第7話 車輪の下

僕たちが育った町。通った小学校の向こうに駅がある。線路をくぐった先に梛紗の家はあった。


小学校から学区は同じだったけれど、住んでいる地区は反対側の隅っこで、放課後の寄り道で遊びに行ける場所ではなかった。

呼び出されたら、一度自宅に帰ってから自転車を出してまた学校に向かう。小学校前で合流してどちらかの家まで道のりはまだ半分あった。徒歩か自転車しかなかったから当たり前だったけれど、かなり遠い。今なら確実に自動車が必要だと判断してしまう距離だ。


初めて会ったのは保育園の頃だったらしい。僕はちゃんと覚えていないけれど梛紗はしっかりと覚えていて、それからずっと親分子分だった。

特別な予定はなくても、思いつきを特別な予定にしてしまう梛紗。

落ちたらケガをしそうな木に無理矢理登って、落ちてケガをしてみたり、勝手に水路を開けて紙でできた船を追いかけて落ちてみたり。痛い目を見てもまったく懲りない。


高学年になってからは、余所のガレージに取り付けられたバスケットゴールを勝手に使ってバスケットをして怒られたり、絶妙にキャッチできないところに投げてくるボールをキャッチできなくて、ふたりで追いかけて走り回ったり。


景色が変わって見えるくらいには、思い出がそこにあった。

住宅地に入って道順を思い出しながら徐行する。車の窓から見える風景が今の現実の景色であることは分かっているけれど、窓を開ければ昔の景色がまだそこにあるような気がして。

実際に変わったのは風景ではなくて、僕と梛紗の方だった。


僕は久しぶりに梛紗の住む団地にやってきた。

今では、小学校で待ち合わせをすることも、お互いの家を自転車で行き来することもできない。それは受け入れないといけない現実だった。

よみがえる記憶のひとつひとつが、今のふたりが変わってしまったことを思い知らせてくれた、


公園の時計はいくらか古びて汚れた気がするけれど、今でもしっかりと時を刻んでいる。

何年ぶりかの待ち合わせ。


『わたしの家の近く……公園まで来てくれないかな』


梛紗のお願い。それはかまわないけれど、先日まで入院していたと聞いたあとだったし、もう日暮れだ。素直に分かったとは言えない。なにかあったら……。

それに……。


『ミナトに迷惑がかからないようにはしておくから』


「そういうことではない」普段のやり取りなら、そのまま伝えたと思う。でも、そもそも普段の梛紗が僕にそんなことを言うだろうか。

僕は僕の決断として梛紗の願いを断らない選択をした。それは、梛紗のお願いを叶えたいという僕の私欲だ。


辺りが暗くなり始めて、僕は不安になる。

スマートフォンで確認した時間を公園の時計を見上げてまた確かめる。

「約束の時間」が来るまでは動かない。

暗くなってきた辺りに電灯の明かりが少しずつ浮かび上がってくる。

家まで迎えに行きたいけれど、梛紗が許さなかった。そんな無茶な要求をどうして僕は飲まなければいけないのだろう……。でも。


公園の時計が時間になった。

待っていたそれを確認した僕は駆けだす。

縛るものは失われた。待ち合わせの時間は過ぎたのだから、義理は果たしたと主張しよう。


僕は、時計の前を離れて、公園を梛紗の家の方向へと走った。小さな頃には広く感じられた公園も、きっと学校のグラウンドも、今の僕にはあっという間に横切れる狭く区切られた空間だ。

