思いやりのレシピ

渡波 みずき

思いやりのレシピ

「東久留米支店より異動して参りました大原おおはら英治えいじです。よろしくお願いいたします」

 業務引き継ぎのために二度、こちらに足を運んでいたが、デスクを持つのは今日が初日だ。

 朝礼の場で改めて、ざっと全体を見渡したが、見知った顔はまだ無い。

 去年三十路を迎え、この九月、同期に先んじて課長代理の役を得た。出世は良いが、福岡県内ではなく県外への異動を伴うことに不満はあった。

 東久留米と、ここ大分では、高速道路を使って約二時間の距離がある。無理をすれば通勤できなくもないが、毎日往復四時間を通勤に費やす生活を考えると、頭が痛くなった。

 上の子どもは四月に小学校にあがったばかりだ。せっかく子どもが学校に慣れたタイミングでの引っ越しはさすがに躊躇われる。妻だって、正社員の職は手放せない。

 単身赴任は、もはや当然のなりゆきだった。

 デスクの片付けがてら、前任者の残していったファイルをあらためていると、反古紙が挟まっていた。いつのものか、十一月十日の処理事項と表題がある。二つ折りにして捨てようとして、隅の走り書きに目がとまった。


 いまのかたは、元『次長』です


 二重カギ括弧で強調された役職名は、支店のナンバー2を意味している。処理事項のリストとは、異なる筆跡だ。

 どなた?

 八木やぎさん

 筆談は続き、「きぼうこうにん?」と書かれて終わった。希望降任。いまも居る行員だろうか。

 座席配置表を指でたどる。八木の名はすぐに見つかった。同じ課の係長だ。顔をあげ、そちらを窺うと、ごましお頭の温厚そうな男性が見えた。細面に丸めがねをした五十がらみの人物だ。あの年齢で数年前に次長の職を降りていたということは、四十代でその地位にあったということか。出世頭だ。

 いったい、何があったのか。気になりはしたが、自分から降格を願い出る人物とは相容れないとも思った。

 ──きっと、使えない人間だったんだ。

 英治は好奇心を殺し、反古紙を小さく破ると、机の下のくず入れに捨てた。


「大原さん、そろそろ行きませんか?」

 呼びかけに目をむけると、同年配の部下たちが手でコップを傾けるしぐさをした。

「そうか、金曜日だったな」

 英治は腕時計に視線を走らせ、業務の進捗をざっと確認する。午後七時。いいころあいだ。仕事のほうも、きりがよかった。

 異動からひと月も経つと、職場の人間関係や慣習がつかめてくる。この支店では、金曜日には同僚と飲むことが多いようだった。

 英治は酒に強いほうではない。だが、参加しておけば、他の部署との顔つなぎに役立つ。支店周辺の居酒屋は数えるほどだ。店で他部署の面々と行き会えば、たがいに交流もする。

 課長代理ともなれば、場面によっては懐が痛む。飲み会の場に、英治より上の役職がいなければ他より多めに支払い、いれば、下の割り勘に混ぜてもらう。

 今日は給料日直後の金曜日とあって、不参加は例の八木係長くらいのものだった。飲み会で八木の姿を見たのは、歓送迎会のときだけである。

「大原くんの奥さんは、怒らないのかい?」

「単身赴任ですから、気楽なものです」

「そりゃあいい。独身気分満喫だな」

 ビール瓶片手に部長の傍で愛想笑いをして、相槌をうち、ときにはいささか大げさなまでに驚いてみせながら、英治は数日前の妻とのやりとりを思い起こしていた。

『交際費がかかるのはわかりました。代わりに食費を抑えてください。お酒も飲むのに、外食やコンビニ弁当では、からだに悪いわ』

 自炊を命じられて言い返せる立場にはない。やりくりは任せているし、そもそもが妻の稼ぎにも頼って、ようよう維持している生活だ。

 だが、妻はこともなげにいう『自炊』が、ひとりぐらしも初めての男の身には、かなりの負担なのだった。

 リサイクルショップで買い求めた炊飯器の使い方もわからなかった。夕飯にと豚肉と青ネギを買ったはいいものの、レシピが思い浮かぶはずもなく、結局、肉は消費期限を一日過ぎてから醤油で焼いて、飯に載せて食べた。ネギは使われぬまま、冷蔵庫でひからびて、茶色く枯れはじめている。

