最後に木嶋と会ったとき、そして先ほど電話で言葉をかわしたときも、彼は常に彼自身が勤める企業への愚痴をこぼしていた。やれ奴隷だの、やれ泥棒だのと。そんな彼のことだから、社内での扱いは想像に難くない。わたしもあの会社の面接はよく覚えていた。なにせ、わたしが受けた唯一の面接だったのだから。

 ふんぞり返って座る偉そうな男たち。彼らは、さも自分が神であるかのような態度でわたしを見つめていた。まだ社会にも出ていない、イノセンスな学生の運命をどうとでもできるのだ。機会仕掛けの神デウス・エクス・マキナにでもなったつもりなんだろう。

 しかし、彼らが神であるはずはなく、同じ人間というよりほかにない。彼らも包丁で刺せば死ぬし、銃で撃てば脳梁を弾き飛ばして絶命する。バットで殴れば頭蓋骨が変形するし、首を絞めれば顔を青くして嘔吐する。そして爆発物に巻き込めば、焼けただれた人脂が完成する……彼らも、人と言うよりほかにない。

 もしも彼らを神だと思い込むことができたなら、楽なものだろう。天災がそうであるように、抗いがたい災禍であると言うならば、自らを変えて防衛策をとるしかないはずだ。しかし、相手が同じ人間となれば話は違う。同格の相手で、見かけ上は神人の関係なれど、その根本は一個の生命体であるというのみ。相手は可変の存在だ。木嶋は、それに気づいている。だからテロなどという無謀なことを言うし、あのような板挟みの苦渋を舐めさせられているのだ。そしてわたしという近しい人間を、それも年下の人間を見つけ、やれ首取ったりというふうな気分になっている。自分の素の話ができる後輩ができたとでも思っているのだろう。

 それは合っているし、間違っている。


 日曜の昼過ぎということもあってか、木嶋は私服姿で現れた。カーキのシャツにジーンズという秋らしい服装だった。

 他方わたしはと言えば、洗濯のために着るものがなく、仕方なくスラックスの上にTシャツ、そして長らく着ていなかったスーツの上着を羽織った。一見すれば、ビジネス・カジュアルとでも言うような格好だった。

 渋谷のファミレス。案内されたのは、前と同じ喫煙席。相変わらず木嶋はタバコを吸わなかったが、代わりにガムを噛むくせがついたようだった。クチャクチャとガムを噛む音と、わたしが吐き出した紫煙。どちらが迷惑なものだろうか。

 ドリンクバーにケーキという最低限のメニューを頼むと、わたしたちは本題に移った。

「ブツはそろってる。あとは実行するだけだ」

「なら、実行すればいい」

 わたしはガトーショコラを口へ運び、そしてハイライトを吸った。

「前にも言っただろう。君、自殺を考えたことは?」

「何度も」

「成功したことは?」

「一度も」

「そういうことだ。人間、追いつめられると死を救済であると考えるクセがある。動物の中にも死こそが現状選択しうる最良の策であると考え、自害するものもいるらしいが……。それにしたって、人間は自害というものを安易に考えすぎる。生物とは、本来ならば生と種の繁栄を目的として生きるはずだ。食欲、睡眠欲、性欲といった三大欲求は、それぞれその目的を達するためにプログラムされた本能であると言っていい。しかし今の人間といえば、寝る間も惜しんで社会の為に身を酷使することを選択し、所得の低さから子を産むことを拒否し、あまつさえ食事を惜しむことまで考え始めた。これが限界以上のストレス状況と言わずして、なにをストレスという? この状況下で死を選ばないほうがおかしい。本来、生のために生きるはずの人間は、生ではなく、精神であるとか達成感であるとか、そういう不可視の、後付けの、誰が言い出したかもわからない価値観のために動いている。自らの本能をすべてすり減らし、死への緩やかな階段を進みながらだ。

 だから凄絶なる死とは、現代において喜ばれるべきアイロニーである。そう僕は思う。しかしながら、それを実行しようとしたとき訪れるのは、何だと思う?」

「根源的な生への欲求」

「そうだ。結局、人はプログラムされた本能のとおりにしか生きれないんだ。死ぬ方がマシであると脳が判断を下したとしても、実行しようとしたときに本能が邪魔をするんだ。まさしく板挟みだよ。

 知ってるか? 線路での飛び込み自殺を図る者は、年間で六百件以上だ。つまり、毎日一人はどこかで電車に引きちぎられ、死んでいるんだ。そんな自殺大国だ。電車は天使のように思えるだろう? でも違うんだ。ひき殺されるとき、衝突した一瞬ですべてが消えるわけではない。正確には、三両目に下敷きにされるぐらいまでは辛うじて意識があるんだ。

