真夏のあんかけうどん

RAY

姉と弟のホットなひととき


たく~、夜食持って来たよぉ。開けてぇ」


 廊下を歩く、軽い足音が部屋の前で止まり、鼻に掛かった、甘ったるい声が聞えた。

 パソコンの画面とニラメッコをしていた拓は慌てて立ち上がると、足をもつれさせながらドアの方へと飛んでいく。そして、小さく深呼吸をして緊張気味にドアの取っ手を手前に引いた。


結衣姉ゆいねえ! ありが……とう……」


 拓は口を半開きにして目を大きく見開く。

 そこには、夜食が乗った、うるし塗りの盆を両手で抱える結衣ゆいの姿があった。


「どうしたのぉ? お姉ちゃんの顔に何かついてるぅ?」


 小首を傾げて不思議そうに尋ねる結衣に、拓は目を逸らして顔を赤らめる。


「だって……結衣姉ゆいねえのエプロン……下に……何も着けていない……みたいだから……」


「えっ?」


 結衣は持っていた盆をパソコンの隣に置いて、首から掛けた、ワンピース調のエプロンをしげしげと見つめた。

 確かに、エプロンから出ている部分――首から上、両肩から先、太腿ふとももから下は肌が露出している。見ようによっては、エプロンで隠れている部分は何も着けていないように見える。


「拓ったら、想像力が豊かなんだから。いつも小説を書いているだけのことはあるねぇ……でも、お姉ちゃん、『裸エプロン』じゃないんだよぉ。ほら」


 結衣はクルリと背を向けると、両手を左右に広げてお尻を突き出すようなポーズを取る。ピンク色のタンクトップとショートパンツを身に着けているのを、これみよがしに見せつける。

 細いウエストのあたりで、レース地のエプロンのひもが大きなリボンのようにキュッと結ばっているのがとても可愛らしい。どこか刺激的な光景に、拓はゴクリと唾を飲み込んだ。


「でも、ホントに温かいおうどんでよかったの? 汗かいちゃうよぉ」


 結衣は、濃紺の唐草模様がデザインされたドンブリに目をやりながら、少し心配そうな顔をする。


「だ、大丈夫! 汗が出たらエアコンを付ければいいんだし……! 僕、結衣姉ゆいねえが作る『あんかけうどん』が大好きなんだ! 結衣姉ゆいねえ帰省かえって来たら、絶対に作って欲しいんだ!」


 拓は声を荒らげながら、大袈裟に首を何度も縦に振る。喜んでいる様子を必死に伝えようとしているのがわかる。


 拓の姉・結衣はN大学文学部の二年生。名古屋で一人暮らし。有名ファッション雑誌の読者モデルを務める関係で、月に一度は都内の実家に顔を出す。今回帰省かえって来たのは、次の日、横浜で雑誌の撮影があるから。


 今夜の夜食は、拓がリクエストした「あんかけうどん」。ドンブリの中には、厚さ一センチほどの半透明の黒っぽい物体――醤油ベースのあんがプルプルと揺れている。

 うどんとは言いながら、うどんの存在は確認できない。湯気も立っていないことから、初めて目にした人はこれをうどんだとは思わない。


「お姉ちゃんは名古屋で育ったから、おうどんと言えば、あんかけか味噌煮込み。でも、拓は名古屋とは縁もゆかりもないんだから、無理して食べなくたっていいんだよぉ。お醤油で作る、真っ黒なあんは見た目も悪いし――」


「そんなことないよ!」


 大きな声が結衣の言葉を遮る。

 拓は唇をとがらせて、小さな子供が駄々をこねるような顔をする。


「僕、この真っ黒なあんが大好きなんだ! いただきます!」


 パキンという、割り箸が割れる音とともに、片栗粉でがつけられたあんの中に二本の箸が潜り込む。拓はさながら真っ黒な海に眠る財宝を探すダイバー。その目は真剣そのもの。

 あんかけうどんと格闘する拓の顔を、目尻の下がった、大きな瞳が見つめる。「がんばれ」。そんな声援を送っているように見える。

 そんな優しい視線に拓の右手にグッと力が入る。重くなった箸をグイッと持ち上げて、太めのうどんを引きずり出した。

 その瞬間、食欲をそそる、椎茸の出汁だしの匂いが鼻を突く。同時に、分厚いあんに閉じ込められていた熱が白い蒸気となって湧き上がった。


 拓は湯気の立つうどんに「ふぅーふぅー」と息を吹き掛けると、音を立てながら口いっぱいに頬張ほおばった。目が涙目になる。うどんの熱さは拓の予想をはるかに超えていた。口を小さく開けて、酸欠の金魚みたいに「ほっほっ」と小刻みに空気を吸い込んだ。


