廻る輪の下で
なるゆら
第1話 リトライしますか?
忘れているはずはなかった。心のどこかにずっと残っていた共に過ごした時間。思い出せば、それはとても鮮やかで、輝いていた過去。先に待ち受ける苦しみも挫折もしらない。あの頃は不安の先にもきっと明るい未来が続いているのだと信じていた。きっとお互いに。
忘れていた鮮やかさがよみがえる。
僕は彼女と再会した。
それは、県の文化センターで行われた雇用促進フォーラムの帰り際、どんな偶然が僕たちを引き合わせたのか分からなかったけれど、その再会は澱んでいた僕の心を激しく攪拌した。
よみがえる記憶と、強い違和感。
僕の名前は
再会した梛紗は、梛紗だったけれど、あの頃の梛紗ではなかった。
当時の梛紗を知っている人なら誰もが別人を疑うと思う。
僕だって、事情を知らなければ梛紗だとは気付かなかったはずだ。
そんな思いで僕は梛紗を見下ろしていた。
記憶に刻まれたふたりの関係性。そうだったはずのふたりの個性。
僕と梛紗は、小さい頃は毎日のようによく遊んだ。小学生低学年の頃くらいまでは周りも「男の子」だとか「女の子」だとか、うるさく区別することもなかったし、ふたりとも全く気にしていなかった。特に梛紗は底抜けに明るくて、スポーツが大好きな少女だった。いつも周りを振り回して楽しんでいる(ように見えた)ので、気にしてくれたらありがたいくらいに感じていたと思う。
対して、きっと僕は地味でおとなしい少年だった。運動も得意ではなかったし、はっきりと何かが主張できる方でもなかったので、大人たちは、生まれてくる性別を間違えたんじゃないかとまで言った。
小学校の同級生だって、梛紗のことは覚えていても、僕のことは覚えていないと思う。誰かの記憶に残っているとしたら、それは「よく梛紗と一緒にいたやつ」くらいの印象のはずだ。
僕のことがどう見えるのかはしらない。けれど、梛紗の姿は記憶と絶対に重ならない。
視線が合ったままふたりは無言だった。
出入り口の前で立ち尽くす。梛紗の横を大きく迂回して、僕の脇を人々が通りすぎていく。僕と梛紗の時間は止まって。周りの景色だけが流れていった。
僕は咄嗟にかける言葉が思いつかなかった。梛紗はどうなのだろうか。昔と同じなら、ぼくが何かを考えている間にすでに口を開いているはずだ。黙っているということは、変わったのは見た印象だけではないということなのか。
変わらなかった梛紗。それが変わったということ。
ふたりの関係性は中学に入ってからもあまり変わらなかったと思う。さすがにお互いに与えられた役割を心得て、小学生の頃のような自由さはなりを潜めはした。けれど、潜めただけ。梛紗は本質的にはなんにも変わっていなくて、突然嵐のようにやってきて、体育会系の勢いで僕を引きずり回すことも稀によくあった。
梛紗は勉強には興味がないようだったけれど、スポーツには一生懸命で、体育で息も絶え絶えに時間が過ぎるのを待つ僕の反対側で、バスケットコートを必死に、全力で走り回る姿をよく覚えている。その様子を軽やかに駆け抜けるナントカなんて形容した同級生もいたけれど、僕はどうかしていると思っていた。
あの形相は、「
僕は勉強に一生懸命だったとはいえないけれど、他に熱中できることもなかったので、梛紗ほど成績は悪くなかった。たぶん同じ学校に通えるのも中学までになるだろうな……なんて意識したとき、寂しさをはじめて感じたかもしれない。もし、ふたりの関係が続いていたなら、そこに誰が好きだとか嫌いだとかいう物語はあったのかもしれないけれど、そうはならなかった。
ふたりの別れは中学の卒業式を待たずにやってきた。
それはなんの前触れも無く、唐突に。
別れを惜しむことも、お互いの未来が明るいものになるように誓い合うこともできずに、関係は途切れた。
自分が、目の前の事実を受け入れていないことに僕は気付いた。
僕の身長がびっくりするほど伸びたわけでもないし、見下ろした梛紗の背が縮んだわけでもない。
「ミナト……だよね。言いたいことがあるなら、どうぞ」
