第22話 白痴至れ喜びの歌
鬱蒼とした木々の幹に手をあてる。
ささくれのように剥がれた箇所がぽろりと落ちた。
上を見上げると灰色の葉が太陽の光を和らげていた。
「涼しいな」
冬であることを考慮しても肌寒い。
道端の木々が葉を落とし、寂しく裸の枝をさらしている。
歩けば落ち葉を踏み、乾いた葉脈が折れていく。
葉を裏返せば湿った土が顔を出す。
――ここじゃ難しいか。
やはりあそこしかないようだ。
ダンテは一通り鎮守の森を見回り、この森で唯一の建築物へ向かう。
「見た目はボロボロだが、意外と丈夫……だといいなあ」
希望的な観測を述べて、神社の鈴を鳴らす。つぶやきは神に祈ってのことだろうか。いや、どちらかといえば既にここにまつられるものはない方がいい。
打ち捨てられて随分経っているようだ。
わずかな賽銭を投げいれて、なかにあがりこむ。
年季の入った壁に触れるとこれもまた湿っていた。
少々心もとないが、手元にそろえたものを確認する。
油。火種。水をたっぷりいれた桶。なによりギター。
外側の方に油をふりかけ、ひらける扉はすべて開け放つ。
できる限り多くの同胞に音が届くように。
○
神社に火をつけた。
時を追うごとに炎が広がり始めている。
呼吸の苦しさはあるものの、煙か緊張、どちらのせいかわからない。
思えば自分の生命活動がどのようになっているのだろう。
何も変わっていない、変わらないと思っていたがそうはいかなかったようだ。
かすかに目をつむり、短い黙祷を捧げた。
演奏中は他のことに意識をかたむける余裕はない。
ダンテはここに哀悼の曲を奏でに来た。
あの日、ベアトリーチェがしていたように。
黒崎のため、我を失った同胞がため。
クラリネットの男も黒崎のようになるのだろう。
愛器に触れることも叶わないデクに成り果てる。
芸術家であればそれほどまでに苦しく悔しいこともあるまい。
――音楽家と《蟲》は音に惹かれてやってくる。
ダンテが状況すらも無視するほど素晴らしい音を奏でられれば、きっと彼らはやってくる。
「死ね」
かつて同じ道を目指した戦友をどうして見捨てておけるだろう。
音楽家として死に、なお音楽を求めねばならない地獄から解放してやる。
魂は先に絶えたのだから、今度は肉が死ぬ番だ。
改めて願いを強く定める。
弦を
――これがおれの、お前たちのための鎮魂歌レクイエムだ。聴くがいい。
視界が不明瞭になるなかで、曇りなき一音が走っていった。
焦げつくように熱く、朽ちるように震える。
弦の一本がゆれ、残像を残すさまをとらえた。
極限まで神経を高ぶらせ、尖らせる。
自分が弾けなくなる前に同胞を集めねばならないのだ。
焦りはなかった。
絶対にやりなおせない。そうわかっていたから、焦る余裕も惜しかった。
ギターの穴から飛び出した音は意外なほどに穏やかで、瞬時に当初予定した楽曲を捨てる。
――予定したものなんていらない。このままだ。思い出せ。
春のそよ風の如く、そっと。
枯れた葉に命の吐息を吹き込む。
この場に相応しくない、とびきり気の違った始まりを選ぶ。
冬であるなら春であって、春であるなら夏であって。
その旋律は身を起こさざるを得ないほど温ぬるい。
たっぷりの間を取り込んだ音は豊かに膨らんで聴者の鼓膜を包む。
その音色は走りだし駆けつけねばならないほど熱い。
膨らんだ音が萎んで消える瞬間に、演奏者のこれ以上ない嘆願が一際輝いて届く。
その音階は逆らうべくもなく冷たい。
音を求めるものに耳を逸らすことを許さない、傲慢な自尊と尊重が互いを絡め取る。
木が崩れ落ちる音がした。
開けっ放しの瞳に、額縁に似た形で燃える炎と、そこを潜ろうとする男が目にはいる。
目がかち合う。
クラリネットの男だった。
――よく来た。いくべき場所にいっておいで。
男はダンテの演奏を聴こうと近寄るが、うまく動けないようだった。
ボロの服に炎がくっついてしまっている。
かさついた土まみれの肌から、皮が焼ける臭いが漂う。
