白くて甘い米の中には、茶色の筋の麦がある

榎木ユウ

第1話

 ボールの中に水をため、その上にザルを置く。

 水の中に注ぎ込むは、白い米。それを米研ぎ棒でかき混ぜる。

 手でかき混ぜた方がうまいという人もいるが、なぎは専ら米を研ぐときは、その棒でかき混ぜていた。そうでないと、手がしみるからだ。

 少し研いだだけで、水はたちまち白く濁る。その水を換えて三回、研ぎ終わったものを釜に入れ、分量通りの水を入れる。

 そしてそこに大麦を入れるのが凪の家の習慣だ。

 貧困にきゅうしているわけではない。ただ、その味が好きなので、凪は米に麦を足して炊く。五穀米なども試してみたが、結局はシンプルに麦だけの方が、どんなおかずにも合うので、凪は毎日、米を炊くとき、麦を入れる。

 相変わらず安い値段で供給してくれる大麦はありがたい。これは研ぐ必要もないし、多めに入れればそれだけもちもちとして美味しい。

 何より凪の家の、もうかなり老朽化した炊飯釜で保温しても長時間、美味しいままだということがありがたい。これが白米だけだと、朝に炊いた米は保温しておくと夕方にはパサパサに固くなって黄ばんでしまうので、あまり美味しく感じられないのだ。炊飯器を買い直せば良いのだろうが、何年も使っているとつい愛着も沸いてしまって、使える内はとそのままにしている。

 大麦を足した分、少しだけ水も足し、そのまま炊飯を三十分後に設定して、タイマーをかける。

 早朝の凪の習慣になってしまったその一連の行動に、よどみはない。

 時計を見ればまだ五時半にもなっていないので、七時前には炊けるだろう。

 その間、洗濯をして、昨日の夜に読みかけだった本に手をかける。今は電子書籍も随分普及したが、朝のこの柔らかい明るさの中では、紙の方が目に優しい気がして、凪が朝に本を読むときは、いつも紙の本を読んでいる。

 もちろん、昼間、通学するときには携帯で読んでしまう方が楽なのだが。

 本に没頭していると、三十分が過ぎたのだろう。釜の方から音がし始める。

 米を炊き始めたのだ。もう少しすれば米の炊き上がる匂いがするはずだ。妊婦はその匂いがつらいと聞くが、そんな経験のない凪には美味しい匂いにしか思えないが。

あらたさん、朝ですよー」

 そう寝室に呼びかけると、ベッドの中で胎児のように丸まっていた新がモゾモゾと動いた。

「んー……」

 朝が弱い新に、七時前という時間はつらいだろうが、急がなければ大学に遅れてしまう。

 まだ学生の凪なら構わないだろうが、新は助教授だ。きちんと朝ご飯を食べ、支度を調えていかなければならない。

「新さん、起きよう?」

「んんん……」

 もぞもぞと動いて上半身を起こす新に、凪はやんわりと微笑む。相変わらず素晴らしい肉体だと思う。綺麗な筋肉のついた身体だ。これでは朝もきちんと食べなければ身体が持たないだろう。

 凪は眠そうに目をこする新を確認して、そのままキッチンに戻る。

 軽快な電子音が聞こえてくる。米が炊き上がったのだ。蒸らしの時間もきちんと計算している炊飯ジャーは、炊き上がりにすぐジャーを開けても大丈夫だ。

 しゃもじを持ち、ジャーの蓋を開けると、炊きたての御飯の匂いがふんわりと鼻孔までたちあがってくる。大麦が表面にいるので、それをしゃもじで満遍なく白米とかき混ぜる。そうすることによって麦飯の完成だ。

