第19話 慕うは影

 青い青い空を鳥が飛ぶ。

 白い雲の下であるからか、鳥の羽は黒にしか見えない。

 真実の翼の色なのか、はたまた陽光を背に浴びてできた影のせいなのか。

 

 ダンテは上空を睨んで、そんな、とりとめのないことを考えていた。

 人通りの少ない場所で、適当な壁に背を預け、無為な時間を過ごす。

 いつもであれば、練習場の隅で、一人練習に没頭している時刻だ。

 であるにも関わらず、こんな時間で暇をつぶしているのは、あの気に食わないドラマーのせいだった。 

 エーリッヒがいなくなった後、ダンテはそのまま練習場に戻った。しかし、ドラマーはまたもや無下にされたのか、ダンテに八つ当たりしてきたのである。


 いらだったまま鍵盤をたたいても、どうにもならない。

 逆に、描きたい音色にあわない感情が混ざって、聞くに堪えない演奏になるだけだ。

 相手にするのも馬鹿らしくて、練習場を抜け出してきてしまった。


「はあ、なんでこんなことになるかなあ」

「何がです?」

「うおっ」


 緩んでいた身体がバネ仕掛けの人形の如く飛び上がる。

 ダンテの油断しきった様子がおかしかったのか、押し殺した笑い声が路地に響いた。


「もう、こんなとこにいたら知り合いに声をかけられるぐらい、わからなかったんですか?」

「……喜代ちゃん? あってる?」

「あってるにきまってるじゃないですか!? 数日会わなかったくらいで、ひどいなあ」


 顔を向けた先には、少女が満面の笑みを浮かべていた。

 大きくまっすぐな光を浮かべた瞳、屈託のない笑い方。喫茶店:《ミモザ》の看板娘、喜代であった。

 

