私の彼は虫屋です

Hymeno

第1話 スギタニ

 私の彼氏は、虫屋むしやだ。


 虫屋といってもピンとくる人はあまりいないだろう。虫を売ってる人、と思うかもしれない。

 何故かはわからないが、生き物が好きな人々は、例えば鳥が好きな人は鳥屋、植物が好きな人は植物屋というように、自分たちの事を○○屋と呼ぶ。今風に言うと○○オタクと言い換えられるだろう。


 つまり私の彼氏は虫が好きな虫オタクだというわけだ。


「やあスミレ。今日も虫採り日和だね」

 講義室で出会うなりこんなことを言う。


「そうねケイ。今日は洗濯物がよく乾きそうだわ」

 スルーして、普通の感想を返す。いつもの挨拶だ。


「週末佐賀の方にデートしない?」

「デート、ねぇ。で、狙いの虫は何?」

「スギタニ」


 私の彼氏――ケイは、私を虫採りに誘う時『デート』などという言葉を使う。


「普通に『虫採り一緒に行こうよ』って言えばいいのに」

「まあまあ、そこはなんていうか、少しの申し訳のなさが出てしまうわけだよ」

「あのねえ、別にあなたと一緒に行くならどこでも楽しいんだから、そういう遠慮は今更いらないのよ」


 付き合い始めてもう一年。始めはそのへんの天神の地下を歩いているファッションキメキメの女の子並みには抵抗はあったけれど、もともと私もそんなに生き物が嫌いなタチではないのですっかり慣れてしまった。慣らされたともいう。

 それにもう何度も採集には連れていかれている。今更どの口が申し訳ないなどと言うのだろうか。


「スミレ……」

 ケイが何やら恥ずかしそうな顔をしている。

「えっなに急に」


「いやあ、朝から見せつけてくれますなあ。となり、いい?」

「いいわよ、マユ。で、何よ見せつけるって」


 ちなみにこのマユという女も虫屋だ。蛾が好きだというから驚き。でも虫屋界隈で蛾は意外と人気があるらしい。


「無自覚ですよ……困ったもんだね、彼氏さんや」

「そんなところも好きなんだよなあ」

「ひゃーお熱い。まだ五月だってのにもう夏みたいだよ」

「よくわからないけど、私も好きよ」


 そんなことより、と話を戻す。


「その杉谷さんというのは何の虫なの?」

「そんなことって……え、なにスギタニ採りに行くの?」

「今週末にね。ちょっと遅いかな?」

「どーだろ。実はあたし先週行ったんだよね。その時はいっぱいいたけど、今週はどうだろ」


 むぅ。


「ちょっと、私の話聞きなさいよ」

「おっとごめんよ。スギタニっていうのは、スギタニルリシジミっていうシジミチョウの一種のことだよ」

「ああ、蝶々なの」


 シジミチョウっていうと、確か小さな水色の蝶々だったかしら。


「そうそう。それに佐賀のスギタニは他と違うんだよ。普通のスギタニは裏が灰色なんだけど、九州のは裏が白っぽいんだよ。さらに佐賀の多良山たらさん系の個体は黒点が小さくなるんだよね」

