肌をおよぐ蛇

◎◎◎(サンジュウマル)

黒髪の巫女は奪われて

 広い寝室は甘い香りの薄暗がりに包まれており、大きな寝台の絹の敷布の波間で女は半身を起こしていた。

 彼女の美貌は金剛石ダイアモンド藍玉サファイアといった煌びやかに加工カットをされた宝石の印象ではなく、かといって野の花を思わせるような素朴なものでもない。……そう、熾火のような赤みをところどころに含んだ、天然の真っ黒な蛋白石オパールが最も近いだろうか。

 めったに陽光に晒されずに育った肌はなめらかな雪原のように白く、鴉の羽のごとき艶やかな黒髪は肩から前へと波打ってうねりながら流れ落ち、つい昨晩まで生娘だったとは思えないほどずっしりとした大きな乳房を縁取って強調している。

 まだ十代の終わりという年齢のわりには妖艶。大人びた秀麗な顔立ちに浮かんでいるものは“驚愕”だ。

 夜明けまで自分の身に起こったのが何なのか。あるいは、自分の意識を今まで奪っていた現象や体内と脚の痛みが何なのか。

 信じられない――信じたくないと、その表情は語っていた。

 その視線が向けられた先。彼女のかたわらには焼いた銀の粉をまぶしたような色合いの癖のある髪の男がうつ伏せに眠っている。

 わずかに見える横顔は二十代の終わりか三十そこそこか。

 腕も脚も長くたくましく、背中は幅広く、尻は引き締まりつつも厚く。縒り合わさった全身の強い筋肉が、日によく焼けた、上等のなめし革のような肌の下に感じられる。

 皮膚は肩や腕に付いた真新しい噛み傷をのぞいて古傷だらけだった。ほとんどが、刀の痕らしい直線だ。

 細い線となって盛り上がるそれらの肉の下から、黒い墨で描かれた海蛇が、まるで肌が水面だとでもいうように、ゆらりと浮かび上がってきた。女は悲鳴を上げるのも忘れて、それを見つめ続けた。

 異形の黒蛇は、身をくねらせて男の肌を撫でるように泳ぐと、ふたたび“とぷり”と、身を沈めていった。


 女は自分の真っ白な両腕へ視線を移した。ほくろひとつないことを確認するかのように持ち上げて、ためすがめつ眺める。

 老いてかすれた老巫女の声が、彼女の耳の奥によみがえった。

自棄やけになっちゃあ、いけないよ華鱗ファリン。お前さんの身になにが起ころうとも、心が神に寄り添っている限りは、お前さんは立派な樹巫女いつきみこだ」

 記憶の中。首に色とりどりの小さな木の実のネックレスを何重にも巻いた老婆が、たっぷりと墨がついた筆を肌に走らせる。穂先は華鱗ファリンの手の甲からはじまり、腕を伝い、背中を通ってまた腕から手の甲へと続く美しくも真っ黒な蛇をえがく。尾にあたるところも凶暴な頭部となった双頭の黒蛇だ。

「こいつは、餞別さ。神に捧げられたあんたの純潔を『最初に』奪った男に、このまじないは取り付く」


「……どうした、■■■■」

 みじろぎした男は耳慣れない名前で彼女を呼ぶと、こちらに寝返りをうった。狼のように猛々しい、名工が小刀で削った彫像のように整った容姿があきらかになる。耳に心地よい響きの声はまだわずかに寝ぼけていた。

 そして、意地悪そうに笑った。

「まだ朝餉あさめしまで時間があるぞ。寝てろ寝てろ」

 細い腰にたくましい腕が巻き付いてくると、華鱗の全身がふたたび寝台へと戻された。

「きゃ」

 彼女の悲鳴がかすれていることに気付き、男はますます楽しそうに笑った。

「朝まで嬌声が止まらなかったのだ、無理もない」

 腕の中の白い肌に降るように口付けを落とす。薄れかけた鬱血の痕を濃く塗り直すかのように。

「今夜もたっぷりと可愛がってやるからな、■■■■」

 反射的に華鱗は殴ったが、男は子猫に引っかかれたような顔をしてヤニ下がった。


 樹巫女いつきみこ

 ここからは隣国にあたる梯華国ていかこくの神殿に十七人しかいない“神につながる者”だ。体内に大きな樹木を持ち、神の湖からチカラとコトバを吸い上げるのだと言われている。

