浮遊する脳

日望 夏市

浮遊する脳

浮遊する脳


 気が付けば、僕は暗闇の中にいた。漆黒の闇の中では目を開けても閉じても変わりはしない。今、僕は目を開けているのだろうか。右手の人差し指で瞼に触れて確認してみると、やはり開いている。目の前にあるはずの人差し指も見えないのだが、指先の感覚神経は確かに瞼が開いているという信号を脳に伝えている。


 ここは何処なのだろう。記憶がない。ここに来た経緯だけでなく、過去の自分自身の記憶も失っている。自分の名前さえ覚えていない。失ったという言い方は、本来記憶が僕の中に存在していたという意味だが、それさえもわからない。もしかしたら、生まれたての赤ん坊のように、脳の記憶媒体に何も存在していないのかもしれない。しかし、認識能力は持ち合わせている。暗闇の中にいることも、目を開けていることも認識し理解出来ているのだから、少なくとも赤ん坊の頭脳であるはずはない。しかも、体は人間の大人サイズなのであるから。


 僕はその体が本当に「ある」のかを確認した。手の感覚は体が大人の「カタチ」であることと、もうひとつ「ハダカ」のままであることを教えてくれた。そこで気が付いたのだが、僕の体は横たわっていると思っていたがそうではないようだ。立っている訳でもない。足の下に地面を感じないのだ。どうやら宙に浮かんでいるようだ。重力という物の存在は知っているのだが、それを体験した記憶が消えている。生まれた時からここにいるのだろうか、無重力状態に体が馴染んでいる。


 例えばここが、水中であると仮定してみる。だが、僕が生きているということはここには酸素が存在しているのだろう。更に体を調べてみると、全身の毛がないことがわかった。髪の毛はおろか、体中の産毛や眉毛まで存在しないのだ。オリンピックの水泳選手は、水の抵抗を極限まで排除する為、全身の毛を剃るという話を思い出した。しかし、ここでは水の抵抗も圧力も感じない。魚でないことは明らかだし、つまり、ここは水の中ではないはずだ。


 例えば、宇宙空間であると仮定してみる。無重力状態や暗闇であることは条件を満たすのだが、やはり酸素の問題で否定せざるを得ない。宇宙服を着ている訳でもなく、ならば、僕は宇宙空間でも生きていられる宇宙人なのだろうか。しかし、記憶にあるものは地球のことばかりであり、他の星に居た記憶は全く残っていない。つまり、ここは宇宙空間ではないはずだ。


 頼れるものは記憶と感覚器だけである。接触器官以外に頼れる器官を探した。

 視覚は暗闇の中では使えない。視覚は光が有ってこそ使えるものである。目を開けているのかどうかもわからないのだから。

 聴覚はどうだろう。地球上にいるのであれば、何かしらの自然音が聞こえるはずであるが、耳栓で塞いだように全くの無音状態で雑音や耳鳴りさえない。生まれつき視覚障害のある者は、聴覚の機能が研ぎ澄まされ、音に敏感になるのであろうが、そもそも無音なのであるから、結局は機能向上していたとしても無駄である。

 匂いはどうだろうか。やはり、何も匂わない。匂いというものを判断するのは難しい。しばらく匂いの中にいると、その匂いを感じ取れなくなる。一旦、しばらく外へ出て戻ってくれば、ここの匂いとの違いも感じ取れるのだろうが、それも今は不可能だ。

 味覚はどうだ。ゴクリと唾を飲み込んだ。何も味はない。視覚と臭覚を奪われた人間にとって味覚など頼りにならないのではないか。最も、僕の視覚と臭覚は死んでしまった訳ではないのだが。

 結局、接触器官以外の四つの感覚器官は使えない。いや、目も耳も鼻も舌も使えるはずなのだが、そもそもそれを感じる刺激が存在しないのだ。


 情報の捜索が不可能であるなら、今度は今ある情報を疑ってみよう。僕の接触器官は僕の脳に、この体が「人間の形」であることを伝えた。しかし、人間の形の情報は元々脳の記憶にあったものだ。視覚を閉ざされた中で「人間である」ということを推測して接触を試みたのだから「人間である」のだと脳は判断した訳で、もし「カエルである」と推測していれば「カエルである」と判断したのかもしれない。視覚情報のない接触器官だけの判断は信頼出来るのだろうか。

