第3話 まるで嵐のようだけど
どういうつもりなんだろう。意図がよく分からない。
「これなんてどう?」
梛紗が求人票をひらひらさせる。
自宅から近くて、手書きで書き込まれた「実績あり」。おそらく、雇用の実績だと思う。先日のフォーラムで優良事業所として表彰されていた企業だ。梛紗はそれを覚えているのだろう。しかし、評価されているのは企業の取り組みは当然だけれど、本人の長年の努力によるところも大きいと感じる。
梛紗から何枚かの求人票を受け取って目を通してみる。見れば見るほど不安が募る。梛紗はPCの操作はできるのだろうか。もちろん、ひとことに事務と言っても会社によって求められるものは違けれど、そもそも、梛紗は毎日フルタイムの勤務が可能なのだろうか。
支援プログラムは無理を可能にはできない。職業安定所と連携していて、履歴書の書き方から、実際に働く際にどんなサポートが受けられるかも教えてくれるし、応援もしてくれるけれど、本人はもちろん、主治医が「働ける」と判断できる状態だからこそ効果があるんだと思う。
「……うーん」
疑問はいくつかある。どうして梛紗が「精神科」病院の支援プログラムに参加しているのか。プログラム参加には医師の処方箋が必要なはずだ。それに、梛紗の状態を考えれば、専門に身体のサポートが受けられる総合病院の方がいいと思うし、労働が可能な状態であるなら、身体も含む大きな枠での障害者支援のプログラムが職業安定所の方で行われている。なぜそちらではないのか。
「何? はっきり言いなよ」
「いや、大丈夫なのかなって……」
「大丈夫に決まってるでしょ」
梛紗は即答する。おかしい。まったく考えている様子がない。僕はますます不安になる。
「……そもそも、ナギはどうやって、ここに潜り込んだの?」
僕は口にしてからしまったと思う。言い方を間違えたような気がしたけれど、いまさら言ったことを取り消すことはできない。あとは梛紗が非難の声を上げるのを待つだけ。けれど、梛紗は意外にも怒り出さなかった。むしろ、得意気……?
「潜り込んだなんて失礼な。ねじ込んでもらっただけだから」
「なんで?!」
僕は混乱する。たしかに梛紗は風変わりではあるけれど、精神科の疾患があるようには見えない。医師はないものをあるなんて、絶対に書けないはずだ。
梛紗は政治力にものを言わせたかのような口ぶりだけれど、彼女の家はごく普通の一般家庭だし、知り合いにそんな超法規的なことが行える権力を持っている人物がいるなんて聞いたことがない。
「……理由なんて、言わせんなよっ」
梛紗は、いわゆる「ツンデレ」だろうか。その演技をしてひとりで笑っている。まったく面白くないし、残念ながらかわいくもない。本人が語るつもりがないのなら聞かないでおこう。
病院の中庭には藤棚がある。花が楽しめる季節は過ぎてしまったけれど、その下には強い日差しを遮る影ができていて、何本かのベンチが設置されている。騒いでいるのは僕たちくらいだ。正面に植えられているのはハナミズキの木らしい。プログラムの部屋の窓からもよく見える。日の当たる場所は芝生になっていて、転がれば爽快かもしれないけれど、誰もそんなことをする人もいなかった。
もちろん働くことにはいろんな理由がある。収入を得るため。生きがいのため。社会貢献のため。梛紗が働くためには本人の頑張りは必要だと思うけれど、それだけではきっと足りない。周囲の理解やサポートが必須だと思う。受け入れてもらうことは言葉以上に大変なことだと他の参加者からも聞いている。それは目に見えない障害だからという面はあるけれど、身体だって誰もが喜んで受け入れているのかは分からない。実際、僕も、梛紗と再会したときにどうすればいいのか分からなくて声をかけられなかったのだ。もちろん事情を知っているからということは大きいけれど。
どうして梛紗は働くことに拘るのだろう。僕は梛紗がこうなってしまった経緯は知っているけれど、今の梛紗がどうやって毎日生活しているのかを詳しく知らない。でも経済面であればなんらかの公的補助が受けられているはず。足りないから……? そういう側面もあるのかもしれないけれど、それだけではない気がした。であれば、生きがいを探しているのだろうか。
「そろそろ戻ろうか」
「うん? ……あ、もうそんな時間なんだ」
休憩時間が終わる。僕は歩いて戻っても5分もかからない。梛紗はどうなのか。ひとりでプログラムの部屋まで戻るのにどのくらいの時間が必要なのだろう。僕は昔の梛紗のことは知っていても、今の梛紗のことはほとんど知らない。
「部屋まで押していくよ」
「……あ、……うん。どうも」
少しは歯切れの悪い答え。梛紗の声は心なしか少し小さかった。
「遊木さん」
「はい」
プログラムが終わって帰ろうとしているところを、今日の担当をしてくれた作業療法士さんに廊下で呼び止められた。
「遊木さんも今、辛い状況だから、こんなことをお願いするのは申し訳ないと思う」
「……はい?」
作業療法士さんが、少し小さな声で言った。
僕は辺りを確認するがもう誰もいない。それでも声を小さくして話す必要がある内容なのだろうか。
「新鹿さんの昔からの友達だって本人から聞いた。実際、とても仲はいいようだけれど、遊木さんは、もしかしたら新鹿さんのこと『誤解してる』のかもしれないって思って……」
「……誤解、ですか?」
それは、どういう意味だろう。
「いろいろあって詳しいことは言えない。……でも、『支援プラグラム』に参加しているということは、先生が『処方箋』を書いたということなのは分かるよね」
「……あ、はい」
「それは、これから彼女が社会で生きていくためにこのプログラムが必要だって判断されたから……」
「そ、そうですね」
僕は、作業療法士さんが何を言いたいのか、まだ分からないでいた。けれど言葉を選んで何かを伝えようとしていることだけは分かった。
続けて、作業療法士さんは真剣な顔で言った。
「支援プログラムは、就職や、復職『だけ』を支援しているわけじゃない。遊木さんが、新鹿さんの大切な友人だと思うからお願いしたいんだ……。もし、遊木さんに少し気持ちの余裕が生まれたときだけでいい。お話をゆっくり聞いてみてあげて欲しい。新鹿さんにとって遊木さんは。一番信頼できる存在みたいだから。……できれば『本当の気持ち』を汲んであげて欲しい。これは、僕の個人としてのお願いだから、もし遊木さんにとってそれが負担になるようなら忘れてくれて構わないから……ね」
それだけ言うと、作業療法士さんはいつもの笑顔に戻る。
「今日はお疲れ様でした! じゃあまた明日。お待ちしてますね」
作業療法士さんは、そう言って頭を下げると、次の予定があるのだろうか、足早に僕から離れて、廊下の奥に消えていった。
梛紗の……「本当の気持ち」? ……それは、今の梛紗は「何かを偽っている」ということなのなのだろうか。
僕は、誰もいなくなった廊下で立ち尽くしていた。
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