古い思い出の上に「今」が書き加えられていく。きれいな思い出を踏みにじって汚していくような錯覚さえして。

でも、僕たちが生きているのは今この時間で、姿を追いかけた駆け回る梛紗も、その影に隠れて辺りを窺っていた僕も、もうどこにもいない……。


そんな事実は、僕にはどうしても、どう目をそらしてみても悲しい。


公園を出て左側に目をやった。

街灯の明かりが公園から迫り出した樹の枝に遮られて、影が落ちている。

僕は足を止めた。


「……せっかちだなぁ」


笑った梛紗。

僕は驚いた。けれど、笑い声を聞いて、姿を確認して少しホッとする。

梛紗はそのままこちらへとゆっくり移動してくる。

いつだってせっかちだったのは梛紗の方だ。親分に似たのかもしれない。


「誰かよりはましだと思うけど」

「ふーん、その誰かは5分も待てない人?」


梛紗は公園の方を向いた。その先に立っている時計。僕はあまり目が良くないので時計盤が何時を指しているのか分からない。

だけど、梛紗にも見えているのかどうかは怪しい。こういう類いのはったりには慣れていた。


笑ってはいるけれど、梛紗の息は上がっている気がした。急いで来たのかもしれない。

それに座っている椅子もいつもの車椅子ではない気がするけれど……。


「もしかして、屋内用の……」

「そんなのミナトが気にすることじゃないって」


梛紗は僕の声を遮ると、横を通りすぎて公園の入り口へと向かう。


「もしかして、黙って出てきたとか……?」


梛紗は答えない。

「ミナトには迷惑がかからないようにしておく」のではなかったのか……。

僕は呆れた。梛紗の家にすぐにでも確認するべきだとは思う。けれど、梛紗がもし理由があってしたことなら、その理由は知っておきたい。


「ナギ……」


僕は、振り返って声をかけようとした。

公園の入り口で停止している梛紗。


梛紗は無言だった。

僕の指摘に怒っているのか。梛紗の反撃を待つ。

けれど、梛紗は無言のまま。……そのまま停止したまま。


――?


僕は少し変に感じて、おそるおそる歩み寄った。

椅子に座ったまま、一切の動きを止めた梛紗。


「……ほんとは、会いたくなかったな」


梛紗の呟きが聞こえる。

全く違っていた。それは僕の思い込み。梛紗が停止していた理由は怒りなんかではなかった。


梛紗の前には公園と歩道の境界がある。僕には絶対に分からないそれ。

土の流出を防ぐために並んだブロック。設置されたスロープは劣化してほとんどが外れてしまっていた。


今の梛紗には越えられないのだ。そのわずか「15センチ」。

梛紗が過去の領域に立ち入ることを絶対に許さない。そびえ立つ壁。

たったそれだけでも、梛紗の中に残った希望を消し飛ばすには充分だった。


「……ミナトにだけは、会いたくなかったんだよね。……わたしに残ったまだきれいな思い出だったから。……もう決めてたのにね、そういうのを支えにこの先は生きていくんだって。……それなのにっ!」


最後は、叫びだった。

おそらくずっと心の内に秘めてきた梛紗の本当の気持ち。

そこに梛紗の鋭利さなんてなくて、刃の潰れてしまった鉈のようだった。

力任せに振るった梛紗の感情の鉈が、圧倒的な悲愴さで僕の心を叩き切る。しかしそんな勢いで腕を振るえば、梛紗の腕もきっと千切れてしまう。


「……ミナト、覚えてる? 昔、わたしが言ってたこと。『誰かを踏み潰そうとする人間は、自分が踏み潰される覚悟をするべきだ』って」


平坦なトーンで梛紗は言った。

覚えているけれど……。覚えていると僕が答えれば、梛紗はまた自分の心を引きちぎろうとするのだろう。けれどそれは答えがなくても同じこと。


「……わたしには、そんな覚悟なんてなかった! わたしが、いったいどれだけの人を踏み潰してきたと思う? どれだけの人の気持ちを踏みにじって……っ!」


最後まで声になっていなかった。

静寂は残酷だ。梛紗が必死で自分の心を押し殺そうとしても、かすかに漏れてくる声が聞こえてくる。

僕はどうしたらいいのだろう。励ますのはいつでも梛紗の役割だったから。


こちらを向いた顔は電灯の明かりでも分かるくらい涙でぐしゃぐしゃになっていた。

僕はそんな梛紗の表情を見たことがなかった。

溢れる感情を堪えている梛紗。歯を食いしばって、眉間にしわを寄せて、大きく歪んでいたけれど、それでも僕と目が合った瞬間、梛紗は無理矢理に笑ってみせる。

僕にもやっと分かった。これが「将来を見ていない目」なのだ。


「ミナト。……さあ、わたしに『引導』をわたして? わたしはもう、誰かを頼って、ずっと何かを奪っていかないと生きていくこともできない。……お願いだから『もう夢を見るな』って、言ってくれない?」


それが目的だったのか。プログラムに参加したのも、今日、僕を呼び出したのも。

将来を諦める理由が欲しかったのか。

梛紗には自分の両足が、そして歩くことができなくなった今もなお、まだその両側の廻る輪が誰かを踏み潰しているように感じる。そういうことなのだと僕は理解した。


もし諦められたなら、梛紗はどうするつもりなのか。

その廻る輪の下にいるのは、いったい誰なのか。


いつだったかその昔読んだ『車輪の下』。悲しい物語だったのを覚えている。

将来を期待された少年は実は努力の人で、頑張るのだけれど、心を病んで失われた未来。帰ってきた主人公を温かく迎えてくれる人はいなくて、違う道を歩いていこうとするけれど……。