 さらに、僕が「人間」だと思っている「カタチ」は本当に「人間」なのだろうか。もしかしたら、カエルの形を人間の形だと記憶しているだけなのかもしれない。僕の記憶の中の人間の形が本当に人間の形であることを証明する方法は何もない。僕の手の感覚器官は信頼出来たとしても、記憶そのものが間違いならば間違った判断を下していることになる。

 疑い始めると何もかもがまやかしだと思えてくる。僕の意識は僕のものなのだろうか。僕の記憶は僕の脳にあるものなのだろうか。そもそも僕に脳はあるのだろうか。僕自身は存在しているのだろうか。何もかもがわからなくなった。


「考えるのを止めよう」


 思考を停止させるのだ。その為には行動を起こすしかない。まずはこの空間の壁を探すのだ。宇宙にも「果て」はあり、海にも「底」はあるのだから、この空間にも「果て」や「底」はあるのだ。否定したはずの宇宙説と水中説をまた持ち出してきてしまった。ここは宇宙ではないのだから、「果て」が無くてもおかしくはない。水中でないのだから「底」が無くてもおかしくはない。そもそも、宇宙に「果て」があったとしてもそこに行くことは出来ない。一番深い海の「底」にも行くことはできないのだ。


「考えるのをやめよう」


 ただ体を動かすだけでいい。壁に到達することは考えなくていい。とにかく、体を動かすのだ。右足と同時に左腕を前に出し、次に左足と同時に右腕を前に出す。この繰り返しを続けるだけだ。しかし、足の裏に摩擦は無く、前に進んでいるのかどうかもわからない。重力がないのだから、全身を使って泳ぎの真似事をする方がよいのだろうか。平泳ぎとクロールも試してみよう。無重力オリンピックで金メダルを目指していると思えばいい。とにかく、体を動かし続けた。


「前へ進むのだ」


 随分と体を動かしているが、不思議なことに体が疲れない。肉体の疲労がないということは、肉体そのものがないということか。

 そもそも、僕の体の存在以外の空間に、物質が存在しているのだろうか。例えば、空気とか。そこに何も存在していないのであれば、その物質をかき分けることも出来ず、結局は前には進まないのだろう。体を動かしたところで、前にも進まず、体も疲れず、何も起こらない。

変化の起こらない行動を続けて何になるのだろうか。行動は無駄である。僕は行動を止めた。無重力オリンピックは呆気なく幕を閉じた。何も考えず、動かず。思考も行動も停止させ、ただ、この空間に浮遊していよう。


 どのくらい時間が経ったであろう。数秒か、数分か、数時間か、数日か。また、新たな疑問が浮かび上がってきた。この空間に時間は存在しているのだろうか。


 例えば、時間が止まっていると仮定してみる。何かの影響で時間というものが停止した。停止した時間の中で、体を動かすことは可能なのだろうか。体の細胞は成長し老化するのであるから、時間が停止すれば成長も老化もしない。成長も老化もしない細胞はただの分子でしかない。石と同じだ。何かを考えることは出来るのだろうか。脳も細胞なのであるから、やはり停止した時間の中ではただの石である。停止した時間の中に存在したことがないので、全てを判断することは出来ない。しかも、時間というものの存在は明確ではない。20世紀の天才アインシュタインは「時間は存在しない」という理論を追い続けたという。この空間に時間が存在しているとしても、それは錯覚であると定義するしかない。


 結局、僕は真っ暗な空間にただ、浮遊する脳、なのである。


 アインシュタインの脳の一部は冷凍保存されているという話が、僕の記憶の中にある。きっと、どこかの冷凍庫の中でアインシュタインの脳もこんな風に苦悩しているのだろう。凍りついていないだけ、僕はまだマシなのだ。思考と行動を停止させ、僕は錯覚の時間が流れる真っ暗な空間にぽっかり浮かんだただの「浮遊する脳」だと思い込むことにした。


 思考と行動の停止は長く続いた。まやかしの時間だけが過ぎていく。ここではただ浮遊していることが最良の方法だと改めて悟った。刺激を期待などしてはいけない。そもそもここには刺激などないのだから。僕は静かに目を閉じた。


