暮れて明けぬは夕闇の星
八島清聡
暮れて明けぬは夕闇の星
夕暮れ時に降った
あたりに漂う、草の青臭い匂い。
紫陽花が重たげに頭を傾げて、
今日も朝から暑かった。
自室に戻ってからはくつろいで、
暗くなってきたのをいいことに、ちらりと裳のすそをまくってみた。
手を差し入れてふくらはぎの裏に触れた。やわらかい肉の感触が伝わってくる。
強く揉んでみる。皮膚の下からじわりと浮き上がる、あえかな悦び。璃香をかたちづくるもののなかで一番できのよいもの。
たった一つの、情念に近い願いが、彼女の中に荒々しく息づいている。
――遠い昔、約束をした。
他愛なくも真剣な面持ちで、念を押した。
「大きくなったら、必ずそちの嫁にするのだぞ」
「ああ」
「絶対じゃからな。他のおなごを娶ったら許さぬ」
「……わかった」
少年は照れくさいのかぶっきらぼうに答え、プイと顔を背けた。
その背中に飛びつき、腹に手を回せば、やがて優しく重なる体温。
手を繋ぐと、璃香は安堵の溜息をこぼした。
少年の頭越しに、何か鈍く光ったような気がした。
おおらかな群青の下に、鮮烈な赤とまばゆい金がたれこめた、
しばし夢想にひたった後、璃香は
「そちの兄に。読んだら焼くように」
ぞんざいに告げると、銀朱のあどけない顔がぴしりと強張った。
何か言いたげに璃香を見たが、冷たく黙殺する。銀朱は蚊の鳴くような声で「はい」と答えた。
銀朱が去ると下女を呼んで、ぬるま湯と冷水が入った桶を持ってこさせた。
璃香は桶に脚を入れ、
ぬるま湯で肌を温めて汚れを落とし、冷水で引き締めるを繰り返した。
時間をかけて執拗に磨きあげた。
すっかり暗くなってから、脚を拭くと部屋に戻り、灯りの下でよく検分した。
それは、自分でもほれぼれするほど美しい脚だった。
内腿は餅のようにやわく、硬質な膝はつるりとして、すっきりとしたふくらはぎは弾力に富み、きゅっと締まった足首、なめらかな甲の先の足指は丸みをおびて愛らしい。
足裏の土踏まずからかかとにかけての薄い皮膚に、木の枝のように伸びた神経とそれより細かい血管が透けている。白磁のような肌に、そこだけひどく生々しい青と赤。指を動かすと、波のようにうねって浮きでる細い骨。桜貝のような爪もやすりで磨き、光沢を放っている。
このたぐいまれな造形を知るのは璃香ただ一人。
年頃になってからは、誰にも見せたことのない脚だった。
床に清潔な布を敷いて、脚を置く。
椿の精油を取り出すと、脚の付け根から下に向かって少しずつ香油をすり込んだ。
香油は昼間、両親に呼ばれた時に貰ったものだった。
璃香とさして歳の違わない若い継母が、取りつくろった笑顔で小瓶を差し出した。
「ほんにめでたきこと。璃香さんも、もうお一人のからだではないのや。これでお磨きなされ」
璃香は、形ばかりの礼を言って受け取った。
内心では、都の歌妓あがりのこの女を見下している。継母もそれがわかっている。どこか白けた空気の下、二人は実のない会話を続けた。
隣りに座った
図体ばかりでかい粗暴な男で、面白くないことがあると、使用人を怒鳴り、殴ってうさを晴らす。璃香はこの同腹の兄を毛嫌いしていた。
脚全体に香油を塗り広げ、指の腹を使って馴染ませてゆく。
足指の先まで夢中になってすり込んだ。油を吸った肌がてらてらと光り、恥じらうような薄桃に染まった。香油は一滴残らず使いきった。惜しくはなかった。
裳をたくし上げ、慎みを忘れた脚をそのままに、ふるりと外を見やる。
風を入れるために、戸は開け放ったままだった。
夜はゆるゆると更けて、薄くたなびく雲の隙間から
手入れを終えると、今度は陶器の壺と小皿を取り出した。
壺のふたを開け、木の
高価な菓子で、子供の頃は熱を出して寝込んだ時のみ口にすることができた。
亡くなった母が、冷やした水飴を匙ですくって食べさせてくれた。熱で腫れた喉を伝っていった懐かしい味。もっと、とせがむたび、母は困ったように笑った。おっとりとして優しい人だった。
母は父が縁故を頼り、大枚をはたいて貰い受けた中央貴族の娘だった。
正妻腹ではなかったが、それでも地方の鄙びた田舎では輝くばかりの姫である。
