第21話 永遠の観客

 既に黒崎が居候先に戻って数日が経っている。

 それでも彼は帰ってこない。

 メンバー内は日増しに平穏と余裕を失っていく。


――やめてしまおう。


 そう決めた。

 黒崎だけでなく蓮池も来ないことから、ダンテへ向けられる目が厳しくなっているのを感じる。

 怪しんでいるというより、ストレスの矛先が向きやすい存在なのだろう。

 混じることのない異物が常に傍にあることは、鬱陶しい以外の何物でもあるまい。

 だから辞める。そして辞める前に、きちんと黒崎のことを確かめねばと思った。



 人が寝静まった頃を狙って黒崎が居候している家屋に忍び込む。

 目につかないようにすればよかった。

 見つからずに動くことは今のダンテには容易い。

 門をくぐって、玄関に向かいかけた足をひるがえす。


――横開きの扉を音を立てずに開けるのは難しそうだ。


 縁側からあがった途端、木がきしむ。

 耳を澄ます。幸いにも誰も気づかなかったらしい。

 のろまな動きで膝をつき、靴下を脱いで適当なところに突っ込む。

 指先で軽く押すと縁側の床がキィと鳴く。

 風雨にさらされてか傷んでしまっている。

 しかし家屋には人が長く住んだからこそ生まれる、古き風情があった。

 もしこれが平時であれば、友人のよしみであがりこみ、ゆっくり茶でも嗜みたかったところだ。


――おれは叶わないな。黒崎はいずれ誰かとそう和むことがあればいいが。


 嫌な予感が当たらないことを願う。

 医療には金がかかる。メンバーをみると黒崎も裕福な家の子のはずだ。

 しかし居候しているからには実家は別にある。もしかして実家が遠いのだろうか。

 実家の者が連れ帰るか、入院費を持ってくるのを待っているのかもしれない。


――普通の家の奴なら、大病になった時点で死んだも同然だ。二人にはまだ希望がある。


 ふすまを開けて彼が寝ているだろう部屋を探す。

 今度は踏み出す前に床を見た。

 室内は畳らしく、胸をなで下ろした。

 忍び足で部屋の奥へと進む。

 できるだけ人の吐息が少ないところを探る。

 黒崎がどの部屋にいるのかわからない。

 とりあえず病院をおくなら目につきやすく、静かな場所だろうと予測した。

 できるだけ人の少ないところを探る。


――いた。だが本当に黒崎なのか。呼吸が浅くて時々犬みたいな声がでている。


 人が犬の鳴き声を発す。そう思うと怖気だってしまう。

 目当てのふすまに手をかけ、そろそろと覗く。


「黒崎」


 小声で呼びかける。案の定、返事はない。

 近づいて、わずかな月光をたよりに姿を確認する。間違いなく黒崎だった。

 ただ同一人物とわかるだけで、ありさまは一変している。


「人がここまでやつれるとは」


 彼はふすま越しに照らされ、格子の影を身に刻む。

 肌は生気がないのに面倒を見られているからか奇妙な潤いがある。

 そう長い月日は経っていないだろうに、天井を向いた眼窩がうっすらと落ちくぼみ影がさす。

 日々の演技の練習で身についたしなやかな筋肉も、使われずすっかりしぼんでいる。

 力量を調整するために備えたちからが成す術もなく失われていく。

 同じ表現者としてぞっとしない。

 それに少し臭う。よいにおいとはいえない。それが厠で嗅ぐ糞尿の臭いに近いと気づき、思わず鼻をおおってしまった。

 彼の者はかつての同胞の無下な態度に傷ついた様子も見せない。

 身じろぎひとつしない彼はこの世の不条理を抵抗なく受け入れてしまったかのようだ。


「みんな君が顔を出すのを待ってるよ」


 膝をつき、彼の体躯を見下ろす。

 虚ろな瞳は魚の如く、毛のないつるりとした体は老人の如く、はっはっと浅く短い吐息は犬の如く、あゝあゝと唸る寝言は発情した猫の如く。

 一度は好ましい情を寄せた間の変わり果てた姿は、彼よりはるかに人離れしたはずのダンテにむせび泣きたいほどの感情を与えた。


「何故おれは肝心の時に何も知らないんだ。ごめん、ごめんよ黒崎」


 閉じた瞼が開けられない。熱いものがもれだして畳を濡らしてしまいそうだった。

 どうしようもないまま謝り、波が過ぎ去ってから目を開く。

 もう出なければ。そう立ち上がろうとして、またたきを忘れた。


――黒崎の額に何かがいる。


 見えないのにいるとは異なことだ。

 しかし確かにそれはいた。

 彼の衰えた頭脳の中心から、その足先を覗かせている。

 さながらさなぎが殻を破ろうとする像を感じた。その像を形作るものはなんだろう。

 当然、ダンテなのだから、音だ。音、翅をもつ蟲が自らのちからを奏で、音の波で姿を縁取っている。

 見えない蟲が確かに耳障りな羽音をたてて宙を飛ぶ。

 ずるり。

 頭蓋という殻の下、皺の刻まれた柔らかな苗床の上を滑って抜け出てくる。

 わかる。節のある腹が震えた。毛の生えた六本の足を擦り合わせてよごれを落としている。

