第20話 萌芽

 肌がのばされるような冷気で一帯が白く染め上げられていく。

 雪が降っていた。

 空から極小の天使が降り、穢れを奪い取っていくようにも見える。

 音もまた小さく閉じ込められた世界は、ほんの少し不安だ。


「黒崎さんと蓮池さん、来ないですね」


 メンバーがダンテに近づいてぼやく。彼は両腕をさすって暖をとる。

 そして暇があれば外に出て二人が来ないか見守るダンテを奇異なものを見る目で見上げた。


「風邪でもひいてるんですかね。僕達の誰かが見に行きますから、ダンテさんは中に入っててくださいよ。あなたまでまいったら困る」

「おれは平気。なんならおれが行くから君たちは練習していいよ、黒崎もその方がいい薬になるだろうから」


 他はあくまで二人が風邪で寝込み、うっかり連絡を忘れていると考えている。

 だからダンテの挙動を不自然に思うのも当然に近い。

 黒崎はともかく、蓮池とは険悪だ。


――かといって相談もできない。誰が信じるというのか。


 二人が体調を崩し始めたのは、リロイが帰った後からだった。

 話し合いは至って和やかに締めくくられたらしく、当時は肩すかしをくらったものだ。

 しかし段々黒崎が情緒不安定になり、蓮池も苛々していることが多くなった。

 一方で黒崎の演技指導は冴えわたり、蓮池のドラムも聴者の心根を穿つような鋭い攻撃性を携えはじめていた。

 その様子に、ますます冷える気温で不安定なだけで、よいことだとはダンテだけが喜べなかった。

 二人が練習外の時間に《オーリム》と関わっているのではと勘ぐってしまう。

 とはいっても、あくまで他人に過ぎないダンテが踏み込み過ぎれば、自分の方が警戒されかねない。

 黒崎にはそれとなく《オーリム》が普通ではないことを仄めかしたが、四六時中見張ることは不可能だ。

 蓮池に至ってはあちらから避けられている。

 喧嘩の悪影響が濃密に響いていた。

 ダンテよりリロイは人当りがよいうえに、演奏の腕がいい。

 人は何故か優れた才能の持ち主は素晴らしい人格者か、その真逆だと思いやすい。

 黒崎は前者だろう。


「わかりました。病み上がりに成果を見せてあっと驚かせますよ!」


 気のいい役者である彼は完璧な笑顔をつくって、ダンテに二人の家を教えてくれた。

 エーリッヒの時のように、ダンテの表情から察したのだろう。


「様子がわかったら教えてくださいね」

「任せてくれ」


 コートのボタンをしっかりしめて、深く帽子を被る。

 雪のなかを早足で駆けていく。みぞれ雪が靴を濡らして気持ちが悪い。

 うっかり傘を忘れた己を恨む。

 街を歩く婦女子が時折振り返ってクスクス笑う。

 お気に入りのショールと傘を肩にかけたモダン・ガールに軽く頭をさげて通り過ぎる。

 彼女達の華やかな傘が白い世界で眩しくクルクル舞った。


――女性は世界の華だなぁ。


 こりもせず頬を緩める。単細胞に元気がわいてきた。

 元気が出てきたところで、頭の痛いほうへ先に向かうことにする。

 まず向かったのは蓮池の家だ。


「うへ、豪邸かよ」


 自分が田舎で育ったせいか、嫌いとまでは言わないものの立派な外壁には近寄りがたい。

 西洋風の厚い外壁も黒い幹の樹木も、只人をはねのけているように感じてしまう。

 勇気を出して呼びかけようとしたが、一体どうすればいいかわからない。

 屋敷の周りはへいで囲まれている。鉄格子のような門から庭が広がり、その先に家の玄関が見えた。


――この門を開けて門を叩けばいいのだろうか。


 そう思って鉄の門をつかむ。あまりの冷たさに手を離す。

 焼けるような感覚にふうふう手のひらに息を吹きかける。


「あの、なにやってるんです?」

「え、ああ。すみません、ミュージカルのものなのですが、こちらは蓮池はすいけ 柾雄まさおさんのお宅でしょうか」

「ええ、そうですけど」


 通りがかり、非難めいた響きをもって問いかけたのは腰が曲がりかけた老人だった。

 携えた荷物を見るに、庭の清掃をする使用人らしい。爪に土が挟まってこげ茶色がしみ込んでいた。かさついてひび割れた指から年季が感じられる。

 老人は足踏みをして寒さをしのいでいた。それでも門の前にやってきてとうせんぼのように立つ。ダンテを怪しむ感情を隠そうともしない。

