第4話 嘘とホントと、過去と今
「『本当の気持ち』って、どんな気持ちなのかな?」
虚空を見つめたまま川上さんは呟くように言った。
答えられなかった。質問に質問が返ってきたので咄嗟に答えが出せなかっただけ。そんなふうに一瞬考えた。でも違う。それは簡単に答えられる質問ではない。
投げた問いが漠然としていたから、僕の意図が伝わらなかったのかと思い直したけれど、それだって違う。たぶん、川上さんは真面目に問うているのだ。「本当の気持ち」とは何なのかを。
「梛紗の気持ち」を川上さんに尋ねても分かるわけがない。だから「もし、誰かに本当の気持ちがあるなら、どうやって確認しようか……」という話になってしまった。僕は長らく、誰かと話をするとき、返ってくる答えを勝手に想像していた。実は、対話をするつもりなんてなかったのかもしれない。
相手の気持ちを知るためには、「ちゃんと話を聞く」だとか、「相手の気持ちになって考える」だとか、そんな答えが返ってくると思い込んでいたから。
「……『本当の気持ち』だから、たとえば、『周りから見えない気持ち』とか?」
僕は自分の質問を保留して、考えてみた。
川上さんは視線を落とす。けれど、きっと彼女には意味のあるものは何も見えていないだろうし、本人はまるでここにいないかのように振る舞うけれど、実は引き込まれるような無色透明な存在感はあった。
「……そっか。周りから見える気持ちは本当じゃない……ってことかな」
俯いたまま、川上さんは続けた。
「わたしには、人の気持ちは見えない。だから、わたしにとってはどんな気持ちも『本当の気持ち』。……でもそれじゃ、分かり合えたって感じた瞬間にその気持ちは『本当の気持ち』じゃなくなってしまうよね……。ところで、遊木さん。『本当』かどうかって、そんなに大切なことなのかな?」
「……え?」
僕は失念していた。誰かの気持ちに苦しんでいる当事者にそれを聞いてしまうなんて……。
川上さんは人の気持ちが分からないとされている種類の障害を持っている。けれど、僕にはそれは障害だなんて感じられなかったのだ。だって、誰にだって人の気持ちは分からない。見当がつけられるだけ。それが「本当」かどうかなんてわからない。
実際にこの今も、川上さんは僕の気持ちを察してくれているような気がするのだ。まるで「気にしないで」と言うようにこちらを向いて微笑んでいる。
「人には、自分でも気が付かない気持ちが隠れていたりして……でも、気付くことが本人や周囲を苦しめることもある……なんて思います。……わたしの気持ちはいつだって揺らぐんです。昨日の『本当』が、今日の『本当』だとは限らなくて……」
僕は、このとき初めて川上さんが本当に年上のお姉さんなんだと感じた。
「本当が揺らぐ」……僕は、川上さんの言葉を心の中で復唱した。
「誰かの気持ちに近付きたいのなら、その人にちゃんと向き合うしかない気はします。……でも、それが『本当』なのかは分かりません。それはきっと、本人にも分からなくて、ただ自分自身でそのときの気持ちを信じるだけなのかな……って」
川上さんの微笑み。もしかしたらそれは、彼女の気持ちの表出ではないのかもしれない。僕はそれに憂いを感じてしまう。きっと彼女自身にそう言えるだけの何かがあったのだとは思うけれど。
「あ、ありがとう、ございます。すみません、なんか……」
「いえ、遊木さん。わたしは幸せですよ。伝わっていますか?」
僕は彼女の言葉にハッとした。
表情を確認すると、川上さんは悪戯っぽい笑みを浮かべている。これは彼女の冗談なのだろうか。僕には言葉の真偽が全く分からない。けれど、そのくらい相手の気持ちだと思っているものが自分の思い込みかもしれない。そんな可能性を体感できた気もする。それが川上さんの答えなのだ。僕はまんまとしてやられた。
川上さんは言い終わるとテーブルに広げてあったテキストや書類を持参の鞄にしまっていく。今日は午後から職場に戻るらしい。
僕は、ふわふわと部屋を出て行く川上さんを見送った。
