終幕 遠きその果ての祈り
4233600秒のち
月面楽土都市シャンバラ。
それは月種が、自らたちの存在を確固たるものとして根源現実──下位認識世界に固定するため打ちこんだくびき。
終末樹メス・オリジンを中心として構築される、偽りの楽土。
肉体を棄てたことで、高次観測者となった月種だが、逆にいえば彼らは、もはやこの世界の住人ではない。
本来なら別のステージの世界で、最下層から始めなければならない生命体である彼らは、しかしメス・オリジンを作り出すことで、この時空間へと固執した。
楽土では作業用オートマトンと、月種の指示式で動く直轄者、そして培養された自由意志を持たない
シャンバラに変化というものはない。
あるのは停滞と、絶対的な月種の権限だけである。
月種が神にも等しき権能を有していたからこそ、楽土は楽土たりえたのである。
だが──
いつまでもそんな幻想が、続くわけではない。
放たれた一条の光が、メス・オリジンへの道を固く閉ざしていた城門、それを完膚なきまでに吹き飛ばす。
それまで、破滅に抗うべく行動していた──月種にそれを強制されていた直轄者も、オートマトンも、パラノイドも、もはやいない。
あるものは破壊され。
あるものは
あるものは──いずこかへと逃げ去った。
彼らを縛っていた存在の、全能性が薄れたがゆえに。
新たな奇跡が生まれたがゆえに。
ぱきり、ぱきりと。
超構造体のかけらを踏みしめる足がある。
それは長い、編上げのブーツを履いているようでいて、実際はすべてが金属で構成されていた。
輝く脚は、酸化被膜によって虹色に輝き、積層する結晶構造によって五指のようにも見える。
身に纏うのは、赤いロングコートだ。
不自然に薄っぺらい右手の部分だけが、ぶらりぶらりと、歩くに合わせて揺れている。
一歩一歩、確かな足取りで月の大地を──珪素も重金属も存在しない、砂漠のような大地を踏みしめながら、〝彼女〟は歩く。
もはや〝彼女〟の眼前に立ちはだかるものは、いやしない。
警告という名の
重力や、酸素濃度、核力、その他。
観測者としてのステージ。
神への敬服。
あらゆるものを無視し、蹂躙し、破壊しながら〝彼女〟は進む。
──やがて、〝彼女〟は辿り着いた。
長い時間の果てに、そこにまで至った。
もしもあとわずかな時間があったのなら、月種は収穫祭という名の略奪を行い、この次元から遠いどこかへ、逃げ去っていたことだろう。
だが、〝彼女〟は間に合った。
終末の樹──メス・オリジン。
北極に芽吹いたエメト・オリジンの対にして、月種を根源現実に固定するアンカー。
その赤色の光──警戒色の胞子を放つ超演算装置の中核へと、〝彼女〟は行き着いたのだ。
金属の左手が、力強く、ゆっくりと持ち上がる。
〝彼女〟の身長をはるかにしのぐ、巨大な棺桶がその手には握られていた。
細部には黄金の装飾が施され、上蓋には星に芽生える世界樹の紋章が刻印されており、それは清浄な光を発している。
傷だらけの棺桶は、音を立てて変形していく。
前半部分が半分に割れ、上下に展開。
後半部分は十字架に似た排熱機関を露出し、同時に
いくつかの配線機関が、月面へと突き刺さり、メス・オリジンから無理矢理に電力を強奪する。
収束する、電磁インパルス。
演算は必要ない。
〝彼女〟には、すべてが視えている。
その──赤と青が混じる、この世の果てをみた瞳が、一度だけ閉じられた。
開かれたとき、そこに刻まれていたのはどこまでも純粋な、清らかな意志だった。
捉える。
終末樹の中核。
この世界に置き去りにされた月種たちのかつての肉体を、その眼が確かに捉えた。
「……これは、骨肉ではなく
充電が終わると同時に、涼やかな声音が、怨嗟とともに吐き出された。
瞬間、トリガーはひかれ、膨大な電力が収束し、弾頭に荷電──射出される。
それは繰り返されてきた、終末の符号。
その、絶対無比の、あらゆる観測者を凌駕する認識の閃光が、解放された420ペタジュールの光輝が、眼前にあった悪魔たちの遺骸をすべて焼き払う。