父は昼夜拝むようにして、妻を下にも置かず大事にしていた。
高貴な出自の母は、璃香の一番の自慢であった。
手持ち無沙汰に、匙で水飴をかき混ぜてみる。
幼い頃の幸福の象徴も、今夜使いきるに惜しくない。練って少し固くなったのに気づくと混ぜるのをやめた。
戯れに使う玩具なれば、とろけるようにやわらかい方がいい。
銀朱は、紙片を届けたはずだった。彼は、文の意味を理解するはずだ。
ひたすらに
外から薄い影がさした。璃香よりも頭一つほど背の高い青年が立っていた。
彼は璃香の父の兄の子で、従兄弟にあたる。
伯父は父と同じく地方の領主であり、村を幾つか治めていたが、三年前に起きた民衆の暴動に巻き込まれて死んだ。
伯父の死後、璃香の父は夕星と銀朱を後見の名目で引き取ったが、その実、二人が受け継ぐべき屋敷や領地等の財産を根こそぎ奪ってしまった。
養育は名ばかりで、使用人のように扱い、飼い殺しにしている。
兄妹の母は身分賎しき
夕星は璃香から目を逸らし、その場に膝をついた。
目のやり場に困っている。夜半に若い娘が、男の前に素足を曝け出すなどおよそ尋常ではない。
怒りなのか、戸惑いなのか、感情を押し殺したような声で尋ねた。
「何か御用でしょうか」
璃香の胸に、ふつふつと
「はした。戸を閉めてこちらへまいれ」
凛々しい容姿にそぐわしい夕星という名を、かつては万感の想いを込めた名を、呼ぶことはなかった。
夕星は諦めたように息をつくと、立ち上がって中に入り、言われたとおりに戸を閉めた。室内に、逃げ場のない、むわっとした熱気がこもる。
璃香の前まで来ると中腰になった。燭台の灯に照らされた顔は青白い。ここ数年の
璃香は水飴の入った皿を見せつけた。
「これが何かわかるか」
「水飴でしょう」
冷たく醒めきった声。
「そう、飴じゃ。もうそちは口にできないものであろ?」
「……」
小馬鹿にした物言いに、夕星は沈黙した。
璃香は
この膜の向こうにある、昔日の夢も、舐めたらきっと甘いのだろう。
璃香は桃色の舌を突き出し、水飴を少し口に含んだ。そして匙に残ったそれを、膝を立てた右脚の指に垂らした。指先は透明な液に滲んだ。
「はした、食え」
璃香は鈴を転がすような声で言った。細められた瞳が
……さあ、舐めよ。犬猫のように。床に這いつくばって。
夕星は、なまめかしく濡れた脚を見た。
「祭りで見たぞ。甘いものは好きであろ」
「……」
春の盛り、家族と村の祭りの見物に出かけた時、璃香は車の御簾越しに見た。
暇をもらった夕星と銀朱が恋人のように手を繋ぎ、通りの屋台からサンザシの蜜漬けを買っているのを。
長い竹の櫛には、赤いサンザシの実が十個ばかり刺さっていた。
二人は串から一個ずつ抜いて、仲よく分け合って食べた。
夕星の妹を見守る目は優しく、璃香は彼が打ちとけて笑うのを久々に見た。
自分の前ではけして見せない顔だった。
サンザシごときを喜んで……と思うと、胸にどろどろとした熱があふれた。なんと卑しい口だ。その卑しい口が、自分に向いてだらしなく開かれる様を見たいと思った。
「どうした、はした」
璃香は煽るように脚を突き出した。
軽くもちあげた太ももの奥に、未だ破られない固い蕾が密やかに息づいている。璃香の矜持。唯一、譲れないもの。
夕星は数度まばたきすると、ゆっくりと頭を落とした。
命令に従わない限り、解放されないとわかっていた。
床に這いつくばるようにして、足指に口づけた。ちゅうと淫靡な音がした。
飴を吸って、舌で舐めとった。
璃香は匙を叩くようにして、指の一つ一つ、甲やくるぶし、
「はした、はした」
飴を垂らしながら、彼の舌が脚を這うほどに、璃香の胸は高鳴った。
意中の男に触れられる快美に酔い、さらなる逸楽を求めた。
とうとう膝を越えて太ももに入ると、たまらず脚を開いた。夕星はからだを割り入らせて、璃香の脚を愛撫しなくてはならなかった。
暑い。夕星の額から汗が滴った。苦しげな吐息が漏れ、若く敏感な肉を撫でていく。
白い肌が唾液に濡れる。すべっていく、舌とくちびる。
璃香は快楽にのけ反った。
いつから、こんないびつな悦びを望むようになったのか。
そうだ。あの日からだ。
冬の早朝、朝もやの中、璃祥が住まう
