2. 出会い

 現代のより知的な人間が共通に抱える悪い癖の一つではあるが、私は疑問の解決に第一としてインターネットを頼ってしまう。教科書の行間を埋めるアイデアをウィキペディアに求め、それに関する完全な理解を欠いた状態で輪講中に指摘されたため、十分な説明が出来なかった経験は枚挙に暇がない。それでも、確率的に八割は表面的な事実としての有用な知識を得ることが可能だから、自然濫用する。この時の私も、仮眠から目が覚めると研究室のノートパソコンを使い数学の哲学について調べ始めていた。残念ながら、その多くは数学史上のパラダイムやエポックメイキングの列挙であるのみならず、少しでも数学に興味のある読者ならば多少見聞きしたことがあると思われる著名な逸話に装飾された中空の日記に他ならなかった。ある程度保証された有用性の残り二割の方を引き当ててしまったことに、私は酷く落胆した。当然、先述の疑問を解決するに足る根拠は全く見出されなかったが、参考文献リストまで頁を進めた私はようやくその本に出会うこととなる。それがG.H.ハーディの「ある数学者の弁明」である。

 正確には、日本語訳版としての「ある数学者の生涯と弁明」である。この書は上述のハーディによる自伝的な思想叙述文である「ある数学者の弁明」とその覚書、さらに、ケンブリッジに再来した晩年の彼と交流を持ったC.P.スノーによる「ハーディの思い出」の二編による。後者はハーディの「ある〜」の内容についてのスノーによる補完と、ハーディとの出会いから彼の死に至るまでの随筆によって構成される。

 結論から述べると、この書の主題(もちろん、スノーの文章がハーディの思想を補完するだけでなく、彼の生涯に渡る数学への愚直な姿勢を読者に容易に想像させることを否定しているわけではない)である「ある数学者の弁明」は、私の深層にある疑問や不安といった幾つかの問題に完全な解答を与えたと言っても過言ではない。少なくとも、他者にまつわる設問を差し引いたとして、私自身を取り巻く数学という学問上の(さらに)哲学は、その殆どが既述の状態から真に新しく正確なものへと書き換えられた。

 ここで、はっきりと断って置くことがある。というのは、数学という学問に関するハーディの数学者としての急進的な思想によって一方的に感化されるほど、私が人生を通して紡いで来た元々の哲学は幼稚ではない。コアタイムに支配され、自由の少ない中で日々実験に精を出す化学科に対して、多少の皮肉を込めて彼らを文系だと罵ったことがあるが、それは必ずしも、幾分自由を享受できる数学科という地位を礼賛しているからではない。正直なところ、大層に俗な理由ではあるが、これは化学科における女子生徒の多さによる、と結論付けよう。とにかく、私はハーディによる一見過激とも取れる哲学の目新しさによって、いたづらに高揚しているわけではない。教科書が百パーセント正しいとは限らないことを数学徒としてよく理解している。"Counter part"は対応する部分のことであり、反例ではない。このことは私の数学に対する興味や行動を正当化する過程において大変重要な要因になり得る。

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