「慌てなくたっていいんだよぉ。はい」


 結衣は穏やかな表情を浮かべて、氷水の入ったコップを手渡す。

 コップを受け取るや否や、拓はゴクゴクと音を立てて水を喉の奥に流し込むと、ホッとした表情で小さく息を吐いた。

 そんな拓の様子に、結衣は右手で口元を押さえてくすりと笑う。


「……だってさ……すごく美味しそうだったんだもん……」


 照れ笑いを浮かべながら、拓はポツリと呟く。


「ありがとう。美味しそうに食べてくれて。拓だけだよぉ。そんな風に食べてくれるの。でも、無理しちゃダメだよ。お腹が痛くなったら大変だもん」


「そ、そんなわけないじゃないか! 無理なんかしてないよ! 結衣姉ゆいねえの料理はすごく美味しいから……僕は名古屋のことはよくわからない。でも、結衣姉ゆいねえの料理を食べたら……名古屋へ行きたくなる……」


「じゃあ、夏休みになったら泊りに来る? お姉ちゃんのところ」


「――えっ?」


 拓の箸を持つ手が止まる。「驚きを隠せない」といった様子で結衣の顔をジッと見つめている。結衣の優しげな瞳が「どう?」と囁いているように見えた。

 心臓が激しく脈打つ。身体がすごく熱い。熱を帯びたあんかけうどんを食べたせいではない。


 拓は真剣な表情を浮かべて、再びあんかけうどんの中へ箸を潜り込ませる。発掘したのは、傘に切れ込みの入った、肉厚の干し椎茸。食欲をそそる、上質な香りが漂っている。

 「グッ」と噛みしめると、凝縮された旨みが「ジュワ」っと溢れ出す。その熱量に拓の口から「ハフハフ」という音が漏れた。


「やっぱり汗かいちゃったねぇ。隠し味の生姜ショウガが効いたのかな?」


 結衣は、エプロンのポケットからピンクのハンカチを取り出して、拓の額に浮き出た汗をポンポンと叩くように拭き取った。拓の顔は熱があるみたいに熱くなっていた。決して、隠し味の生姜ショウガのせいではない。