 世界の主流である太陽教と相容れないため、忌み嫌う者も少なくない。

 しかし覇王スレンバートルは、勝者の証として巫女を自分の物珍しい側室にすることを敗戦国に求め、十七人のうちもっとも若く美しかった華鱗が、生け贄となった。

 もちろん望んでのことではない。

 華鱗は自由を奪われ、純潔を奪われ、名を奪われて側室の■■■■となった。

「……巫女に自由なぞ、元から無いだろう」

 大陸を駆ける王はつまらなさそうに言う。

「部屋に内鍵をかけることと、外から閉じこめられることは、違うでありましょう?」

「……なるほど」

 華鱗の言葉に少しは納得したような顔をして、王はキセルから煙を吹いた。草地に立ったままくるりと振り返り、両腕を広げてみせる。格式張ったことを嫌う彼は、絹の上衣を着崩して前をはだけていた。

「だが■■■■、神殿にいてはこんな景色は見られなかっただろう?」

 二人の目の前に広がる絶景は、地平線まで可憐な白い花が覆い尽くした丘だった。野をわたる風はさわやかで、遠くは紫がかった山がぐるりと取り囲んでいる。

「ここが、俺が弟を殺した場所だ」

 王は意地悪そうに笑った。

 金茶の髪の侍女たちに囲まれて籐を編んだ長椅子に横たわった、側室ファリンの足下を指さす。

「ほうら、そこに弟の生首があるぞ!」

 悲鳴を上げて飛び上がった女どもの中で、華鱗だけは背もたれに身をゆだねたまましらっとした顔をして、地面に石突きを刺した大きな日傘の陰から王を見上げた。

「男が言うのは嘘ばかり」

「なんだ、かわいげのない女だな」

「いつお役を解かれても、構いませぬよ」

 正室はまだいないが、華鱗だけが側室というわけではない。

「そうしたら神のもとに戻るのか?」

「……叶うことなら」

 王はニヤリと笑って、薄衣をまとった華鱗を長椅子に押し倒した。

 黒髪を結い上げている黄金と翡翠のかんざしを片手でツイッと抜き、髪はうねりながらこぼれ落ちた。

 男の唇から指先から、避けがたい快楽が強い酒のように注ぎ込まれていく。華鱗は呻き声を喉で押し殺した。それに笑みを深くして王はとろけるように囁いた。

「お前は……神にやるにはもったいない」


  ‡ ‡ ‡


 神の元にはもう戻れない。

 それは華鱗にもよく分かっていた。

 巫女であった頃とは細胞から変えられてしまった。かつては体内に、豊かな“湖”につながるための根をたっぷりと張り巡らせることができたが、男の楔に穿たれた時から葉は枯れ、幹は折れ、根は弱まり、今やほとんど水源との交流が途切れている。深い場所までたっぷりと満ちていた神の湖は遠くなってしまった。

 それにここで王を殺して逃げたとしても自由になれるわけではなく、すぐさま、故郷の神殿に報復が行くだろう。

 腕を持ち上げて眺める。

 真っ白な腕を。

「どうなされましたか、巫女さま?」

 小麦のような髪の侍女が鏡越しに首をかしげた。手には獣毛のブラシを持っている。

 この国の人々の多くが金か金茶の髪を持っていた。王の暗い銀灰色の髪は珍しく、華鱗のような黒髪はさらに稀である。

「傲慢でございますな、巫女さまは」

 侍女は赤くぬらぬらと塗った唇を嘲りの形に歪め、囁いた。王が「俺の黒曜石」と気まぐれな猫を撫でるように触れる黒髪を、乱暴にくしけずる。

「痛たっ」

 さすがの華鱗も眉をひそめたが、侍女は強くブラッシングをする手を止めないまま呟く。

「神のドブ川……でしたか。繋がることが出来る御自分のほうが王や貴族よりもお偉いとでもお思いなのでしょうなぁ」

 声や手付きはは上品で顔立ちは美しかったが、その口元には皺があり華鱗よりもいくぶん年齢が上であることが見て取れる。もしかすると王よりも年かさなのかもしれない。目元には大きめの泣きぼくろがあった。

