五月雨の、すぎた頃に

雪羅

五月雨の、すぎた頃に


『また必ず会いましょう。………五月雨さみだれの、すぎた頃に』



 彼の腕の中で、降りしきる五月雨の音とともにその言葉を聞いて、三年。

 季節は、幾度となく移ろい。


 秋が、訪れようとしていた。




***



 女学校の終業時間を知らせる時計塔のベルが校内に響き渡る。

菖子しょうこ、帰り遊んでいかない? 近くに新しいあんみつ屋さんをみつけたの!」

 荷物を整頓していた朝明乃あさけの菖子は、声をかけてきた親友の長岡美佳を振り返った。

「良いわね、行きましょう。理恵もどう?」

 近くの席で同じく荷物を整頓している遠山理恵を誘う。

「私も、今日は暇だから行きたいわ」

「じゃあ早速行きましょう」

 美佳がはしゃいだように声を上げる。

 三人そろって五年生の教室から校門へ出ると、たくさんの男子学生がいた。

「しょ、菖子さん! 今日お暇ですか!?」

「俺と、一緒に出かけませんか!?」

「菖子さんに似合いそうなリボンがあったので、買ってきました! 受け取ってください!」

 すぐに周りを囲まれ、立ち往生する。

「ごめんなさい…。この後は、親友たちと出かけますので。それに、贈り物も結構ですわ。知らない方から物をいただけませんもの」

 菖子は困った表情をたたえ、まわりの学生達を見渡した。

「ほーら、どいたどいた!」

 勝ち気な美佳が散らしにかかる。

 すると学生達は残念そうにしながらも従順に道をあけた。

「すみません…」

 菖子は謝りながらその側をを通り抜けた。



「まったく…。菖子サマはモテモテですわね」

 あんみつ屋までの道すがら、美佳がため息混じりにそう言った。

「菖子ちゃんは、美人さんだからね」

 隣を歩く理恵が同意したようにうなずく。

「もう…。やめてよ」

 菖子は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 ほっそりとした顔立ちに、二重まぶたの瞳。鼻筋はすっと通っている。今流行りの口紅を塗らずとも、ほどよく赤い唇は白い肌によく栄える。