 下から舐めあげられんばかりに見られ、張り付けた笑みが崩れかける。


「何かご都合が悪いことがあるんでしょうか。無断でお休みになってみんなも心配しています。せめていい知らせを持って帰りたいのですが」

「……あんた本当に坊ちゃんの趣味仲間かね?」

「どういう意味でしょうか」


 ぶしつけで不明瞭な疑いに挑戦的に返す。

 老人の深い皺を刻んだ顔が赤くなる。しかしかろうじて失言をこらえた。

 慎重に言葉を選ぶように目線を土に落とす。

 結局言の葉の芽はでず、彼は鼻を鳴らして背を向けた。


「悪いが坊ちゃんは、もうあんたらのところには行かない」

「なんですって?」


 ひとりなかに入ろうとする老人の肩をひきとめた。

 老体に無礼を働くことに良心が咎めるもそうもいっていられない。

 だがそれが気に障ったようで、乱暴に振り払われた。

 危うく横腹に当たりそうになり、からだがよろける。


「あんたらみたいな遊び人と関わるからこんなことになるんだ!」


 むっと顔をしかめる。

 音楽や画家といった仕事を気軽なものだと考える人間はいる。伊達の両親もそうだった。彼らには彼らの基準がある。文句を言ったところで不毛であろう。

 好きでいなければやっていられない道の苦痛と喜びは彼らにはわからない。

 彼らの幸福もまたダンテには遠いものだ。


「蓮池さんに何かあったんですか」

「ええい、帰れ帰れ! 蓮池の名をよごすんじゃあない」

「名も何も成金のくせに」


 時代の流れに乗って鋼業で成り上がったというのが蓮池の評判だ。

 煽りに返されたのは頬への一撃だった。

 老人は大きく舌打ちして庭に入る。ダンテの前で扉が閉じられた。

 切れた唇の端をぬぐい、小さくなっていく背中の方に耳を澄ます。


「クスリなんぞに手をだしよって」


 声で呟くのを発達した耳がとらえた。


「蓮池が?」


 ルシィは彼を素晴らしい音楽家だと思ったのか。

 なりふり構わず暴れ出したい衝動に襲われる。

 何故彼などを選んだ? すぐに首を横に振る。

 いや、あんなにあっさり見限ったのだ。

 麻薬も持っていたのはリロイだ。


――黒崎は大丈夫だろうか。


 いやいや、彼は役者だ。

 そう希望的観測で足を進める。前へ。前へ。

 雪は夜に向かうにつれて抱く水の量を増す。

 黒崎が住んでいるという家宅に着くころには濡れねずみになってしまった。

 月の光のない夜は靴の爪先も闇に埋まる。

 白く染まった吐息だけが目印だ。濡れて尖った前髪が眼球を刺す。

 一見普通の家である。本当にここか考えていると、縁側から女性が顔を覗かせた。

 視線がかち合う。


「あっ」

――後れ毛と割烹着が色っぽい。


 阿呆なことを考えている間にとたたと控えめな足音を立てて、女性は廊下へ去る。

 これはまたまずいことをしたかと頬をかく。


「もし、そこの殿方。大丈夫ですか?」


 下駄を履いた女性が玄関から飛び出してきた。

 自身も淡い色の傘をさしているが、たおやかな細い手にはもう一本無骨な傘が握られていた。

 驚くダンテに黒い傘を差しだす。


「失礼ですけれど、年の頃をうかがうと黒崎くんのお知り合いかしら」

「はい、ミュージカルの」

「よかった。近々お知らせに行かなければと思っていたの。黒崎くんは遠くから来てうちに居候に来ているんだけれど、うちのひとは個人の……なんだったかしら、ぷらいべえと? を大切にするべきだっていって場所に迷って困ってたから、助かったわ」

「なるほど。一人で困っているようでなければよかった」

「…………」

「彼に何か?」


 たれ目がちの両目が糸のように細まる。

 手が赤くなってかじかむ。早くいい気分で酒でも煽りたい。


「それが、急に倒れてしまって入院しているの」

「……倒れた? どうして、原因は」

「わからないわ。お医者様は過労じゃあないかといってるんだけれど、詳しいことはわからないと。何を呼びかけても反応がなくて、いつ元気がでるかも……ごめんなさい」

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