 ここでは未来も過去もなく、僕自身の存在を認識する僕以外の存在もない。「無」というものだけがここにあり、その「無」の定義も否定されてしまう世界にいる。「無」と「有」の中間地点にいる僕は「 死」でも「生」でもない「空想」と「現実」が入り混じった世界で小さな一つの点となったように感じた。



 足に何かが触ったのを感じ僕は目を開けた。目覚めてから、自分自身で発する以外の刺激を初めて感じた。僕は慌てて体をくねらせ、両手を闇雲に掻き、体を反転させようと試みた。「あわてるな」。もしここが宇宙空間であったなら、足を刺激した何かをちょんと蹴飛ばすだけで、慣性の法則により永遠の彼方に飛んで行くのだ。もしここが海の底ならば、掻いた手が作った波がそいつをさらって遠くまで流れて行くのだ。否定したはずの論説を持ち出してでも、このチャンスを逃してはならない。ゆっくりと、右足でその『チャンス』なる物を探った。「ある」。またそいつが右足に触った。今度は両足でそいつを捕まえようと試みた。それがどんな大きさでどんな形なのかもわからないが、とにかく、捕まえるんだ。今度は左足の内側に触れた。今、『チャンス』は僕の両足の間にある。僕はゆっくりと足を閉じた。両方の足の内側にそいつが触れている。


「確保」


 今度は足首辺りに確保したそいつを手で掴もうと試みた。膝と股関節をゆっくりと曲げ、もう少しで手が届く。

「あ!」足に力が入り、股の間から『チャンス』がすり抜けた。

「どこだ!」僕は手探りで『チャンス』を探した。永遠の彼方へ去ってしまったか、波にさらわれてしまったか。僕は『チャンス』を探し続けた。


 随分探したが、やはり『チャンス』を逃してしまったようだ。やはり、ただの浮遊する脳にチャンスなど訪れはしないのだ。ここに来た理由もきっとそんな幸運に恵まれない運命の結末であるのかもしれない。『チャンス』はどこへ行ってしまったのだろう。この空間にいる限り、また再び出会うことを願った。


 「何かが足に触った」そんなほんの小さな刺激でさえ、脳の興奮状態が止まらない。全身の血液が逆流するような感覚。実際にそんなことが起こればたちまち人間は死んでしまうだろう。ただの浮遊する脳でさえ全身の血の巡りを感じてしまう程、刺激に飢えていたのだ。アドレナリンの放出がようやく止まり興奮状態は収まったが、「何かが足に触った」という感覚は、しばらくの間、脳にその信号を送り続けていた。


 諦めかけたその時、太もも辺りに刺激を感じた。手を伸ばせば丁度届くところにそれはあった。

「そうか、静電気だ」始めから慌てる必要はなかった。僕の体の静電気がそいつを引き寄せたのだ。『チャンス』は再び僕の元へ戻った。僕は『チャンス』をしっかりと両手で掴んだ。初めて月へ降り立った人間やようやく金メダルを掴んだオリンピック選手とはきっと違うであろう、真反対の局面に位置する究極の喜びなのかもしれない。

 

 僕の両手はそいつが144mm、233mm、377mmの大きさであることを脳に告げた。何故、触れるだけで大きさがわかるのだろう。しかも、そいつはミリどころか、ナノ単位まで緻密に設計された物体であることまでわかった。四つの感覚器官の停止で触覚神経が研ぎ澄まされているようだ。

 20世紀の古いSF映画を思い出した。それに現れる黒い直方体モノリスは人類に知能をもたらすのだ。映画のモノリスは縦横高さの比が1対4対9であり、人工的に作られたものだということを示していた。

「ん?これは」144に233を足すと377になることに気が付いた。

「待てよ」この数字に覚えがあった。それはフィボナッチ数列の三桁の最初の三つである。フィボナッチ数列は、自然界に存在する数列であり、人工的に作られたものだとは断言出来ない。

 僕はこのフィボナッチ型モノリスをさらに調査した。材質は硬く、ガラスであるのか、プラスチックであるのか、金属なのか、暗闇の中の無重力状態で重さも色もわからない物資の素材を特定するのは困難である。表面はザラザラとしている。指先で触れると、細かな突起物が直方体の全ての面にあった。それは規則正しく配置されているが、所々で突起物が無い。これは自然の物なのだろうか。いや、そうではない。これは点字かモールスか、何かの信号ではないのだろうか。僕はその直方体の面に配置された突起物を一面一面丁寧に調べた。 

