第23話 オルフェの使者

 息が苦しい。

 指先からちからが抜けていく。

 炎は神社中にまわり、浮浪者たちも黒いじゅうたんじみて所せましと床に転がっている。

 もうもうと立ち込める煙と内側からこみあげる達成感で、頬が濡れた。


――おれはやったんだ。


 昇華の歌は続く。

 音色に囲まれて恍惚に目をつむる。

 輪郭が失われる優しい浮遊感に身を任せた。


 そして彼は夢を見た。


○ 


 全身がふわふわとする。

 手をあげてみてもそれが見えない。水のなかでもがいたような重みがあって、動いた、という実感もまるでなかった。筋肉が働いた疲弊だけが残る。奇妙な心地だった。


――やはりこれは夢なのだろう。


 周囲を見渡す。さびれた壁に小さな鈴。どうしてこんなところを夢見ているのか。

 自嘲の笑みとともに壁にからだを寄せた。やはりなんの実感もなかったが。


――ここは《オーリム》の練習場所か。ならあれもあって当然のはずだ。


 音楽。苛烈にして熾烈なる挑戦者たち。

 ダンテの想いに応えてだろうか。

 眼前に薄い虹色の帯が流れてきた。現実ではありえない光景に目を丸める。

 青い光沢に鼓動のように清廉な銀が脈打つ。その裏にはしっとりと控えめな桃色がにじむ。

 異色である木の実の色がダンテには酷く優しい色に思われた。

 帯が流れてくる方へ足を進める。

 その先には懐かしい扉、懐かしい音色が待っていた。


 ルシィ。ベアトリーチェ。エーリッヒ。リロイ。

 全員がそろって練習している。まだ本格的に練習を開始しておらず、各々好きなように演奏しているようだった。

 だがダンテは首を傾げる。


――あれ、ヴァイオリン?


 絹を裂く、甘く切ない音は何度聞き直してもヴァイオリンだった。

 織られた波形は震える弦から編まれている。

 遠い土地から流れてきた噂に聴く、極光オーロラを思い出す。

 銀色の髪と白いうなじがぶれる。


――エーリッヒは? 平気なのか?


 心配すれば、一気に視界がぐるんと回った。

 浮遊感に反して感覚は生々しい。

 存在しない節が痛んだ気がする。

 エーリッヒはベアトリーチェの背を見る形で椅子に座り、フルートを握りしめていた。

 疑問を抱いて、エーリッヒの隣に移動する。 

 ついでに降って湧いた悪戯心から、エーリッヒの頬をつねったり脇腹をつついたりした。

 確かに触れた感触はあり、エーリッヒもくすぐったそうに人差し指でひっかく。

 やはりあちらからはダンテがわからないようだ。


――まあ、夢なのかもしれないけれど。落ち着いてるみたいでよかった。


 沈痛な面持ちで目を伏せてはいるが、前のように錯乱する様子はない。

 この空間にいるとつい楽器を探してしまう。

 周囲を探るもギターはない。決別を決意したとはいえ、嘆息してしまう。

 やることもなく、膝を曲げてエーリッヒと同じ目線になる。

 ベアトリーチェは何故か壁の方にからだを向けて演奏していた。

 ルシィだけが何事もないかのように変わりない。叩く白と黒の順番を選ぶのに夢中だ。


――リロイは?