車輪とは社会のことだと思っていた。

レールからはじき出された人が落ちるのが『車輪の下』。


けれど、車輪に踏み潰されずに生き残った人たちにも一生がある。

力を持った誰かに頼って、ときには誰かにしがみついて……。引きずり下ろしてでも生きていかなければいけない。たとえひとりで歩けなくなったとしても、それを選ぶことは罪なのだろうか。


梛紗には自分が今でも誰かを踏み潰す車輪に見えている。

踏み潰す力なんて失ったはずなのに。

いやそれだって違う。最初からそんな力なんてどこにもない。どうしてそうなるのか。

僕は苛立ちを覚えた。


「おかしいよナギ。 誰がナギに踏み潰されたんだ?」

「……?」


僕の疑問は、拒否の意思表明。どうして「引導」が必要なのか。まだちゃんとここに生きているというのに。

驚きを見せる梛紗。しかし、それもほんのわずかな間だけだった。

梛紗の表情から優しさは消えて、悪魔の微笑が浮かぶ。それは笑みだけれど、むしろ敵意だ。相手の息の根を止めようとする表情。


「……ミナトは知ってるよね? わたしが踏み潰してきた人たちを。知らないわけがない。だっていつもそばにいたんだから……ひとり、ひとり名前を挙げていこうか?」


声は冷淡だけれど、梛紗の瞳が憎しみに燃える。

しかし、僕はもう、そんな抜け殻のようになってしまった梛紗に威圧されてすくんでしまうほど腑抜けではない。


「挙げてみたらいい。だけど、そこに僕の名前はある?」

「……?」


僕は負けない。負けてはいけない。僕と梛紗のために。


「なかったらそれはおかしい。梛紗にはたくさん友達がいたけど、一番迷惑をかけられたのは僕のはずだ!」

「……?! そんなの当たり前だよ。ミナトは一番の被害者じゃない。 ずっと付き合わせていつだってわたしが踏みつけてきたんだから!」


梛紗が冷静さを失う。

傷口に塩を塗るようで苦しい。けれど、こうしないと梛紗には勝てない!


「……潰れてないよ。……梛紗に踏まれたくらいで、誰も潰れない。僕だって落ちこぼれ……。でも、踏まれ慣れた『車輪の下』おちこぼれを、なめるな」


僕は怒りを込めて言い捨てた。

梛紗は無言で僕の顔を見上げていた。その表情は驚きだと思う。

梛紗は僕に涙を見せなかった。僕は梛紗に怒りを見せなかった。それは一番見られたくない相手に見られたくない本気の感情だから。

つまらなくても、切り札は最初に切った方が負けだ。


無言の時間がふたりの間に流れた。

考えて、ため息をつく。認めようと思う。僕は決意した。

はずかしいけれど白状しよう。梛紗が本心を見せてくれたのだから。


「……僕は、踏み潰されてなんかないよ。臆病だった僕が言いたかったこと、やりたかったこと、それをみんな梛紗がやってくれてたんだ。文句ならたくさん言ったけど、ずっと梛紗のことかっこいいなって思ってたから……。ずっと、そう思ってた」


僕は視線を合わせるのが少し気まずい。

でも、本当に伝えたいのはここから。僕は梛紗の顔を見て続ける。


「梛紗が無理してることも気付いてた。僕が追いかけていたかったから止めなかったんだよ。梛紗がさ、僕にいい格好を見せようとして無茶してたことくらい本当は知ってる。僕の心を支えてくれたのはずっと梛紗だったんだよ。だからさ……」