 白い小さな米の合間に、少しだけ大きな、茶色の筋を真ん中に持つ麦が混じる。

 この麦飯をあつあつの状態で、よく洗って塩をまぶした手の上に載せる。

「アチチチチチ」

 炊きたての御飯はかなり熱い。水で手を濡らしてもヤケドしそうだ。それでも塩をよく麦飯になじませながら、きゅ、きゅっと米を握る。そうしてできた握り飯に、買ってきたたくあんとインスタントの味噌汁をつけたものが、凪の家の朝食だ。本当はもう二品くらいおかずをつけた方が栄養的にはいいのだろうが、朝食があまり腹に入らない新には、このくらいの量がちょうどいいらしい。

「おはよー」

 間延びした新の声に、「おはよう」と返す。新はそのまま洗面所に向かい、顔を洗ってくる。

 凪が用意を終えた頃には、ぱっちりと目の覚めた新のできあがりだ。

「いただきます」

 麦飯の握り飯ひとつ。

 テレビをつけたままで、それを二人で食べる。

 テレビでは毎朝、顔なじみになってしまったニュースキャスターが今日のニュースを流す。

『――で、二人の男女が死亡しているのが確認されました』

 テレビでは若い男女が心中を図ったというニュースが時たま流れる。今日もそのようで、幸い、二人以外の誰も巻き込むような心中ではなかったようだが、その内容に胸が痛まないわけではない。

 チラリと新の方を見れば、彼は眠そうにモスモスと握り飯を食べているばかりで、ニュースを聞いていたかどうかも怪しい様子だ。

 凪はラップで握った自分用の握り飯を食べる。新のだけは手で握るが、自分のはラップで握る。その方が手が汚れなくて楽だからだ。だが、今日は塩が少しだけきつかったようだ。

 麦飯は、白米よりも噛んだときの感触がもっちりとする。味は白米だけの方が甘くて美味しいが、腹持ちは麦飯の方が良い気がする。

 白くて甘い米の中に、茶色の筋の麦がある。

 白米だけの甘みの強いご飯には、やはり味という部分ではかなわないかもしれないが、凪はこの麦混じりの握り飯が好きだ。

 

「いってきます」

 二人して同じ時間に家を出るのに、そう言って玄関を出る。

 新が何も言わずに凪の腰に手を回す。昔からは、この男は凪の身体に触れていたがる。いくつになっても甘えん坊で、それが年相応に見えなくて、凪にはなんだか可愛らしく思える。

 大学に入った当初は、他の誰かに何か言われないのかと周囲を気にしてばかりいたが、今はこうして新に守られるように歩くのにも慣れてしまった。

 思わず昔を思い出し、くすりと笑うと、

「何?」

 と問いかけられた。

「いや、子どもの頃から、新さんはいつも私にくっついていたなあ……と」

「俺が見てないと、君、すぐに転ぶでしょ。それで手の平が痛いっていうのは君じゃない」

 新が少しだけ面白くなさそうにそう言った。

「分かってるよ、ありがとう、新さん」

 幼かった少年が、今では凪の背を抜かし、凪が転ばないようにまで気にかけてくれる。

 その交わしてきた時間が愛おしく、そしてそのあまりの早さに胸が苦しくなるのも、いつものこと。

「今日の御飯も美味しかった。ありがとう凪」

 凪の心のわだかまりを感じたのか、そう言って新が気持ちを変えてくれる。

 本当に、新はいつの間にか頼りになる男に成長してしまった。そう思いながら、凪は

「そう、良かった」

 と応えた。

 本当はお弁当も作ろうかと思ったときもあったのだが、そこまではしないようにしている。

 新が凪に依存しすぎてしまわないように、いつでも凪がいなくなっても大丈夫なように、最低限のことだけをしてあげる。

 まあ、そんなことをしてもきっと無意味なのだろうと分かってはいたが。

(だって、新、私が死んだら死んじゃうよね?)