梛紗の声は変わらなかった。けれど、昔のような勢いはなくて、張りも力も失われている。そんな弱ったようにも見える梛紗にぼくは何を言えばいいのだろう。何を聞けばいいというのか。
理由なら知っている。それなのに、改めて確認すればいいのだろうか。
――どうして、車椅子なんだよ。……って。
「ほんっと、そういうのやめてよね」
梛紗の目がすわっている。視線はこちらを向いてはいないけれど、怒りの対象が僕なのは明らかだ。いつまでも出入り口にいたら邪魔になるだろうと、梛紗が移動を指示した。自動販売機が並んだスペースにあるパラソルの下。その椅子に座っているのは僕だけだ。目の前で梛紗が僕を査問している。
「……な、なんか飲む?」
「飲むわけないよねぇ……ほんと腹立つんだけど」
梛紗は僕を睨んだ。
「なに? かわいそうなわたしを憐れんでくれてるの? 偉っそうに……」
「ナギも充分、偉そうだと思うんけどな……」
僕の指摘に、梛紗は「ああ?」と笑みを浮かべる。子供であれば泣きそうな表情だ。
なんというか、中身はそんなに変わっていないのかもしれない。というより凶暴さが増している。ぼくが何かを言う度に怒っている気がする。
「だいたい、なんでミナトが『障害者の雇用促進フォーラム』なんかに来てんの。 わざわざ、わたしを笑いにきたわけでもないよね?」
梛紗は元の表情に戻って、返答次第ではまた怒るぞと威圧してくる。誰かを笑いにきているという発想がもうおかしい。言わないけれど。
「復職支援のプログラムで会った人に案内をもらったんだよ」
「服飾……なんて?」
「『復帰』すんの、『職場』に! 復職! もらったんだよ、そこで」
今度は僕が声を上げてしまった。考えてみれば、当然だった。お互いに今の状況を知らない。見当違いなことを言ってしまうのはしかたがないのかもしれない(とはいえ、瞬間沸騰しないで欲しいけれど)
少しの間があった。梛紗は何かを考えていたようだ。
「なに? もしかして、ミナト仕事してないの?」
目を丸くして(あるいは輝かせて)こちらを見る梛紗。わざと言っているのだろうか。僕としても相当、腹が立つ言い方なんだけれど。
「復職って言ってんじゃん! 休んでるだけだよ」
梛紗は鼻を鳴らすと、いかにも悪そうな顔をする。具体的にいえば、含みのある笑みを浮かべて心情を見透かそうとするかのように半目で僕の顔を見つめている。表情から何かを読み取ろうとしているのかもしれない。一緒にいた頃、よく見た表情だった。だいたい後は良くない。
「ふぅーん……なんだ。憐れまれる筋合いないじゃん。まあ、わたしもしてないけどね……」
全く聞いていないようだ。梛紗の中での僕は無職ということになったらしい。わけのわからない連帯感を感じているようで、梛紗は嬉しそうに「まあまあ元気、出しなって」なんて言っている。なんの連帯責任を取らされようとしているのか僕には全然わからないけれど、これもたぶん良くない。
そもそも、仕事をしている人間には梛紗を憐れむ権利があって、していなければないという価値観が歪んでいる気はする。僕も好きで休んでいるわけではないし、それは目の前の梛紗も同じなんだろうけど。
「ときにミナトさん」
「……な、なんだよ、水戸黄門みたいに」
気味の悪い梛紗の笑顔。しかし、同時に妙な安心感。
目の前の梛紗は車椅子に座ってはいたが、今にも立ち上がって歩き出しそうだ。ふいに何かを思いつくと僕の袖を引っ張って歩き出した梛紗。
やっぱり梛紗は梛紗なんだと感じた。それがあり得ないことは僕も知っているけれど、今回に限れば付き合ってもいいとさえ思う。立ち止まっていた過去が急に追いかけてきて、空いたページに何かが書き込まれていくような感覚がする。
「そこに行けば、仕事がもらえるんだよね?」
「は?」
僕の心に今書き込まれているのは、落書きなのかもしれない。
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