出会った頃、梛紗は本当に明るくてまっすぐだった。でも、僕の期待に応えるために信念を曲げて、やり方を選ばないようになっていった。僕はただそれを見ていただけ。

梛紗のことを卑怯だなんて言っておいて、僕の方がずっと卑怯じゃないか。

梛紗に償わなければいけない罪なんてないし、もしそんなものがあるのだとしたら僕も背負おう。


歩み寄って僕は梛紗のそばでしゃがむ。顔がよく見えないし、梛紗が殴りたくなっても拳が届かないだろうから。

梛紗は無言で目を丸くしたままこちらを見ている。

昔、言えなかった言葉がある。だから今それを言っておこう。


「……今度は、僕が梛紗を支えちゃいけない?」


いなくなったときからずっと思っていた。けれど梛紗が望まないかもしれない。何が必要なのかも知らなかったし、他に適任の人がいることも知っていた。

でも、梛紗がどんなふうに思っても、事実はどうだったとしても、僕は寂しかったし、ずっと僕の場所だった梛紗の隣を譲らなければいけないことは悔しかった。

何も考えないで追いかければ良かったのだろうか。

でももしも、今からでもそうすることが間に合うのなら。


「……ミナト。何を言っているのか分かってるの?」


梛紗は表情を変えずに聞いた。

僕は頷いた。


「分かってない! それはミナトが自分の人生を諦めるということじゃない?」

「なんでだよ。僕は自分の人生を諦めないし、ナギにそばにいて欲しいし、支えになりたいだけじゃないか」


梛紗が引きつった笑いを浮かべた。

どうして梛紗が考えることの最初が僕の人生なのか。梛紗は自分が嫌かどうかで答えればいい。


「……言ってることがめちゃくちゃなの、分かってる?」


半笑いで確認をする梛紗。

僕からすれば、梛紗の反応の方がずっとおかしい。


「どこがめちゃくちゃなんだよ? そばにいて欲しいからそばにいたいのは当たり前だよ。ナギは僕を支えてくれてるから、僕はナギを支える。何がおかしいのさ」

「……おかしいって! ミナトは病院の人でも施設の人でもないのに、なんでそんなこと簡単に言えるの?」

「簡単になんて言ってない。ナギが知らないだけで僕は昔から思ってたことだから。僕が梛紗に必要な人間になればいいことだよ。……そんなことより、ナギが嫌かどうかだよ」

「……嫌というか……ミナト、変なもの食べた?」

「食べてないし、しつこい。……嫌なの? いいの?」


しばらく梛紗の質問が続いた。

不思議な感覚だ。昔はこんなことなかったから。

梛紗はどうも納得できない様子だけれど、僕も今まで言わなかったから仕方がない。

そして、梛紗はたくさん確認してどう答えるつもりなのか。


「……ミナトは正気で言ってる? 一晩ちゃんと考えてみて? それでも同じことが言えるなら……」

「分かった! ずっと考えてたことだけど、それでナギが納得できるのなら、何度でもまた言うよ……」


たぶん考える時間が必要なのは梛紗の方だ。

僕にとってはずっと残っていた後悔だったけれど、梛紗にとっては突然のことなんだから。


再会したときによみがえった思い。でもそれを考えることは、自分が直面している課題から自分自身が逃げていることにしてしまいそうだった。それは嫌だった。

だから、前を向けるようになった気がする今だから、してみようと思えた。そんなふうにも感じる。


危機から身を守るために、傷を癒やすために、その場を逃げだすこと。

今だって必要なことだと思っている。でもそれは、またなにかと戦うため。

もしかしたら、戦う必要なんてないのかもしれない。それでも……。

小さい頃から梛紗の影に逃げ込んで、梛紗を歪めてしまったような気がしてるから……。

もう、そういうことをしたくなかったのかもしれない。


今なら、僕の分は僕自身が向き合える。そして、僕の代わりに戦ってくれたりして傷ついた誰かがいっぱいになって苦しんでいるのなら、その苦しみを分けて欲しいと思う。

梛紗にとってはそんな事実なんてないのかもしれない。

それならそれでいい。


梛紗は俯いて考えているようだった。

もう悪巧みでなくていい。梛紗は自分がやりたいようにして、僕はそれを応援したい。


そんな未来があるとしても、それは誰かにとっては今までと変わらないのかもしれない。でも変わりたいと思うから。

梛紗が僕を選んでくれるなら、僕がそれに応える。


「……きっと、絶対につらいと思うよ。ミナトに見せてきたのは『わたし』なんかじゃないから」

「知ってる」

「知ってるんだ? ……なにそれ、おかしい」


梛紗は笑った。そして目を伏せて続ける。


「……かっこ悪くて、情けなくて、自分が自分のこと大嫌いで、それでも……もうそうやってしか生きていけない。わたしは、ミナトにそういうところ見せたくないよ。絶対にわたしのこと嫌いになるって分かってるから……」

「梛紗がかっこつけてることくらい昔から知ってるよ。ほんとは、ずっとかっこ悪いのかもしれない。想像を絶するくらいに面倒くさいのかもしれない。でもこれは予想じゃなくて『誓い』だから。『僕は梛紗のことを嫌いにならない』」

「……言うね。……後悔するよ?」


梛紗は不機嫌そうな顔で僕を睨む。

僕はできるだけ不敵な表情に見えるように笑ってみせた。

これは何を争っているのか。


「……似合わない顔」


苦笑いする梛紗。僕の迫真の演技も通じたわけではないようだ。

それでも梛紗は音を上げてくれた。


「ひとりぼっちにはさせないから」

「……それは僕の台詞だって」


梛紗は首を傾げて、笑顔のまま泣いていた。


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