蟹になりたかった男②

 ――レ領内インム前線基地にて

 多数の銃弾が飛び交う中、木吉は前衛の制圧を試みる。塹壕に身を隠すインム兵と違ってこちらは裸に等しい。防弾着だって気休め程度で当てにならないだろう。

 瞬きする間に敵の銃弾が木吉のこめかみをかすった。あとコンマ1へリントン(1へリントン=44㎝)でもズレていたら眉間を撃ち抜かれていたに違いない。

「いかんいかんいかん……危ない危ない危ない……」

 木吉は更に姿勢を低くした。このとき、全身に言い様のない奇妙な感覚が走った。脳にアドレナリンが分泌され呼吸が速くなる。過剰に分泌された神経伝達物質が脳の未使用域を侵す。

 学の無い木吉には今自分の体内て起こっている化学反応など知ったことはない。直感的に今の自分は死なないような気がしたのみだ。その証拠に彼はこの状況にあっても落ち着いていられた。視界が広がり遠方の敵の微かな呼吸までもが手に取るように分かった。連続する火花が途絶える。木吉は機銃手が装弾する一瞬の隙を見逃さなかった。空かさず小銃を構えて機銃手を狙い撃つ。

 引き金を引くとともに殺意が放たれる。

「救いはないんですが」

 エネミーダウン――名も知らぬインム兵は命の鼓動を止めた。塵に過ぎない人は塵に返る。

「救いはないんですか」

 信心深い木吉は引き金を引く前と引いた後に短い祈りを捧げる。今殺した敵も出会う場所が違えば良き友となっていたかもしれないからだ。だが、あらゆる可能性を排除し結果だけを残したものが今ここにある現実だ。そう割り切るためにも塵に過ぎぬ弱きヒトは超自然的な絶対者に救いの手を求める。要は独り善がりの自己満足に過ぎないのだ。

 敵の火器が一つ減ったとは言え、眼前の脅威は以前健在である。味方の増援が来るまで凌ぐしかない。制圧のための火力不足が否めない。

 木吉は今の程よい緊張感を保ったまま前進する。

 ――


「蟹になりたいね……蟹になりたいね……」

 鎌田吾作は今にも潰れそうなノミの心臓を押さえながら、何度もそう呟いた。視線の先には蜂の巣にされた無残な死体が一つ。鎌田は決して目を逸らさなかった。自分はああはならないと言い聞かせるために……。

 ただずっと物陰に隠れていても安全とは言えない。一所にとどまれば砲弾の破片の餌食となるだろう。連続する機関銃の発砲音が止むと空かさず、敵影に小銃を掃射する。

 勿論、牽制である。この距離から命中することなど期待していない。だが時間は稼げた。その隙に前進し木陰に身を隠す。

 その直後に、先程まで鎌田いた点に一発の砲弾が着地した。破片が飛散し、周囲の草花が揺れる。

 間一髪だった。移動が遅れていたら直撃していただろう。一先ずの幸運に感謝し彼はお決まりの御題目を口ずさむ。

「蟹になりたいね……蟹になりたいね……」

 新日暮里では古くから蟹は神の使いとして崇められた。だが、鎌田は蟹に信心よりも偏質的な執着のようなものを抱いていた。

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情報将校―田所浩二― @VITA_SEXUALIS

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