その顔は蒼白で、頬は打たれたのか赤く腫れあがっていた。
彼はよろよろと井戸端へ行くと、水を汲んで手巾をひたし、手や胸元を執拗に拭った。
首筋や鎖骨のあたりの鬱血や噛み傷……。
狼藉の名残りが染みついた肌を見て、璃香は察した。
夕星は兄に屈したのだと。あの卑劣な兄のことだ。大方、言うことを聞かねば銀朱をどうにかするとでも脅したに違いない。彼は妹を守るために恥辱にまみれたのだと。
そして辱しめを知った璃香の心もまた、正しい怒りに燃えるより、歪みただれた欲望へと妖しく傾いた。
……最初は同情だった。あっという間に醜い劣情へと落ちた。
自分もまた、彼を慰み者にしたいと――。
「……私は近々都へ行く」
璃香は感嘆の息を吐きながら言った。
「都のおじい様のつてで、天子様の後宮へ参ることになった」
「……」
しばらくして彼は唇を離し、淡々と言った。
「それはおめでとうございます」
もう璃香のことはなんとも思ってないのかもしれない。
「そうだな、めでたい。これで私もそちと同じだ」
くつくつと自嘲するように笑った。おかしくて涙が出そうだった。
両親は希代の誉れというが、あまりにも馬鹿馬鹿しく、未来のない話だった。
たかが地方領主の娘が、王の後宮へ入って何となるのか。
うら若き乙女たちが王の権力と威容を示すためだけに集められ、虚しく朽ち果てる場所。運よく王の手がついて子を産んだとしても、自分の身分ではせいぜい側妾どまり。妃にはなれない。
何かの機会に家臣に下賜されるなら良い方で、そうでなければきらびやかな宮殿で一生飼い殺しとなる。あそこは、女の墓場だ。
何より許せないのは父だった。彼は璃香を前にして、こう言い放った。
「お前の母様は高うついた。あと数人は娘の予備が欲しかったのだがなぁ……。ま、お前でもとを取るしかないわな。せいぜい主上の目に止まるよう気張れ」
激しい眩暈を覚えた。暑さからではない。怒りと屈辱からだった。
自慢であった母も貶められた。母は子を産ませるための道具に過ぎなかった。
ああ、この親にしてこの子あり、だ。
妻を金で買い、兄の財産を掠め取った恥知らずな父。弱者を虐げて獣欲を満たす兄。そして薄汚いのは己も同じ……。本当に血は争えない。
最後の足掻きとばかり、璃香は猛々しく告げた。
「銀朱も都へ連れてゆく。玩具なしではつまらぬからな」
その時、諦めきった夕星の瞳に、初めて感情らしきものが宿った。
ぎっと璃香を睨み上げた。壮烈な、怒りだった。太ももに男の指が食い込んだ。
璃香は狂喜した。やっと、自分を見てくれたと思った。
その怒りのままに、力いっぱいこぶしで殴られたかった。蹴りとばされたかった。そうされて当然のことをしていた。踏み躙られてきた彼の、最後の宝を、自分は何の権利もなく
いっそ髪を掴んで引きずり回されて、衣を引き裂かれて、めちゃくちゃにされたかった。激しい衝動、みなぎる憎悪でこの身を押し潰して欲しかった。
ぜんぶ、あげる。そう、ぜんぶ。
何もかも、命さえも――。
在りし日に、彼の肩越しにみたのは、薄明りのまぼろしだった。
沈んだ太陽が、地平線の下にありながら、地上の大気に反射して空にまぶしく散光している。
金色の夕闇に融けた、かそけき星に、璃香は見えない手を伸ばし続けている。
とうとう水飴の皿を放りだした。カランと匙が転がった。
男の頭を乱暴に掴んだ。後ろに結った髪に指を突っ込んだ。
その心に土足で踏みいって、存分にかき乱したかった。
「噛め」
璃香は命じた。夕星は言われた通りに、内腿に強く歯を立てた。
痺れるような甘い刺激に、璃香は激しく身悶えた。
「はした、はした……!」
幾度も呼んだ。酸っぱい粘液をたたえた、だらしのない口で。
その美しい名を口にはできない。呼ぶ資格はない。
ただ、もっとも盛りの、価値ある部位を、高慢に投げ出すのみ。
男の頭をかかえ込み、
父にも見せず、兄にも見せず、心に決めた夫のみにさらけ出した、約定の脚を。
【了】
暮れて明けぬは夕闇の星 八島清聡 @y_kiyoaki
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