第2話 はじまりの案内状
その日はほとんど眠れなかったように感じた。実際にはどのくらい眠っていたのかはわからない。何かに急かされるように目覚めれば、再び眠ることは困難になった。もう慣れてしまったけれど、身体はとても重い。眠れなかった次の日はきっと眠れるはずだし……。そんなふうに思い込んで、身体を引きずりながら家を出た。
ぼんやりとした意識は朝日を浴びるといくらかましになるような気はする。
休職中のはずなのに、意識が職場から離れない。市町村の境界のように見えない線がどこかに引かれているようで、僕はその線をどうしても南側に越えることができなかった。近付くと感じる不安。心のアラームが鳴る。無視して進むと身体が震えだして気分が悪くなってくる。そして感じるのは恐怖。何が怖いのかもはっきりしないけれど、透過率の低いパイプの中を進んでいるような感覚に切り替わって、ぐんぐんと恐怖を伴って細くなって迫ってくる。自動車のハンドルを握る手が、ペダルを操作している足が固まっていく。
僕は身体がコントロールを失う前に信号を左折した。まだ背後から追いかけてくる恐怖。一刻もこの場所を離れなければと無意識が訴えてくる。
それでも、今日は3本手前の信号までは行けた。もう少しだと思う。実際に恐れている脅威はちゃんとこの目に見える物事のはずなんだと言い聞かせて、本来の目的地へと向かった。
支援プログラムは病院の作業療法棟で平日の毎日行われている。
復職はもちろん、再就職や、社会復帰の支援のために曜日ごとにプログラムが割り付けてある。訓練、集団療法なんて名前は付いているけれど、内容はとても易しくて、社内研修や職業訓練のような印象を受けた。何が一番違うのかといえば、どこまでも温かくて優しいこと。
「今日もここまで来られたこと。それは当たり前じゃない。自分のできたことをちゃんと認めていこう」支援プログラムを担当する職員の言葉。たとえば休職になった人たちのほとんどが聞き慣れない言葉だという。それを言うことが職員の仕事だと分かっていても緊張が緩んで泣きそうになってしまう自分がいた。
戻る場所はこんなに優しい場所ではないことは分かってる。慣れてしまってはいけないことも知っている。それでも、散り散りになって元の形が分からなくなってしまった自信や勇気が戻ってくるような感覚があって、きっとそれがまた現実と向き合う力になるのだと、僕は信じる。
水曜日は集団認知(行動)療法の日。週で一番参加人数が多くなる日だった。お昼にはいくつかの輪ができてまるで学校のようだった。思い思いに話をする人、聞く人。ひとりで本を読んだり音楽を聴いたり、それぞれが自由に休憩時間を過ごしていた。
その人は水曜日にしか来ない。何度か話をして分かったのは、仕事の都合で参加できる日が水曜日だけだから。それが理由のようだった。
彼女はどこかの輪に加わることなく、ぼんやりと何もない空間を眺めていた。落ち込んでいるという感じではなく、ただ呆けているだけのように見える。いろんな事情もあるだろうし、いつもならそっとしておいたと思うけれど、僕は彼女の目の前のにある何かのチラシに注意がいった。
「……川上さん。何のチラシ?」
反応がない。ただのしかばねのようだ。……ではなくて。彼女――川上さんはこういう感じの人だ。よくぼんやりしている。距離は近くても聞こえていないようだ。放心しているときは人形のようで、存在感がない。僕も存在感に自信がある方ではないけれど、川上さんのそれは薄いというより、限りなく透明に近い。
「川上さん?」
「……え、あ、はいっ!」
我に返る川上さん。空っぽだった人形に魂が宿ったかのよう。こちらを向いた顔には表情が戻っている。どうしてか、いつも自分が怒っているように見えないか気にしているようだったけれど、怒っているところは見たことがない。
僕よりもいくらか年上の「お姉さん」だ。でも頼れる感じは全くなくて、年齢を知らなければ年下に見える。ときどきよく分からないことにお花を咲かせているので、大丈夫なのか心配になったり。それでも毎日の仕事はこなしているようだし、話をしていても何かに思い悩んでいるふうでもないので、きっと大丈夫なのだろう。あまり人間関係が得意な方ではないからと、主治医に勧められてこのプログラムに参加しているようだった。
「川上さんの目の前のチラシって……」
「あ、たぶん案内です。作業療法士さんに頂いたんですけど。日曜日は仕事なので、行けなくて。県の総合文化センターで何かするみたいで……」
だいたいチラシは何かの案内だと思う。僕は川上さんの説明を聞こうなんて思っていたけど、本人がよく分かっていないようなので、それを覗き込んで確認した。『障がい者雇用促進フォーラム』と書いてある。
企業に一定の雇用を義務付ける法令が施行されてから、この種の講演会やシンポジウムなどが各地で行われている。雇用する方される方、お互いに知っておくべきことがたくさんあるんだと思う。
僕は休職者だけれど、障害者ではない。でも、障害者とされている人たちが特別な存在なんかではなくて、僕と同じ人なんだとプログラムに通うようになってから分かった。同じ人間なのはもちろんわかっているけれど、どこかに分かりやすい違いがあるような思い込みがあったのだと思う。
たとえば、川上さんだってそうだ。普通に仕事をして、話しもできて、(本人は嫌がるかもしれないけれど)たぶん遊びに行けば楽しいし、悲しいことだってちゃんと共有できる気もする。それくらい僕が今まで出会ってきた人と変わらない。できることやできないことが人によって違うのは、障害があっても、なくても同じだ。
「日曜日……かぁ。今はちょっと、外に出ることがが怖くなってたりするし、県庁の方なら同僚に会うこともなさそうだし……行ってみようかな」
「あ、いらっしゃるんですか? どうぞお気を付けて。……よろしければ、また遊木さんの感想、聞かせてくださいね」
それに、内容に興味がないわけでもない。川上さんもそのようだ。
僕は身体を鈍らせないため、後学のため、……それに、川上さんとの話題作りにもなるだろうし、その催しに行ってみることにした。
それが、どうしてこうなったのだろう……。
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