第8話 勇気をくれたのは

雨があがった次の日。

今日はいい天気だった。

抜けるような青空ではないし、雲ひとつないわけでもないけれど、爽やかに見えるのは僕の気持ちがそうだからかもしれない。


BGMの音量は控えめ。

声が聞き取れないのが嫌だということもあったけど、運転手が神経質なので。


「は、話かけないでっ! 事故るよ!」


怖すぎる思い出。それは、怒っているというより、必死の形相だった。

免許を取ったすぐの頃、緊張がほぐれたらいいと思って声をかけようとしたら絶叫されてしまったのが気になっていて、こちらからは声をかけづらい。

かといって、僕が車を出そうと提案すると、笑顔で皮肉を言われる。

あからさまにいじけてしまうので判断が難しい。


支えになることを宣言して、「誓い」を立ててから、昔よりも距離は近付いた。それは身体的にというよりも、心理的に。深く刻まれていた溝が埋まったことが大きい。


一言でいえば、「大変」のレベルは想像を超えていた。

日常の全て、特に身の回りのことのほとんどが、お互いに大きな葛藤を生んだ。

こちらにとっては、ショックなことや驚きはたくさんあったけれど、それでも「大変」で済ませることができる。だけど、あちらにとってはそれは「尊厳の危機」。

そんな連続だったと思う。


今だから改めて思うけれど、「誓って」おいてよかった。

本人の言葉を借りれば、かっこいいところだけを見せていたかった相手に、見せたくないかっこ悪い部分ばかり見せていかなければいけないのは、あまりにも苦しくて辛いことだと思う。

当時、僕の言葉が信じられなかったのはしかたないし、受け入れられないのはむしろ自然。


それでも僕を選んでくれたこと。

振り返るたびに思う。その決断は、史上最高にかっこよかった。

そして、僕に与えられた最高の奇跡なのかもしれない。


「絶対に嫌いにはならない」の言葉が大きな支えになったんだと言っていた。

その意味が、やっと少し理解できた気がする。


「……隣に座ってるなら、なんか喋ってよ」


つまらなさそうな声。

話かけるなと言ったのは誰だったのだろう。せっかく思い出を美化していたのに、割り込んできて遠慮なく落書きする。


そんなふうだから良かったのかもしれないとも思う。

思っていることがどんどん言葉になって出てくる。うらやましくもあるけれど、そんな横暴は誰にだって通用するものじゃない。

本人もそれは自覚しているみたいで、誰かがいると借りてきた猫のように大人しくなる。

それを本人は生きる術だと言っているけれど、最近では、彼女の歪んでしまった性格は僕のせいではないのかもしれないなんて思う。


「急になんかって言われてもなぁ……、何が聞きたい?」

「あー、うん。なんか適当に喋ってくれたらいいよ。……眠くて事故りそう」

「……勘弁して」


怖すぎる。結局、事故るのか。免許を返納した方がいいんじゃないか。巻き込まれる人間はたまったものじゃない。……もちろん、冗談で言っていることは分かっているけれど。


結局、たくさんのものごとが変わったけれど、変わらないこともたくさんある。

楽しいこともあるし、苦しいこともあって、どこをどうやって拾い上げるかで僕らの日常は色を変える。だから同じようにみえる毎日でさえ、平穏にも、波瀾万丈にもなるんだと知った。


「仕事、順調なんだよね? あんまりミナトが無理することないから……」


僕に声をかける運転席の梛紗。

少し、寂しそうに言った。


「うん、だいじょうぶだって! 自分でやりたくて決めたことだしさ」


僕は笑った。


これは、何度言っても梛紗は分かってくれない。僕がしようとしていることは「無理」なんかではない。やりたいことだ。……僕が僕自身のために始めることだと思えないのが梛紗には気になるようだった。

でもそれをいえば梛紗だってそうだ。苦手だと言っていた情報系の仕事に挑戦して、今ではひとりでできることが格段に増えた。それは僕や周りの負担を減らしたいから始めたように見えたけれど、梛紗は自分の自由を取り戻しているんだから。


僕も仕事に復帰してからは順調でそれなりに楽しくもある。けれど僕は経済的に目処がついたので、かねてから考えていたやりたいことをしようと思っている。

来年度からそちらの方向の学校に通うことに決めて、昇進の打診は断ったし、特に未練もない。


「……そっか、……ちょっと、寂しくなるかな」


梛紗は力なく笑った。

僕の身体のことを心配するふうな口ぶりで、ちゃんと自分のことも気にしているという。梛紗らしくて嬉しくて、思わず笑ってしまう。


「……な、なに?」

「なんでもないよ。ナギはおもしろいな……って」

「え、なにそれ、完全にバカにしてるよね?」

「まあ、してるけど、ちょっとだけだよ」


梛紗は僕を横目で睨んで目をそらすと、分かるように舌打ちをした。

梛紗が下品なのも、僕が腹黒いのも変わってない。だけど、二言、三言交わせば、相手が何を考えているのかは分かるようになってきた。

それでもすれ違う。だから、確認するのがふたりで決めたルール。


「ミナトもバカのくせに。なめたこと言ってると海に突っ込むよ」

「それ、ナギもダメなやつだから」

「……死ぬときは一緒だって言ったよね?」

「言ってないし!」


梛紗は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。

心の方にもまだ相当のダメージが残っていることは後で知った。でも、僕にとっては五体満足の健康体となにも変わらない。梛紗は梛紗だから。それに……。


「……寂しいのは、僕もだって。ナギはだいたい先に言いたいこと言うから困るんだけど」

「ふーん、そんなことしらないし。勝手に困ってれば?」


ガックリくるけれど、別にケンカではない。

目をそらしている梛紗のツンデレは演技ではないことを知っているし、梛紗も言い方を選べと言えば僕が言い方を考えることを知っている。

簡単に嫌いにならないことが分かってしまったのは良いのか悪いのか。これでも周囲に過剰に心配をかけないように普通の仲良しに見えるように振る舞ってはいるけれど。


いつもの表情に戻って梛紗は言った。


「……疲れ果てて、車輪に潰されないでね」

「うん、潰されないよ。潰れないくらいに僕は怠惰でバカだし、それに迎えてくれる人がいるから」


微笑んで頷く梛紗。僕は梛紗がそれをいうのは皮肉だと思った。


ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。それは昔、梛紗がとにかくすごい読書感想文が書きたいと持ってきた本だった。結局、よく分からないといって僕のところにやってきてふたりで解読に挑んだ。

周囲に期待されていたのは、ほどほどに勉強ができた僕よりも、何をやっても目立っていた梛紗の方だったと思う。

当時のふたりに、そこに織り込まれた思いなんて紐解けるはずなんてなくて、梛紗は憤慨して、僕はやりきれない気持ちになった。


だけど、今の僕たちにはその物語から教わるものがある。

誰かの要請に応えるために頑張るのではない。自分が行きたい道だから行く。

そして、支えてくれる人の存在は、ときに人生だって分けるかもしれない。


僕らはもう押し潰されることなんてない。互いに支え合える存在がいる道を歩いていける。

そんな幸せに出会えて、これからも大切にしていく価値を知った。


廻る輪の下で、もう一度、踏み出す勇気をくれたのはきみだから。




















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