 飛び降りも一緒さ。激突する前に意識が飛ぶというが、誰がそれを証明した? 死人に口無しだ。……死の恐怖が、現世の恐怖を凌駕しようとする。そんなはずないと思っても、毎回、毎回……。そうしていつか、体がもたなくなって、でもまだ生きれると思って。生への渇望と、死への恐怖の板挟みのなかで、あるときバッタリと倒れるんだ。僕の先輩がそうだった。ある夏の日、電車で倒れ、彼はそのまま脳に後遺症が残り、顔面麻痺になった。原因は過労と熱中症だったが、会社は多少の保険金を払っただけ。のうのうと生きている……。そんな惨めな死を、君は求めるか? だったら僕は、凄絶な死を遂げたい。でも……」

「言い訳がましい」

 わたしは一言言って、二本目のハイライトに手を付けた。まるでわたしが教師で、彼が生徒のようだった。ウンザリだ。彼はわたしを同志か何かと勘違いしている。

「知っているか。この国の若者の死因でもっとも多いのは、自殺だと」

「このあいだニュースになっていたけれど」

「ああ。君はこの原因をなんだと思う?」

「人生というものを若者は悲観視しすぎるきらいがある。それは、自分の人生のなかで成功といった体験や、上向きになった世の中を見たことがないから。……かつてこの国にも学生運動だとか、そういうのがあった。それで、世界は変わると信じている人がいた。でも、いまは誰もそんなものを信じていない。武器は奪われ、大儀もなくなった」

 わたしは煙を吸い、吐き、そして窓から外を見た。ちょうど大通りを街宣車が通っている。戦争法案反対だのなんだのと言葉を掲げて。老人がそれについてまわり、紙屑を配っている。しかし耳にイヤホンをさした若者たちは、迷惑そうな顔をして横を通り過ぎていくだけだ。彼らの耳に届くのは、世界の変革を求める老人のうめきではない。そんなもの、彼らにとってはミイラの息継ぎ程度にしか思えないのだろう。わたしだってそうだ。

 わたしたちは、つねに世の中の悪い部分ばかりを見せられて育ってきた。そして、それに声をあげたところで、変わりやしないという現実を教え込まれてきた。そんなわたしたちにできるのは、耳あたりのいい歌を聴くことだけだ。ピアノマンよ歌ってくれ、と。

「未成熟な人間の特長は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに対して成熟した人間の特徴は、理想のための卑小な生を選ぼうとする点にある。」

「それ、誰の言葉だ?」

「三島由紀夫」


 それからわたしたちは半時間ほど言葉を交わした。そして彼は、とうとう決意を固めたようだった。

「……わかった、やろう」

 冷めたコーヒーを飲み、彼は深く息をついた。

「実は、実行日は決めてあるんだ。九月十一日。皮肉だろう? その日、僕は渋谷のど真ん中で何十人、何百人という一般人を人質にして、この世界に交渉を図る」

「そう。せいぜい、公安に目を付けられないようにしてくださいね」

「そうだな。……でも、きっとその前に死ぬから大丈夫だ。君の言うところの、高貴な死をね」

 彼はそう言って、わたしに微笑みかけた。

 しかしそのとき、私は全身に悪寒を覚えた。というのも、彼が「高貴な死」という言葉を口にすることを、なぜだかわたしの体が拒絶したからだ。彼はそうすることを、わたしは本能的に嫌っているようだった。

 しかしわたしは平静を装い、軽い言葉を交わして、木嶋と別れた。九月十一日の朝、始発で渋谷に集まり、通勤ラッシュの人混みが来る前にもう一度会おうという、そういう約束をして。


     *


 私には日記を付けるという習慣がある。いつから始めたかはもう覚えていないけれど――というのも、初めて付けた日記はどこかにいってしまった――そんな日記を、わたしは最近自分の文章でまとめている。いわゆる日記文学とでも言うべきか。いや、それにしてはあまりにも俗っぽく、怠惰で、どうしようもない内容である。

 そうだ。いまあなたが目にしているこれが、わたしの日記だ。そして、遺書でもある。

 最近になって、わたしは自分の願望について改めて考えることができた。卒論や就職活動からも離れ、一人なけなしの金を片手に、近所のパブに入ったときのことだ。チェーン店で、まだ時間は早く、ハッピーアワーが続いていた。わたしは女一人で奥の喫煙席に陣取ると、安いジントニックを注文し、それだけで半時間ほどつぶしていた。店内に流れる音楽と、タバコに頼りながら。ただひたすら時間をつぶしていた。

 そしてそんなとき、わたしはふと考えたのだ。体制に反抗する姿勢をとり続けるというのが、わたしにとっての願望だった。そして、それが作家という形で表出したのがわたしだった。ロックスターだとか、映画監督だとか、活動家とかではなく。おそらくわたしは、のだと気づいた。

