禁煙用のガムのあじ

@shubenliehu

第1話

 ……口寂しい。


 自分がイライラしている自覚はあったが、どうしても口寂しい。

 私は静かにため息をついて、人がいなくなったオフィスで肩を回した。


 オフィスは禁煙だ。喫煙エリアに移動してタバコを吸えばいいのだが、そうできない理由があった。

 まあ、なんのことはない。私のカバンにタバコがないのである。

 ちょうど切れてしまったのに買いに行かなかったのは、その時間がなかったからで……いわゆる繁忙期の弊害という状況であった。


 ……口寂しい。


 コーヒーでも飲もうか。そんなことを考える。禁煙用にと買い込んだタブレットを噛み締めると、強いメンソールが舌をピリピリと痺れさせた。

 この状態でコーヒーを飲んでも、味などわかるまい。


「……まだ残業か?」


 ため息をついたタイミングで背後から声をかけられ、私はノロノロと振り返る。別の部署へ移動したばかりのごく親しく付き合っている同期が、私の顔を心配そうに見つめていた。

 部署も仕事のスケジュールも違うためか最近全く顔を合わせなくなったせいで、もっぱら会話はSNSツールで済ませている。

 久しぶりに顔を見たらみたで、今度は会話しかできない現状にイライラが募った。

 会いたくても会えない。吸いたくても吸えない。

 まるでニコチンの禁断症状だ。


「もう終わる。今、何時だ」


 どうせこんな状態で仕事をしたとてまともな出来になろうはずもなく、退勤する旨を含めて私が問うと、彼はネクタイを緩めながら時間を告げてくる。その答えに、今更ながら私は絶望した。自宅の最寄駅に着く最終電車が出発する時間を、5分以上オーバーしている。

 ああ、終電時間を過ぎた。タク送りが許されるような福利厚生のない当社において、こんな時間までの残業は、「帰れない」ということと同義である。


 イライラと髪をかきむしった。目の前のこの男は私の性格をよく知っており、私が致命的なニコチン中毒者であることもよく知っている。

 一縷の希望をかけて、私は同期の男に声をかけた。


「……お前、今」

「タバコか。いやもうやってない」

「マジか……」


 いつの間に禁煙成功したんだお前。


 呻きながら頭を抱える。私の精神力は割と限界に近づいていた。

 最近彼と飲みに行くこともそれ以外も全くご無沙汰だっただけに、突然の告白がもたらした衝撃はかなり大きい。


「このガムな、結構効くんだ」


 言いながら、彼は胸ポケットからケースを取り出し、一粒取り出して口に放り込む。カリ、と糖衣が砕ける音がして、顎が動き、溢れた唾液で唇がほのかに濡れる。私は思わず口の中のタブレットを噛み砕いた。


 ……口寂しい。


 ビリビリと舌が痺れている。だがそれでも、口寂しいのは代わりない。


 ――彼が同じ部署にいた時は、こんなにタバコを吸う量など多くなかった気がする。こんなにイライラもしなかった気がする。


 なぜなのか、と考えて、私はようやく理解した。


 タブレットでも、タバコでもないもので、口寂しさを解消していたからだ。


「……お前も食べる? このガム」


 いつの間にか至近距離に迫っていた彼がいうので、いつものように頷いた。

 だが、いつまでたってもガムが差し出されることはなく。


 代わりに、私の唇に別の何かが触れた。


 顎をすくわれ、軽くくすぐってくる動きに、思わず閉じていた唇が開く。

 ぬる、とねじ込まれたのは、自分の舌と同じ形と、その上に乗せられた、まだ味の残るガム。

 何かフルーツのような甘い香りと、強過ぎない清涼感。だが口の中の強烈なメンソールのせいでほとんどそれらがわからず、私は彼の舌先に乗ったガムを自分の口内に収めようとさらに探っていく。

 すると、まるで遊びでもするように、彼は舌を逃してガムを私から遠ざけた。


 2人して、しばし粘着質な菓子を奪い合う。

 やがて双方とも息が上がるころ、ようやく私は彼からガムを奪い取ることに成功した。


 代わりに、彼の口には砕けたタブレットの破片を。


 久しぶりの感触に、職場で何をしているのだろうと自己嫌悪に陥るより先に、彼が口を開いた。


「おれ、部署異動の後に引っ越してさ」


 うち、今ここ近くなんだよな。


 言われた言葉に思わず泊めてくれと頼んだ。

 いってくれると思った。そう笑う彼を見る。口の中のガムが、ようやくライム味であることに気づいた。


 きめた。明日は半休を使って午後出社にしよう。奪ったガムを味わいながら私は唐突にそう心にきめた。


「有給残ってる?」


 問いかける声は、明らかに自分と同じことを考えている。私は苦笑した。


「――使う暇もなかった」

「おれもだ」


 声を立てず笑い合うと、私はネットから有給取得の手続きを始める。

 口の中のガムを転がしていて、今更ながら思ったことを口にした。


「――甘いな、お前の」


 いうと、彼が私の後ろで苦笑する気配。それからすぐに苦々しい声が返ってきた。


「……辛いな、お前の」


《了〉

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