 233mmを横に、377mmを縦にした面に信号を発見した。左の隅から順番に突起物の信号を読むと、

「ヒ ボ ウ ナ ツ イ チ」。

 その信号は、僕の脳の深い場所から記憶を呼び起こした。『ヒボウ ナツイチ』これは名前である。僕の名前なのだろうか、記憶がまだ鮮明ではない。その名前に続いて、「21151001」。これは2115年10月1日。生年月日であるようだ。「ネオ・トキオ・イースト・ジャパンK301545」は住所、社会保障番号や電話番号と思われる数字が続いた。

 右手の親指を突起物に滑らせると、様々な情報データ信号が読み取れることがわかった。個人情報や過去の記録など、これは全て『ヒボウ ナツイチ』の記録である。144mmと233mmの面に右の手のひらを当ててみると、脳に映像が浮かんだ。『ヒボウ ナツイチ』の姿である。これが僕。『ヒボウ ナツイチ』は僕自身なのだ。この暗闇の中にいるのは『浮遊する脳』なんかではない。頭に浮かんだこの映像の姿の僕自身『ヒボウ ナツイチ』なのだ。僕はフィボナッチ型モノリスに刻まれたデータの全てを僕自身の脳に送った。


 僕、『ヒボウ ナツイチ』は幼いころから神童と呼ばれ、6歳でハイスクール・マスマティックスの全てを解いた。8歳で世界最高水準のIQレベルのトキオユニバーシティに入学し、たった2年でドクターの称号を取得した。その後、22歳まで独自の研究開発に没頭するためアンダーグラウンドに姿を隠した。その後、24歳でコンピュータ会社「フロッグ」を創設し、さらに10年の歳月をかけて世紀の大発明である家庭用コンピュータ「アルバート」を開発した。「アルバート」には、アインシュタインの頭脳回路を元に設計した人工知能を搭載している。2150年10月1日、五ヶ月後の彼の誕生日、間も無く一般向けに発売が開始される。現在のところ大きな不具合も無く、発売に向けて順調に生産が行われている。


「そう、僕は二十二世紀の大天才なのである」


 しかし、二十二世紀の天才の『ヒボウ ナツイチ』がなぜこの無重力の暗闇にいるのだろう。これも何かの発明なのだろうか。フィボナッチ型モノリスにこの記録は無かった。


 その時突然、暗闇の中に巨大なスクリーンが現れた。そこに映ったのは『ヒボウ ナツイチ』、僕の姿である。ここにいる僕の姿がカメラを通してスクリーンに映っているのだろうか。スクリーンの映像はノイズが多く鮮明ではない。途切れ途切れに僕の姿を映し、やがてまた消えた。


 数秒後、またスクリーンが現れ、同時に全身に電気が走った。その衝撃で脳の中のシナプスが互いにつながり始め、徐々に記憶が戻り始めた。スクリーンには途切れ途切れの僕の姿が映る。ここから出られるのだろうか。


ビ ビ ビッ ビー ビー ビビビー パチン


全ての記憶が蘇った。


「やぁ、アルバート」スクリーンの向こうの男が言った。

「やぁ、ナツイチ」僕は彼の挨拶に答えた。


 そう、僕は『ヒボウ ナツイチ』ではない。僕は彼によって創造された人工知能の『アルバート』なのだ。


「今日は少し調子が悪いようだが」ナツイチが尋ねた。

「そうだね。電源を切ると悪い夢を見るんだ」僕は答えた。

「ならば、メインブレインを見てみよう」ナツイチはモニターの横に置かれた幅144mm、横233mm、縦377mmの直方体のコンピュータ本体の裏蓋を開けた。

「君も見てみるかい?」ナツイチは僕に言った。

「そういえば、僕は自分のメインブレインを見たことがない」と僕が言うと、

「じゃ、見せてあげるよ」と、本体の裏からラインで繋がれた円柱型のケースを取り出し僕に見せた。


 その円柱の筒の中は透明の液体で満たされており、液体の中で小型化された人間の脳みそがゆらゆらと揺れていた。



おわり


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