最終話 いつか


 あの男を、知っているか。

 場末のクラブで誰かがいった。

 いったい誰のことだ?

 問われた男は、不機嫌に問い返す。

 問うた男は、興奮冷めやらぬ様子で囁く。


 誰かに聴きとがめられるのを恐れて。

 しかし、隠しようもない賛美を伝えたくて。

――決まっているさ、白痴のダンテだよ。


 男は嗤う。

 東の果てからやってきた黄色いサルか。

 名前だけでもこの国に染まろうとしたのか、ダンテなどと名乗る滑稽な恥知らず!


 西の国では年齢不相応に幼くみえる顔立ちを、一人だけではない。たまたま男の罵りを聴いた何人かも嘲笑う。

 だが、嗤えない者どももいた。ニコリともせず、息をひそめ、酒をなめる。 


 たった一人で安酒をあおっていた若人がいた。

 足元には楽器のケース。しばらく触れられていないのか、欲求不満そうにケースの黒がかすんでいる。

 彼は嗤う男どもを睨み、吐き捨てた。


――わかっていない。あの悪魔に、肌などなんの意味もないんだ。


 悪魔は人を脅かさない。

 たぶらかして堕落させ、勝手に恐怖させるのだ。

 油断すれば、あっという間に戻りたくても戻れない場所に連れていかれて、味わいたくもない快楽にやみつきにされてしまう。


 若人はダンテを恐れていた。白痴のダンテ。悪魔のギタリスト。

 かわいそうな狂った演奏家。

 侮蔑か、憧れか、恐怖か、期待か。

 今日も彼の演奏するクラブに集った彼らは、それぞれ別の感情を抱え、浮足立っている。

 そんななかに、ひとり、いまだダンテの演奏を知らぬものがいた。


「Dante The Idiot?」


 この家の子どもなのか、場に相応しくない少年が首をかしげた。

 奇妙な名前だ。

 しかも、馬鹿にするものと恐れるものとで、その名に対する反応がまるで違う。

 だがこのクラブに通う誰もが知っている。

 こっそり裏に戻って父にきいても、首を振った。

 ただ、その男が安い金で演奏を引き受けて以来、売り上げが伸びたのは事実だ。

  