ダンテと同じ場所に来ようとして、突如彼の背丈が低くなった。
足元が抜けてしまったらしい。
「おぉ、ぉおお、おお」
腹の底が濁り腐ったように低い声音で唸る。顔面を両手でおおって天を仰ぐ。
不自然なほど早く炎がまわっていく。
どうしてか火のついた足元より、火の粉が降り注ぐだけの頭部の方が発火が激しい。
――知ったことか。
炎に巻かれた音がくるくる回り、倒れ伏す。
解放の歓喜と断絶の恐怖に鳴く。
この世に繋がる糸が切れる時、その声は高く天を貫いて不可避の終わりを告げる。
旋律が渦を巻いてひるがえった。
ごう。炎が土と木を食み、大きく立ち上がって手を叩く。
火が重なって拍手するたびに、浮浪者たちが身を折って震えた。
――祝福を。
ひとつの生命の終わりを言祝ことほぐ。
一人の観客を迎えたことに、誰も楽しませられないのではという恐れが和らぐ。
――この音楽はあなたたちのために奏でられたものだ。
そう安心させる優しいメロディに、激しさを加える。
――おれに身を任せてくれ。望むように終わらせるから。
大きく息を吸った。
人が増えるほど緊張は増す。今のうちに安らぎに心を寄せた。
そして捨てる。
音と音の間隔が伸び、招き入れ、途端短く切って、打ち抜く。
一度踏み入れば逃がさない力強さを誇示する。
また一人、二人と喰われた浮浪者が神社に足を踏み入れた。
ダンテの演奏に呼び寄せられて、死に場所にやってくる。
ぼう、と頭から激しい火を吹きあげた。
炎の花を咲かす茎が踊り、墓所を献花で埋めていく。
くねって揺れる花々が歌う。
終わり、瞬間のはざまに名など不要。
尽きる生命の叫びに激しく胸をうがたれる。
これが彼らの鳴き声なのだ!
存在を示す至高の音色、世界に刻まれる譜面!
――すべてが燃え尽きていくみたいだ。
新しい音を世に送り出すたび、肝をしぼられ、意志の一滴をひねり落とされているようだ。
心なしか、ギターに様々な音色が重なって聴こえる。
蠱惑的で揺るぎない、解放されたピアノ。
孤高にして凛と芯をのばす、慈悲に満ちたコントラバス。
愛と哀しみに揺らぐ、繊細で、だからこそ尊く鮮烈なフルート。
歪みを正道の如く貫く傲慢と強さによって、背後から美を支えるサックス。
かつての伊達はこの音を望んだろうか?
最早戻れぬ道である。
だが後悔はしても、立ち戻ることだけはするものか。
糧にする。してみせる。
あの素晴らしい日々を受け入れ、血肉にしていく。目の前の彼らもまたダンテの道を築くそれとなるのだ。
戦友は同志でぶつかり、あらんかぎりのちからで絶叫し、もつれ合う。
まるまると開かれた真っ黒な口腔が視界に焼きつく。
恐怖と喜びの区別がつかない。
感情があふれる。
しかし、感情に名をつけ仕分けることに何の意味もないように思われた。
ただ、感じるものは感じるまま。
すべてが等しく、一つのみがある。
己が心だ。
音楽は自由の元に。それは解放の声。
――むせびなけ、喝采せよ。
くびきを取り払った脳のなかにくすぶる、無限の《感》と繋がる。
考えるまでもない。無心に動く指は表すべきを現す。
――嗚呼、これがおれの世界なんだ。
唇に笑みが浮かぶ。絶頂の如く生が眩く輝き、汗の一粒も神経とじかに繋がって、総てと溶けていくような気がする。
言葉には音色がある。
弦が喉を震わす。
実在には色がある。
音が鮮やかに心を彩る。
想像には理想がある。
有象無象に関わらず、感覚のまま紡ぐことで秘められた想いを解放する。
封じられたものを音楽に降ろす。
指はダンテのなかの宇宙を形とし、解き放つための憑代である。
――おれの世界に彼らを、音楽の祝福を!
観客を楽しませるために、ダンテはひたすらに奏でる。
それは彼の存在そのものだ。
疑いようもない、純粋無垢な彼の形。
其の歌を聴くものは知るだろう。
ダンテという歌は白痴であった。
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