 米が炊けた、肉が焼けたと妻に報告したところ、鼻で笑われたのが昨日だ。おまけに、国産豚の薄切りを買ったことにケチがついた。

 万事がそのような調子だった。

 自宅では冷蔵庫をビールとつまみの入れ物としていた男に、何ができるというのだ。

 内心で憤慨しているうちに、人脈形成などのさしたる成果もなく金曜の夜は過ぎさった。こんなことなら、もっと楽しめばよかった。


 翌週、塩にぎりを覚えて昼食に持参し、休憩室でぱくついていたところに、聞き覚えのない声がかかった。英治は握り飯をくわえたまま、目をあげた。

 八木だった。

「めずらしいですね、お弁当ですか。お隣、よろしいですか」

 狭い休憩室である。どこに座ったところで、視界には入る。渋々うなずくと、八木は弁当包みを開き、箸箱を開けながら問うてきた。

「大分には慣れました?」

「ええ、まあ……」

「単身赴任でらしたら、握り飯をこさえるだけで、朝はひと苦労でしたでしょう」

 同情するように言い、八木は己の弁当をつつきはじめる。弁当箱には色合いよくおかずと混ぜご飯が詰まっている。鶏肉と笹がきゴボウの混ぜご飯から、醤油と鳥の脂のうまそうな香りがする。青じそをばらんがわりにして、照りのあるえのきの肉巻きが三本並び、残る隙間には、にんじんの白ごま和えと、かぼちゃの煮付けがそれぞれカラフルなシリコンカップにおさまっていた。

 横目で見ていると、八木は照れくさそうに笑った。

「よろしければ、おひとつ」

 まだ口をつけていない箸先で、ひょいと肉巻きをつまみとると、英治が机に広げていた握り飯のビニールラップのうえに置く。

 面食らった。そんなに物欲しげだったかと、少々、恥じ入りもする。八木には関わり合いたくないと考えていたのに、どうにも食欲には逆らえぬらしい。

「すみません。あんまり美味しそうなものだから。奥様、お料理上手なんですね」

「いえ、これは私がこしらえました」

「そうなんですか! そりゃ、すごい」

 それだけの会話で終えて、さっさと食事を終えて席を立とうと、肉巻きを指でつまむ。

「……うまい!」

 一口かじったとたん、つい、声に出ていた。

 しその香りがほんのりとついた肉巻きは、ぷちぷちとしたえのきの歯ごたえが心地よい。冷めていても、しっかりと味がした。

 指まで舐めて、英治は八木に目を向けた。

「こんなの、自分で作れるんですか!」

「思うより簡単ですよ。豚肉に酒と塩こしょうで下味をつけて、えのきを巻いて焼き、肉に焼き目がついたら照り焼きにするんです」

「照り焼きって、どうやるんです?」

 八木は微笑んだ。

「醤油とみりんと酒を混ぜたたれをからめながら焼きます。これは、酒が2、みりんと醤油が1ですね」

 自分も肉巻きをかじって、八木はそうだ、と弁当袋をひっくりかえした。

「小腹が空いたときにと、おにぎりも作ったんです。よろしければ、こちらも」

 混ぜご飯の握り飯を手渡されて、英治はごくりとのどを鳴らした。弁当のなかみを見たとき、最も気になっていたのは、この混ぜご飯だったのだ。

 ラップを開き、かぶりつく。やはりだ。甘めの味付けだった。

「吉野の鶏飯!」

「や、ご存じですか。うちの家内のレシピでも、これが一番よくできているんですよ」

 鶏もも肉の鶏皮を外し、皮はフライパンでじっくりと焼く。出てきた脂でにんにくを炒めて香りを出し、小さく切った鶏もも肉とゴボウを加え、肉の色が変わったら、砂糖と酒と醤油で煮る。煮つめて、炊いた飯に混ぜる。