 どうせ黄色いサル。たいしたこともできないのだから、ちゃんとした腕の演奏家が来るまでの場繋ぎだ。

 そういってばかにしていた父は、いつのまにかいなくなっていた。

 まるで彼を恐れるように、ひどく寡黙になってしまった。

 そして手伝いをさせていた少年の手伝いを控えさせていた。

 何もしないでよいのは楽だったが、隠されては気になるのが好奇心。


 表向きは親孝行な息子の顔をして、何度も手伝わせてくれと懇願したかいがあった。

 今日はどうにも客の入りが多そうだからと、ようやく父から手伝いの要請が入ったのである。

 噂を聞いてお忍びでやってきた変わり者の金持ちが、近々彼を引き抜いてしまうのも理由だった。

 だが、以前の気楽なクラブらしからぬ空気に、少年はすっかりあてられていた。


――悪魔のギタリスト。なにもわからぬばかなやつ。いったいどんな人なんだろう。


 きっと大きくて、ごつごつとして。

 黒目が点みたいで、ぶるぶると震えがくるような三白眼だ。

 筋骨隆々の大男で、腕は丸太なんだ。

 怖いものみたさで胸をときめかせていた少年は、突如響いた拍手とブーイングに飛び上がる。


「ばかなダンテ!」

「さるが演奏なんてできるのか、弦の区別なんかつくのかよ!」


 きくに堪えない汚い言葉に、少年は顔をしかめた。

 酔っぱらいの扱いづらさはさんざん経験している。だが、この日は初めて異国人に対する醜さを直視した。

 自分は罵倒の対象ではないのに、ひどく気分が害される。

 しかし、悲しきかな。

 残酷な好奇心はかえって燃え上がって、舞台に目が向く。

 そして拍子抜けした。


――随分な優男だ。


 体つきは多少鍛えた若者なみで、体躯はこの国の青年より一回り小さい。

 口元にはうっすら笑みが浮かんで、余裕に満ちていた。

 薄めの唇は青年というより少年で、成年には見えない。

 あれが悪魔? なんでそんなへんな名前で呼ばれているんだろう。少年の心にも、大人と同じものが芽生えかけた。


 ダンテは笑った。

 舞台上で、何も言わず。椅子に座って、ギターを抱え、これからの演奏が楽しみで仕方がない様子で、口角を吊り上げる。


 演奏が始まった。

 軽快なメロディライン。

 はじけるビールの泡のように軽く、ちょっぴり軽い。

 ぱちぱちとはじけて、のどを滑り落ち、疲れた脳を叩く。

 タバコの煙にいぶされた木の壁に、ギターの音色が反響した。

 喧騒が静まっていく。

 嫌悪の感情が薄まっていく。

 ビールとギターの音色で負の酒を割る。

 魔法のように、荒れた感情を滑らかに。男たちは操られたかのような感情の変化に、次々戸惑いの表情を浮かべた。


 酒の味を邪魔しない。ただ、モノを楽しむ。

 いまひととき、鬱蒼とした現実から隔離されて、ほの暗いライトの下で談笑する時間を、音楽は促した。


 つまんないことに感情と時間を使うより、もっと楽しく生きようよ。

 世の中ってもっと軽くて楽しいもんだぜ。


 誰もが抱えているだろう、暗い気持ちを上書きしてしまうように、演奏が満ちる。

 頭を。肺を。心臓を。ココロを。

 

 やがて客たちに穏やかな表情が広がって、演奏者から目をそらし、つまみと酒を楽しみ始めた。

 負の感情を抱え続けるが困難になったから、もうやめざるをえない。そんなすっきりした諦めと、今を楽しみ、明日を望むさわやかな笑顔で。

 

 客たちの眦に浮かぶしわに、一連を目撃していた少年は動揺する。

 

 少年は、自分のなかに生まれかけたあざけりの概念が、雪解けの如く溶けていくのを感じた。


――どうやったんだろう、彼は魔法使いなのか?