そうしてひどく。
ひどく呆気なく、ひとつの物語に
月種の絶望の叫びが、遠く、近く、月面に残響していた。
傲慢な神々の楽園は、かようにして終わりを告げたのである。
失われた楽園を出て、〝彼女〟はいずこかへと向かい、歩き出す。
唐突に、棺桶が口を利いた。
『それで、ツェオちゃんはこれから、どこへ行くのかしら?』
「……答える義務がありますか」
『聞いただけよ。ところで、あたしが人間だったころの風習なのだけど』
「無駄口を叩かないでください、ヘレネー」
少し不機嫌そうな顔になって、〝彼女〟──ツェオ・ジ・ゼルは、棺桶のなかに宿る情報知性体を見た。
彼女にしてみれば、いまは旅の目的を失った直後であり、静かにしてもらいたいというのが本音だった。
「私は、すこしだけ祈りたい気分なんです」
『それに関係することよ』
その気になれば、情報知性体など瞬時に消滅させられる存在──ネクロアリスであるツェオへ、ヘレネーは気さくに話しかける。
彼女が不機嫌になってもお構いなしに──むしろその感情を喜ぶように。
『シジュークニチというものがあるのだわ。人間の魂は、肉体が死せると徐々に抜けていく。その魂が完全に抜け切って、そして天へと還る瞬間──それが、死してから49日目だと言われているのよ』
「それがなんだというのです。魂と呼べる存在を確かに認識できるほど、現生人類は高い観測能力を持っていません。そして、それができた月種は亡びました。つまり、あなたが言っていることは世迷言で──」
『今日が、その49日目よ。きっかり、4233600秒経過するの』
「────」
少女は言葉を失った。
普段から眠たげな目を丸く見開いて、手のなかの物を言う棺桶に視線を落とす。
たとえば──そのなかに。
棺桶のなかに、本来の役割のとおりのものが、眠っているかのように。
『あなたは観測できるでしょう? 祈るのなら、それを踏まえて祈ればいいのだわ』
「……途中で寄り道させたのは、このためですね」
『さぁ? でも、劇的な方が、記憶というのは色褪せないものよ』
「……本当に、あなたはお節介です」
少女は、その歩みを一度止めた。
今日という日まで、たゆまず繰り返されてきた歩みを、その瞬間だけ。
ゆっくりと足を止めて、彼女は思い返す。
そのひとは、確かに自分を人間にすると誓ってみせた。
きっと幸せにしてみせると、ずっと自分のそばにいると。
その男は心から誓約を結び、言葉にして、行動し。
少女はそれを、無垢に信じた。
長い旅路の果てに、その誓いは、ひとつだけ果たされて──
「哀しいあなた。私の主人、私の……
彼女はゆえに、こう思っている。
「あなたは、酷い嘘吐きでした」
少女は指先を、星へとのばした。
見上げる
眼下の世界。
虚空のなかに浮かぶ──再生した青い星へ。
地球へと。
『見なかったことにしてあげる』
少女の頬を濡らす、熱いものがなんであるかわかったうえで、棺桶はそう呟いた。
あらたな
そのことを、きっと誰も知らない。
知る必要もない。
そうして──立ち止まっていた少女は、長い祈りのあと、再び歩き出した。
身の丈に合わない棺桶を背負って。
月からどこか、別の場所へとつづく構造体のなかを──どこまでも。
世界の外側へと。
おしまいの少女として。
いつか──その命が尽きるまで。
生きて死ぬために、少女は歩き続けるのだった。
その背中を、青い惑星はいつまでも。
いつまでも見守り続けていた。
失楽園のネクロアリス ~Garten der Rebellion~ 終わり
失楽園のネクロアリス ‐Garten der Rebellion‐ 雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞 @aoi-ringo
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