 新しく側付きになったばかりの侍女だった。名前は――何だったろうか。

 女は憎々しげに、華鱗の部屋に山ほど積まれた贈り物へと視線をやる。真新しい衣装に帯に宝玉や簪などの飾りが、王が部屋に来た日は土産として、来られない日はお詫びとして、断っても断っても毎日贈られてくるのだ。

「たくましき王にあれほど愛されていて、何が御不満か?」

 華鱗はつい笑ってしまった。

「愛? あれは愛なのでしょうか」

 愛なのか執着なのか肉欲なのか……。ずっと神殿にいて男に触れたことがなかった華鱗に分かるわけがない。それが癇に障ったらしく侍女は悲鳴を上げて跳びかかってきた。

「この売女がっ! たかが邪教の手先のくせに生意気なっ」

 さすがに異常に気が付いた他の侍女や警護の者たちが周囲から駆け付けてくるまで、小麦の髪の侍女はブラシと腕をむちゃくちゃに振り回してきた。


「すまん」

 灰色の髪の男は深く頭を下げた。

 鎧を脱いだだけのいくさ姿で大量の汗と返り血にまみれている。いつも飄々として嬉しそうに華鱗に絡んでくる彼が、珍しく萎れて殊勝なありさまだ。

 誰かからの報告が前線にいってから、すぐに馬を駆けさせて戻ってきたのだろう。争いが落ち着いていたのならいい。しかし戦地を放棄してきたのなら、この大国を亡ぼすのは華鱗ということになる。――これほど優れた国王にとって自分は、そこまでの価値は無いはずなのに。

 頬のひっかき傷に貼った薬布を押さえて、華鱗は視線を逸らす。

「あなたが捨てた愛人に恨まれるのは困ります。……望んだ地位でもありませぬのに」

 王は悲しそうな顔をした。

「まあ、そう言うな■■■■。いくら俺だって傷つくぞ。……件の女は処刑した。もうお前を煩わせることはない」

「……処刑?」

「ああ、首を落として野犬に喰わせた。下級貴族の娘だが、俺の愛人というわけではない。誘われれば誰の下でも腰を振る浮かれだ」

 王は宦官が渡してきた絹布で汗をぬぐいながら、何か思い出したらしく、吹き出すようにのどの奥をクッと鳴らし笑みを浮かべた。

「そういえば、死ぬ前に叫んでいたな。お前が――浮気していると」

 意外な単語に、濃いまつげを瞬かせて華鱗は首をかしげた。その所作のひとつひとつがどれほど蠱惑的なのか、自分の色香がどれほど異性を引きつけるのか、箱入りだった華鱗には自覚はない。否、むしろ箱入りだからこそ独特のアンバランスさが生まれているのだ。

 王はニヤリと嘲って、手を伸ばして彼女の頬に触れる。

「間男であろうと神殿や神であろうと、お前を俺から引き離すものはすべて、生きたまま引き千切って滅ぼしてやる」

「……また、残酷なことをおっしゃる」

「どれ、傷を見せてみろ」

「やっ」

 抵抗も虚しく背もたれに押し付けられ、華鱗は顔をそむけた。王は楽しそうに薬布を剥がし、膏薬を舐め取るかのように数本のひっかき傷に舌を這わせる。

 口調は意地が悪いのにその動きは優しく、雪の結晶のように壊れやすい稀少な物に触れるかのようだった。

「……お前の肌だと思うと、こんな薬すらも美味く感じるな……」

「……おたわむれを。やめてください」

 血の匂いがする。

 戦場の、ぬぐいきれない残り香なのか。それとも、処刑された侍女から漂ってくるものなのか……。王を睨み付けた華鱗の目に、彼の腕を這う黒蛇が映った。墨で描かれた蛇はしばらくすると、そのまま王の服の中へと消えていった。


  ‡ ‡ ‡


 甲高い鋏の音が、パチリパチリと木々の間に響く。

 王は夜明けとともに登城し、自邸の庭にいるのは、上質だが簡素な衣装をまとった華鱗だけだった。裳裾を引きながら、縁が淡く芯が濃い真っ赤な細い花弁の花のしっかりした茎を切っては腕に抱えていく。神殿にも植わっていた竜爪花だ。