「焼いた皮もかりかりで美味しいです。七味唐辛子を振ると、ビールに合いますよ」

 弁当用ににんにくを抜いたという鶏飯は、それでも十二分にうまかった。

「毎日、自分で作られるんですか、弁当」

「ええ。健康管理も仕事のうちですから」

 緑茶のペットボトルをあおって、八木は眼鏡の奥で満足げに目を細める。英治には、彼の横顔が、仕事のできない人間のそれには、どうしても見えなかった。実際、八木に関して、悪い噂はひとつも聞こえてこないのだ。

 英治はラップをまるめながら、自分の体調に関してもふりかえった。

 近頃、風邪気味が続いていた。東久留米にいたときは、からだの丈夫さだけが取り柄だった。それはもしかして、食事のおかげだったのか。

「──今度、この鶏飯のレシピ、詳しく教えてもらえませんか」

「明日にもメモをお持ちします」

 八木は笑って、ゆったりとうなずいた。


 その日の帰り道、スーパーマーケットに立ち寄った英治は、勤め帰りの主婦に混じって、野菜をためつすがめつしていた。

 妻の料理はろくに覚えていない。だが、中華炒めなら、味を覚えている。具材を見繕い、店を出たところで、前を歩くごましお頭に目が行った。

 呼びかけにふりかえったのは、果たして八木だった。八木は驚いたようだったが、手にした袋を見下ろし、恥ずかしそうにした。袋が透けて、缶ビールが見える。

「や、見つかってしまいました。よろしければ、いっしょにどうですか」

 断る積極的理由はない。英治は手元を見下ろした。この具材を持ち帰って、ひとり奮戦したところで、正直、ダメにする未来しか見えない。そして、目の前にはあのうまい弁当の作り手がいるのだ。