 はて、そういえばここは《ミモザ》のある路地であったか。

 適当な路地に入っただけなのだが、癖というのは、これだから怖い。

 無意識に通いなれた道を選んでいたことに自嘲する。


「ごめんごめん、いつもと服装が違ったから。すごく似合うね!」


 喜代はいつものカフェの女給の制服ではなかった。

 至って平凡な和装で、凹凸の少ない、上品な体つきを覆っている。

 大地震の前は、貞淑と従順の婦徳から女性の洋装は避けられていた。

 しかし、地震以降は機能性が評価され、様相も進んできた。

 だがやはり、よいものはよい。

 模様は千鳥格子なあたり、新しい物好きな父の影響が見て取れる。


「わからなかったくせに。本当にそう思ってますか?」

「あんまり美人なものだから、間違えたら大変だと思って」

「口先ばっかり!」


 喜代は口を開けて笑う。

 この国の女性らしからぬ、と眉をひそめられることもある明るい笑顔が、伊達は好きだった。


「今日はうちにいらっしゃいます?」

「そうだね、今からお邪魔してもいいかい」

「もちろんですとも! たっぷりおとしていってくださいね~」


 指で丸いマークをつくり、喜代は歩き出す。

 ダンテも彼女の隣に立って、《ミモザ》に向かった。


「ところで、随分難しいお顔をしていらっしゃいましたね。どうしました? みなさんと喧嘩でもしました? リロイさんもベアトリーチェさんも最近いらっしゃいませんし」

「ああ」

「エーリッヒさんは一回だけいらっしゃったんですが、やけに無口で。声をかける前に帰ってしまわれました」

「色々あってね」


 曖昧にはぐらかす伊達の前に、喜代が回り込む。

 喜代の髪型は耳隠しだ。眼前を過ぎ去った横顔は、顔立ちの健全な幼さに反して色っぽい。


「なにかありました?」

「ああ、うん」


 わずかに考える。

 いくらやめた――しかも、あんな場所とは言え――勝手にすべてを話すのはためらわれる。


 理由一、どうせ信じてはもらえない。かえって正気を疑われる。

 理由二、勝手にあれこれ話すのは常識に反する。

 理由三、喜代は音楽家ではない。


 喜代にとって《オーリム》はよいお客だったようだ。

 彼らのことは気になるのだろう。

 ダンテは《オーリム》を脱退したむねだけを話すことにした。

 経緯に関しては「方向性の違い」とだけいい、それっぽくごまかす。まんざら嘘でもない。


 あまり快い思い出ではないはずなのだが、なぜか語り心地はさわやかだった。

 二度と戻ろうとは思わない。だが確かにあった「よい思い出」がそうさせる。

 目を細めて話していたダンテに、喜代はいぶかしげな目を向けた。

 その視線が気になって、ダンテは一度話を中断する。


「どうしたの?」 

「いえ。あの、その。伊達さん、なんだか私の知っている伊達さんじゃないみたい」

「……そうかな」


 思わぬ言葉にダンテは目をむいた。

 やはり寄生虫の影響は避けられなかったのかと肝を冷やす。

 喜代は浮かぬ顔でうつむく。

 ダンテが予想したよりは冷静な表情だった。


「うん。いつかこうなるのかな、って気はしていました。けど想像とちょっと違ったかな」

「想像と違う?」

「あたし、自分は夢を諦めたから。だから伊達さんが頑張るところを見ていて、勝手に代わりにしていたの。あたしの応援する伊達さんの夢が叶ったら、あたしの夢も叶ったことにしようって」


 喜代は暗く吐露する。

 それはダンテも薄々気づいていたことだった。

 あれほど熱烈にダンテを応援したのは、喜代が諦めた人間だったからなのだ、と。

 

 正直、本当にそれでいいのかとは思った。

 だがそれで喜代が納得するならばよかった。

 彼女に勇気づけられた以上、喜代の夢を背負うのは恩返しだとも思ったのだ。

 それだけ、喜代という少女の人間性を信頼していた。

 ダンテは自分を責めるような口調が気になって慰めようとした。

 しかし、喜代はダンテの意図を察して、遮るように口を開く。


「すごいらしいとこに入って、評価されていって。嬉しかったなぁ~、自分のことみたいにさ」

「喜代ちゃん」

「でも、ダメですね。どんどん先にいく伊達さんをみてて、悔しくて、怖くて。ほんとなら、伊達さんはあたしのことなんて見ない。あたし、音楽の話とかできないもの」

「そんなことないよ!」


 反射的に否定が口をついて出る。

 明るく笑うこと。肩の荷を下ろして安らぐこと。

 喜代との時間は伊達にとって大事なもので、かけがえがなかった。

 思うことはたくさんあるのに、なかなかそれ以上続かない。もどかしかった。

 音楽の話ができないのは事実だったからだ。

 喜代は、苦笑いして小首をかしげた。


「あると思います。いつか。あたし、夢を語る伊達さんに息苦しくなる。伊達さんもきっと、そんなあたしが嫌いになる。どうせ、伊達さんを嫌いになるなんてできないし。伊達さんに嫌われたらって思うと――」