 腰までの長いまっすぐな黒髪は、束髪崩しにしてリボンをつけていた。

 三人が通う志野森しのもり高等女学校はこの時代には珍しく、鉄紺色の袴が制服だ。

 今日は菖子は紫の矢絣、美佳は薄桃色の花柄の着物で束髪にリボン、理恵は萌葱色の無地の着物にお下げ髪だ。

「あ、着いた、ここよ」

 今日の生物の授業の話で盛り上がっていると、いつの間にかあんみつ屋に着いていた。

 美江が引き戸を開け、中に入る。

 入って右側の座敷に座り、美佳はあんみつ、理恵は大福、菖子は白玉ぜんざいを頼んだ。

 運ばれてくるのを待っている間、美佳が菖子に問いかけた。

「そういえば…。もう秋になっちゃったけど、今年も柊二しゅうじさん、いらっしゃらなかったんでしょう?」

「あ……。うん」

 いきなり出てきた名前に、菖子はびくりと肩を揺らしながらも平静を装ってうなずいた。

「全く…。こんな美人を三年も放っておいたら変な虫が付いちゃうじゃない!」

「そうよね。何してらっしゃる方だっけ?」

 美佳が憤慨し、理恵がさらに問いかけた。

「海軍の将校だ、って言ってたけど…。本当かどうか」

「本当かどうか、って。確かじゃないの?」

 相向かいに座っている美佳が身を乗り出して聞いてくる。

「んー…。はっきり言ってたわけじゃないの。それに軍服姿も見たこと無いから」

「そういえば、菖子ちゃん言ってたわよね。名字も教えてくださらなかったのでしょう?」

 そうなのだ。あるほんの小さな偶然が重なって、菖子と柊二は出会った。

 逢瀬おうせだって三回だけ。本当に愛してくれていたのかさえ分からない、一方的な恋だった。

 ………『五月雨の、すぎた頃に』という約束さえ、戯れだったのかも知れないと、菖子は思い返す度に考えてしまう。

 無意識に、髪をたばねるリボンをいじる。

 これは、柊二からの唯一の贈り物だ。最後に会ったときにくれた。

『あなたには、五月雨色が一番似合う』

 そう言った彼が〝五月雨色〟と表したのは、少し深みのある青緑色だ。

 リボンはもらったときから毎日つけているので、端が少しほつれている。それを目敏く見つけた男子学生がリボンを贈ろうとしていたのだろう。

 だが菖子はこれ以外をつける気にはならなかった。………きちんと私を見て、似合うと言ってくれた色。

 ぼんやりとした表情でリボンを触っている菖子に、声をかけられなくなってしまった美佳と理恵はお互い目を見合わせた。

 そうしているうちに商品が運ばれてきた。三人で食べ合いっこをして、菖子も幸せそうに微笑む。

「そういえば、今度、野村崎屋の春景はるかげが新しい演目を演るそうよ。観に行かない?」

 美佳があんみつを食べながら話す。

 彼女は野村崎春景の大ファンで、よく観に行っている。菖子も理恵も芝居は好きなので、一緒に観ることも多い。

「今度の土曜日で良いかしら? 実は、もうお父様が切符を三人分買ってくださったの。いつも付き合ってもらっているお礼に、三人で行ってきなさいって」

 美佳が得意げに袂から切符を取り出した。

「え、そんな…。お幾ら? 払うわよ」

 理恵が慌てて言う。

「いいって。お礼だっていったでしょ。おとなしくもらわれて頂戴な」

「……ありがとう」

 理恵と菖子は微笑んでお礼を言い、切符を受け取った。

 自分も袂に入れておこうと手を伸ばしたとき、何か入っていることに気がついた。

 一度切符を机に置き、引っ張り出してみる。

 すると、細く折られたちいさな紙がたくさん出てきた。

「また付け文ぃ?」

 美佳が少し呆れたように言う。

 そう、菖子の袂には女学校に入学して以来、ほぼ毎日、五、六個入っている。

 付け文とは好いた相手へ自分の恋心を綴った手紙のことだ。すれ違ったときなどに、早業で忍ばせる。

「ええ……。読む?」

 菖子は苦笑して美佳に差し出した。

「他人宛の付け文なんて読みたかないわよ全く……。こんなにモテるのに、もったいないわ。宝の持ち腐れよ。あ、それに私、許嫁の方が決まったの」

 美佳の衝撃告白に菖子と理恵の動きが止まった。

「えぇ~~!?」

 二人が大声で叫ぶ。

 思わずでてしまった声に照れながら周りの客や店員にすみませんと謝り、ひそひそ声で話し始めた。

「どういうこと? いつの間にそんなことになってたの?」

「お相手は誰なんです? 学校辞めてしまうのですか?」

 菖子と理恵が机越しに詰め寄る。

「はいはい、じゃあ順番に話すわね。――相手は吉田自動車の長男、茂さん。二十七歳。その会社とはお父様が古くから取引してたの。子どもの頃から知ってる仲よ。この前私の家で晩餐会を開いてね、その時に申し込まれたわ。家族ぐるみの付き合いだったし、お父様もすぐに許してくださって。結婚は私の卒業を待ってするの」

 美佳は嬉しそうに話した。

 彼女は長岡貿易の次女だ。開国直後から異国と通商を交わしていて、爵位こそ無いものの、財産は一生かけても使い切れない程あるという噂もあるほどだ。

「…美佳ちゃんは、その茂さんのことが、好きなの?」

 理恵が問うた。

 美佳はすぐに「ええ!」と満面の笑みを浮かべる。

「幼い頃から、結婚するならこういう方がいいなーとは思っていたのよ。それで、大きくなるうちに、こういう人、じゃなくて、茂さんのことが好きなんだなって、気づいたの」

「そうなの。なら、心からお祝いするわ。おめでとう、美佳!」

 菖子も友人の目出度い話に笑顔を浮かべた。

「で、理恵はどうなの? 結婚じゃなくても、卒業した後とか」

 ここぞとばかりに美佳が詰め寄る。形勢逆転だ。

「ふえ!? あ、私はその…。まだ、お父様達には言っていないのだけれど…、教師に、なろうと思っているの」

「教師!?」

 今度は美佳が大声を上げた。

「うん。教えることが好きだし、何より、子どもが好きだから。結婚、も、考えたのだけれど、どうもぴんと来なくて。まあ、結婚は教師になってからでも遅くないかな、と」

 そう言って苦笑を浮かべたが、理恵の瞳は希望に燃えていた。

 理恵の家は古くから続く呉服屋だ。理恵は四人兄弟の末っ子で、職業婦人になるのも結婚するのも自由だと言われていたらしいが…。

「そっかあ…。みんな、卒業後のこととか、決まってるのね」

 菖子は笑顔のままぽつりとつぶやいた。

「じゃあ、菖子はどうするの?」

 美佳が問うた。

「……お父様は、私が柊二さんを待っているのを知っているから、結婚の話とかあまり出さないけど…。でもこの前、『卒業しても現れなかったら、結婚してもらう』って、言われたわ」

 菖子は少しうつむいた。綺麗な黒髪がはらりと顔にかかる。

 朝明乃家の一人娘。男爵位がさずけられたほどの江戸時代から続く実業家の一族だ。

 今でも商売を続けており、国の中枢にも関わっている。

 そんな家柄の娘が恋愛結婚など本当だったら許されることではないが、幼い頃から期待に応えてきた娘の最初で最後の我が儘だからと、涙ながらに訴えたのだ。

 夫とともに家を継ぎ、繁栄させなければならない。そんな重圧を、ほんの子どもだったころから感じていた菖子。それでも、好きな人とならばつらくはないと、思っていたのだけれど。