 そして、その文章で誰を殺したいのか。わたしは二杯目にハイネケンを買って、またタバコを吸いながら考えた。そして、一つの結論に至った。

 それはつまり、わたしが殺したいのは、であるということだった。わたしが死にたくなるような、この上なくわたしが納得できるような、そんな文章をわたしが書くこと。わたしが安心して死ねるような遺書を、わたし自身が用意するということだった。それがわたしにとっての、文章による殺害。すなわち夢だった。

 そしてハイネケンの残りを喉へそそぎ込んだとき、わたしは上着のポケットからメモ帳を取り出した。それがわたしの日記であり、わたしの文学だった。そこには、サリンジャーの言葉がいくつも引用されていた。

 それを見たとき、わたしはひどい吐き気を催した。というのも、しょせんわたしはサリンジャーのフォロワーでしかないと思ってしまったからだ。そのとたん、わたしはまだ死ねないと思ったし、死ぬにはもう少し良い文章が必要だと思った。

 メモ帳には、最後のページにW・シュテーケルの言葉があった。かの有名な"The mark of the immature man is――"の一節である。

 わたしは内ポケットから万年筆を取り出すと、横一文字に線を引いた。自分の中から、サリンジャーやホールデンをかき消すように。そして、その隣に自分なりの一文を書き付けることにした。

 それを書いたとき、きっとわたしは死ぬ覚悟がつくのだろうと信じて。


 それが九月十日のことで、木嶋が自殺すると予告した日の前日だった。

 しかし、わたしには一つの確信があった。木嶋は、どうせ自殺できないだろうという確信が。そして、それは間違っていなかった。

 始発で渋谷に向かい、五時頃にはハチ公前で彼と落ち合った。彼は作業着姿で、右手では大きめのスーツケースを引きずっていた。

「始めようか」

 わたしは黙ってうなずき、彼の準備する様子を見ていた。といっても、準備らしい準備は無かった。無線の起爆装置があり、それを押せばスーツケースの中身が起爆するという仕組みだった。中には彼が調達したという爆薬、そして釘などの鉄片があり、それらが炸裂するという仕組みだった。

 ラッシュが始まり、人が集まり始めた。学生に、社会人。人の波が動き出す。電車に乗り込む人並み。その大混雑に目をやり、木嶋はスーツケースを引こうとした。しかし、とたんに指先は滑り落ちた。手がふるえていた。

「……おかしいな。僕はこの日のためにずっと準備してきたというのに。行動をしようと思って、自分はネットで不平不満を言う連中とは違うと思って生きてきたのに……おかしいな、どうしてだ」

 彼の体は、異様な動きを続けていた。手は震え、スーツケースを支えるので精一杯。足は雑踏の中に向かおうとしていたけれど、地団駄を踏むだけで終わっていた。

 わたしは深いため息をついた。

「貸して」

「な、なんだって……?」

「そのスーツケースを、わたしに」

「どうして……?」

「言ったはず。根源的生への欲求が選択を鈍らせる。だから、一人じゃできない。でも、二人ならできるかもしれない。……わたしがこれを運ぶ。あなたはどうする? 死ぬ覚悟、ある?」

 彼はなにも答えなかった。ただ、顔をうつむけるばかりだった。

 わたしは彼からスーツケースと起爆装置をふんだくると、変わりに一冊のノートを渡した。それは、わたしに半生を描いた小説だった。

「このあいだの答え、まだ言ってなかったですね」

「答えって……?」

「どうして若者は自害を選ぶのかという話です。いまなら、答えられる。

 否定する生経験が少ないからですよ。老人は、それまで何十年という生の経験がある。何十年という『生きてきた』実績がある。自殺とは、それら自分の残した成果を殺すことにある。自分自身を否定することになる。だから、生経験が多ければ多いほど、否定するには膨大な否定材料が必要になる。まさしく、悪魔の証明のように。あなたには四十年近い生があるから、一瞬の死のためにその四十年を否定しなければいけない。でも、わたしはその半分でいい。たかだか二十年そこらの反証だけで、わたしは自殺を正当化できる……。そのノートは、その証明」

「……いいのか?」

「いいから、あなたはそこで見ていればいい。どうせ世の中は、あなたみたいな男一人が死んだだけでは変わらない」

「君みたいな若い女が死ねば変わるとでも?」

「少なくともマスメディアはそういった凄絶な死を求めている。でも、わたしのそれは違う。わたしは、自分の夢を叶えに行くんだから」

 言って、わたしは自分の小説を彼に託し、一人雑踏の中に踏み出した。起爆装置を握る手は、不思議と穏やかだった。

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少女自縛 機乃遙 @jehuty1120

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