「ばかな。俺が君を嫌いになるなんて。何もなかったころからの仲だよ? つらい時もあの店で珈琲を飲んで、くつろいで、何度も乗り越えたんだ」

「嬉しい。本当に。けどね、伊達さん。前の伊達さんはきっと、音楽なしでも生きられる人だったの」

「え?」

「うちの喫茶店で音楽の話、したことなかった。きっとそれはわざとじゃなかったと思う。だから、そう思ったのはこの間」


 伊達さんたちが、あのバンドの人たちと一緒に来た日。

 あの日から少しずつ、「音楽から切り離されて休む場所」だったミモザは、「愛したもので談笑して癒される場所」に変わったんだよ。


「ベアトリーチェさんやルシィさんも、あたしとは全然違う。あの人達は伊達さんと一緒に、どんな道にも行ける人。綺麗で、美人で、特別なひと」

「きみだって特別だ。君を大事に思う人はたくさんいるよ」

「……ありがと、伊達さん」


 今にも途切れてしまいそうなか細い声で、喜代は礼を言う。

 ダンテには、それがわかれの告知に聞こえた。

 《ミモザ》にたどり着く。

 カラン、とかわいたベルの音が、切なく鼓膜を揺らした。




 《オーリム》は、たとえメンバー内でもプライバシーを大切にする。

 そんなのものを実行しているのは、ベアトリーチェだけだ。

 記憶を取り戻したエーリッヒは、はっきり確信する。


「きみは本当に弱い奴だね、エーリッヒ」


 両腕を組んだルシィが、にっこりと笑う。

 エーリッヒが個人的に住まう一室のなかで、どうしてかルシィが待ち構えている。

 エーリッヒの背中に冷たい汗が伝う。


「ルシィ、どうして」

「しかも悪い子だ。どうして、彼にあんなことをいっちゃうの? 仲良きことは大変素晴らしいけど、そうじゃあないよねぇ?」


 唇を尖らせ、頬を膨らませる。

 愛らしい幼い少女そのものの顔が、エーリッヒは怖い。


「帰ってくれないか」

「帰ってほしいの?」


 勇気を振り絞って飛び出た声に、ルシィは飛びついてくる。

 蝶のようにとらえどころのない優雅な動きで、エーリッヒの身体に抱き着いた。


「ルシィ!」

「きみは弱い奴だ。寂しがりで、お人よしで。誰かがいないと、すぐにダメになってしまう。自分でも、わかっているんだよね?」


 柔らかくて、暖かい。

 内面がどれほどおぞましい存在であっても、安堵と幸福を感じてしまうのは本能なのか。あるいは洗脳か。

 エーリッヒはますますおびえる。

 なのに、ルシィに触れられても、突き飛ばすことができない。

 エーリッヒはルシィが言うとおりの人間だった。


「おびえなくていい。君は楽しく、幸せに演奏すればいい。させてあげる。ぼくは君が大好きなんだから。ぼくの大事な天才、素敵な楽器のエーリッヒ」


 肯定と保護の言葉にほだされる。

 エーリッヒは恐怖する。

 ルシィから離れられない。 

 エーリッヒはルシィの言うとおりの人間で、演奏者で。

 何度も後悔しては、同じ結末を繰り返す。結局、自分は離れるそぶりすらできない。


「ダンテくんがいたら、もっと楽しいよね?」


 母親が幼いわが子にそうするように、ルシィはエーリッヒの頬を優しく撫ぜた。

 思わず頷きそうになる。


 こらえた。


 それだけはダメだ。

 エーリッヒがどんなにダメな奴でも、ダンテは違う。

 ベアトリーチェだって望んでいない。弱いエーリッヒのために、素晴らしい友人を裏切るなんて、いよいよ許せないことだった。


 どんな人間にも誇りがいる。

 楽器のエーリッヒは、つらいことからは逃げて、ひたすら奏で続ければよかった。

 人間のエーリッヒは、そうはいかない。

 たったひとつでいい、よりどころが、守るべき矜持が必要だった。


「ねえ、エーリッヒ」


 抗いがたいささやきを必死に聞き流す。

 意味があろうとなかろうと、ダンテを誘うことはしない。

 かたく目をつむるエーリッヒの頬に熱が押し当てられた。

 くらくらとする。

 「清く正しく美しい」――理想からは程遠いのに、ひどく心惹かれてしまう。


――ダンテくんも、こんな思いをしたんだろうなあ。

 

 友人の愛想のいい顔を想像して、エーリッヒはため息をついた。

 エーリッヒ自身が、どんなに懲りても、この少女の元に居続ける現実を嘆く。

 そして初めて出会った時の、世界がバラ色に染まったような夢心地を。

 見初められたときの歯車が狂うような快楽を。

 突き落とされたときの我を失うような苦痛を。


「ねえ、ルシィ。僕は本当に、君のことが好きだったんだよ」

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