 卒業まで、あと半年足らず―――





 山の木々が艶やかに色づき、…落ち。

 花々は春を今か今かと待つように芽吹き始め。


 菖子達は、女学校を卒業した。



 菖子は卒業式を終えて帰宅した後、夫となる人物と初めて顔を合わせた。

 古暮夏央と名乗った青年は、菖子より六つ年上の二十三歳。商科大学を主席で卒業し、もう四年勤めている。商才や経営手腕を買われたらしい。

 普段は温厚な人柄だが、商売のこととなると豹変する、とは菖子の父の談だ。

 少し垂れた目に丸眼鏡をかけていて、紳士然とした雰囲気には好感が持てた。

 そして、卒業から一ヶ月後。


 菖子は、梅雨入り前に古暮青年と結婚した。



*****



 百貨店を出ると、しとしとと雨が降っていた。そういえば、もう水無月だものなあ、と思った。――五月雨、とは呼ばない。

 屋敷を出たときには空模様が怪しかったので、傘は持ってきてある。まあ、迎えを呼ぶという手もあるのだが。

 せっかく二人で外出したのだから、と夏央が歩いて帰ることを提案する。それに了承し、それぞれにあるのに二人で一本の傘をさして歩く。

 百貨店を出て最初の曲がり角で、菖子は前から来た何かにぶつかられた。

「…ッ」

 反動で後ろに倒れる。――はずだった。

 嗟咄に閉じていた目を開けると、目の前に白いシャツが映った。

「――申し訳ない…。ご無事ですか、お嬢さん」

 菖子は目を見開いた。――この、声は…………

「……柊二、さん?」

「―――菖子…?」

 名前を呼ばれ、恐る恐る顔を上げた。どこか呆然とした、それでいて喜色をにじませた表情が目に入る。

 それを見て菖子は、どこか泣きそうに笑った。




 柊二のことを義父から聞かされていたらしい夏央は、屋敷はすぐそこだから、と言って傘を一本置いて帰って行った。………けじめをつけてこい、ということなのだろうか。

 近くの入り組んだ路地にある喫茶店に入る。

 目立たないところにある店なのと、昼食もおやつの時間も過ぎた中途半端な時間なのもあってか、客は誰もいなかった。

 柊二がコーヒーとココア、それにパンケーキとサンデーを頼んだ。…三年前に二人でここを訪れたときと、同じもの。

「…菖子。遅くなって、すまなかった!」

 柊二が頭を下げた。

「ちょっ、おやめください!」

 がばりと頭を上げた柊二は、続けて言った。


「俺と、結婚してくれ」


 菖子の周りから音が消えた。ただ目が限界まで開いたまま、それ以上動くことが出来ない。

 どれくらい、そうしていただろうか。

 柊二が少し心配そうに声をかけてきて、意識が戻った。

「……………あ、の、柊二さん」

 どうにかして声を振り絞る。

 しっかり出したつもりだったが、その声は震えていた。

「……私のこと、好いていてくださったのですか」

 三回だけの逢瀬。愛してるという言葉は戯れであったと、そう思っていた。



*****



 ――三年前。

 まだ梅雨入り前の五月だというのに、ここ数日断続的に降り続いている雨のせいで、舗装されていない道はぐちゃぐちゃになっていた。

「門限も過ぎちゃった……。早く帰らないと」

 菖子はいつものように美佳と理恵の三人で遊んでいたのだが、話に花が咲きつい時間を忘れてしまった。

 門限の七時はとうに過ぎており、あたりは暗かったがさきほどまでいた店を急いで出てきたため、ランプも傘も持っていない。

 その中、少しでも早く帰らねばと着物の袂を雨よけに、顔の前に掲げて走っていると、

「きゃぁ!?」

 ズサーッと、段差に躓き、前のめりに転んでしまった。

 声を出してしまったせいで周りからの注目を浴びてしまい、恥ずかしくなり急いで立ち上がろうとする。

「ッ」

 が、足をくじいてしまったらしく、少しでも動かすと激痛が走る。

 さきほどまで視線をくれていた通行人もすでに忙しそうに早足で帰るだけで、うずくまったまま立てないでいる女学生に気をつかう者などいない。

 はあと息をつき、とりあえず蹴り飛ばされないようにと道の端に寄る。

 泥がついてしまう、と一瞬ためらったが、転んだときにすでに着物は汚れている。

 そのまま膝を抱えるようにして座り込み、帰りのことを考えた。

 ――屋敷の者に知らせてもらう? それが一番確実よね…。でも、そんなこと頼めるような方もいないし…

 づきづきとした痛みが増してきた。

 雨に濡れているのもあるだろうが、怪我のせいで熱が出たのかもしれない。

「――どうしました、お嬢さん」

 痛みをもてあましながらぼんやりとした頭で考えていると、頭上から声をかけられた。

 親切そうな青年だ。

 ん? ともう一度問うてきた青年に、屋敷に言づてを頼もうと

「あ、あのっ。足を、くじいてしまって。なので、その、屋敷に――」

「ああ、そうだったの」

 そう言うが早いか、青年は菖子を横抱きにした。

「!?」

 そのまますたすたと歩き出す。

「えっ。あ、あの!?」

「あ、説明も無しにごめんね。俺の家、すぐそこだからもうちょっと我慢して」

 我慢するのは怪我の痛みか、周囲からの目線か。それとも男性とこんなに密着している現状のことか。

 あたふたしていると青年の言ったとおりすぐに一軒家に着いた。

 菖子を抱えたままズボンのポケットから器用に鍵をとりだし、解錠する。

 引き戸を最初は手で、最後の方は足で開け、足で閉め、鍵をかけて玄関から向かって右の和室に降ろした。

 訳が分からずまだ呆然としている菖子をよそに、青年は「救急箱は~」と部屋の棚をがさごそとあさっている。

 やっと見つけたらしく、菖子の目の前に小箱を置いた。

「じゃあ足見せて。右? 左?」

「左…です」

 反射的に問いに答える。

 が、履きっぱなしだったブーツを脱がされ始めたところで菖子はやっと我に返った。

「あ、あの!」

「う~ん?」

 青年から気の抜けたような返事が返ってきたがかまわず

「私に何をする気ですか!? 助けて朝明乃家に取り入ろうという算段ですか!?」

「ん? 朝明乃? 何の話――」

「とぼけないでください。私が朝明乃菖子と知って助けたのでしょう!?」

 かまわずブーツの紐をほどいていた青年は唖然と菖子を見つめた。

「え、君……朝明乃のお嬢さんだったの!?」

 本気で驚いている様子の青年に、菖子の方こそびっくりした。