 彼は何故か他の三人と距離を取った場所にいる。

 いや、今にして思えば、彼はいつもつかず離れずといった位置にいた。

 年長者の余裕と思っていた優しい瞳は、果たして自分の思う『見守る』ためのものだったのだろうか。

 なんにせよ、どこか前と違う。互いの距離間に気づき、測りかねている空気があった。


「そのさ、」


 ぼそり。エーリッヒが呟く。

 だが声が小さすぎて誰にも届いていない。ピアノとヴァイオリンにかき消され、すぐそばにいたダンテぐらいにしかわからなかっただろう。

 リロイに至っては故意に無視したかもしれない。

 何か言いたいことがあるようなのに、その後もモゴモゴするだけだ。

 見ていられない。

 脳細胞を殺すことにした。ありったけのちからでエーリッヒの頭をはたく。


「いったぁ!」


 エーリッヒの悲鳴が演奏をつんざいた。

 ベアトリーチェが不安と驚愕に振り向く。

 その冷たく透き通った青い瞳にダンテは映っていない。


「大丈夫? どうしたの」

「い、いや……なんか急に衝撃が」


 エーリッヒに真っ直ぐに駆け寄ったベアトリーチェが己のからだに重なる。

 どきっとしたのもつかの間、彼女はダンテのそれを通り抜けてしまう。

 この接触は一方的であるようだ。

 無意識にのびた手を慌てておろす。ダンテはまだ、彼女に届くには遠い。


「びっくりしたなあ、もう」


 ルシィは不機嫌にピアノの前で立つ。

 その動きをリロイが目で追う。

 ルシィはわずかに横顔をさらし、彼と目を交わす。


「エーリッヒ、何か言いたいことがあるのかな」

「えぇっと、その。……やっぱり僕たちって変だよね」


 意を決した一言に眉根を寄せたのはベアトリーチェだけだった。

 リロイは適当にサックスに触れ、ルシィは腰に手をあててピアノに片手をそえている。


「周囲との違いがそんなに大切かい。きみたちはきみたちの演奏をすればいいんだ。ボクが選んだ最高の音色なんだから」


 媚びた様子のない賞賛にエーリッヒはくすぐったそうに身をよじった。

 それでもなお、どこか不満があるようだった。


「なにも変わらないさ」


 呟きに反応してリロイの方を見やる。

 彼は微笑んで、伏せがちな瞳で下からエーリッヒに目を向けていた。

 どこか現実的ではない笑顔だ。口角の上がり方はささやか過ぎて、下唇の弧は麗し過ぎて、神秘的ですらある。

 薄い生命力と幸福に彩られたヴェールで本心を覆い隠してしまうような笑みだ。

 彫刻のように完璧な微笑に、どうしてかぞっとする。


――もうとっくに変わってしまっている。それをわかっていて嗤っているのだ。


 エーリッヒは記憶を取り戻した。ベアトリーチェは自身を取り戻した。

 変わらないのは唯一無二たるルシィのみ。

 ダンテの胸中に重いものが落ちていく。

 気になってリロイを観察している間、何度か彼の視線の向きは変わった。そのうち幾度も目が合った気がして、解放された気分がくすむ。

 すると視界が乱れ、急にここにある「からだ」がどこかに引っ張られるような痛みが走った。


「外が妙に騒がしいな」


 ぽつぽつ疑問をぶつけてはすげなく返される。

 そんなやりとりを重ねていたなかで、リロイが窓を開けた。

 三人が静かな言い合いをしている間にもずっと目と耳を澄ましていたようだ。


「外?」


 どうでもいいことだと舌打ちしかけたベアトリーチェに手のひらを向け、たしなめる。


「鎮守の森で火事、だそうで。住民が騒いで、野次馬が集まっている――」


 表情がくもる。

 気づかないうちに蚊に食われているのを見つけてしまったような顔だ。


「《蟲》が死んでいく」


 リロイが眉間に皺をつくったのと同じタイミングで、再び視界が大きく揺れた。今度は大地震の時のような激しい揺れだ。世界が点滅している錯覚を覚える。


「……どうやらダンテが、放火したようだな」

「どこに」


 鬱陶しそうな態度を一変、ベアトリーチェが大きな音を立てた。勢い余って彼女の靴が床を思い切り踏みつけてしまっていた。隣のエーリッヒがびくりと跳ねる。


「鎮守の森の神社。あそこ、誰もいないからたまり場にさせていたんだが……こうなるとはなあ」


 珍しく間の伸びた、まるでしみじみとした口調でリロイがまた笑う。


「ルシィ」


 朗報を伝えるかのように彼女のほうへ向く。

 突然呼ばれてきょとんとしたルシィの顔が、ゆっくり喜悦に歪む。

 一方でベアトリーチェは血相を変え、練習場を飛び出した。


「え、ベアトリーチェ!?」


 続いてエーリッヒが後を追う。何度か足をもつれて転びそうになる。その間に平素の動きでルシィとリロイが抜かしていった。

 森の入り口前でルシィはベアトリーチェに追いついた。スカートで走りにくい彼女の袖をルシィがつかむ。

 鍵盤の隅から隅まで届く指のちからはとても強い。

 たまらずベアトリーチェはつんのめる。


「離して頂戴、どうせ両手足が欠けなければ平気なんだから!」

「ダメだよ。きみだってぼくの大事な楽器なんだから」


 両手をベアトリーチェの細い肩に乗せ、炎から遠ざけた。

 生木の森全体に広がるほど火は強くない。

 しかしそこからでもわかるほど、神社があると思われる位置から多量の煙が噴き出していた。

 樹木の隙間をぬって灰色の糸が漂ってきている。


――あの中心におれが。


 もしかしたら今度こそ本当に死んで、魂が天に昇ってしまったのかもしれない。

 がっくりとすべて放り投げたいほど、気力が大気に向かって抜けていく。

 しかし本能の誘いに乗ることはできなかった。