 この国の後宮は広くてちょっとした街のようだった。全体を高い塀に囲まれて、側室の中でも貴妃や淑妃と呼ばれる上位の者はひとりひとりに小さな屋敷が与えられている。

 とはいえもちろん本来ならば、宦官でもない男が入れるわけはない。

「巫女さま」

 植え込みの合間から外套の頭巾を深くかぶった男が現れ、片膝を突き頭を垂れた。背は高くないが肉付きは厚く、外套から覗いた傷と肉刺まめだらけの日に灼けた手も、このあたりで見かける女のような官吏たちとはだいぶ違う。どうしてこんな処にいるのだろうかと華鱗は首をかしげた。

「ご記憶にはごぜぇませんか、巫女さま」

 懐かしい訛りの男は頭巾を外し、懐に隠していた鳥と木の実を象った佩玉を取り出した。

「…………梯華国の」

 華鱗を売った母国の国王軍の紋章に、眉をひそめる。実物を最後に目にしたのは、この国に身柄を引き渡される時だ。彼女を城まで護衛した(という名目で華鱗が逃亡せぬよう見張っていた)兵士たちが下げていたのだ。

 だが、この男がその護衛たちの中にいたかどうかは記憶に無かった。顔は武人らしく無骨で栗色の短い髪をしている。口元の大きめのほくろが目に付いた。

「お国からの通達でごぜぇます。覇王スレンバートルを――殺すように。と」

「……え」

 そのまま兵士は、報償金の額や望むなら神殿に戻っても良いという話をつらつらと並べ立てたが、驚いた華鱗の思考の表面を滑り落ちていき耳には入っては来なかった。

 殺せと、この兵士は言った。

 最初からそのつもりで母国は自分を送り出したのか? 国を出るときは何も言われてはいなかったのに……。

 自分の手に視線を落とす。剪定用の鋭い鋏と血のように赤く炎のような花弁の切り花を持った、真っ白な手を。

 いつの間にか兵士は消えていた。

 まるで祖父のように強い訛りだけが、妙に耳に残っていた。

 眩暈がした。

 かつて華鱗は楽園にいた。体内には天まで届くほど立派な樹木が梢を広げているイメージがあり、望むときには深くまで伸びた根から神の愛や知恵をいくらでも受け入れることができた。

 身体は神殿から出られなくとも、彼女の誇りと魂は自由であった。

 それが今では政治の駒だ。王にとっても、華鱗は単なる戦利品にしか過ぎないだろう。

 ――あの苛烈な覇王が、華鱗に快楽こそ与えたものの痛い思いをさせたことは一度も無いことや、いつも熱く愛おしそうに華鱗を見つめてくることからは視線を逸らし、華鱗は鋏と竜爪花を折れそうなほどに握りしめたまま部屋へと戻った。

 ひとつだけ、彼らには計算違いがある。

 今の兵士も国王も、そして母国の上層部でさえも、「梯華国ていかこく樹巫女いつきみこ」というのが何なのか、正しく理解はしていなかったということだ。

 神へと繋がる大木の幹は、無残にも折れている。しかし、弱まっただけですべてを失ったわけではない。

 華鱗は寝台で仰向けに横たわっていた。それは他人が見ればすでに亡くなっているかのようだった。彼女が抱える赤い花に惹かれたかのごとく窓から揚羽蝶が迷い込んでくると、その秀麗なひたいにフイッととまった。

 まるで飾りのように。


  ‡ ‡ ‡


 貴妃■■■■が自室に男を引き入れている――。その噂がじわじわと後宮に浸透したのは数日後のことだった。死刑に処された女官の叫びから聞いたのかもしれない。あるいは、華鱗の元を訪れた兵士を目撃した者がいたのかもしれない。

 城にいるあいだは華鱗の部屋に泊まりっぱなしの王は、周辺にその醜聞がたっても、側室に問いただすことすらもせずに十日間も何も動かなかった。また華鱗も、申し開きも反発もせずに、ただ、いつものままであった。

 十一日目。

 いつものように華鱗を肩に抱きながら楽しそうに酒を飲んでいた王は、侍女たちに世話をされながら思い出したように告げた。

「小部族がまた反乱を起こしてな。明日からすぐに国境へと向かうことになった。今度は長い、早くても一か月はかかるだろう。あぁ、位置としてはお前の故郷のすぐ隣になるな」