「し、知らないで助けてくださったのですかっ?」

「うん。全然知らなかった」

 青年はあっけらかんと言い放った。

「だって普通、朝明乃のお嬢さんが供も付けず夜に道路でうずくまってるとは思わないでしょう」

「………」

 普段はこんなことしないもの。

 と心の中で反論しつつも、しっかりと名乗らなければと口を開く。

「……朝明乃菖子です。今回はどうもありがとうございます」

 菖子のブーツの紐をほどいていた青年は、突然の自己紹介に手を止め目を瞬かせながらも、微笑みながら自分も

「柊二です。どうもー」

 と軽く返した。

 下の名前だけって何。

 菖子は内心いらっとしたが、これがこの青年の性格なのだろうと無理矢理納得した。手当てしてもらっている身で、自己紹介なんぞに文句は言えまい。

 話している時にブーツは脱がされ、足袋も脱がされた。白い素肌があらわになった――が、左足首が紫色に腫れ上がっていた。

「あっちゃー、痛いはずだよね、こりゃ。えーと、氷水で冷やした方が良いかな。と、その前に着替えかな」

 柊二は菖子を見下ろした。――泥だらけの袴と着物。

 さらに雨が降っていたのでかなり濡れていた。

 確か小さめのが一個だけあったはず…と箪笥をまさぐる。

「女物はないからこれで我慢してね」

 と、柊二が深緑色の長着と藍色の角帯を渡してくれた。

「俺は冷やす道具準備してくるから、その間に着替えておいてね、菖子ちゃん」

「菖子ちゃん!?」

 女学校でもちゃん付けなどでは呼ばれないのに!? と顔を驚きに染めた菖子に視線をくれながらも何も言わず襖を閉め、部屋を出て行った。

「この男の人…。一体なんなのよ」

 今まで会ったことのない人種だ。

 それどころか、朝明乃の娘らしく普通に生活していたら、一生縁のない部類の人だろう。

 ただ、日常で被り続けている仮面越しではなく、ただの〝菖子〟としていられた…ような気がした。

 その久しぶり、というよりは初めての感覚に、ちょっと恥ずかしくも嬉しく思いながら、用意してくれた長着に足をかばいつつ着替える。

 氷水を準備しているにしては遅いと、菖子が着替えを終えて待っていると、丁度柊二が桶を片手に部屋へ入ってきた。

「はい、このなかに足入れて」

 と目の前に桶を置く。

「それと、さっきお屋敷の人に電話してきたんだけど。すぐ迎えに行きますってさ」

「え。…あ、ありがとうございます」

 そんなことをしていたのかと驚きつつも、頭を下げた。

 そっと足を桶に入れた。――が。

「ぃっ痛~ぅ」

 患部が急激に冷やされ、更に激痛が走る。

 ずきずきどころか金槌で殴られているかのような痛みに耐えかね、しかし氷水の中で足を動かすのも痛く、為す術なく菖子が涙をぼろぼろとこぼしていると、眦がそっと温かい手で拭われた。

「大丈夫? そんなに痛かったかぁ…ごめん」

 じゃあ濡れた手ぬぐいで冷やすだけの方が良いかな。

 呟いて、柊二は菖子の足をゆっくりと桶から引き上げ、乾いた手ぬぐいで丁寧に拭う。

 自分の立てた膝に菖子の足を載せ、手ぬぐいを水に浸し、きゅっと絞る。

「手ぬぐい当てるよ。痛かったら言って」

「………ッ」

 痛みに思わず眉を寄せたが、そのまま耐える。

 柊二が手早く、けれどあまり痛まないようにという配慮が感じられる手つきで、患部に手ぬぐいを巻き付けた。

「…はい、終わり。よく我慢したね」

 頭をぽんぽんと撫でられた。

「!?」

 菖子は突然のことに驚いて身をすくめたが、柊二は気にしていないようだった。

「お屋敷の人、だいぶ心配してたよ。門限を破るなんて初めてだって」

「ああ…。〝物分かりの良いお嬢さま〟をやってるので」

「〝物分かりの良いお嬢さま〟…?」

 柊二のきょとんした声。

 これ以上話しては駄目だ、と頭の片隅で警告が聞こえたが、熱のために鈍くなった判断力のせいか、それともこの青年の親しみやすさのせいか、菖子は口を開いていた。

「そうですわ。朝明乃の一人娘ですもの。そうでもなきゃ、両親や周りの華族様達になんと言われるか」

「あー、朝明乃家は確か男爵位持ちだっけ」

「ええ。成り上がりと言われようが、華族には変わりありませんわ。私が家を継いで、もっと家を盛り上げることが使命。……なの、ですけど」

「? だけど?」

 菖子は瞳を伏せ、きゅっと唇を引き結んだ。

「……それには、先ず第一に、私が優秀でなければいけないでしょう?」

「んーまあ、そうだね」

 柊二はぽりぽりと頭を掻いて返事をする。

「……だ、だから、ちゃんと頑張っているのです。――以上!」

 流石にここで止めなければ、とさきほどまでどこかに行っていた理性が口を閉ざさせた。

 変なところで話を切ってしまったので柊二が変な勘ぐりでもしているのではないかと思い、菖子はそろりと顔を上げた。

 だが柊二は「ふーん、そっか。大変なんだねぇ」と言っただけだった。

 望んでいた、しかし予想外の返しに菖子が呆気にとられていると、柊二が不意に窓を見やった。

「あ、お迎え来たんじゃない? ちょっと見てくるよ」

 と言い、そのまま部屋を出て行った。


 柊二は迎えの車に菖子を乗せてやり見送ると、そのまま玄関先で彼女のことを思い返した。

 朝明乃菖子、か。

 噂で聞くのはおしとやかで、学業では一番で、しかも美人といったまさに理想のお嬢さま像だった。

 だが、柊二は声をかけたときのことを思い出して苦笑した。

(泥だらけで道の端っこに座り込んでて、助けたら助けたですごい剣幕だったなぁ…)

 でも、話を聞いて納得した。

 あれだけ力のある家の跡取りだ。親切という名の仮面をかぶった輩がまとわりついてきたのだろう。それに、そう演じなければならなかったのも分かる。さっきは、痛みで頭が働いてなかったのだろう。

 まあ、もう会うこともないだろうけど。

 自分と彼女とでは、住む世界が違いすぎる。

 柊二はもう一度彼女が去っていった方を見た。しばらく経ってから道路に背を向け、家の中へ入っていった。




*****




「――雨、降ってきてしまったので、泊めてください」

 柊二がしとしとと降る雨に、なんとはなしに耳を傾けていると、「ごめんください」という控えめな声があった。空耳かもしれないと思いつつも玄関を開けると、ずぶ濡れの菖子が立っていた。