 ベアトリーチェがあの炎に入り込むかと思うと、とても一度は放った我が身に戻る気にはなれない。


「リロイ。助けに行って」


 森を指さして、ルシィは願う。

 リロイは首をかしげて、無言で真意を問う。わざとらしいすっとぼけだった。


「ボクにはわかる。彼は自分の鳴き声を見つけたんだね。エーリッヒに続いて彼までも。ああ、悔しい、悔しいなぁ……」

「ならば放ってしまってもいいんじゃないか。お前のものにはならないだろう」

「ばかを言わないでおくれ。ボクにはいくらでも時間があるんだ。いずれ追い越してやるさ、そして手に入れる。それに、彼の歌はまだ続いているよ」


 ルシィはにっこりと口を開けた。

 白い歯がのぞく。貪欲で純粋な想いは、遠方にあっても喰らいつきそうなほど眩しい。


「ボクには聞こえる。演奏はまだ終わってない、邪魔は許されないんだ」

「まだ完成していないと?」

「生きている限り。だから行って。きみなら平気だよね」

「本当にわがままな奴だ。わかった」


 リロイは一度コートを羽織り直し、野次馬を擦り抜けて森に足を踏み入れる。

 誰かに止められそうなものだが、誰も彼に触れなかった。

 誰にも見えず、触れられないかのように。



 目が覚める。

 同時に激しくせきこむ。脳がひどく重い。ちっとも回らない。少し動こうとすると眼球からぽろぽろ涙が落ちた。


――変な夢を見た。本気でダメかも。


 カブトムシの幼虫の如く身を丸める。そして目の前にそれ・・が降りてきた。

 男性サイズの革靴、その先端だ。


「いきなり動くと危ないぞ。危うく蹴り飛ばすかと思った」


 真っ黒な肌をした手で煤を被った髪を払う。

 腕時計が灯りを受けて光沢を放つ。


「リ、」


 リロイ、と呼びかけようとした。

 だが喉が痛んで仕方がない。

 言葉は全て咳に変わってしまう。


「無理に話さなくていい。助けに来ただけだ。それにしてもどうするか、このまま自由にさせておくつもりだったしな……《オーリム》に戻る気はないのはわかっている」


 飄々と上から言葉を降らせる彼を転がったまま睨む。

 どの口で――そう思ったのが伝わったのだろうか。


「黒崎と蓮池のことか? あれはわたしなりの選別だったんだが、気に入らなかったようだな」

「げほっ、ごほ」

「これからもお前は一人だ。生き方も世界をとらえる感覚も違う。不条理が襲うこともある。努力が報われない、裏切られ打ちのめされることに怯える日々だ。耐え切れず《オーリム》に戻ってて来てもいい。あるいは今回のことを憎しみに変えて、未練を断ち切って前に進んでもいい――わたしも君のことは気に入っていたんだ」


 彼は手にギターケースを持っていた。演奏の際、床に置いていたものだ。

 倒れて動くことのできないダンテの手からギターをとりあげ、ケースにしまう。


「まさかこんなことをするとはね。わたしとしてはせっかくの《蟲》を燃やされて嫌な気持ちもあるが、ルシィが喜んでいるからな。また会える日を楽しむ道を選ぼう」


 そしてダンテの上にケースを乗せる。

 唐突な鈍痛に思わずうめく。


――そんな呑気なことを話している場合じゃあないだろう。


 だが、炎はいつまでたっても彼の服の糸一本も燃やしていない。

 むしろリロイを避けるように不自然な曲線を描いていた。


「これでもあの《蟲》はわたしがルシィにあげたものだ。古いおまじないを幾つか知っているのさ。よくあるだろ、危険な結果になりませんように、明日天気になりますように、とか。お前にもひとつ教えてあげようか。このまま嫌な思いをするのは怖いんじゃあないか」


 しっかりとした手のひらがからだに触れる。

 肩のあたりだ、と思い、反射的にダンテの手が動く。

 最後のちからを振り絞っている自覚があった。

 リロイの腕をつかみ、顔をこちらに向かせる。


「おれは、きみたちの演奏が、好きだ」

「ほお」

「だが、いつか。お前たちの音楽を、超えてやる」


 音楽は自分との闘いで、観客に捧げるものだ。

 それでも絶対に負けたくない同胞がこの世にはいるのだ。

 目の前にいるものをまっすぐにみる。

 あの圧倒的な音楽に追いつきたい。あの美しい音色に触れたい。あの優しい旋律と背中合わせに戦いたい。

 あのしたたかな演奏に、思い切り歯ぎしりをさせたい。


「あんたに一番に聞かせてやるよ」


 もう相手の顔も見えなかった。


「……わたしはね、ルシィの音楽が、彼女の望みがかなえばそれでいい。そのためにすべてを捧げるつもりでいる。いつか捧げられたあの歌に心奪われてしまったのだから」


 腕をどかされ、再び肩をつかまれる。抵抗できるちからすら失った肉に容赦なく指が埋まる。


「ダンテくん。私は《蟲》の存在を知ったとき、絶望したよ。現実か、おとぎ話なのかは二の次さ。

 何の手立てもないのなら、諦めて、誰にも後ろ指を指されない道を行くことも、すべて捨て去ることもできたのに、と。

 どうして神様というやつは、こんな理不尽な希望を残すのか。恨んだね」


 強く、強く。リロイは肩を掴む。

 親友を鼓舞するか、宿敵を睨みつけるかのような。不思議な痛みだった。


「私にとってはルシィは希望なんだ。あの才能のいくさきをみたい。そのためなら何をしてもいい価値があると思わせてくれた。それを超えると?」

「そうだ」


 リロイは嗤う。心から楽しそうに笑う。


「いいだろう。お前の音楽を待つのも悪くない。私の心を砕くのか? やれるものならやってみろ」


 ただ、わらった。それだけがわかった。

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