 少年は魔法使いの技をみようと、彼の指に目を向けた。

 まるで重みがないかのように、指先は白い弦をかき鳴らす。

 ぴょんと跳ねて残像を残す白い糸が、少年には、楽器が喜んでいるかのように見えた。

 店に満ちていた雰囲気も、まるで真昼に草原で遊んでいるときみたいに軽い。

 身体にかかる重力が、一気に六分の一になってしまった。

 そんな馬鹿な想像をしてしまう。


「すごい」


 何も考えてない、純真無垢な子どもの顔でギターと遊ぶダンテを少年は輝くひとみで見つめた。


――ぼくにもできるかな、あんな、みんなを幸せにするような演奏が。


 今まで感じたことがないはずのトキメキが芽生える。

 その瞬間、何も見ないで、ただ心のうちで演奏だけに向き合っているように見えたダンテが、おもてをあげた。

 ほんの少しライトが当たって、薄く見える黒いまなこが少年を打ち抜く。

 そして、ニカッ、と。白い歯を見せて笑う。

 人々が抱く、後進の未開人と見下した態度をものともしない純粋な笑顔。

 少年には彼の黄色い笑みが、身近な大人の白いあざけりより、ずっと立派で尊い顔に見えた。


 夜は更けていき、ダンテの出番が終了する。

 すっかり酒の席は盛り上がり、楽器を片付け始めるダンテに目を向けるものは誰もいなかった。少年ただ一人を除いて。

 ブーイングひとつない、笑い声に満ちた空間からダンテは足音もなく立ち去ろうとしていた。

 重みを感じさせない動きでギターケースを担ぐ。

 少年はあわてて手に持っていた注文を父親が待つカウンターに乗せた。

 勢い余って、ジョッキに注いだビールがこぼれる。

 父親が少年をしかりつけようと息を吸い込んだのがわかったが、少年はそれよりも早くまくしたてた。


「ごめん父さん! ちょっと行きたいとこがあるんだ」

「何? まだ仕事中だぞ、おい、待て!」


 父が色あせた金髪を振り乱して迫る。

 太い腕を潜り抜け、少年は店を飛び出す。

 夜風を浴びて道にまろびでれば、ひょうひょうとした後姿はすぐに見つかった。しかし既に距離は数十メートルほどできていた。


「待って!」


 声変わりを迎えていないボーイソプラノが響き渡る。

 近くにいた何人かが怪訝そうに少年へ振り向く。

 そのなかには目的の人物もあった。

 しかし、その人物、ダンテだけは立っていた位置が違うというのに。

 ダンテは左右をきょろきょろと見回すと振り向いて、少年へと目をとめる。

 そのままダンテは立ち止まり、まっすぐ少年をみたまま足を止めていた。

 まるで少年を待っているかのようだ。


 夜の街は酔っ払いやパーティに忙しい人々の騒ぎ声でうるさわしい。

 少年は首をかしげる。

 もしかしたら少年の声が届いたのか? いや、さすがに、まさか。

 すぐに自分の妄想を打ち消して、今がチャンスとダンテに向かって走り寄った。


「あの、ダンテさん!」

「なんだい?」


 息を弾ませてダンテの元に追いついた。

 ダンテはやはり少年の存在に気づいていた様子で、驚くでもなくにっこりと笑う。

 ダンテはひざを曲げて、わざわざ少年の目線に合わせる。

 なんとなく安心して、少年は心臓を抑えた。荒れた呼吸を整えて、大きく深呼吸する。そうして改めて呼びかけた。


「ダンテさん。演奏、聴きました。その、すごく、よかったです!」

「本当? いやあ、嬉しいなあ。ここ最近は好きにやらせてもらってるからね、お店には迷惑かけちゃってるし。君、あそこの店の子だろ? 楽しんでもらえたならこれ以上のことはないよ」


 人好きのする笑顔で、彼はよくしゃべった。

 まだ英語に慣れ切っていないのか、あちこち不自然なイントネーションがある。

 どんなに素晴らしい演奏をしても異国の人間だと思うと、少年の心に戸惑いが生まれた。それ以上に、感動をもたらした演奏者と会話している、それも存在を知られていたという事実に胸がときめく。


「わざわざそのために来てくれたのかな? 忙しいだろうに、すまないね」

「あ、いえ……その、また聴きたいです。明日も来てくれるんですか?」

「あー、それは」


 頬を紅潮させ、少年はダンテを見上げた。

 だが、先ほどまでニコニコしていたダンテの表情が曇る。


「ごめん。明日からはもう来ないことになってるんだ。東洋人は店の雰囲気を悪くするって苦情が来たから。それに、もう他の勤め先が決まってる。そこにいったらしばらく自由がきかないと思う」