「しょ、菖子ちゃん!? ちょ、何言って」

 柊二がおろおろしている間に菖子は玄関に腰掛け、ブーツを脱いでいた。

「今日、お父様いらっしゃらないの。使用人に羽を伸ばさせてあげるのも主の務めだわ。女学校の友人の家に泊まると言って出てきたの」

 そう言ってさも勝手知ったるかのようにこの前の部屋に入り、――くずおれるように座る。

 慌てて追いかけてきた柊二はその動作を見ていて、「……何か、あった?」と静かに声をかけた。

「………っ」

 菖子の目に涙がたまる。

 柊二が跪き、何も言わずに抱きしめてやると、菖子は必死に嗚咽をこらえて泣き始めた。

 ただただ声もなく咽び泣く菖子の小さな背を、さすってやっていた。



 ――雨雲に覆われ薄暗かった街が完全に暮れるまで間、菖子は一言も話さず、ずっと泣いていた。今は泣き疲れたのか、柊二の胸にもたれかかるようにして眠っている。

 雨に濡れた体は冷たくなっている。風邪を引く前にと、菖子を寝かせて手ぬぐいを取りに行こうとした柊二の袖が、くいと後ろに引かれた。――菖子がつかんでいるのだ。

 そっと外そうとするも、なかなか強く握られている。

 手ぬぐいを取りに行くのをあきらめ、着替えるつもりで床に放りだしてあった長着をかけてやる。

 隣に自分も横になり、菖子の目元にたまったままの涙をぬぐう。

 長い睫毛も水分を含んでいて、それが少し艶めかしくみえる。

 目の周りや頬はたくさん泣いたせいか赤く腫れていた。それをそっと指の背でなぞり、自分も目を閉じた。



 菖子はふっと目を覚ました。

 なんとなく体が重たい。目は腫れぼったい。

「……?」

 部屋の様子が自室と全く異なり、疑問に思って体を起こした。

 するりと長着が滑り落ちたのが、部屋の行灯の光に照らされて見えた。

 滑り落ちた先を見て――菖子は瞠目した。

 柊二が寝ていたのだ。

 そこで菖子は状況をやっと理解した。

(あー…っと。私、泊めてくださいとか言って上がり込んで、泣き出したんだっけ…?)

 それを柊二は文句も言わずにそのままにしてくれていたのか。

「………ごめんなさい…」

 菖子は寝ているのを承知で、柊二に謝った。

 さてこれからどうしようか、というより今は何時だ、と部屋を見渡すと、窓の外は真っ暗で人の気配はまるでなく、雨音が聞こえるだけだった。やってしまった…と唇をかんでいると、柊二が「うーん…」と声を上げて起きた。

「……あれ、菖子ちゃん、起きてたの」

「あ、はい……。ご迷惑を、おかけしました」

 菖子がどきりとしつつ小声で答えると、柊二はまだ半分寝ぼけたように返事をする。

「……いや。それより、体冷えてない? ずぶ濡れだったけど」

「大丈夫です。……それより、こんな時間までお邪魔してしまってすみませんでした。帰ります」

 そう言って立ち上がると、

「い、いやいやいや。こんな夜中に外歩かすわけにいかないよ」

 菖子の台詞にしっかり目が覚めたのか、柊二が慌てたように着物の袖をつかんでくる。

「でも…」

「いーからいーから。俺は隣ん家にでも行くから、泊まりな」

 そう言うが早いか、柊二は部屋を出て行こうとする。

 今度は菖子が慌てて袖をつかんだ。

「そ、そういうわけにはいきませんわ…! 人の家を占領しておいて、他所に行けだなんて。……柊二さんがかまわないのなら、一緒に寝るので充分ですから」

「え…いや、それはそれで危ないというか何というか」

 しかし箱入り娘の菖子にまさか意味を説明するわけにもいかず、逡巡しつつも柊二は頷いた。

「……じゃ、じゃあここで寝ます……。あ、お互い着替えが必要か。……はい」

 柊二はおもむろに箪笥をあさり菖子に黒の浴衣と帯を手渡すと、自分も浴衣を手にし、襖を開けた。

「俺、ここで着替えてるから、終わったら声かけて」

 そう言うと襖を閉めた。

 ……襖越しに聞こえる、衣擦れの音が、どことなく艶めかしく響く。

「あ、の…。着替え終わりました」

「んー…」

 菖子が声をかけると、柊二が中に入ってきて――動きが止まった。

 この前貸した長着より大きい浴衣を帯で調節してなんとか着ているが、襟元が崩れてしまっていた。黒い浴衣との対比で胸元まで見える白い肌が、よりいっそう艶めかしい。

「…………ッ。ごめん、やっぱり無理。廊下で寝る」

「え、ちょ…っ。わっ」

 出て行こうとする柊二を引き留めようと慌てて立つと、長い裾が足に絡まり、つまづいてしまった。

 前のめりに倒れる…っ。と覚悟して目をつぶると、すぐに柊二に抱き留められた。

「……あっ、ご、ごめんなさ――」

「――あのさぁ。今、自分がどんな格好してるか、ちゃんと分かってんの…?」

 耳元で吐息混じりに囁かれ、菖子は身をすくめた。

 しかしすぐにため息と共に体が離れる。

「誘ってる以外のナニモノでもないからね、それ。じゃあおやすみ」

 今度こそ出て行こうとする背中に、菖子は咄嗟に抱きついた。

「……私、柊二さんにだったら、なにされても良いです」

 柊二は瞠目した。

「………今日、学校で、成績考査の結果が発表されたんですけど。……私、主席だったんです」

「……」

「でも、先に返ってきた答案の点数を見せ合いっこしてたら、友達の方が、合計点が上だったんです」

「……」

「お父様は、華族女学校に通えっておっしゃったんですけど、無理言って志野森に入れてもらって。…その時に、莫大な寄付金を出したらしくて。それで、先生方が気を遣ってくれたらしいんです。いつもは、実力で主席だったんですけど」