 言葉に出さずとも、顔を上げて高い位置にある新の横顔を見れば、その視線に新が気づいて、凪の方を見て微笑む。

 優しい優しい、凪の伴侶。

 その視線は出会ったときからずっと変わらない。どこか眩しそうに凪を見る新を、凪もずっと見てきた。それは二人が一緒にいる限り、これからも変わらないことだ。

 電車に乗り込むと、額にも目をつけた女性がちろりとこちらを一瞥して、視線をそらした。

 別の方に目を見やれば、異様に足の長い男が頭を天井にぶつけながら屈んでいる。


 電車の中は、半分ほどが異形の、人間ではない何かだった――


 人間の世界で妖怪が普通に暮らすようになったのは、凪が生まれるより少しだけ前だという。

 妖怪は確かに人間とは異なる寿命で、異なる力をもつ存在ではあったけれど、基本、何ら人間と変わらない生き物だった。

 だから、人間と妖怪は自然と共存関係を結ぶことになる。

 何故、互いの先祖が、お互いの住処を別にしたのか、悟ったのはそれから少しだけ後のこと。

「凪、疲れた?」

 新が心配そうに凪に問いかけてくるので、凪は首を横に振る。

 疲れてはいない。むしろ、今、この瞬間さえも愛しいと思う。

 そのとき――

 キー、ガシャガシャ!

 電車があり得ない音を立てて止まった。何もないはずの線路で、何かを轢いたのだと、その振動だけで分かる。

「うおおおおおおおおおおお!」

 外から、人の物とは思えない何かの雄叫びが聞こえてくる。

 きっと飛び込んだ何かの声だろう。

 凪の腰に手を回す新が、その手にグッと力を込めた。 

「今逝くから! 今すぐに逝くから!」

 人外の言葉の、叫びの意味を、凪は痛いほど理解できて、思わず目を閉じる。それを新がギュッと抱き寄せ、外の音から何も聞こえないように遮ってくれた。

 結局、その日、凪は一限の授業に間に合わなかった。

 電車を遅らせたのは、一人の人間の女と牛鬼だったと後で聞いたが、その行く末は聞かずとも知っていた。


 今日も今日とて、凪は米を炊く。麦の混じった米を炊く。

「アチチチチチ」

 熱いと思いながらも、米を握るその両手の平には、目がある。

 凪もまた、人ではないのだ。その目からこぼれる涙の塩気が美味いのだと、只人である新は言うが、凪にはそれは理解できない。

 ただ、己のいずれかの体液で、相手が人ならざる者になってくれるなら、いくらでも自分の体液を捧げたいと思うのだが、現実はそれほど甘くない。


 妖怪が人間になる方法がある。

 人間が妖怪になる方法もある。


 心底愛した相手の心臓を食べること。


 ただ、それだけ――


 凪は今日も握り飯を作る。最愛の男のために。

 凪が人間になるためには新を殺さねばならないし、新が妖怪になるためには凪は死ななければならない。

 人と妖怪の道を分かつた先祖は、幾度となく辛酸を嘗めた上で、互いに別々の住処で生きることを決めたのに、妖怪と人間はまた、同じ場所で生きることを決めてしまった。


「新さーん、朝ですよー」

 凪が寝室の新に呼びかける。年の割に若く見えるこの男も、最初は凪よりもずっと幼い子どもだったことを、凪は覚えている。

 そしてそんな子どもが大人になり、自分の伴侶となり、そしていつか――


 甘い甘い白い米の中に、もっちりとした麦が混じり込む。どちらも入っているその味が、凪も新も好きだ。塩気の強い握り飯にしたとき、噛みしめると甘さだけではない風味が広がるのが好きだ。

 この世界になって、この世界で新と知り合えたことを、凪は心から感謝している。


 だから――

 凪は、いつか新の心臓を食べ、そして人間となって新と共に死ぬ。

 最愛の人を得た今、彼を失った先の時間を、一人で生きていく強さは凪にはない。


「おはよう、凪」

「おはよう、新さん」


 白くて甘い米の中には、茶色の筋の麦がある。

 決して色味がいいとはお世辞にも言えない、その茶色がかった握り飯を、今日も凪は新と二人、食べて、生きていく。

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白くて甘い米の中には、茶色の筋の麦がある 榎木ユウ @esukiyu

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