 うきたっていた少年の心が一気に沈む。

 ダンテが来て以来、評判を聴きつけた客が増えたのは事実だ。

 実際、彼の演奏は素晴らしい。酒とつまみの味にも自信はあるが、ダンテの演奏が酒場で過ごす時間を一層特別なものにしたことは間違いなかった。

 同時に、異国人をからかう悪質な客や、嫉妬からクレームを入れる客も増えていた。家族で営む小さな酒屋では手一杯になるほどだ。

 そのせいで睡眠時間が削れ、父はイライラするようになっている。


「パーティで演奏したり、連れまわされたりするみたいでさ。美味しい酒が飲めるし、暇ができたらまた来たいんだけどね。いつとは約束できないかな、ごめんよ」


 あくまで嫌な客には触れず、ダンテは申し訳なさそうに謝った。

 少年はふるふると首を左右に振ることしかできない。


「いいんです、いいんです」


 ここで謝ったりすれば、ダンテはさらに困るだろう。

 なんとなく、もう二度と会えないのではないかという予感もあった。

 ダンテは悪魔の演奏家。今宵のことは一夜の夢。

 魔法のように現れて、うたかたのように消えていく。このままいつか遠い思い出の存在になってしまうのではないかという空想だ。

 だから少年は、思い切って聞いてみることにした。

 相手は悪魔。ならば、少しおかしな問いかけをしても、何も変ではない。


「ダンテさん、ぼく、今日の演奏で、初めての感覚を味わいました。身体の奥が熱くなって、ぐわっと、世界の全部が明るく踊りだしたみたいで。本当に楽しかったんです」


 少女のように手を組んで訴える少年に、ダンテは目を細める。

 両の口角を釣り上げて、心の底から嬉しそうだ。おかしいだなんてとんでもない、ただの人間、音楽家の顔だ。

 

「ぼく、今日でとても音楽が好きになりました!」

「それは……音楽家冥利に尽きるよ」

「それで、ぼく……ぼくも、音楽家になれるでしょうか? あなたのような演奏家になれますか?」

「へえ。でも、必要あるかい?」


 今までの優しい対応から掌を返した鋭い返答に、少年はひゅっと息をのむ。

 おびえた少年にダンテははっとして、あわてて両手を振って失言をわびた。


「ああ、ごめん。傷つけるつもりはなかったんだ。俺は君が俺のような演奏家になる必要はないっていいたかったんだ。もちろん、そう思って頂けるのは本当にうれしいよ。恐悦至極さ」

「ぼくには無理ですか?」

「違う。いいかい、音楽はみんな違うんだ。同じ曲目を奏でても、音への感性や築き上げてきた身体の感覚、いろんな要素で違う音になる」


 ダンテは両膝を折り、腰を落とす。

 そうして少年と目と目を合わせる。黒い瞳が穏やかさから真剣みを帯びる。


「音楽とは愛情だ。技巧を磨く音楽家もいれば、情熱を注ぐ演奏家もいる。どの道に進もうが、その道を愛し、音色を奏で続ける愛がいる」

「愛情?」

「そうだよ。君だって俺の音楽を聴いて、心をふるわせてくれたんだろう? 言葉がなくても伝わる。そこには言葉を始めたとした知識はない。でも伝わるってことは、互いに響きあうってことだ。つまり、心」


 一番大切なのは、心を持ち続けること。

 そのなかで何を捨て、大切にしても自由。世間じゃなくて自分の心を大切にする。

 世の中には沢山の痛みと間違いがあるから、愛を抱え続けるのは簡単なようで難しい。そして、素晴らしい。世界のすべてを色づける。


「君の中に音楽への愛情があれば、君は素晴らしい音楽家だ。たとえ楽器を奏でなくてもね」

「本当に?」

「本当だとも。そして君はまだ幼い。いろんな道を見て、歩んでみて、最後に進む道を選びなさい。その時に、俺のようになることが君の導きの灯になるなら、そうするといい」


 少年は口をつぐむ。

 この時、少年はまだダンテの言葉に答えるだけの経験がなかったのだ。

 ダンテもまた、今の少年だけを見ているわけではない気がする。

 だが、ダンテは少年の夢を嘲笑わない。

 大切な同胞へ向ける、紳士な瞳だった。


「ただひとつ、絶対に覚えておいて。俺はどの道を行こうと、君自身が納得して選んだ道なら、応援している。君が夢追い人である限り」


 少年は、何故この男が白痴のダンテと呼ばれるのか、理解する。

 この男は大人になっても夢を見ている。現実をも侵す夢。

 白い悪夢にあって喜びを歌う。愚かで勇ましい夢追い人。


 少年はダンテの熱い思いをしかと受け止め、深く頷いた。

 ダンテは少年の様子に微笑んで、こぶしを突き出す。

 少年は親友――戦友にそうするように、こぶしとこぶしをぶつけ合う。


 白痴のダンテ。夢追うものよ。

 あなたに恥じぬ夢を生きよう。この美しい地獄の生を、高らかにうたうのだ。

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白痴のダンテ 室木 柴 @MurokiShiba

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