「さようでございますか」

 腕の中でどことなく安堵した様子すら見せる華鱗に、王は不満げに唇を歪めた。

「なんだ、かわいげのない女だな。寂しいとか連れて行って欲しいとか無いのか?」

「言えば連れて行っていただけるので?」

「……まあ、そうだな。悪かった」

 華鱗はふと、窓の向こう――遠くを見通そうとするかのように視線を向けて呟いた。

「まあ……これも善き機会でしょう……」

 王は驚いたように華鱗を強く抱きしめた。酒が入っていた硝子の器が床で耳障りな音とともに割れる。

「どうされました?」

 目を丸くした華鱗に口付ける。

「……お前が、蝶のように飛んでいってしまうかと思った。俺を嫌いでもいい。勝手に俺の元から去らないでくれ」

 嫌い?

 華鱗は苦笑した。

 違う。愛してはならない相手だと分かっているだけだ。なぜなら彼はこの広い国を治める、誰の物にもならない覇王なのだから。


  ‡ ‡ ‡


 王が一軍を率いて旅立った城内は、花を失った花瓶のようだ。城に常駐する兵士の一部が王とともに去ったこともあって、後宮もまた静まりかえっている。

「しばらく王の訪れもありませぬもの、息抜きをしてらっしゃい」

 女官たちにいとまを与えて屋敷から追い払った華鱗は、自室の椅子にひとり腰掛けていた。風が凪いだ昼下がりのことだった。

 もとより表情が豊かな女ではないが、その時はさらに人形めいていた。

 ついっと腕を上げると、その指先に揚羽蝶がとまる。

「奇矯な王だとわたくしも思います。普通ならば不貞の噂を耳にしたら何かしらの処分をくだすでしょうに。――そちらも、それを願っていたのでしょう?」

 最後は、問いかけるように開け放ったままの扉へと顔を向けた。

 陰から出て来たのは、つい先日、王を殺害するよう促してきた兵士だった。緊張を隠せない硬い表情をして華鱗を睨み付け、片手には抜き身の剣を下げている。

「邪教の娼婦め……」

「今日は訛ってはいないのですね」

 華鱗はうっすらと微笑んだ。彼がかたった祖国の言葉は、いくらなんでも癖が強すぎた。

 男の後ろから数人の、流れ者のように荒々しい武人たちも部屋に入ってくる。こちらは犯罪や暴力に慣れているのか、余裕があるいやらしい顔で笑った。

「おう、本当に殺しちまってもいいのか? もったいねぇ、味見ぐらいはいいだろ?」

「そうだな、こんなべっぴんさんなら高く売れるだろうに」

 栗色の短い髪の兵士は、不機嫌そうに唇を歪めた。

「やめとけ、警備兵に嗅がせた鼻薬にも限界がある。さすがにここから出られなくなるぞ。それに……この女は俺が自分の手で殺したい」

 梯華国は無関係だった。この兵士はただ、華鱗と王に対して妹の敵を討ちたかっただけなのだ。華鱗をひっかき、王の不興を買って無残に殺された妹の……。

 王の愛妾に手出しすることが、どれほど恐ろしいことなのか思い知っているだろうに。

「わたくしのようなただの駒に、命を賭けるつもりなのですね」

 華鱗は長いまつげを伏せた。

 周囲の一方的な思惑や感情に振り回されることに疲れた諦めが心を覆った。自分の目の代わりとなった揚羽蝶を宙へと解放する。この兵士を見つけだしたのも、彼が母国ではなくこの国の人間だと分かったのも、巫女として残されたわずかなちからのおかげだった。

「……誰も彼も身勝手なことばかり」

 男の白刃が振り下ろされてくる。

 最期に会いたい人がいたような気もしたが、それももうどうでも良かった。


「サーラル!」

 耳に慣れない名前と、不本意ながら聞き慣れた声の叫び。何人もの男たちが室内へと雪崩れ込んできた。

 そこからの記憶は曖昧だ。

 武器が打ち当てられる音や怒声が嵐のように渦巻き、家具が倒れ、陶器が壊れた。気が付けば、兵士も荒くれ男たちも死体になって転がっていた。

 椅子に座ったままの華鱗の目の前にあったのは、銀灰色の髪の男のたくましい背中だ。よろけた踵が華鱗の爪先に当たると、そのまま覇王スレンバートルは膝を突いて横に崩れ落ちた。猛り狂った狼のようであった彼は剣にしがみつくようにして、愛妾に怪我が無いことを確かめるかのように振り返った。

