらいあるのかしら」
休み時間に、ふと思った疑問をケイに投げかけてみる。
「え、なんだい急に。……そうだなあ。たぶん一番大きな虫はナナフシだと思うよ。マレーシアだかインドネシアだかに大人の顔くらいの大きさのあるナナフシがいたはず」
「それは……ちょっと見てみたいわね」
虫が好きでなくとも、ちょっとわくわくする。
「甲虫だと南米のタイタンオオウスバカミキリってカミキリかな。体長150ミリはあるんじゃなかったっけ」
「15センチ……私の手より大きいのね」
「
「それがこちらに飛んでくると思うと、ちょっとぞっとするわ」
「じゃあ今度ナイターもやってみようか」
ケイがいじわるそうな目をしている。ナイターってたぶん光で虫をいっぱい集めるやつのことね。あれはちょっとまだ抵抗があるわ。
「だんだんスミレが虫に興味を持ち始めてくれていてうれしいなあ。という流れで、スミレ、この虫をどう思う?」
ケイが携帯の画面を見せてきた。真っ赤な体で、背中に黒い
「そうね……上品な赤色ね。いい虫ね、この虫」
「キミの口から『いい虫』なんて言葉が出てくるなんて……僕は今感動している」
「私だって、いいものはいいと言うわ。……これが『いいもの』だと思えるようになったのはあなたのせいだけれど」
価値観を変えられてるのは、あなただけじゃないのよ。
「そうかそうか、そりゃあよかった! ……ところで、ゴールデンウィークの予定は空いているかい?」
「やっぱりそういう流れなのね……。あなたと付き合ってから、私の予定はだいたいあなたのために空けてあるわ」
「本当に僕にはもったいない彼女だよ、キミは」
「それはお互いさまよ」
*
「いい風ね」
岬の先端に立って、大自然の力を浴びる。周りは白波の立つ岩礁や、地層が斜めに隆起したのがわかる崖などの光景が広がる。
「私、こういう雄大な自然の力を感じるところ、結構好きなのよね」
「ここ、いいところでしょ。僕もお気に入りなんだ」
こういうの、ちょっとデートっぽいかしら。
「さて、そろそろ……」
「まったくもう、せっかちなんだから」
「いやあ、面目ない」
景色を楽しむのもこの辺りにして、ケイお待ちかねの虫採りの始まりよ。
「結構日差しが強いわね。このあたりには陰がないから、気を付けないと熱中症になるわよ」
「そうだね。ときどき休憩しないと」
ゴールデンウイークの対馬は、意外と暑い。博多からずっと北に移動するので寒くなるような気がするが、緯度は淡路島の南あたりと同じくらいなので実は全然寒くない。でも夜はまだ寒い。
今私達は大きな伐採地の前にいる。森の地面――林床には様々な植物の種が休眠状態で埋まっており、周りの大きな木が切られたり倒れたりして林床に光が当たると種が発芽する。この伐採地はまさにその状況が繰り広げられていて、ちょうど膝丈くらいの高さにまで育った木――ひこばえがたくさん見られる。
「これがコナラのひこばえね」
「ふうん」
とげとげした比較的長い葉っぱだ。ちなみにこういうとげとげした葉っぱを
「これが食草だから、これを見て回るのが一番やりやすい採集方法かな」
「わかったわ」
ケイと二手に分かれて捜索。
「これは……コナラじゃないわね。何もいないし。……これはコナラかしら。何もいないけど」
きょろきょろと見回してみるけれど、例の赤いカミキリムシはいない。あれほど派手な虫なら、いればすぐにわかるような気がするのだけれど。
「おっとっと……。歩くのも一苦労ね」
足に草が絡んだり、網にとげが引っかかったり。そもそも伐採地が斜面だから、慣れていないと大変だ。さくさく歩いていくケイはさすが慣れている。
「私も慣れてきたけれど、っと。ここにもいないのね」
昔はたくさんいたけれど、最近はかなり数が減ってしまったらしい。それでも対馬にはまだいるらしいのだけれど、そう簡単には見つからないみたいね……。
「ふう。ちょっと休憩」
よいしょ、と切株に腰かけて、ぼんやり景色を眺める。私がいる斜面と、林を挟んだ向う側の斜面は綺麗に
「これを人間がするのだから、すごいものよね」
ふあー……なんだか少し眠くなってきたわ。
大きなあくびをひとつついて、目をこすりながら目線を戻すと、
「あれ――」
蝶ではない。何かもっと飛ぶのが遅い……。
「もしかして」
さっきの眠気はどこへやら。慌てて立ち上がり、網を伸ばしつつ正体を確かめようと目を凝らす。すると、その何かもこちらの方へ飛んできた。
「――あれだわ!」
ちらっと赤く見えた。ああ、でも少し高い!
網を精一杯伸ばして、腕も精一杯伸ばして――振――。
――。
「いやーよかったよかった。無事モンクロベニ採れたよ。いやこれはいい虫だねえ。そっちはどう?」
「……」
「あれ、どうしたの?」
「あとちょっとだった」
「?」
「あとちょっとだったのよ!」
あとちょっと、あと15センチあれば、あの虫に届いたのに。
「……くやしいのかい?」
「くやしい」
どうしてかしら。即答できてしまった。
「とってもくやしい」
わからないけれど、心からそう思った。
「くや……しいわ……」
「そっか」
すっ、とケイが抱きしめてくれた。
「キミには申し訳ないかもしれないけど、僕は今とっても嬉しいよ。スミレが――僕の彼女がこんなに虫を、僕の好きなものを好きになってくれて」
「……そう。私は、もうすっかり虫を好きになってしまっていたのね」
そうか、だから私はこんなにくやしいのだ。好きだからこそ頑張って採ろうとして、好きだからこそ採れないとくやしいのだ。
「こうなった責任は、どうとってくれるのかしら」
「残念ながらそれはどうしようもない。確かにはじめは僕の影響だっただろうが、今やその感情はキミ自身のものなのだから」
「……あなたは時々そういう哲学的なことを言うわよね」
「それこそ、それはキミの影響かもしれないよ」
どうしたって人間は、他人に影響されるもの。嫌いな人の好きなものは嫌いになるかもしれないし、好きな人の好きなものは好きになるかもしれない。けれど、その気持ちが自分のものになるかどうかは、自分自身によるものなのだ。
「でも、今はそういうことを聞きたいんじゃないのよ」
「というと?」
「虫のために休日を使い切って虫採りをする女なんて、他に貰い手がないのだけれど」
「……僕だって、週末に虫採りについてきてくれるような女の子、手放すような馬鹿なまねはしないよ」
「そう」
私はその答えに、とても満足した。
「――キミの笑顔は、僕を殺しかねないね」
「哲学的なお世辞はいいのだけれど、いつまで私を抱きしめているつもりかしら」
「だめかな?」
「だめじゃないけど、それより今は早く採集に戻らないと」
「……そこまで虫を好きになってもらうと、僕の立場がないなぁ」
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