「……菖子ちゃん」

「ああ、私って、〝華族の朝明乃家の跡取り娘〟としか、見られてないんだなあって思って。……使用人達も、お父様も、みんな――」

「菖子!」

 柊二が声を荒げ、菖子と向かい合った。

 だが菖子は柊二の目を見つめ言葉を続ける。

「……だから私、ちゃんと〝菖子〟をみてくれた柊二さんが、忘れられなくて。………好きです、柊二さん。あなたのことが好―――!」

 語尾は柊二の口内に消えた。

 貪るように、何度も口づけられる。

 いつの間にか、柊二の胸にすがりつく格好になっていた菖子は、足に力が入らなくなって、口づけを受けながらもくずおれるように膝をつく。

 そうなってやっとやめた柊二の目を見ると、理性がほどける寸前のような、男の目をしていた。

「……菖子ちゃん。こんなこと言われて、…そんな格好で、手ぇ出さないでいられる程、俺は人間としてできあがってないん――」

 菖子は自分から口づけた。ちゅ、という音とともにすぐ唇を離し、上目で柊二を見つめる。

「………このことで泣かれたって、知らないからな」

低い声でささやかれた。

さっきよりも深く、口づけられる。降ろした髪といっしょに頭をおさえられ、逃げられないようにされる。

 そのままゆっくりと床に寝かされ、柊二の襟元をつかんでいた右手を握りしめられるようにして顔の横に置かれた。

 そのまま覆い被さられるように逃げ場無く口づけをされる。

 腰帯が解かれる音をぼんやりと聞きながら、菖子は柊二の熱に身体を委ねた。



「―――ごめんください」

 菖子はあの雨の夜から一週間程経ったある晴れた日、学校帰りに再び柊二のもとを訪れた。

 玄関で声をかける。

「……はーい」

 かなり奥の方から声が返った。――女性の声だ。

 以前来たときには見かけなかったが、もしかしたら使用人がいたのかもしれない。どのように言って取り次いでもらおうかと思案しているうちに、扉が開いた。

「誰?」

 首をかしげる女性は十代半ばといったところか。肩より少し長い程度の黒髪を結わずに垂らし、薄紫色の小袖をまとっている。

 使用人らしからぬ言葉遣いに、もしかしたら柊二の妹なのかもしれないと思いつつも、菖子は当たり障りのないよう言った。

「あ…の。私、先日柊二さんにお世話になりました朝明乃菖子と申します。…柊二さんはご在宅でしょうか」

 どぎまぎしながら用件を伝えると、女性は「柊二さん? あぁ、東側の部屋の…」と呟き、菖子を手招いた。

「多分まだ帰ってないから、あたしの部屋で待ちなよ。来て」

「え!? あのっ」

 腕を取られ、引きずられるように玄関に入る。慌ててブーツを脱ぐ。

「…ふーん…。女学校のお嬢様ってのは、そんな面倒な靴を履いているのかい」

 しゃがんで紐を解いていた菖子の頭上から、あきれたような感心したような、よく分からない声が聞こえた。

「あ、ええ…。確かに履いたり脱いだりは手間がかかりますけど、動きやすいですよ。草履とかは走るとすぐ脱げてしまいますけど、ブーツはそうはなりませんし」

「へえ。ブーツって言うんだ。初めて見た」

 菖子はその言葉に目を瞬かせた。

「…あたし、何か変なことでも言った?」

 不審そうな顔でこちらを見る女性に、慌てて手を振る。

「いえっ。…私の周りは皆ブーツを履いているので」

 そういう方は珍しくて。

 微苦笑する菖子に、

「確かに、あたしたちは正反対そうだもんねぇ…。朝明乃って、あの大きな商社だろう? 男爵位もある」

「ええ。そうです。貴女は?」

「あたしは三森杏子。浅草の劇団で女優をやってるんだ」

「まあ、女優さん…! もしかしてあなた、柊二さんの妹さん?」

「は?」

 杏子が唖然とした顔をした。「……なんでそうなるのさ」

「え…だって、このお屋敷って、柊二さんのでしょう? そこから出てこられたから、そうかと思いまして」

「…………お屋敷?」

「ええ。この建物全部がそうなのでは?」

 違うのですか? と本気で首をかしげる菖子に、

「――ぶっ」

 あははははっ!