 恥ずかしさを隠すように、拓はドンブリを両手で抱える。とろみを帯びた、うどんの汁を「グイッ」と喉に流し込んだ。玉のような汗がブワッと溢れ出す。


「拓ったらぁ……汗まみれだよぉ。仕方のない子」


 結衣は小さな子に話し掛けるように言うと、どこかうれしそうな表情を浮かべてハンカチで汗を拭う。


「エアコン、付けようか?」


「い、いいよ! 僕、汗をきながら食べるの好きなんだ! 新陳代謝も良くなるし!」


 を壊したくないのか、拓は取って付けたような理由を口にする。そして、発掘したうどんを、定番のカマボコやホウレンソウといっしょに頬張ほおばった。

 入っている具はシンプルなものばかり。ただ、シンプルがゆえに濃い目の醤油餡しょうゆあんとの取り合わせが絶妙で深い味わいが感じられる。


★★


「あ~美味しかった!」


 汁を一滴残らず飲み乾すと、拓は満足げに声を上げた。


 干し椎茸とかつおの出汁だしが効いた、しょうゆ味のあんとコシのあるうどんが実に相性が良い。隠し味の生姜ショウガも良い仕事をしており、身体の中がポカポカしている。

 こんな言い方をすると夏には不似合いな食べ物のような印象を受けるが、拓は暑い季節に熱い物を食べるのが嫌いではなかった。


「拓の暑そうな顔を見てたら、お姉ちゃんも暑くなっちゃった」


 そう言うが早いか、結衣はTシャツを脱ぐように頭からエプロンを外す。

 肩まで伸びたサラサラの髪が「パサッ」と揺れて、シャンプーの良い香りが拓の鼻をつく。

 ピンクのタンクトップとショートパンツに身を包んだ結衣の姿が目に飛び込んでくる。心臓がトクンと音を立てた。


「あんかけうどんって名古屋では定番だけど、関東ではなかなかないよねぇ」


「そ、そうだね。結衣姉ゆいねえがいなかったら一生食べられなかったかも……こんな美味しい物食べられなかったら一生後悔したよ」


「拓ったら、大袈裟なんだからぁ」


 拓の言い方がわざとらしかったのか、結衣が「クスッ」と笑う。


「でもね、後悔はしなかったと思うよ。だって、拓はあんかけうどんの存在を知らないわけだから後悔のしようがないもの……それって、人と人との出会いにも言えるかも」


 拓の左腕に結衣の両手が絡みつく。結衣の顔が近い。目尻の下がった優しい目がいつも以上に大きく見える。


「で、でも……仕方がないんじゃない? そんなこと言ったら、『自分に一番相応ふさわしい』って思った人が本当に一番なのかどうかなんてわからないし……僕は『今の自分が幸せだ』って思えたらそれでいいと思う」


「へぇ~中学二年生にもなると、そんなこと言えるんだ。拓ったら、何だか大人になったみたい」


 息が掛るくらいの距離に顔を近づけながら、結衣は囁くように言った。


「拓は……幸せ?」


 唐突な一言に、拓は結衣の方へ顔を向けた。

 微かに揺れる瞳に、自分の驚いた顔が映っている。


「幸せ……だと思う。ううん。絶対に幸せだよ」


「どうして?」


 結衣の両腕が拓の左腕をグイッと引き寄せる――タンクトップ一枚をまとっただけのふくよかな胸の方へ。


「だ、だって……僕……」


 そのとき、結衣が外したエプロンの方からポップス調の音楽が聞こえてきた。

 結衣はエプロンのポケットへ手を入れて、ピンク色のスマホを取り出した。


「雑誌社の人から。明日の撮影のことかな?……ごめんね。ちょっと待ってて」


 結衣は慌てて立ち上がると、そそくさと部屋を出て行った。

 拓は大きく息を吐いて、そのまま後ろに倒れて大の字になる。


 不意に笑みがこぼれた。

 それは、自分ががとても滑稽こっけいに思えたから。冷静に考えたら「言わなくて良かった」と思ったから。


『あんかけうどんが好きなのは、僕に似ているからかもしれない。だって、あんかけうどんは、見た目は冷めているみたいなのに、中はすごく熱いから。分厚いあんの中に潜って、熱い思いに触れてくれる人がいたらうれしい』


 身体を起こした拓はドンブリの乗った盆をそっと脇に寄せる。そして、パソコンの前に座り直して小説の続きを書き始めた。ただ、さっきの今だけに、気持ちがフワフワしてどこか落ち付かない。


「ごめんねぇ」


 電話が終わったのか、結衣が再び部屋の中に入って来る。


「拓、さっき何か言おうとしていたんじゃない?」


「た、大したことじゃないからいいよ」


 結衣の問い掛けを緊張気味に流しながら、拓はパソコンのマウスをカチカチとクリックする。


「うん。わかった。小説がんばってねぇ」


 結衣は小さくウインクをすると、ドンブリの乗った盆を手に立ち上がる。

 少し気まずい雰囲気の中、拓はパソコンに目をやりながら曖昧な返事を返す。


「あっ、そうだ」


 あと一、二センチで閉まりそうなところでドアが止まって、結衣がポツリと言った。


「お姉ちゃんも、あんかけうどんが好き……自分と似ている気がするから」


 そんな言葉とともにパタンとドアが閉まり足音が遠ざかって行く。

 マウスを持つ手が止まって視線がドアの方へ向いた。身体が固まったように動かない。気が付くと、省エネモードのパソコンの画面が真っ黒になっていた。


 拓には結衣の言葉の真意はわからなかった。ただ、もし結衣が自分と同じことを考えていたとしたら――。

 さっきよりも心臓の鼓動が速い。身体の中もずっと熱い。


『真夏の名古屋……あんかけうどん……熱いんだろうな……』


 拓は心の中でポツリと呟くと、はにかんだような笑顔を浮かべた。

 自分のことを、とても幸せだと感じながら。

 


 おしまい

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真夏のあんかけうどん RAY @MIDNIGHT_RAY

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