3. 知識

 1節より『数学者の役割とは、何かを為すこと、即ち新しい定理を証明し、数学に新たなものを付け加えることであり、自分自身や他の数学者がしてきたことについて語ることではない。』という文を引用したい。というのは、この本を手にとって読み始めた私にこの一文が与えた幸福を表現するに足る言葉を私は知らない。上述の一文は、謙虚なハーディが自身の数学に対する弁明を述べていく事自体が彼にとってある意味ことを予め断っておくための文章である。彼にとって、解説や評論は二流の仕事であり、今私が行っている書評もまさしく二流のものだ。それではなぜ、上記の文が私に幸福をもたらしたのか。それは、私が大学生時代に入ってから少しづつ形成されてきた行動原理の理由付けとして最適な根拠がこの文章であったからだ。

 現代のより知的な人間の特徴をもう一つ提示すると、それは(より一般に現代に拘らず有史以来全ての時代において明らかなこととして)知的好奇心が旺盛であることだ。その論理的帰結として前述の現代人特有の行動が発生することは言うまでもない。その一人である私もまた、知性を得ようとする欲求が著しく高いし、その範囲はアカデミックなものから世俗的なものまで幅広く吸収しようとする。しかし、私が培ってきた行動理念上、知識を我が物顔で披露することは許されないのだ。さらに詳細には、知識は自分なりの工夫を加えた上で、自らを表現する際にのみ使用が許可される、というのだ。我ながら酷く面倒な制限だと感じられるが、日々の創作を行う上で謙虚に自らの思想を伝える際にこれほど重要な心理的前提は無い。

 研究室の後輩のA君(Aは日本語名にもよくある頭文字なので誤解を招く恐れがあるが、以降もB, C...という一般的な順序で振り分けることを断っておく)は大変に勉強熱心であり、休業期間も毎日研究室に足を運んでいたらしい。彼は数論に興味があるものの、同じように代数幾何の知識を得ようとする意志から私達の研究室を希望したという話を聞いた。私たち4年生が春の休業期間に自主ゼミを開催するということになったから彼にも参加するように声をかけてみると、やはり参加してくれることになったので、それから暫く私達とA君は共に数学をすることとなった。上級生である私達が教科書の内容の理解で躓いていると、彼は時々有益な示唆を小声で飛ばしてくる。私達も彼の、完全に解答とまでは行かない中途な状態ので理解が促されることが多々あるので、無論彼の知識やその豊富さを文字通り認めている。ただし、彼の(私の行動原理上での)欠点があるとすれば、それは知識をただ思うままに放出することがしばし見受けられることである。殆どは私達が必要としない分野での発展的な内容であって、そこに彼自身の工夫は無く、いわば「受け売り」と言うべき発言でしかない。この本を読む前に私はこの彼の欠点について、彼の天才的な知性ゆえの思慮における欠陥だと認識することで無理矢理納得していた。しかし、上述の一文によって、その認識は全く間違いであり、従ってA君を否定する私の行動原理の正確性が数学という文脈の上で担保されることが明らかとなった。

 数学は先人由来の知識に現代人の工夫が施されることで発展している。先人由来の知識もまたその先の人々の努力によって進化を遂げたものであるし、同様に現代人の工夫も後世の人々にとっての有用な知識である。つまり、その片方が欠けている状態で数学と呼ぶのはあまりにも失礼である。人間の恣意的な部分が全く通用しない超自然的な学問であるからこそ、人知を尽くして定理を証明する方法を発見することが非常に肝要となる。そのために知識を蓄えるのが数学であり、逆にもしその学問が数学であるならば、人は知識を蓄えそこに自分を見出すのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある数学徒の疑問と考察 だふやふ @dafuyafu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