 目の前で杏子が堰を切ったように笑い出した。

「あはっ、あははははは!」

 腹を抱えて笑っている。

「ちょ、いきなりどうなさったんです!?」

 菖子がおろおろと杏子の顔をのぞき込むが、笑いは収まらない。

「ご、ごめんごめん…あはは! そっか、あんた華族様だったね?」

 杏子は笑い涙を拭きながら息を整える努力をしている。

「ええ…そうですけど」

 それがなにか、と首をかしげたままでいる菖子に、まだひーひーと笑いの余韻が残る杏子が教えた。

「この建物は〝長屋〟っていうんだよ。聞いたことない?」

「〝長屋〟…? いえ」

 床に笑いくずれていた杏子がよいしょと手を突いて立ち上がる。

「これは一つの建物に同じような部屋がいくつかあって、部屋ごとに別の人が住んでいるのさ。血の繋がりなんてない、赤の他人同士がね」

「え…!?」

 驚愕で見開かれた瞳がくるくると辺りを見渡す。

「赤の他人同士で…」

「そうさ。仕事や進学で上京してきた独り身や、まあたまには夫婦もいるね。屋敷を買う金がない奴らが住むのさ。まあ言うなりゃ貧乏人たちの集まりだね」

「そのような暮らしがあったとは…。知りませんでした」

 殊勝な顔で目を伏せる。

「あんたみたいなお嬢様には無縁の世界だからね」

 まあとりあえずあたしの部屋で待ちなよと、杏子が案内する。

「ここにはどれくらいの方が住んでいらっしゃるのですか?」

「あたしや柊二さんを入れて七人だね」

「そんなにいらっしゃるのですか」

「ここは少ない方じゃないかな。相部屋をする所もあると聞いたし」

「へぇ…」

 ま、うちらのような庶民には分からないことも多そうだし、お互い様だね。

 杏子の呟きに、菖子は知らずため息を吐いた。自分の知らない世界。

 不意にそう思って、少し切なくなった。……知らないこと。

 柊二さんのことも何も知らないな、とそっと息をこぼした。

「そうだ、柊二さんに置き手紙しておかなきゃだね」

 部屋に入るなり、杏子が書き物机に置いてあった藁半紙を文鎮の下から取り出す。

「あ、菖子さんが書いた方が良いね」

 こっち来て、と手招きされ、鉛筆と紙を差し出された。

 礼がしたくて来たという旨を書き、柊二の部屋の襖にはさんでおいた。



 夕焼けが街に赤い吐息をこぼし、日も沈もうかという頃。

「――それでね、美佳が飛んでいった恋文を拾おうと窓から外に出たら、丁度教頭先生にの顔に恋文が直撃して」

「教頭先生に!? さっき言ってた白髪のひっつめ髪の口うるさい人でしょ!?」

「そう! もうそれからは大騒ぎよ。『淑女が窓を跨ぎますか!』って怒られて、正座で三時間お説教されて、さらに恋文をみんなの前で朗読させられるわで――」

 少女達の軽やかな笑い声が漏れ聞こえる。

 柊二は部屋にあった置き手紙のとおり杏子を訪れようとやってきたが、あまりに楽しそうなので声をかけるべきか悩んだ。

 廊下を行ったり来たりして、しかしこれ以上遅くなったら菖子が家で叱られてしまうだろうと思い至り、声をかけた。

「――三森さん? こちらに朝明乃さんはいらっしゃいますか」

「ああ、柊二さん? どうぞ」

 くすくすと言う笑い声と共に、杏子がすぐに返事をする。

 柊二が襖を少し開ける。

「あ、柊二さん。お久しぶりです。突然お邪魔してしまってすみません」

 先ほどまでの笑いの余韻で緩んだ菖子の顔が向けられる。

「いや。それで、何の用?」

 つられて柊二も顔をほころばせる。

「あ……えっと――」

「わ、うそ! もうこんな時間!? これから舞台の裏方だった!」

 後ろで窓の外を見ていた杏子が声を上げた。

「ごめん、お二人さん! ちょっと出かける!」

「あ…うん。また来るわ。今日はありがとう、杏子」

「うん! 暇があったら劇場にも来て。裏方案内するから。じゃね、菖子」

 部屋の片隅に置いてあった風呂敷包みをガッとつかみ、玄関へ駆けて行った。

 それを見届けて、二人とも顔を見合わせた。

「……菖子の門限って、何時?」

「え? あ、七時です。……あと一時間半くらいですね」

 着物のたもとから取り出した懐中時計を見て言う。

「そっか。…じゃあ、ちょっと軽く外で食べない?」

「え?」

「お腹、減っちゃって」

 柊二のお腹がぐうぅと鳴った。


***


 二人は歩いて近くのカッフェーに入り、窓際の席に座る。

 渡されたメニューを見て、柊二はぶつぶつと呟き始めた。

「うーん…。パンケーキにしようかな。いや久しぶりにプティング…。でもサンデーも捨てがたい………」

 真剣にメニューとにらみ合っている様子を見て、菖子はくすりと笑った。

「ふふ…。甘いもの、お好きなんですね」

 顔を上げた柊二が照れくさそうに赤面した。

「……やっぱり変かな? 大の男が甘いものに目がないなんて」

「いいえ? いいと思います。女性は甘い物好きな方が多いし、一緒に食べてくれる殿方なんて貴重ですもの。私も甘いものには目がなくて」

 どのデザァトを食べようか二人で悩めるなんて、嬉しいです。

 心底幸せそうにはにかんでそう続けた菖子に目をしばたたかせながらも、ならいいけど、と小さい声で返した。

 結局パンケーキとサンデーに、コーヒーとココアも頼んだ。あとで二人で半分ずつ食べようと。



 二人は話を弾ませながら約束通り半分ずつ食べ、食後に少し冷めてしまったココアを飲んでいた。

「……あのさ、菖子」

「はい」

 柊二がカップを手で弄り、まだ少し残っているコーヒーがたゆたうのを見ながら言う。

「……俺、海軍に勤めてるんだけど、さ。…来週から欧州に異動になったんだ。……――だから…」

 え…?