 《蟲》だ。馳走を終え、宿主からこれ以上得るものはないと見限ったのだ。


「あ、あぁ」


 死の瞬間も感じなかった思いが今になって襲い来る。

 あの時疑っていた通り、自分はことの真実を見誤っていた。

 自分に巣食っていたものは想像以上に醜かった。

 腰の抜けた悲鳴をあげた。

 《蟲》がこちらを見る。

 無機質なくせにぬめった複眼が一斉にただ一つに狙いを定める。


――逃げられるわけがない。


 尻もちをつく。情けないと思ういとまもなかった。

 奪われる恐怖に目をつむったが、予想した衝撃はやってこない。

 びくびく目を開けば、《蟲》の視線の気配はダンテから窓の外へ移動していた。

 とっさに原因を探す。


――歌声?


 こんな夜中に響く大声で醜くがなっている。

 酔っ払いの調子っぱずれな歌だ。

 《蟲》は美しいとはいえない歌声と浅い呼吸を繰り返すダンテの間で、ふよふよ漂っていた。


――こいつは音を求めているのか?


 ふと浮かんだのは、ソロで行った前奏だった。

 あの時、何故浮浪者は侵入したのだろう。どうして真っ直ぐダンテに向かってきた?

 一抹の希望が灯る。

 息を殺す。

 ダンテから音が失われた。

 《蟲》が答えを見失った完璧主義の子どものように部屋中を飛び回る。

 羽音が近くなって遠くなってを繰り返す。何度か《蟲》がすぐ耳元を過ぎ去った。

 いつぶつかって我が身に埋めり込まないか、嫌な想像ばかり膨らむ。

 正常な機能を失ったはずの伊達の心臓が破裂してしまいそうだった。

 それでも堪える。


――楽器の調律と一緒だ。


 ダンテの呼吸が調整すべき楽器。模範となる音色はダンテの心臓。

 最初は散漫としていた意識が、不思議と静かな調子に鎮まっていく。

 《蟲》はしばらく飛んでいた。

 たっぷり数分は悩み、歌声が路地の向こうに逃げ込もうという時、閉められている障子が一度大きくガタンと音をたてた。


――出て行った。


 信じられない心地でしばらく呆然と座り込む。

 完全に気配が消えたことを確信して、大きな安堵のため息をつく。

 そして哀れな男にこうべをたれた。



 やって来た時のようにこっそり家を抜け出す。

 疲弊と自己嫌悪で集中力が落ちている自覚はあった。今見つかれば逃げ切れる気がしない。全速力で走りだす気力も残っていなかった。

 放っておけば地面を見つめようとするおもてを無理矢理あげる。明けていく紫色の空が迎えてくれた。

 幸運にも今朝の婦人の朝は一足遅いようだ。

 無性にあの路地に向かいたくなる。ひきとめる事情は何もない。

 喜代がいる喫茶店へ歩き出す。まだ開店時間は遠い。それでいい。

 閑散とした通りは朝露で湿って、ぽつぽつ昨晩の食べ残しを漁る浮浪者の服のすそが見える。

 このなかに一体何人、《オーリム》に誘われたものがいるのだろう。

 黒崎の魂と《蟲》はこれからも音楽と美を求め続けるのだろうか。彼らのそれも、また?


「もし、すみません」


 気まぐれで一人に声をかけてみた。


「なんだよ、あんちゃん」


 うろんな瞳が振り返る。それでも聞き返してくれた。

 その厚意に反し、何も考えていなかったために何度かくちごもる。


「あの……クラリネットを弾く方がいるとうかがったのですが」

「うん? ああいるなあ、そんなやつ。会いたいのか?」

「様子が気になって」


 顔見知りであると察した浮浪者の薄汚れた顔が歪む。


「変なことに、最近音楽好きな奴が増えてよ。なんだい、そっちの界隈で大変なことでも起こってるのか?」

「そうですね、確かに大変かもしれません。みんながみんなとはいきませんが」

「はあ。まあ、なんだ、頑張れよ」

「え? ああ、はい、ありがとうございます」


 突然励まされて目を白黒させてしまう。

 浮浪者はなお続ける。


「まだ若いし、着てる服だって小奇麗なもんだ。諦めるにゃまだ早いだろ。一生懸命生きろ、他の奴だってそういうさ」

「……はい」

「もし会いたいなら、鎮守の森に行けばいい。趣味が同じもん同士で気が合うのかね、あいつら大体あそこをねぐらにしてるから」


 痩せた指で優しく背中を叩かれる。

 実家を出る頃には死んでいた祖父を思い出す。

 どうやら勘違いをしているらしい彼は、何度かダンテの手を握って、路地裏に帰っていった。

 その曲がった背中を見送り、握られたてのひらを広げて見やる。

 渇き切ってざらざらとして、とても暖かい手だった。


「同じもの同士、か」


 まだ肉のついている己の指をぎゅっと握りしめる。

 街の端の方にある神社の森は、人数が少なく隠れる場所が多いせいか浮浪者が多いと聴く。

 そこで暮らす人々の痩せているだろう指を思い浮かべ、短く切った爪が食い込む。


 哀悼を奏でねば。

 そう思った。

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