「ふうん」


 マユの話を聞きつつ、携帯で佐賀の杉谷さんについて調べてみる。


『佐賀のスギタニは黒点が小さく、ルリシジミに非常によく似る』

 ふむ。ルリシジミって確かその辺を飛んでいるやつよね。


「ねえこれ、ルリシジミにそっくり、って書いてあるのだけれど」

「そうなんだよ。結構見分けるの難しくて」

「純粋な疑問なのだけれど、これってわざわざ採りに行く意味あるの?」


 あら、二人とも固まってしまったわ。


「ち、違うんだよ。スギタニなのに白い! まるでルリシジミみたい! ……ってところがいいんだよ」

「そ、そうさ。ルリシジミに似ているんじゃない、スギタニなのに白いのがいいんだよ!」


 二人とも必死だわ。


「……私にはあまりわからないけれど、そういうものなのね」

「そうなんだよ。……ふう、やれやれ。キミといると時々価値観が揺らぎそうになってドキッとするよ」

「なんだか申し訳ないわね。私はただ疑問に思っただけだから、聞き流してくれて頂戴ね。……それで、今週末だったかしら? それは泊まり?」

「いや、日帰りのつもりだよ」

「わかった。楽しみにしているわ」


 泊まりでもよかったのに、とは口に出さないでおいた。


 *


 そうして週末、車でトコトコ三時間くらいかけて佐賀の多良岳までやって来た。


「最近長時間のドライブも楽しめるようになってきた自分が怖いわ」

「はは。着実に染まっていってるね」


「有明海がよく見えるわね。それに佐賀から筑後平野のほうまで」

「向こう岸がちょっとガスってるのが残念だね。もっと空気が綺麗だったら、熊本のほうまで見えたかもしれないのに」

「あなたと見るから綺麗なのよ」

「……スミレにはかなわないなあ」


 展望があるのもつかの間、車は山の奥へと入っていく。しばらく山道を行き、今回の目的地である川の端に車をとめる。


「ん――っと。涼しくていいわね」

「川のそばだから余計にね。さて、準備するか」


 ケイは折りたたまれた網と竿を車から出し、

「装着!」

 と大仰な声をあげて虫あみを組み立てた。


「はい、こっちはスミレの分」


 ケイの持つ網は6mも伸びる長竿で、私に渡されたのは2mちょっとの短くて軽い網だ。


 はじめはケイが虫を採っているのを後ろで見ていただけだったのだけれど、それだと飽きてくる……というかちょっと興味が出てきたので、最近は一緒になって蝶々とかを採っている。といっても採ったあとは全部ケイにお任せしているけど。


「お昼頃からこの辺りを飛ぶ、って聞いたんだけど……」

「あ、あれじゃない?」


 川を挟んで向こう側の森から、一匹の小さな蝶がふわりと舞い降りてきた。


「お、あれだよ。……たぶん。ルリシジミでなければ」

 いわく、その似ている二種の生息地はかぶっているらしい。なんて紛らわしいのかしら。


「ちょっと遠すぎるかしらね」

「吸水しに降りて来るらしいから、気長に待とう」

 と言ってケイは少し上流の方へ歩いていった。待とうって言ったのにせっかちなんだから。


 私はじーっと飛んでいる蝶を見ていた。しばらくすると、確かに地面のほうまで降りてきた。川にぼこっと浮いている大きな岩の上にとまった。


「これなら……届くかしら」

 網を伸ばしてみる。

「もうちょっとね」


 蝶のいるところまでは少し届かない。今度は網をいっぱいまで伸ばして、さらに腕もぐぐっと伸ばしてみる。

「あとちょっと……」

 もう少しのところで届かない。


「あと、15センチ……きゃっ!」

「おっと危ない」

 濡れた石で滑ってしまった。ケイが抱き留めてくれなかったら川で顔面を強打するところだった。


「ふう。大丈夫?」

「ありがとう。助かったわ。でもどうして都合よく私のそばに? 向こうの方へ歩いていったと思ったけれど」

「ふとキミの方を見たらだいぶ頑張っているようだったから、これはこけるぞと思って慌てて戻ってきたんだよ」

「そう」


 そんなに無理な格好をしていたのかしら。


「気を付けて、って言わないといけないところだけど……そんなに虫採りにはまってくれるだなんて、嬉しいなあ」

「そんなにはまっているのかしら、私」

「なんとしても採る、って感じだったよ」

「そう」


 自分でも自覚していないだけで、結構楽しんでいるのかしら。


「あなた色に染められてしまったのね。……ところであなたは採れたのかしら」

「急にドキッとすること言わないでくれるかい。そして僕は採れたよ。というか向こうにたくさん集まっている場所があったんだ」

「ぜひ見てみたいわ」


 ケイについていくと、そこには数十匹の小さな青い蝶が舞っていた。


「とても綺麗だわ」

「これなら採りやすいでしょ?」

「ええ、でも――このままの方がいいわ」

「……それもそうだね」


 ひらひらと舞飛ぶ蝶を眺めて、二人でうららかな春の風に吹かれていた。

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