 竜爪花のような赤い液体が服に広がる。

「……お前が無事で良かった」

 王は目元を緩めて安堵したように笑い、華鱗は悲鳴をあげた。

「なぜ、あなたが!」

 華鱗は戦争の戦利品だ。飾り立てることもあるだろう。壊れれば惜しむこともあるだろう。だが、自分の身体を危険にさらしてまで大事にする必要はない。

 味方の兵たちが駆け寄ってくる。彼らも手こずったようで誰もが無傷とはいかなかった。

「なぜって……。本当にお前さんは箱入りなんだな……」

 王は苦笑しつつ兵が用意した担架の中へと座り込み、連れ去られる直前に華鱗の耳元に囁いた。

「愛しているからだ……お前を」


  ‡ ‡ ‡


 王が負った傷は深かったが「この程度の傷なぞ、戦場でいくらでも受けている」と彼がうそぶいたとおり、その日のうちに包帯巻きの王は後宮へと戻ってきた。

「たまには優しくしてくれ」

「あなたはお馬鹿さんです」

 傷が原因でひどく発熱しているというのに、なぜ城の薬師の元から、ただの貴妃のところに戻ってくるのか。

 華鱗は布をよく絞って、寝台に寝込んだ王のひたいへと乱暴に乗せた。叩きつけるような手付きになったのも仕方ない。

 王はどこか嬉しそうに尻を撫でてきたので、その手もはたいた。

「まったく。どうしてわざわざ、王都を離れるふりをしてまであんなことを」

「お前も女官たちを遠ざけて、あんな奴らをおびき寄せただろう。死ぬ気だったのか?」

「……それは……」

「死なないでくれ。愛してる、サーラル」

「……なぜ?」

「最初はその黒髪が好きだった。この国の上流階級の奴らはほとんどが金か茶色の髪をしていて、母親に似たこの灰色の髪は身分が低いあかしだったからな」

 彼が勝手に与えてきたサーラルという名前も、暗い灰色を意味している。彼にとっては大きなコンプレックスなのだろう。

 だが今は……。

「その綺麗な髪だけじゃない。お前のその身体も、肌も、声も、慣れないとわかりにくい表情も、いつまでも生娘のように恥じらう様子も、……誇りも……好ましく愛おしい」

 腕を引っ張られ華鱗は――いや、■■■■――サーラルは、敷布の波間に引きずり込まれた。怪我人にどれほど強く抵抗しても良いのか分からない分からないまま全身を撫で回される。

「お前はやはり優しいな。弱っている相手は殴らないんだ」

「……当たり前でしょう。怒りますよ?」

「怒った顔も好きだ」

 彼はいつものようにどこか子供っぽく嬉しそうだった。先ほど剣を振るった時の鬼神のような表情とはまったく違う。

 サーラルは弱弱しく首を振った。

「……おやめください」

「愛してる」

 そう囁かれるとちからが抜けていく。

 好きになっても良いのか? 信じても許されるのか? この敵国の王を……。疑う端から全身が溶けていく。触れられたところが熱くなり、心臓が弾けそうだ。

 雨のように口づけが降ってくる。サーラルは涙をこぼした。これでは駄目だと思いつつも、意地も不安も薄れていく。

 神の湖に届かなくなったのは、生娘ではなくなったからではない。数は少ないが、子持ちの巫女だって祖国にいる。彼女の体内の木が折れてしまったのは、いつのまにか神よりも王のことを愛してしまったからだ。

 サーラルは自分を抱く男の背に両腕を回して、しっかりと掴まった。熱を帯びているのが自分なのか彼なのか分からなくなってくる。

「……なら、離れないでください。わたくしは後宮から出ることは許されてはいないのですから……」


 半年後。

 その約束は破られる。

 最悪の形で。


  ‡ ‡ ‡


 王が王都を離れる口実にした小部族の反乱は、現実に起こったことだった。たとえ怪我が治りきっていなかったとしても、苛烈で知られる王が自ら向かわなければ、そこから統治が崩れてしまう。