 菖子はそう言いたいのに、声が喉の奥に張り付いたまま出てこなかった。

 どれくらい経ったのか。…どうにか声を絞り出した。

「…………だから、何ですか…?」

 柊二は菖子の問いには答えず、すっかり冷めてしまったコーヒーを渋い顔で飲み干すと、「出ようか」と席を立った。

 先に外のポーチに出ていた菖子のところへ、勘定を済ませた柊二がチリンとドアベルを鳴らして後ろ手に扉を閉めた。

「……雨、降ってるね」

 その声に顔を上げると、確かにしとしとと静かに雨が降っていた。さきほどの柊二の言葉をぼんやりと頭のなかで反芻していたので気づかなかったようだ。

「知ってる? 梅雨入り前、五月に降る雨は、『五月雨』って言うんだ」

「…五月雨?」

「うん。……そうだ、これ」

 ズボンのポケットから取り出されたのは、鴨の羽色に、碧色を足したような独特の色のリボンだった。

「後ろ、向いて」

 不意に真剣な声色で言われ、菖子は無意識のうちにくるりと背を向けていた。

 束髪崩しを束ねていた大きめの赤いリボンが取られた感触がした。

 と思うと、今度はしゅるりとなにかが巻き付けられる気配がする。

「……ん。できた」

 その声に、菖子は前を向いたまま頭に手をやりながら何をしたのかと問うた。

「さっき見せたリボン、結んだんだ。君によく似合うと思って。……ああ、やっぱり。君には、五月雨色が一番似合う」

 五月雨色? と聞き返そうと身体をひねると、その前に後ろから抱きすくめられた。

 突然のことに驚いて身をすくめていると、柊二が耳元に顔を寄せて呟いた。

 低い…いままで聴いたことのない、たくさんの感情が混ざったうねりが分かるような声だった。

「――…愛してる。また必ず会おう。………五月雨の、すぎた頃に」

 そう言うと、彼は着ていた外套を菖子に着せかけ、雨の降る暗い街へ消えて行った。

 菖子は呆然としながら、何も言えずにその後ろ姿を見送った。




*****





「――俺は本気だよ。……三年前も、今も」

 じゃなきゃ、手なんか出さない。

 そう最後に小さく付けられた言葉に、菖子はやるせなさで涙が出そうだった。

 潤んでしまった瞳と、訳もなく震える唇を隠すように、顔を背ける。

「菖子。早く帰ってこられなくて、すまない。向こうの中佐に気に入られてしまって、帰るに帰れなかったんだ。やっと一時的にだけど帰国を許してもらった。……だから」

 そこで言葉を切り、目線を戻した菖子に言った。

「――だから、俺と一緒に、欧州に来てください。……俺の、奥さんに、なってください」

 ガバッと柊二は頭を下げた。覚えているよりも少し日に焼けた髪を、菖子は呆然と見やる。

「……………」

「……菖、子…?」

返事の無いのを不安に思った柊二が、そろりと目線だけ上げた。

「――――」

 菖子はただ、目を開いて静かに泣いていた。

 テーブルに、手に、ぽたぽたと雫が落ちる。

「……ぁ…」

 声を出さず、着物の袂で次々とこぼれ落ちる涙を拭い、肩で息をするようにして泣いていた。

「柊二さん」

 まだ新たな涙が頬をつたる間にも、菖子はうつむき、必死に息を整える。

「…私を、連れて行ってくれますか」

「――え?」

 菖子の言葉に、困惑して視線を彷徨わせていた柊二の目が、上目がちに菖子に据えられた。

「あなたの隣に、ずっとずっと、一緒に居させてくれますか」

 菖子の言葉に、みるみるうちに喜色に染まる。

「――それって、」

「――私、結婚したんです。……二ヶ月前に」

 笑みを浮かべたままの顔で、柊二が「え、」と吐息をこぼす。

 菖子はようやく柊二の顔を見た。

 ぎこちない笑みを浮かべて。

「それでも、……連れて行ってくれますか。――お嫁さんに、してくれますか」

「――…………」

 無言のまま固まった柊二に、菖子はすこし寂しそうに笑って。

「……我が儘言って、ごめんなさい。私、もう帰らなく――」

「――いくな」

 席を立とうと腰を上げ、テーブルについた手を柊二ががっちりと掴んだ。

「いかないでくれ」

 柊二が下から真摯な目で見つめてくる。

「……俺が全部、守るから。――俺のところに、帰って来て欲しい」

 ああ、あの時と同じ声だ、と菖子は思った。最後にこの喫茶店で別れた時と同じ。

 真剣で、でもたくさんの感情が混ざった声。

 その記憶とともに、今度は熱い涙が頬を滴った。

 顔が歪む。綺麗な笑顔でいたいのに。

「……そう言ってくれるの、ずっと…三年間ずっと、待ってた……!」

 掴まれた腕を引かれ、強い力で抱きしめられた。

 柊二の手が、耳の上で一つにまとめた髪に触れる。

「遅くなって、ごめん」

 髪が解かれる感触がした。

 こめかみに触れた唇から直接頭に響いてくるかのように、全身に柊二の言葉が染み渡る。

「結婚しよう」



*****





「おはよう、菖子」

「…おはよう、柊二さん」

 ちゅっ、と額へのキスとともに朝の挨拶を受け取った菖子は、こちらに来てから毎朝のことながら、今日も頬を赤く染めるのだった。

 菖子はメイドとともに朝食の準備をしていたが、その手を休め、柊二のために紅茶を淹れようと戸棚を開け茶葉を選ぶ。

 二人は、柊二の異動先であるイギリスの南西部、デヴォン州に家を借り、暮らしていた。

 家からほど近い街・ダートマスにはイギリス海軍兵学校があり、柊二はそこで日々イギリス式の士官養成を習得している。

 菖子はというと、女学校で学んでいた英語や仏語を駆使し、近所の女性達とおしゃべりや縫い物に興じながらのびのびと生活を送っていた。

「だんだん日が昇るのが早くなってきたね」

 ダイニングテーブルにつき、新聞を読んでいた柊二がすでに明るくなっている窓に目をやり日本語で言う。

「そうですね。もうすぐ夏ですもの」

 菖子も茶葉とお湯を入れたティーポットとカップを持ち、テーブルに来る。

「雨の降る日も少なくなるでしょうね」

 テーブルにそっとティーセットを置き、ソファーに座る柊二の隣に座り、肩に頭をとんと預ける。

 柊二は垂らしたままの菖子の髪を梳いてやりながら囁くように言った。

「……『五月雨』の季節も、もう終わりだな」

「ええ」

 目を閉じ、万感のこもった吐息で返した菖子の、今度は唇にキスをした。


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五月雨の、すぎた頃に 雪羅 @sela

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