そういえば、今日は梛紗も姿を見ていない。この最近、よく話をしていたふたりがいなくなって、急に自分だけの時間ができてしまった。近付いてくる復職のことから目を逸らす口実にしているのかもしれない。真剣に向き合わなければいけない自分自身のこと。
けれど、今日のこの時間は、少しだけ梛紗のことを考えてみようと思った。僕はどう見ていたのか。過去のこと、そして今のこと。
梛紗は中学でこそ友人の多い人気者だったけれど、小学生の頃はとてもそんな種類の人間ではなかったように思う。僕に言わせれば「暴君」だった。
今では見る影もないけれど、正義感の強さが際立つ少女だった。だだ、かなり横暴な正義だったけれど。
一時期、梛紗がクラスで浮いていた時期があった。
少し言動の変わったクラスメイトいて、周囲がそのことをからかっている状況があった。きっかけはその状況から始まったように覚えている。実際にはそれ以前からあったのかもしれないけれど、僕は気付かなかった。
今でいえば「いじめ」なのだろうか。そんなふうに聞いたことはなかったけれど、本人がそう感じていてもおかしくはない。
「こそこそやってないで言いたいことがあるなら、はっきり言いなよ!」
梛紗は授業中にも関わらず、クラス全員に聞こえる声でそう言った。突然声を上げた梛紗に注目が集まる。その表情は不機嫌そのものだった。
僕はそこに何があったのかよく知らなかったけれど、梛紗は、ずっとそれを見ていたようだ。
きっと梛紗の指摘は正しかったのだと僕も思う。けれど、方法が上手くなかった。嫌がらせに荷担していた面々は、大勢の前で吊し上げられたような状況になって、梛紗は傍観していた僕たちにも怒りを向けたのだ。
とても正しい。けれど無謀だった。
「なんか、新鹿さん、調子に乗ってない?」
場合によっては、梛紗が「いじめ」の対象になっても不思議ではない行動だった。実際にクラスの一部からは梛紗に対する嫌がらせが始まった。
それに対する梛紗はまるで、水を得た魚のようだった。いや、鮫だったかもしれない。当時から梛紗の行動原理は単純だった。
「誰かを踏み潰すつもりなら、踏み潰される覚悟をしておきなよ」
悪魔のような笑みを浮かべて、梛紗は報復した。ときには単純に暴力で応戦していたし、「正義」はどこにいったのか分からないような卑怯な手をつかって好き放題していた。そしてしょっちゅう誰かに怒られる毎日。もちろんその横暴に巻き込まれてきたきたからこそ、僕の梛紗の評価は「暴君」なのだ。
足下に転がってきたボールを拾い上げると、思い切り振りかぶって空高く放り投げる梛紗。明後日の方向に投げ捨てておいて「ごめーん、変なとこ投げちゃった!」などと平気で言い放つ。
「道を踏み外したやつには引導を渡してあげないとね。ミナト」
僕は「引導」の意味も知っていたので余計に怖くなった。敵に回したくない人間だと思ったし、たぶんみんなそう思っただろう。
そんな遠い昔の梛紗の印象が、きっと僕のそれからの梛紗に対しての思い込みとしてずっと残っていったのだろう。おそらく中学の終わりまで、梛紗の言動は本質的になんら変わらなかったように思う。彼女の行動原理も。
でも、今の梛紗は果たしてその昔の梛紗と同じだろうか。言動は大きく変わっていないように思える。けれど、そうさせている理由まで同じなのだろうか。
その後、僕と梛紗の関係が途切れることになった最後の出来事を思い出す。
単純で「細かいことは気にしない」彼女の価値観。
車椅子で生活することを余儀なくされた梛紗。いくら単純だった彼女にとっても、その出来事は気にするまでもない「細かいこと」だろうか。
僕ははっきりと梛紗の何かを誤解している。
ふたりの繋がりが途切れていたその数年間に、僕は、僕自身も周りの環境も大きく変わった。価値観だって変わったのだ。
あんな出来事を経て、梛紗が昔のままであるわけがない。
再会の瞬間に感じた違和感。それはやっぱり、気のせいなんかじゃないのだ。
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