「……八木さん。中華炒め、作れます?」

「もちろん作れますよ。お教えしましょう」

 作ってもらえないかなあという甘えた期待はものの数秒で打ち砕かれた。誘いを断る退路もふさがれ、英治は八木にいざなわれるまま、彼の後を追うことになった。


 八木の自宅は、築数十年の古びたアパートだった。二間のアパートにはひと気がなかった。台所とダイニングの灯りをつけると、続き間のようすがすっかり見える。

 真向かいに窓。左右の壁際には、背の高いタンスがひと棹と、畳まれた布団が一式。床に置かれた小さなテレビに、黒い戸棚。

 仏壇だ。写真立てがあり、顔立ちや年齢はわからないが、女性の写真が飾られているのが、玄関からでもわかった。

 靴を脱ぐあいだも目を離せずにいると、八木は英治の視線に気づいたらしかった。ビールを冷蔵庫にしまうかたわら、簡潔に言う。

「家内です。五年前に亡くなりまして」

「そうなんですか。存じませんで……」

 濁すと、八木は英治を流し台へ手招いた。

「作りましょう。遅くなってしまう」

 八木の言うままに下ごしらえをして、肉を炒めはじめると、八木は冷蔵庫から中華スープの素を出してきた。練りのスープを掬い入れて、八木は英治に味を見るように勧めた。

「あ、この味」

「これがあれば、なんでも中華風ですよ」

 なんだ、唯一覚えていた妻の料理は、手抜きか。そう考えたのを見抜かれたのだろう。八木は目を細め、炒め物を皿に移す。

「手を抜いても、美味しいものは作れます。毎日毎日、手をかけてばかりいられません」

 ビール缶を打ち合わせて乾杯し、炒め物と鶏皮に舌鼓をうつ。

 変な気分だ。なぜ、自分はいまこんなところで酒を飲んでいるのだろう。それも、関わり合いたくないとまで思っていた『希望降任』者と。

「鶏皮、美味しいですね」

「カリカリ、悪くないでしょう?」

 箸を口に運んでみて、八木は何かに気がついたように少し目を見開いた。

 席を立ち、食器棚の端から、一冊のノートを持ってくる。ぱらぱらとめくっていって、ひとつのページで手を止めた。

「それ……」

「忘れるところでした。メモしますから、ちょっと待ってください」

 遠目でも、見るからに女性の字だ。書かれているのは? 吉野の鶏飯の文字が読めたとき、英治は箸をとめた。

 八木は、昼間になんと言ったろう。

『うちの家内のレシピでも、これが一番よくできているんですよ』

 これは、そのレシピの記されたノートだ。英治は、八木の料理だと思い込んで、結果的に妻のレシピを褒めた。……五年前に亡くなった、八木の妻の。

 ──五年前だって?

 ピースは、ほぼ揃っていた。頭のなかで物事がつながっていく。

 八木が真実、何を思ったかは知らない。けれど、八木が希望して次長の職を降りたのは、まず間違いなく妻の死がきっかけに違いない。

 英治が黙り込んでしまったせいで、間が持たなくなったのだろう。えんぴつを走らせながら、八木は隙間を埋めるように口を開いた。

「家内は記憶力の悪い女で、作るたびに忘れてしまうと言って、私の弁当の総菜のために、こうしてノートをつけていたんです」

 口は悪かったが、八木は愛しそうに微笑んでいた。

「家内が死んだあとも、しばらくは忘れていたんですが、あるとき、遺品を整理する気になって手をつけたら、これが出てきました。試しにレシピのとおりに作ると、懐かしくて」

 書き終えて、メモとレシピとを見比べ、八木は顔をあげた。

「そのとき、はじめて気がついたんですよ。ああ、弁当って手料理だったんだ、って。家内が倒れた夜、私はそれとは知らずに残業をしていました。昼も弁当片手に仕事をして、最後の手料理を味わうこともしなかった」

 ノートを閉じ、八木はメモを渡してよこす。それから、ビール缶に口をつける。ひとくち含んで、舌でくちびるを舐める。

「福岡までは、車で何時間かかるんですか」

 唐突に飛んだ話題についていけずに、英治は口ごもった。

「ええと、たしか、高速で二時間ちょっと」

「それなら、金曜の夜のうちに帰れますね」

 何を言われたのか、すぐにはわからなかった。だが、ゆっくりと咀嚼して、理解する。

「うちの支店が特殊なのは確かですが、何も毎週無理にに出なくても、出世に響きはしません」

 元次長の私が言うのですから、間違いありません。

 飲み会ではなく、優先すべきことがあるのでは? と、言外にふくめて口にした八木は、英治が何も言わずにいると、ニヤリとした。

「おや、君もやはり知っていましたか、私が希望降任したこと。部下に次長経験者がいるなど、さぞかし扱いにくいことでしょうな」

 意地悪く笑い、ことりと缶を置く。

「料理ならいつでもお教えしますが、出世と家庭の両立は自分で見いだしてくださいよ」

 笑顔でかけられたことばには、しかし、ほろ苦い響きがまじっていた。


 帰途、酔い冷ましにのんびりと歩きながらかけた電話は、すぐにつながった。

「金曜さあ、そっち帰ってもいい?」

「飲み会なんじゃなかったっけ?」

「夜のうちに帰る。食べたいものがあって」

「なあに?」

 君の手料理。

 そんな甘いことばは、言い慣れていない。まして、だれの耳があるかわからないこんな道ばたで、言えるものではない。

「帰ったら言う」

「買い物とか準備があるのよ、教えてよ」

 はぐらかすようなやりとりで電話のむこうの妻を困らせながら、英治はぼんやりと、飲み会の断り文句に考えをめぐらせていた。

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思いやりのレシピ 渡波 みずき @micxey

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