 この国では側室が後宮を出ることは許されてはいない。覇王スレンバートルは不満を示したが、特例は認められはしなかった。

 ましてや、国王が向かった先はサーラルがいた梯華国と国境を挟んだ領地だ。巫女の神託で侵略が阻止された過去もあり、「邪教の巫女」を忌み嫌っている。サーラルを連れていけば感情が悪化するばかりだろう。

「……お前を抱けなくなるのはつらい」

 そう不満を漏らした王は、旅立った先で新しい側室を迎えていた。


 梯華国と敵国である小部族の姫は、王都へと戻ってきた覇王にべっとりと寄り添っていた。サーラルを見て勝ち誇った表情を浮かべる。

 まだ若いサーラルよりもさらに幼いが、面差しがよく似た黒髪の少女だった。


「お前の身代わりだ。気にすることはない。なんせ半年もお前のことを抱けなかったからな」

 後宮を訪れた王はしれっとそう告げた。サーラルはようやく気が付いた。自分に足りなかったのは“怒り”だ。

 彼女のことを自分勝手に神殿から摘み取ったのは、どこか憎めないところがある、美丈夫だった。

 失った神の湖のかわりに、雨のように快楽と贈り物を寄越した。その指や舌は気持ちよく、眼差しは優しかった。愛してしまいそうだと恐ろしくなるほどに……。

 だが、今。体内は冷たく、心は嵐のように荒れ狂っている。

「……本物のわたくしがいれば、あの子は用無しなのですか?」

「お前が望むのなら、捨てても構わん、サーラル。部族から差し出されたただの代替品だ」

 愛する貴妃の、片手では支えきれないほど大きな乳房を赤子のように舐めながら、半裸の男は平気で残虐なことを言葉にする。その背中には、双頭の黒蛇が泳いでいる。

「……良く似た偽物でなければ良かった」

「ん? なんだ? ■■■■」

「いえ……」

 黒髪ではなく、自分とまるきり違う側室ならば、受け入れられただろう。王がそういった立場なのは最初から承知の上だ。

 しかし、ただの紛い物で満足されるのも、その代用品から見下されるのも、どちらも我慢がならない。

 憤怒の熱に照らされて、身体の奥底から何かがシュルシュルと伸びていく感覚がする。それが神の湖へと差し伸ばされる木の根なのか、それとも他の何か――長い生き物が蠢いているのか。彼女自身でも分からなかった。

「可哀想に。あなたを信じて国境から付いて来たのでしょうに。わたくしならば……」

 サーラル――いや、華鱗ファリンは、男の舌を受け止めながら、快楽に溺れたかのように白い喉を反らして囁いた。

「わたくしならば、あの子に楽しい思い出をあげますのに……」


  ‡ ‡ ‡


 後宮には大きな池がある。人工の物ではあったが、湖と言ってよい規模だ。そこに灰色の髪の男と黒髪の少女が舟遊びをしている。

 数人を乗せただけの舟が、岸から遠く離れた頃合い。

 急に男が藻掻き苦しんだ。

 新しい側室は驚いただろう。王の首に双頭の黒蛇が巻き付いて、締め上げたのだから。

 慌ててそれを解こうと、少女は必死になって王の首に指を立てている。それがむしろ彼に危害を加えているように見えたのだろう。兵士が駆け寄ると黒髪の少女を切り捨て、彼女は舟の外へと血をひいて落ちていった。

 しかしその頃には、王もまたひどく苦しみながら甲板へと崩れ落ちている。

 そこまで見届けた華鱗は背を向けた。これならば、神殿に迷惑がかかることはないだろう。外套を羽織りフードを深くかぶる。

 確かに神殿の外についてはほとんど知らなかったが、神へ届く幹は弱々しいながらもつながりなおし、根はチカラの湖に深くはりめぐされ、枯れかけた葉は青青と茂りはじめている。

 それでもう、充分だった。


 後宮からひとりの貴妃が消えたことが判明したのは、覇王スレンバートルが崩御した翌日になってからであった。



          了

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